『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』

過剰演出。

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終末なにしてますか?忙しいですか?救ってもらっていいですか?とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2017年春枯野瑛著のライトノベル『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は和田純一。アニメーション制作はサテライトC2C。人間族最後の生き残りである主人公が、自爆兵器になることを強要された妖精のヒロインを守るために戦うファンタジーアクション。アニメ史に残るこのクソうざいタイトルは、本編の内容とほとんど関係ない。

・作風


 第一話。壮大なプロローグで開幕した本作は、しばらくの間、ヒロイン側の視点で物語が進行する。獣人が暮らす中世ファンタジー風の穏やかな街、高い所から落ちて死にそうになったヒロインを主人公が救助する。その後、雑過ぎるモンタージュで二人の心の交流と別れを情緒的に描くと、突然、視点が主人公側に切り替わり、先程までの堂々とした佇まいとは打って変わって弱気でとぼけた性格の主人公が、軍の仕事の関係で特殊兵器倉庫を訪問する。そこでヒロインと再会すると、突然、作風がライトノベル原作アニメらしいコミカルな雰囲気に変貌する。倉庫に住む子供達と楽しい日常を過ごす中、主人公はヒロインの秘密を知る。実は、彼女達自身が世界を滅ぼそうとする「十七種の獣」と戦う特殊兵器だったのだ。すると、突然、作風がシリアスな雰囲気に変貌し、生きるや死ぬやといった重苦しい話になる……情緒不安定か! 何なんだ、このアニメは。ど素人が作っているのか? 素人アニメ批評ブログじゃあるまいし、よくこれを人様の前に出そうと思った物だ。

 だが、第二話以降も同様の現象が続く。コミカルとシリアスの振れが両極端で、シーンごとにコロコロと入れ替わる。つい先程までお涙頂戴をやっていたかと思うと、次のシーンでは同じキャラクターが漫才をやっている。かと思えば、やけにアーティスティックな精神世界が随時カットバックされる。無駄にBGMのクオリティが高いせいで、その差がより著しい。また、全体的な尺が足りないのか、『ブラック・ブレット』を彷彿とさせるダイジェスト展開があちらこちらで散見できる。例えば、怪我したのになぜか平気な様子の子供を見て、すぐに主人公が「あいつらは自分の生命に頓着していない」と悟るなど。なぜ、このようなことになっているかと言うと、やはり制作者、特に監督が本作の方向性を明確に定義できていないからだろう。スポーツの監督と同じで、チーム運営にとって一番大事なのは、戦術や技術を教えることではなく、プレイヤーの意思を一つに統一することである。冒頭のような雰囲気アニメ路線で行くのか、ライトノベル風コメディー路線で行くのか、昼ドラチックなシリアス路線で行くのか、芸大制作っぽいアート路線で行くのか、作風を一つに定めなければ、どんなに頑張っても名作が生まれることはない。他のライトノベル原作クソアニメと違って、設定やストーリーは決して悪くないため、余計にアニメ制作側の不手際が目に付く。

・設定


 前述の通り、設定は決して悪くない。むしろ、短い文章でまとめることに困難を覚えるほど込み入った設定が本作の本体である。そのため、ここではメインストーリーに関連する大まかな部分だけを簡単に紹介する。

 舞台は地球によく似た異世界。そこでは、人間族が地上の覇権を賭けて他の種族や神々と戦っていた。人間族を守る「準勇者」として神と戦っていた主人公は、神殺しの代償として石化の呪いを受ける。その後、人間族は自らが生み出した生物兵器である「十七種の獣」により絶滅した。五百年後、地上は獣に支配され、生き残った数少ない亜人達は空中に浮かぶ浮遊大陸で細々と暮らしながら、獣との戦いを続けていた。彼らの武器は人間族が残した「遺跡兵装(ダグ・ウエポン)」。しかし、それは人間しか扱えないため、人間の真似をすることができる「黄金妖精(レプラカーン)」を自爆兵器として使用していた。一方、五百年振りに石化から目覚めた主人公は、「地上探索隊(サルベージャー)」として無為な日々を過ごしていた。そんなある日のこと、彼は軍からの依頼でレプラカーン達が暮らす兵器倉庫の管理者に任ぜられる……。

