『シドニアの騎士』

無機質感。

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シドニアの騎士とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2014年春弐瓶勉著の漫画『シドニアの騎士』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は静野孔文。アニメーション制作はポリゴン・ピクチュアズ。謎の宇宙生物から逃れるために宇宙を彷徨う巨大戦艦の戦いの日々を描いたロボットアニメ。制作会社のポリゴン・ピクチュアズは、元々3DCGの映像を作っている企業であり、この度、設立三十周年を記念して初めて本格的にテレビアニメ制作に携わった作品が本作である。

・ロボットアニメ


 二十一世紀も十年以上が過ぎ、アニメの形態も様々に変化したが、それでもなお新しいロボットアニメは日々制作され続けている。等身大メカヒーローも含めれば、1クールに一本はあろうかというペースである。その多くが、美少女アニメとロボットアニメを融合させようという試みだ。アニメ業界を席巻する美少女アニメの法則と、時代を超えて愛されるロボットアニメの法則を合体させれば、覇権は間違いなし……のはずだが、その試みが成功したという例は寡聞にして知らない。『コードギアス 反逆のルルーシュ』や『マクロスF』は一時の輝きを放ったが、それすらも巨大な市場を持つガンダムやエヴァの代わりにはなれず、ましてや、その他大勢の有象無象の作品は、美少女アニメとしてもロボットアニメとしても中途半端なスタンスのまま、はかなく闇に消えていった。

 そんな中、この『シドニアの騎士』という作品は一際、異彩を放っている。別に、売り上げに秀でたわけでもなく、これと言う絶対的な特徴があるわけではない。本作を視聴した人なら誰もが感じるだろうが、元ネタとなっているのは明らかに『超時空要塞マクロス』である。内部に広い居住区を備えた巨大移民船。襲い掛かる異形の宇宙生物。新人パイロットの主人公。飛行機型の量産ロボット。複数の男女が織り成すラブロマンス。等々、既視感を覚える点は多々あるだろう。だが、そういった感情はすぐに忘れられる。なぜなら、圧倒的な世界観の作り込みとSF、それもハードSF描写の数々が本作を鮮明に彩っているからだ。

 まず、注目すべきは、美術・演出面である。本作は全体的に配色を減らし、白と黒のモノトーンをベースにオレンジやグリーンを差し色として使っている。また、記号的な感情表現や大げさな演出を極力排し、常に淡々と冷静に描いている。そうすることで、遠い未来の全てが高度な科学技術によって構築された無機質感を巧みに表現している。生まれ故郷はすでになく、人間本来の姿を歪めてまで種の存続のために絶望的な航海を続ける。そういったある種の使命感や悲壮感をビジュアル面で表現しているわけである。何より、忘れてはならないのは、本作が一部の背景を除いて全て3DCGで作られている点だ。CGだとどうしても人間っぽさが失われてしまうが、それがかえって本作らしさを生んでいる。つまり、デジタルの持つ本質的な冷たさを逆に世界観の構築に利用しているわけで、これは最新技術を正しく応用した良き事例である。

・SF


 ハードSFとは、一般的に科学性が非常に強いSFのことを言う。科学性が強いとは、文明が発達すればいつか実現可能になるぐらい正確な科学知識に基づいているということであり、科学的であるかどうかよりも仕掛けの斬新さや不思議さに主眼を置くガジェットSFと対になっている。分かり易く言うと、前者が『プラネテス』で後者が『ドラえもん』である。そして、本作もロボットアニメの中ではかなり科学性が強い作品であり、ロボットの熱いバトルや主人公のヒーロー的な活躍よりも、精密な設定や世界観の描写の方に重きが置かれている。例えば、戦闘シーンにおけるロボットの動きは、全て司令官の命令によってオペレートされており、パイロット個人の技量はあまり意味を持たない。ロボットは戦局におけるただの駒に過ぎず、本当の事件は会議室で起きているわけだが、現実的にはそちらの方が正しい。むしろ、そういったリアルさを軍師的な視点で楽しむのが本作の正しい見方である。

