『世紀末オカルト学院』

世紀末でもオカルトでも学院でもない。

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世紀末オカルト学院とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2010年。オリジナルテレビアニメ作品。全十三話。監督は伊藤智彦。アニメーション制作はA-1 Pictures。暗黒の未来を変えるためにオカルト学院の生徒達が戦う学園ファンタジー。月刊オカルト情報誌の『ムー』が監修している。

・設定


 本作の放送年は2010年である。世紀末じゃねぇ! 以上、別にこれで終わってもいいのだが、偉い人に怒られそうなのでフォローすると、本作の物語の舞台が1999年である。ノストラダムスが世界の終末を予言し、世界中が不安と恐怖に包まれた年だ(もっとも、言うほど当時は不安にも恐怖にも包まれていなかった。いわゆるオカルトブームはもう少し前の時代である)。なぜ、本作は二十一世紀も十年が経過した2010年に、わざわざ世紀末を舞台にしたアニメを作ろうと思ったのだろうか。個人的な懐古趣味か、それともオカルトブームの再興を企てたのか。どちらにしろ、インターネットも画像処理技術も発達していなかった古き良きアナログ時代をもう一度という想いがあったのは間違いないだろう。ただ、2017年の未来人が一つ言えるのは、本作の影響でオカルトブームが起きるようなことは特になかったということである。
 基本的な設定とあらすじはよくできている。ヒロインの父はオカルト研究の第一人者で、自らの理想を実現するために超常現象を専門に扱う私学校を長野県の山奥に創立した。近所の人々はそれを「オカルト学院」と呼んでいた。だが、1999年の7月、彼は心臓麻痺でこの世を去ってしまう。そこへ娘が訪れる。彼女は、父親のオカルト趣味により両親が離婚したことで彼を恨んでおり、二代目の学長に就任してオカルト学院を廃校にしようと企んでいた。その時、空から光が差したかと思うと、突然、裸の男が舞い降りてくる。彼は2012年からやってきた未来人で、その未来は1999年7月21日に現れた異星人の侵略を受けて壊滅状態にあった。その歴史を改変するには、「ノストラダムスの鍵」と呼ばれるアイテムを見つけ出して破壊せねばならず、そのためにかつて天才超能力少年としてテレビでスプーン曲げを披露していた彼が送り込まれたのだという。ただし、その力はとうの昔に失われており、今は優柔不断で臆病なダメ人間になっていた。最初は彼に反発していたヒロインも、昔は自身がオカルトマニアだったこと、その彼女の夢を叶えるために父親がオカルト学院を創立したことを思い出し、ノストラダムスの鍵探しに協力する。
 ベースはオーソドックスなタイムスリップ物だが、この手のストーリーは作り手にSF知識がないと簡単に破綻してしまう。しかし、本作は非常に論理的に設定が構築されており、伏線も十分に機能しているため、あらすじだけを取ってみると極めて完成度の高い作品である。ただし、だからと言って、それが必ずしも良作になるとは限らないのが創作の難しいところ。未来に何が起こるか分からないからこそ、オカルトはいつまでも人々を魅了するのである。

・キャラクター


 正直なところ、本作は大して面白くない。未知なる物を探求するワクワクも、恐ろしい物に立ち向かうドキドキもない。その理由は何か? 中途半端なギャグコメディー風脚本のつまらなさという根本的な物を除くと、やはり一番に目に付くのは「キャラクターの弱さ」である。
 何より『世紀末オカルト学院』というタイトルなのに、学院感が何もない。主要キャラクター八人の内、まともな生徒はヒロインを含む三人だけ。他は、教師だったり学院の職員だったり近所の洋食屋の娘だったりする。それらのキャラクターを全て主人公のクラスメイトにすることはできたし、アニメらしい個性派集団にすることもできたはずだ。ヒロインにしても、なぜか武道の達人でなぜかクロスボウを巧みに操ったりするが、それらに設定的な理由付けは何もない。仮にも主役を張るなら、何らかの特殊能力の一つや二つ持っていてもいいのではないか。それをリアリティがないと言い除けるなら、本作のテーマ自体を否定することになる。何のために「オカルト学院」という特殊な舞台を用意したのか、それに作り手自身が気付いていないようでは意味がない。
 また、この手の作品は、オカルトを信じる者と信じない者の意見のすれ違いが最も面白いポイントのはずだ。本作もそれを意識はしているのだが、なぜか、その二つの役割をヒロイン一人が担っているのである。つまり、父親を憎むことでオカルトを否定する自分と本当はオカルトが大好きな自分、それらが彼女の中でせめぎ合って勝手に自己完結しているだけなのだ。では、彼女の相方となる未来人の青年、ここではあえて「主人公」と書くが、彼は何をしているかと言うと、ヒロインが頑張っているのを尻目に洋食屋の娘とずっといちゃいちゃしている。それどころか、重大な場面になるとヒロインを放っておいて一人で逃げ出す。このように彼は非常に優柔不断で弱腰、見ていて不快感を覚えるレベルのダメ人間なのだが、物語の都合上、これと言って明確な動機がないにも係わらず、ヒロインは主人公に好意を抱き、洋食屋の娘に対して嫉妬する。何をやりたいのか、このアニメは。どんなに設定やストーリーが良くても、それを演じるキャラクターの言動に魅力がなければ、作品は成り立たない。物語の主人公が必要ないなら、オカルトを題材にしたルポルタージュやドキュメンタリーを見る方が余程ましだ。その方が間違いなくワクワクもドキドキも味わえるだろう。