 テレビアニメ版は放送枠の都合上、細かい設定を説明する時間的余裕がないのは仕方ない。しかし、本作の場合は、物語のベースとなる基本設定までもが脇に放置されているため、原作未読の視聴者が付いて行けないという状況が頻発している。例えば、なぜこの世界には亜人しか住んでいないのか? 人類は滅びたという説明だけをされても、元々、亜人もいたという説明が同時になされなければ話が通らない。その結果、この世界の文化レベルや人々の暮らしぶりがよく分からないという事態が発生する。同じく、主人公が就いていたというサルベージャーなる職業に関する描写が全くないため、これまで彼がどのような生活をしていたのかが全く分からない。彼が怠惰な生活を送っていたというのは、ストーリー上の大きな鍵であるはずだ。そして、最大の問題が「十七種の獣」である。主人公達の世界を襲っている最大の脅威であるはずなのに、どのような能力を持っていて、どれぐらい被害が発生していて、どれだけ恐ろしい敵なのかが全くピンと来ない。そのため、それと戦う妖精達の悲壮感が何一つ伝わってこない。

 これらの不具合が発生する原因は、「制作者が視聴者側の視点を持ち合わせていない」からである。要するに、客観視ができていないということだ。制作者は事前に全ての設定を知っているため、どうしてもその前提で動いてしまう。漫画や小説なら、担当編集者に真っ先に指摘されて修正させられる点だが、アニメは自己チェックの機能が働いていないのだろう。これは一アニメの問題ではなく、業界全体の問題である。

・演出


 前述の通り、ストーリーも決して悪くない。兵器にさせられた妖精達の悲しみと、かつての戦いによる心の傷が癒えない主人公の葛藤が折り重なって、「幸せとは何か?」をテーマにした一つの物語を作り上げている。主人公の考えに共感できるし、感動もする。だが、それと作品として面白いかどうかは別問題だ。実際、どうにも話がダラダラとして抑揚がなく、視聴意欲が高まらない。その理由は、盛り上がるべきシーンで盛り上がらず、盛り上がりようのないシーンを無理やり盛り上げているからであろう。つまり、「演出」の問題である。

 具体例を列挙しよう。第三話、主人公が人間族最後の生き残りであることが、妖精達と視聴者に伝えられる。しかし、そのシーンはギャグとして簡単に処理されてしまい、以後、主人公の過去は周知の事実になる。第四話、ヒロインが戦場へ出撃したことを知り、死を覚悟した主人公は嘆き悲しむ。だが、すぐにヒロインは帰還し、早とちりした主人公を笑い飛ばす。こういったエピソードは他の作品でもよく見られるが、本作は主人公の絶望と再会時の感動があまりにも過剰で、かえって不自然になっている。第五話、他民族共栄を主張する市長が、純血主義のテロリストに暗殺されそうになる。だが、その一連のエピソードは全般的にコミカルに描かれ、全く緊迫感がない。第六話、前世の記憶に精神を侵食されて、ヒロインが意識不明になる。絶望する主人公。だが、数分後、ヒロインはあっさりと覚醒する。ところが、なぜかそれは奇跡的な出来事として処理され、主人公は号泣し、荘厳なBGMが鳴り響く感動的なシーンが出来上がる。

 この中で最も注目すべきは、最後のヒロインが昏睡するエピソードである。事故などで意識不明になったキャラクターが奇跡的に息を吹き返し、感動のクライマックスを迎える作品はよくあるが、それらと本作の決定的な差異は「奇跡」の捉え方である。本作のそれはただの確率の低い「偶然」だが、他の作品では奇跡が起こるまでの過程に様々な人々の想いや努力があり、また序盤から綿密に張り巡らされた伏線があって、偶然を限りなく「必然」に近付けている。そういったロジカルに作り込まれたストーリーが素地にあって、初めて様々なテクニックを駆使した演出が意味を成すのである。本作のように、ただの偶然を無理やり奇跡に見せかけようとしても、それに騙されるほど人間は愚かではない。これもまた、制作者が視聴者側の視点を持ち合わせていないことで、作劇が独り善がりになった結果の産物である。

・終末


 原作者の言によると、タイトルの「終末」とは文字通りの「世界の終わり」という意味だけではなく、「個々人の死」をも意味するらしい。詭弁である。タイトルと実際の内容に大きな解離が生まれたことで、整合性を保つためにそう言い訳しているだけだ。なぜなら、本作には終末を感じさせる要素が一切ないからである。それは上記のような設定のせいでもあり、演出のせいでもある。そもそも、死にかけの人間が暇な訳がない。