 ただ、科学偏重は得てして科学万能主義に陥る。それはつまり、科学が高度に発達し過ぎて、まるで魔法のようになってしまっているということだ。本作にも当たり前のように不老不死の人間が登場する。確かに、医療が発達すれば、人は死すらもコントロールできるようになるかもしれない。しかし、そうなった時、人は人を超えてしまうため、やはり夢物語だと言わざるを得ない。他にも、遺伝子操作により人間が光合成できるようになっていたり、男性でも女性でもない中性の人間が存在したり、人工的に重力を生み出したりしており、剣と魔法の異世界と何も変わりなくなっている。テクノロジーを突き詰めたはずなのに、最終的にファンタジーに辿り着くのは面白い。

 だが、本作の優れたところは、こういったハードSF描写と同時並行して、極めてアナログなガジェットを出している点である。その最たる物が「安全帯」だ。安全帯とは、シドニアで暮らす住民全員が腰に付けているフックのことである。見た目も仕組みも現代の工事現場で使われている物と全く変わらない。それを、シドニアの急加速などで重力に異常が発生した際、近くの手すりに装着することで、身の安全を守るのである。何というアナクロニズムだろうか。不老不死になれるほどの科学技術があるなら、もっと合理的で安全な手段が可能だろう。だが、こうやって適度にアナログな技術を挟むことで、この世界が我々の世界と地続きであることを示し、キャラクターに親近感を抱かせることができるのである。本作はこの辺りのバランス感覚が実に秀逸である。

・敵


 ここでロボットアニメの歴史を振り返ると、最初は悪の怪物やロボットと戦っていたが、それが地球侵略を狙う異星人との戦いになり、やがて、人間同士が戦うことによってドラマ性を高めるという方向性にシフトした。さらに、それを発展させて、未知なる異星人とのファーストコンタクトというSFらしいテーマに辿り着いている。ところが、本作ではまた敵が「奇居子(ガウナ)」という謎の凶悪な宇宙生物に戻っている。ある意味、先祖返りしたわけだが、もちろん、そんなに単純な話ではない。

 ガウナの正体は全くの謎である。2371年(本編の千年前)、突如として大量のガウナが襲撃したことで地球は崩壊し、人類は約五百隻の播種船を建造して新天地を目指して旅立った。その内の一つがシドニアである。シドニアは何度もガウナと交戦を繰り返しながら、ある日、ガウナに唯一致命傷を与えることができる「カビ(穎。稲穂の古い呼び名)」を発見する。そのカビを武器にすることでガウナと対等に戦えるようになるのだが、困ったことにカビにはガウナを誘引する力があった。そのため、カビこそが戦火を拡大させている原因なのではないかと考える「非武装主義者」と呼ばれる人々が発生し、シドニア内で反戦活動を行っていた。これは、現代における核兵器や軍事基地のメタファーである。さすがに、地球が破滅している状況では何の説得力もないが、こういう視点があるのとないのとでは大違いである。

 また、ガウナにはもう一つの大きな特徴があった。それは体内に吸収した物体の姿に擬態する能力を持っていることである。ロボットを吸収するとロボットそっくりに、人間を吸収すると人間そっくりになる。大事なのは、原子レベル・遺伝子レベルでの完全なコピーが可能なことであり、すなわち、擬態した上でその部分を切り離すと、元となった人間の記憶まで受け継いだクローンが誕生する。これは一体何を意味しているのだろうか? ただ単に捕食だけが目的なら、そのような能力は不必要なはずだ。作中のキャラクターは言う。「ガウナは本当は人類の友人になりたがってるんじゃないかな?」と。ガウナの真の目的は、おそらく後のストーリーで明らかになるだろう。それを知った時、はたして人類はどういった行動を取るのであろうか。

 本作は、基本的には「祖国のためには命を投げ出すべき」という保守的な思想が背景に流れている作品だが、これらの革新的な要素で上手くバランスを取っている。多角的な視点のない作品は、昔の勧善懲悪ロボットアニメと変わりない。一見すると先祖返りしたように見える本作も、さすがにその辺りは抜かりなく仕上げている。