・ストーリー


 続いて、本作のストーリーについて記述するが、全十三話中の大半を占めるのが、幽霊やUFO、UMA、臨死体験などの超常現象を題材にした「ハートウォーミング」なエピソードである。友情や親子愛といった人間の持つ心の温かさを情感たっぷりに描いている……いや、ハートウォーミングてアンタ。確かに、この世の不思議を信じる心がオカルトの原動力なので、情緒的な物語との相性はいいのだが、オカルトの根本にあるのは「恐怖心」である。未知なる物に恐怖し、それを解明しようとする心理が大事なのに、背筋を凍らせないで心を温めてどうするのか。おどろおどろしい雰囲気を台無しにするコメディータッチの脚本もそうだが、本作は全般的に作品のコンセプトが何であるかを突き詰めないまま見切り発車している感が強く、あらゆる面でバラバラである。
 第十一話。ヒロインが何者かに殺される。犯人は主人公が仲良くしていた洋食屋の娘。彼女は、実は魔界から地上を征服するためにやってきた「黒魔女」であり、その妨げになるのがヒロインが父親から受け継いだ手帳に書かれた封魔の呪文だった。そこで、彼女はまずヒロインの父親を殺害し、さらに主人公を誘惑して支配下に置き、ヒロインから手帳を奪い取ろうとした。だが、その計画は失敗に終わる。なぜなら、今まで怪しげな動きを見せていた学院の教頭こそが、実はヒロイン親子を守る「白魔術師」であり、事前に魔術で作った人形を親子とすり替えておいたからだ。つまり、ヒロインも父親もまだ生きている。真相を知って動揺する黒魔女に、ヒロインと主人公が協力して封魔の呪文を使う。こうして、ノストラダムスの鍵を撃退し、無事に地球は救われるのだった。
 黒魔女って何やねん!? いきなり飛び出してきた謎ワードに、こちらの方が動揺を隠せない。魔界からやってきた魔王の尖兵? 詳しくは後述するが、それはオカルトではなく「ファンタジー」の範囲内だろう。仮にもオカルトを名乗るなら、旧約聖書でアダムを誘惑したリリスとか、ヨハネの黙示録に出てくる大淫婦バビロンぐらい出してもいいのではないか。何の歴史的背景も持たない黒魔女と、何の組織に属しているのかも分からない白魔術師のファンタジックな空中魔法バトルを見たいオカルトマニアなど、どこにいるというのか。本作は本当に『ムー』が監修しているのだろうか。だとしたら、世紀末も十年が経過して随分と『ムー』も柔らかくなった物である。