 第八話。主人公に新たな任務が告げられる。それは、地上でダグ・ウエポンを発掘しているサルベージャーの護衛に、新たな妖精兵を派遣すること。発掘されたダグ・ウエポンの中にヒロインの病状を安定させる力を持った武器があるかもしれないと考えた主人公は、ヒロイン達と共に地上へ向かう。すると、発掘現場から大量の獣が出現して飛空艇を襲い、部隊は大混乱に陥る。自暴自棄になった主人公は、満身創痍の体を顧みずに戦いに赴く。一方、ヒロインは前世の記憶の浸食が悪化して、再び気を失ってしまう。彼女の前世はこの世界を創造した星神であった。彼女の肉体は完全に星神に支配されるが、主人公の側にいたいというヒロインの強い想いが体を動かす。そして、主人公を助けるために虚空へ身を投げ出す。

 ご覧の通り、本作の終盤のストーリーには二つの軸がある。だが、その両者のバランスが極めて悪い。一方では世界の創造神と直接対決し、その代償としてヒロインの命が奪われる。だが、もう一方でやっていることは歴史書にも残らないような小さな局地戦だ。主人公達はどこにでもいる普通の遺跡調査隊だし、なぜ獣がここまで執拗に飛空艇を襲うのかも分からない。片方で創造神を登場させるなら、もう片方は世界の命運を握る決戦兵器を巡る首都防衛戦ぐらいにしておかなければ、バランスが取れないだろう。こんな物は終末でも何でもなく、ヒロインはただの「犬死に」だ。もしかすると、作り手の頭の中では「人の命はそれほどちっぽけで儚い物だ」という考えがあったのかもしれない。そうなると、今度は最終回の仰々し過ぎる演出が問題になる。まるで「世界の終わり」かのようなエモーショナルかつダイナミックな演出は、テーマに沿っていない。「個人が幸せを感じたのなら、犬死にでも構わない」という考えには同意できないし、それを感動の押し売りに使おうという商業的な判断は、やはり否定すべきだと考える。

・総論


 『AIR』と『最終兵器彼女』の劣化コピー。ただし、劣化させているのは明らかにアニメ版スタッフ。

星:★★(-2個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:16 |  ★★ |   |   |  page top ↑

『世紀末オカルト学院』

世紀末でもオカルトでも学院でもない。

公式サイト
世紀末オカルト学院 - Wikipedia
世紀末オカルト学院とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2010年。オリジナルテレビアニメ作品。全十三話。監督は伊藤智彦。アニメーション制作はA-1 Pictures。暗黒の未来を変えるためにオカルト学院の生徒達が戦う学園ファンタジー。月刊オカルト情報誌の『ムー』が監修している。

・設定


 本作の放送年は2010年である。世紀末じゃねぇ! 以上、別にこれで終わってもいいのだが、偉い人に怒られそうなのでフォローすると、本作の物語の舞台が1999年である。ノストラダムスが世界の終末を予言し、世界中が不安と恐怖に包まれた年だ(もっとも、言うほど当時は不安にも恐怖にも包まれていなかった。いわゆるオカルトブームはもう少し前の時代である)。なぜ、本作は二十一世紀も十年が経過した2010年に、わざわざ世紀末を舞台にしたアニメを作ろうと思ったのだろうか。個人的な懐古趣味か、それともオカルトブームの再興を企てたのか。どちらにしろ、インターネットも画像処理技術も発達していなかった古き良きアナログ時代をもう一度という想いがあったのは間違いないだろう。ただ、2017年の未来人が一つ言えるのは、本作の影響でオカルトブームが起きるようなことは特になかったということである。
 基本的な設定とあらすじはよくできている。ヒロインの父はオカルト研究の第一人者で、自らの理想を実現するために超常現象を専門に扱う私学校を長野県の山奥に創立した。近所の人々はそれを「オカルト学院」と呼んでいた。だが、1999年の7月、彼は心臓麻痺でこの世を去ってしまう。そこへ娘が訪れる。彼女は、父親のオカルト趣味により両親が離婚したことで彼を恨んでおり、二代目の学長に就任してオカルト学院を廃校にしようと企んでいた。その時、空から光が差したかと思うと、突然、裸の男が舞い降りてくる。彼は2012年からやってきた未来人で、その未来は1999年7月21日に現れた異星人の侵略を受けて壊滅状態にあった。その歴史を改変するには、「ノストラダムスの鍵」と呼ばれるアイテムを見つけ出して破壊せねばならず、そのためにかつて天才超能力少年としてテレビでスプーン曲げを披露していた彼が送り込まれたのだという。ただし、その力はとうの昔に失われており、今は優柔不断で臆病なダメ人間になっていた。最初は彼に反発していたヒロインも、昔は自身がオカルトマニアだったこと、その彼女の夢を叶えるために父親がオカルト学院を創立したことを思い出し、ノストラダムスの鍵探しに協力する。
 ベースはオーソドックスなタイムスリップ物だが、この手のストーリーは作り手にSF知識がないと簡単に破綻してしまう。しかし、本作は非常に論理的に設定が構築されており、伏線も十分に機能しているため、あらすじだけを取ってみると極めて完成度の高い作品である。ただし、だからと言って、それが必ずしも良作になるとは限らないのが創作の難しいところ。未来に何が起こるか分からないからこそ、オカルトはいつまでも人々を魅了するのである。