・感情


 このように、本作はただのロボットアニメの枠に止まらない魅力を持った上質のSFなのだが、世間一般の評価はどうかと言うと、残念ながらマニア向けアニメの域を超えていない。では、本作と『超時空要塞マクロス』は何が違うのだろうか? 理由はいろいろと考えられる。例えば、戦闘に華やかさが足りない・主人公がかっこ良くないといったスーパーロボット的なエンタメ性が欠けているのは、間違いなく大きなマイナスポイントであろう。また、作品の売りであるはずのラブコメも、複数の女性が特に意味もなく主人公に惚れるが、本人はその気持ちに気付かないという典型的なギャルゲーパターンであり、全く心に響かない。ちゃんと正統派のボーイミーツガールを描いていたら、もう少し違う結果になったはずだ。

 ただ、本作の一番の欠点は別にあると考える。具体的に挙げると「シドニアの艦長が仮面を付けている」ことである。些末なことのようだが、非常に重要なことだ。艦長はシドニアの住民、すなわち、人間という種を存続させるという重責を担っているため、目的のためには手段を選ばない冷酷無比な人間でなければならない。それゆえ、負の感情や心の迷いを周囲の人間に悟られないように仮面を付けて素顔を隠している。それは理屈としては正しいが、ドラマとして正しいかと言うと否である。絶体絶命の状況なのに、リーダーが無表情で感情を押し殺していれば、盛り上がる物も盛り上がらない。それは当然、部下にも波及する。パイロットはシドニアを守るために当たり前のように敵に突撃する。最初は二百人以上いたパイロットが、第一期終了時には十人にまで減るのだが、これと言って特に悲哀も感動もない。なぜなら、彼らは戦いの駒の一つに過ぎないからだ。

 先に、感情を抑えて淡々と演出することで無機質な世界観を表現していると述べた。それは間違ってはいないのだが、感情を抑えることと隠すことは違う。やはり、視聴者は登場人物と一緒にハラハラドキドキしたいのだ。例えば、『コードギアス 反逆のルルーシュ』の主人公も仮面を付けていたが、仮面の下の感情は非常に分かり易く、ゆえに彼に共感ができて人気作となった。ところが、第二期の『コードギアス 反逆のルルーシュR2』になると、全体的に仮面の下の感情が分かり難くなって、同時に作品人気も落ちた。それと同じことである。やはり、「仮面を付けるのは敵の幹部」というロボットアニメの大原則は伊達ではないということだろう。

・総論


 ロボットアニメとしての面白さより、特殊な世界観の中での人間模様の面白さの方が勝っている。つまり、ジャンル的には『灰羽連盟』や『ヨコハマ買い出し紀行』といった雰囲気アニメに近い。

星:☆☆☆☆☆☆☆☆(8個)
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by animentary  at 09:22 |  ☆☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『メイドインアビス』

冒険。

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メイドインアビス - Wikipedia
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・はじめに


 2017年夏。つくしあきひと著の漫画『メイドインアビス』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は小島正幸。アニメーション制作はキネマシトラス。探窟家見習いの少女と機械の少年が巨大な穴の底を目指して旅に出る冒険ファンタジー。一見すると、ほのぼのとした少年向けアニメだが、ビデオメディアのレーティングはPG12(小学生以下の鑑賞には不適切)である。

・冒険物語


 人は皆、誰しもが未知なる物の正体を知りたいと思う「好奇心」を持っている。それゆえ、見知らぬ土地に立ち向かう人間の知恵と勇気を描いた「冒険物語」に心を躍らせる。ジュール・ヴェルヌ著の『海底二万里』、ロバート・ルイス・スティーヴンソン著の『宝島』、ダニエル・デフォー著の『ロビンソン・クルーソー』といった人々の好奇心を掻き立てる名作冒険小説は、時代を超えて老若男女に愛されている。そして、本作もそんな冒険物語の意思を継いだ名作漫画を、上質の作画と丁寧な演出と迫力のある音響でアニメ化した作品である。