・オカルト


 以上、ここまでのストーリーは全て「ミスリード」である。な、なんだってー! 最終話、新たなる真実が明らかになる。ノストラダムスの鍵とは実は主人公自身だった。タイムトラベルした人物が過去の自分と出会うことで空間の情報量が許容量をオーバーし、時空に歪みが発生する「ラマチャンドラン&フィッシャーの予想」によって、別の次元から異星人が呼び出されたのである。謎の魔界のせいにはせず、ちゃんと超常現象に理屈を付けるのはオカルトとしてもSFとしても悪くない。だが、その事態は事前に、つまり、主人公を過去へ送り込む前に予見できたはずだ。特に、レジスタンスのリーダーはオカルト研究の第一人者であるヒロインの父親なのだから。その後、ヒロイン達は二人を会わさないように努力するが、結局、二人は出会ってしまう。すると、特異点が発生し、異次元から異星人のロボットが現れる。責任を感じた主人公は、かつての優柔不断だった自分に別れを告げ、スプーンを持って単身ロボットに立ち向かう。そして、スプーン曲げの超能力を使ってロボットを撃退し、彼の自己を犠牲にした活躍によって歴史は改変され、地球は救われる。……そんな伏線あったか? なぜ超能力が使えなくなり、なぜ再び使えるようになったのか。そもそも、スプーンを曲げる程度の力でどうやってロボットを撃退したのか。全てを「気合」の一言で説明するつもりか。せっかくいい感じにSFへと舵を切ったのに、肝心の場面でロジックを抜く理由がさっぱり分からない。
 やはり、本作の制作者は、根本的にファンタジーとオカルトの違いを理解していないと言わざるを得ない。ファンタジーはただの空想だが、オカルトは現実に起こった超常現象を論理的に考察する行為である。もちろん、現代科学では解明できないことばかりなので、結果的に似非科学に傾倒して批判を浴びる要因になるのだが、それでも根底にあるのは、この世の不思議を何とか解き明かそうとする飽くなき探求心である。一方、本作はUFOや幽霊などの定番ネタをただ並べるだけで、それらを論理的に体系付けようとする意志が全く垣間見れない。例えば、「全ては古代マヤ文明の予言書に描かれていたのだ!」といった、それこそ漫画『MMR マガジンミステリー調査班』のような神秘主義やら陰謀論やらを織り交ぜたトンデモストーリーを構築すべきでないか。それをやって初めて『世紀末オカルト学院』を名乗れるのではないか。世紀末感もなければ学院感もない、何よりオカルト感が全くないこの作品が世に生み出されたこと自体が一番のオカルトである。

・総論


 個々のエピソードを取り出してみるとそれなりによくできているかもしれないが、全体を通してみると作品としての体を成していない。むしろ、第一話と第十三話だけを抽出して、『世紀末SF学院』にした方が何倍も面白くなっただろう。

星:★★(-2個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:26 |  ★★ |   |   |  page top ↑

『結城友奈は勇者である』

二番煎じ。

公式サイト
結城友奈は勇者である - Wikipedia
結城友奈は勇者であるとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2014年。オリジナルテレビアニメ作品。全十二話。監督は岸誠二。アニメーション制作はStudio五組。謎の敵から世界を守るために勇者となって戦う少女達を描いた学園ファンタジー。美少女ゲーム制作会社みなとそふと所属の人気シナリオライター・タカヒロをフィーチャーした「タカヒロIVプロジェクト」の第四弾である。何それ?

・日常系黙示録


 かつて恐ろしいウィルスから人類を守ったとされる「神樹」様。本作は皆がその神様を拝めている遠い未来の日本を舞台にしている。主人公は中学二年生の女の子。学校でボランティア活動を行う「勇者部」に所属している普通の少女だが、ある日、部の先輩から衝撃の事実を告げられる。大切な神樹様を「バーテックス」という名の十二体の異界の敵が狙っており、自分達はそれを防ぐ役割を持った本物の勇者であると。戸惑いつつも戦いに身を投じる勇者部メンバー四人。はたして、彼女達はバーテックスから神樹様を守ることができるだろうか。
 というわけで、典型的な「黙示録系」のアニメである。謎の敵が世界の根源を破壊するために異形の怪物を一体ずつ送り込む。それを阻止するのは組織に選ばれた普通の少年少女達。世界の命運がかかっているため、彼らに拒否権はなく、望まぬ戦いを前に悩み苦しむ。『新世紀エヴァンゲリオン』がその代表作ということになるが、似たような作品は他に幾らでもある。最近は、この黙示録系に戦隊物や魔法少女物の要素をプラスして、華やかな萌えアニメに作り変えている物が多い。そして、この手の作品の最大の特徴は、極端に世界を単純化していることである。設定やストーリーだけを見ると複雑怪奇なように思われるが、結局、世界の核のような物、エヴァで言うならアダム、本作で言うなら神樹様を破壊された瞬間、世界自体がなくなってしまうという至極分かり易い世界になっている。この「単純化された世界」がいわゆる中二病の精神構造と絶妙にマッチして、社会現象的な人気アニメになることが多い。だが、現実世界はそんなに単純ではなく、闇の支配者など存在しないため、自分達の敵が誰か分からない。それゆえ、人によって作品の評価が分かれるということも往々にしてある。
 さて、本作はそんな現代型黙示録系アニメに、さらに日常系アニメのエッセンスを加えることによって新たな独自性を生み出している。主人公達は謎の部活に所属する仲良し四人組で、親も教師も不在の中、好き勝手にやっている。ただ、おそらく大抵の視聴者がこの物語構造に対して強い違和感を覚えるだろう。日常系アニメのテーマは、あらゆる障害を回避して楽しくのんびりと過ごすことである。だが、本作はその比較対象が「世界を守る」ことなのである。さすがに、世界平和を蔑ろにしてゆるい日常を過ごすのは難しい。実際、第三話では苦しい修行を重ねる新キャラに対して、勇者部メンバーがゆとりある生活を提案するという『けいおん!』第九話を彷彿とさせる展開があるが、やはり違和感が半端ない。では、本作は『けいおん!』を上回るほどのクソアニメなのか? まぁ、そこは後のお楽しみとしておこう。