・キャラクター


 正直なところ、本作は大して面白くない。未知なる物を探求するワクワクも、恐ろしい物に立ち向かうドキドキもない。その理由は何か? 中途半端なギャグコメディー風脚本のつまらなさという根本的な物を除くと、やはり一番に目に付くのは「キャラクターの弱さ」である。
 何より『世紀末オカルト学院』というタイトルなのに、学院感が何もない。主要キャラクター八人の内、まともな生徒はヒロインを含む三人だけ。他は、教師だったり学院の職員だったり近所の洋食屋の娘だったりする。それらのキャラクターを全て主人公のクラスメイトにすることはできたし、アニメらしい個性派集団にすることもできたはずだ。ヒロインにしても、なぜか武道の達人でなぜかクロスボウを巧みに操ったりするが、それらに設定的な理由付けは何もない。仮にも主役を張るなら、何らかの特殊能力の一つや二つ持っていてもいいのではないか。それをリアリティがないと言い除けるなら、本作のテーマ自体を否定することになる。何のために「オカルト学院」という特殊な舞台を用意したのか、それに作り手自身が気付いていないようでは意味がない。
 また、この手の作品は、オカルトを信じる者と信じない者の意見のすれ違いが最も面白いポイントのはずだ。本作もそれを意識はしているのだが、なぜか、その二つの役割をヒロイン一人が担っているのである。つまり、父親を憎むことでオカルトを否定する自分と本当はオカルトが大好きな自分、それらが彼女の中でせめぎ合って勝手に自己完結しているだけなのだ。では、彼女の相方となる未来人の青年、ここではあえて「主人公」と書くが、彼は何をしているかと言うと、ヒロインが頑張っているのを尻目に洋食屋の娘とずっといちゃいちゃしている。それどころか、重大な場面になるとヒロインを放っておいて一人で逃げ出す。このように彼は非常に優柔不断で弱腰、見ていて不快感を覚えるレベルのダメ人間なのだが、物語の都合上、これと言って明確な動機がないにも係わらず、ヒロインは主人公に好意を抱き、洋食屋の娘に対して嫉妬する。何をやりたいのか、このアニメは。どんなに設定やストーリーが良くても、それを演じるキャラクターの言動に魅力がなければ、作品は成り立たない。物語の主人公が必要ないなら、オカルトを題材にしたルポルタージュやドキュメンタリーを見る方が余程ましだ。その方が間違いなくワクワクもドキドキも味わえるだろう。