 本作の最大の特徴は、冒険の舞台を絶海の孤島に開いた正体不明の巨大な縦穴「アビス」にしていることである。この時点で本作は勝利を約束された作品である。なぜなら、穴はジャングルや海底や宇宙にはない特別な性質を持っているからだ。それは「見えているはずなのに見えない」ことである。縦穴は、途中で捻じ曲がっていない限り、入り口から奥底を見ることができる。しかし、実際は光の加減により、暗闇に覆われて奥底を見ることができない。すると、人間はマイナスの想像力が働いて、深淵に恐ろしい光景を思い浮かべる。未知なる植物が生え揃い、凶暴なモンスターが蠢き、死の呪いにより一度入ったら出てこられない。また、底には悪魔が住んでいて、こちらの様子をじっと覗いている。それはとてつもない恐怖である。そのため、深い穴はしばしば人間の心のメタファーとして使われる。本作は、己の中の好奇心に突き動かされて、そんな穴の最奥に挑もうとする命知らずの職業「探窟家」をフィーチャーしている。

 主人公は十二歳の少女。母親は世界でも屈指の探窟家だったが、アビス内で発生した事故により行方不明になっていた。そのため、彼女は探窟家を養成する孤児院に引き取られ、日々厳しい訓練を受けていた。そんなある日のこと、アビスの浅層を調査中、彼女は一人の機械少年と出会う。なぜか記憶を失っていたが、どう考えてもアビスの深淵からやってきたとしか思えない機械少年を、主人公は自分の部屋にかくまう。ちょうどその時、アビス内で母親の残したメッセージが発見される。「奈落の底で待つ」という母親の言葉に何かを感じた主人公は、機械少年と共にアビスへ旅立つ決心をする。しかし、アビスはそんなに生易しい場所ではない。その最大の要因が「上昇負荷」。降りる分には問題ないが、少しでも上に登ろう物なら、俗に「アビスの呪い」と称される謎の力によって身体的・精神的に大きなダメージを食らう。それはすなわち、一度足を踏み入れると二度と生きて帰れないことを意味する。はたして、二人の旅はどのような結末を迎えるのだろうか?

・動機


 これらの概要を見るだけでも分かる通り、本作は非常に完成度の高いアニメである。実際、批評サイト等では満点に近い評価を与えていることが多い。だが、決して欠点がないわけではない。むしろ、「ここをこうしていたら、歴史的な名作になれたのに」と思う点が多く、ある種の無念さを強く感じさせる作品になってしまっている。

 本作の一番の欠点は、「主人公がアビスの底を目指す動機が弱い」ことである。彼女を動かしているのは、深淵を見たいという好奇心と母親の残したメッセージと記憶喪失の機械少年の三つ。これだけ見ると、少年向け冒険物語の主人公の動機としては十分だが、本作には他の作品と大きく異なる点がある。それは「主人公が探窟家になるための正式な訓練を受けている」ことである。他の作品だと、好奇心旺盛な少年が何も知らずに己の感情のままに行動し、深く足を突っ込んでからその恐ろしさを知るというパターンが多い。一方、本作の主人公は、まだ見習いの段階だが、孤児院でアビスに関する教育を受け、指導員監視の下に実地訓練も行っている。つまり、アビスがどれほど恐ろしく、二度と生きて帰って来られない危険な場所であるかをよく知っており、さらに所属する組織のルールとしてアビスに潜ることを明確に禁じられているのである。こういった複数の障害を乗り越えてまでアビスに向かわせる理由として、上記の三つは弱い。一応、主人公は後先を考えない無鉄砲な性格だという設定になっているが、それでも好奇心と自分の命を天秤にかけている状況は違和感が大きく、実際の劇中の描写も今から死出の旅に出るという悲壮感が少ない。いくら十二歳の子供とは言え、もう少し生きるか死ぬかの葛藤があっても良かったのではないか。