・鬱展開


 激しい戦いが第二段階へ移行した第八話、この回において本作は衝撃のネタばらしが行われる。勇者には一つの欠点があり、戦闘中に「満開」して力を開放する度に身体機能の一部が「散華」して奪われてしまう。それは神樹様に供物として捧げられるため。つまり、勇者とはあくまで神樹様を守るための捨て駒に過ぎず、それゆえ、死ぬことも許されぬまま廃人になるまで戦い続けなければならない。彼らの代わりは幾らでもいる。以上、今まで善だと信じていた神樹様こそが諸悪の根源であるという価値観の逆転こそが本作の目玉である。何ということだろうか。つまり、序盤の日常系アニメ風の描写や魔法少女物的なノリは、全て後で否定されることを前提にした伏線だったということだ。それらが根本的に抱えている設定上の矛盾、あまりにも主人公達にとって都合の良過ぎる世界、そういった物を逆手に取って、神樹様という影の支配者を生み出したわけである。言い換えると、本作は日常系アニメや魔法少女物のパロディーだということになるだろうか。もし、本作がその手のジャンルの作品だと思って見ていた人は、第八話のネタばらしで強い衝撃を受けるに違いない。制作者の「してやったり」というドヤ顔が見えてきそうだが、実は第一話からやたらと体制側の強権発動ばかりが強調されていたので、まぁ、大半の人間は途中で気付く。ヒロインの一人が愛国的な軍事マニアなのも同じ理由からだ。この辺りの設定の組み立て方自体は決して悪くない。
 ただ、問題はその落差が大き過ぎることである。本作は第八話を境にして一気に物語がシリアスになる。つい先程まで水着を着てお馬鹿な日常話をしていたのに、回が明けると突然生きるや死ぬやと言った生々しい話を始める。もう前半と後半では全く別の作品にしか見えない。そういった急転直下の作風のシリアス化を「鬱展開」や「誰得シリアス」などと言って嫌悪する者が多い。それに対して「最近のオタクは我慢が足りない」と批判する人もいる。この件に関しては、どちらも間違っていない。間違っているのは制作者である。繰り返すが、この急激な路線変更は意図的に仕組まれたことである。目的は視聴者に強いインパクトを与えること、それだけだ。そのためだけに日常系アニメというジャンル自体を伏線に使っているのだが、それは非常にメタ的な手法である。ミステリー小説で「犯人はこの本を読んでいる読者自身」などとオチを付けるような物だ。はっきり言って、このやり方は感心できない。一つの作品ならば作風は一つに固定すべきだし、仮に途中で路線変更するにしても、それは止むに止まれぬ事情の産物であるべきで、それ自体を目的にするのは視聴者を蔑ろにする行為だと批判されても反論できないだろう。