・ストーリー


 続いて、本作のストーリーについて記述するが、全十三話中の大半を占めるのが、幽霊やUFO、UMA、臨死体験などの超常現象を題材にした「ハートウォーミング」なエピソードである。友情や親子愛といった人間の持つ心の温かさを情感たっぷりに描いている……いや、ハートウォーミングてアンタ。確かに、この世の不思議を信じる心がオカルトの原動力なので、情緒的な物語との相性はいいのだが、オカルトの根本にあるのは「恐怖心」である。未知なる物に恐怖し、それを解明しようとする心理が大事なのに、背筋を凍らせないで心を温めてどうするのか。おどろおどろしい雰囲気を台無しにするコメディータッチの脚本もそうだが、本作は全般的に作品のコンセプトが何であるかを突き詰めないまま見切り発車している感が強く、あらゆる面でバラバラである。
 第十一話。ヒロインが何者かに殺される。犯人は主人公が仲良くしていた洋食屋の娘。彼女は、実は魔界から地上を征服するためにやってきた「黒魔女」であり、その妨げになるのがヒロインが父親から受け継いだ手帳に書かれた封魔の呪文だった。そこで、彼女はまずヒロインの父親を殺害し、さらに主人公を誘惑して支配下に置き、ヒロインから手帳を奪い取ろうとした。だが、その計画は失敗に終わる。なぜなら、今まで怪しげな動きを見せていた学院の教頭こそが、実はヒロイン親子を守る「白魔術師」であり、事前に魔術で作った人形を親子とすり替えておいたからだ。つまり、ヒロインも父親もまだ生きている。真相を知って動揺する黒魔女に、ヒロインと主人公が協力して封魔の呪文を使う。こうして、ノストラダムスの鍵を撃退し、無事に地球は救われるのだった。
 黒魔女って何やねん!? いきなり飛び出してきた謎ワードに、こちらの方が動揺を隠せない。魔界からやってきた魔王の尖兵? 詳しくは後述するが、それはオカルトではなく「ファンタジー」の範囲内だろう。仮にもオカルトを名乗るなら、旧約聖書でアダムを誘惑したリリスとか、ヨハネの黙示録に出てくる大淫婦バビロンぐらい出してもいいのではないか。何の歴史的背景も持たない黒魔女と、何の組織に属しているのかも分からない白魔術師のファンタジックな空中魔法バトルを見たいオカルトマニアなど、どこにいるというのか。本作は本当に『ムー』が監修しているのだろうか。だとしたら、世紀末も十年が経過して随分と『ムー』も柔らかくなった物である。

・オカルト


 以上、ここまでのストーリーは全て「ミスリード」である。な、なんだってー! 最終話、新たなる真実が明らかになる。ノストラダムスの鍵とは実は主人公自身だった。タイムトラベルした人物が過去の自分と出会うことで空間の情報量が許容量をオーバーし、時空に歪みが発生する「ラマチャンドラン&フィッシャーの予想」によって、別の次元から異星人が呼び出されたのである。謎の魔界のせいにはせず、ちゃんと超常現象に理屈を付けるのはオカルトとしてもSFとしても悪くない。だが、その事態は事前に、つまり、主人公を過去へ送り込む前に予見できたはずだ。特に、レジスタンスのリーダーはオカルト研究の第一人者であるヒロインの父親なのだから。その後、ヒロイン達は二人を会わさないように努力するが、結局、二人は出会ってしまう。すると、特異点が発生し、異次元から異星人のロボットが現れる。責任を感じた主人公は、かつての優柔不断だった自分に別れを告げ、スプーンを持って単身ロボットに立ち向かう。そして、スプーン曲げの超能力を使ってロボットを撃退し、彼の自己を犠牲にした活躍によって歴史は改変され、地球は救われる。……そんな伏線あったか? なぜ超能力が使えなくなり、なぜ再び使えるようになったのか。そもそも、スプーンを曲げる程度の力でどうやってロボットを撃退したのか。全てを「気合」の一言で説明するつもりか。せっかくいい感じにSFへと舵を切ったのに、肝心の場面でロジックを抜く理由がさっぱり分からない。
 やはり、本作の制作者は、根本的にファンタジーとオカルトの違いを理解していないと言わざるを得ない。ファンタジーはただの空想だが、オカルトは現実に起こった超常現象を論理的に考察する行為である。もちろん、現代科学では解明できないことばかりなので、結果的に似非科学に傾倒して批判を浴びる要因になるのだが、それでも根底にあるのは、この世の不思議を何とか解き明かそうとする飽くなき探求心である。一方、本作はUFOや幽霊などの定番ネタをただ並べるだけで、それらを論理的に体系付けようとする意志が全く垣間見れない。例えば、「全ては古代マヤ文明の予言書に描かれていたのだ!」といった、それこそ漫画『MMR マガジンミステリー調査班』のような神秘主義やら陰謀論やらを織り交ぜたトンデモストーリーを構築すべきでないか。それをやって初めて『世紀末オカルト学院』を名乗れるのではないか。世紀末感もなければ学院感もない、何よりオカルト感が全くないこの作品が世に生み出されたこと自体が一番のオカルトである。

・総論


 個々のエピソードを取り出してみるとそれなりによくできているかもしれないが、全体を通してみると作品としての体を成していない。むしろ、第一話と第十三話だけを抽出して、『世紀末SF学院』にした方が何倍も面白くなっただろう。

星:★★(-2個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:26 |  ★★ |   |   |  page top ↑
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