・エロゲー


 少し話を戻そう。第一話、自分達が勇者であると聞かされた時、主人公達は最初こそ戸惑ったものの、すぐに気持ちを切り替えて積極的に戦いに身を投じるようになる。それは勇者部というボランティアサークルに所属していた使命感から来る物かもしれないし、突然、強い力を手に入れたことによる高揚感から来る物かもしれない。どちらにしろ、自分が世界を守る勇者であるという事実は、彼女達にこの上ない甘美を与えるだろう。この辺りの心理描写は中学生らしいリアリティに溢れている。ところが、第八話で真実を明かされると、その反動で彼女達は強い喪失感に襲われる。特に、ヒロインの一人は声を失い、歌手になるという将来の夢を諦めざるを得なくなる。その事実を知り、怒る者、呆然とする者、嘆く者、命を絶とうとする者。中学生という幼い身の上でありながら、大人でも逃げ出すような厳しい現実に直面する。そんな彼女達は非常に「可哀想」だし、側にいて「守ってあげたい」と思う。
 これはもう絵に描いたような「エロゲー的手法」である。わざと理不尽な世界を作り出し、幼いヒロインに逃れ得ぬ理不尽な苦しみを与える。彼女達は深い絶望に襲われて、心身共にボロボロになる。だが、最後の最後に奇跡的なことが起こって救われるという王道中の王道パターン。エロゲー原作アニメはもちろん、エロゲー出身のシナリオライターによるアニメは、総じてこういったヒロインを徹底的にいじめ抜く非人道的な作劇をする。なぜなら、泣きゲーの始祖と言われているゲームがそうだったからだ。基本的に、エロゲーはそれらの作品のコピーに過ぎない。そして、そのエロゲー的手法のメリットは何かと言うと、とにかく視聴者の耳目を集めることに長けていることである。元々が十八歳以上の大人を対象にしたゲームである。ちょっとやそっとの変化球では驚かないし、ある程度の非道徳性も許容できる。そのため、非常にインパクトの強い作品になることが多い。もし、生まれて初めて視聴した深夜アニメが本作だったら、その人は人生が狂うほどの強い衝撃を覚えるだろう。今までアニメに全く縁のなかった芸能人が、いきなり『新世紀エヴァンゲリオン』や『魔法少女まどか☆マギカ』を絶賛し始めるのと似たような構造だ。だが、我々は知っている。中二病全開の設定、理不尽な世界に翻弄される子供達、ジャンルを逆手に取ったシリアス展開等々、似たような作品は他に幾らでもあると。そして、それらの源流が全て同じところにあると。ならば、それを先に見るのが筋であろう。

・精神論


 第十話。新たなる衝撃の真実が彼女達に襲いかかる。一見、平和そうに見えるこの世界だが、実は彼女達の住んでいる神樹様の結界の中だけが安全地帯で、それ以外の地域は全てバーテックスによって滅ぼされていた。バーテックスは十二体だけしかいないというのは神樹様の付いた嘘であり、本当は無限に存在する。そのため、命尽きるまで戦い続けないといけない。と、この二回目の価値観の逆転で、日常系アニメだったはずの作品が一気に宇宙規模にまで飛躍する。まるで、食パンでも焼いているかのようなやけくそ気味のインフレーションが心地良い。そして、その事実を知ったヒロインの一人は、全てを終わらせて楽になるために、自ら結界を破壊する。そこから流れ込むバーテックスの大群。勇者達はそれを阻止するために立ち向かい、命を懸けた激しい戦闘になる。世界滅亡寸前の緊急事態なのに、なぜか援軍もないまま一人一人傷付き倒れて行く仲間達。その間、声優はずっと大声で叫び続けているので喉の調子が心配になる。一方、主人公は戦いそっちのけで裏切者の説得を試みる。すると、友情やら自己犠牲やら何やらであっと言う間に彼女は改心する。このように、本作は最初から最後まで良く言えば「熱血」、悪く言えば「精神論」であらゆる物事を処理しようとする。確かに、キャラクターが感情を露わにしていたら話は盛り上がるだろうし、敵を倒す時に叫び声を挙げたら、理由はなくとも強そうに見える。ただ、何事もメリハリが大切なのであって、本作のようにずっと叫び続けていたら、何が重要なのか分からない。静と動の対比を上手く使い分けるのが良い戦闘描写のはずだ。
 最終的に、皆で力を合わせて敵の集合体を倒すとなぜか戦闘が集結し、なぜか結界が修復される。そして、なぜか彼女達は勇者の任を解かれ、なぜか身体の機能が元に戻る。だが、なぜか主人公だけは意識が戻らず、なぜかバッドエンドになるかと思えば、なぜか急に回復して感動のハッピーエンドを迎える。このように、最終回近辺の一連のストーリーに論理性は全くない。常識的に考えて、神樹様に逆らって世界を破滅させようとした裏切者は抹殺されるだろうし、一度捧げた供物をわざわざ返す理由も分からない。バーテックスが進撃をやめた理由も分からないし、結界が簡単に潰れたり直ったりする理由も分からない。何より、勇者の役目を後進に押し付けただけなので、ハッピーエンドでも何でもない。結局、本作はインパクト重視で風呂敷を広げるだけ広げておいて、収拾が付かなくなったから強引に精神論で終わらせただけの作品である。非常に稚拙で底の浅いアニメだ。こういう時は、もうはっきりと言ってやった方がいい。これではただの「二番煎じ」だと。

・総論


 もういいよ、こういうの……。

星:★★(-2個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:42 |  ★★ |   |   |  page top ↑
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