 この違和感を解消するためには、やはり動機の方を強めるしかない。すなわち、命を賭してまで主人公をアビスの深淵に向かわせるに値する何らかの強い理由だ。一番簡単な例を挙げると、母親からのメッセージを「助けて」といった単純なSOSに変更する。そうすれば、母親を助けるためにアビスへ行くという大義名分ができ、視聴者側も素直に主人公を応援することができる。また、呪いか病気で、底に行かなければ主人公は死んでしまうとするのもいい。ただし、それだとストーリーが大きく変貌し、好奇心ではなく義務感の物語になってしまうため、冒険物語としての良さが半減してしまう。わざわざ、子供を主人公にする意味もない。

 さすがに、この状況は作者も不味いと思ったのか、旅の途中で主人公がアビスに向かわざるを得ないある理由を後付けで挿入しているのだが、やはり蛇足感が否めない。結局のところ、この問題の原因を突き詰めると、事前にアビスの恐ろしさを描き過ぎたということになる。つまり、王道を外すことの難しさであり、いつものことながら冒険物語のテンプレートが如何に良くできているかを再確認する。

・絶望感


 続いての欠点は、全体的に「絶望感が足りない」ことである。もちろん、アビスの恐ろしさはこれでもかと子細に描いている。上昇負荷の影響で、少し高度を上げるだけで心身共に大きなダメージを受ける。凶暴な巨大モンスターが周囲を飛び回り、幾度となく危険な目に遭う。アビスで出会う人間は皆、心に暗い闇を抱えている。第十話では、モンスターから受けた毒と上昇負荷により主人公が生死の境を彷徨い、かなり痛々しいグロテスクな治療シーンが描かれる。だが、これだけやっても、作品全体にどこかお気楽な雰囲気が漂っている。どんな困難に襲われても、「ここさえ切り抜けたら一息つける」という安心感があり、本当の意味でのアビスの恐ろしさは感じられない。それは、アビスを人間の心のメタファーとして使用したい本作の意図するところではないはずだ。

 なぜ、そうなっているかというと、「主人公のパラメータが減ってない」からである。分かり易くビデオゲーム的な表現をしたが、要は出発した時から所持品や体力などがほとんど減っておらず、経験値や仲間はむしろ増えているということである。だが、本当の絶望感を描こうと思ったら、冒険の過程でこれらのパラメータを徐々に減らして行かなければならない。例えば、出発した時には大勢いた仲間が、旅の途中で客死して少しずつ減っていく。水や食料が足りなくなって、飢えとの戦いになる。呪いで少しずつ体が蝕まれていき、歩くのがやっとになる。そういった物質的なリソース以外でも、単純にタイムリミットまでに残された時間がどんどん減っていくというのもいい。とにかく、先に進むごとに主人公を取り囲む状況が悪化しなければ、真の絶望感は得られない。先に進むと必ず地獄が待っている。しかし、後戻りはできないため、命がけで前進するしかない。その心理的な圧迫感が生み出す恐怖は、上昇負荷や巨大モンスターの比ではないだろう。つまり、真に恐ろしいのは人間の想像力だということである。

 名作と言われる作品は、こういった精神的な絶望感の使い方が上手い。映画『八甲田山』などはまぁ極端な例だが、子供向けアニメに限っても、例えば『ドラえもん のび太の大魔境』は、このスキームを巧みに利用して話を盛り上げている。便利な秘密道具のほとんどが使えなくなり、アフリカの秘境に取り残される。だが、戻ることはできないので、目的地を目指して自分の足で少しずつ進むしかない。こういった不安感を上手く揺さぶれば、流血シーンなど描かなくても冒険のスリルを演出することができる。この辺りは単純に作り手のセンスの差だ。残念ながら、本作は深夜アニメの中では優秀でも、大御所達の作品とはまだまだ差があると言わざるを得ない。

・映像作品


 毒と上昇負荷で瀕死の重傷を負った主人公を救ってくれたのは、一人のケモノ少女だった。彼女は元々人間で、ある理由により体質が変化し、それ以来ずっとアビスに住んでいた。彼女の語るところによると、孤児だった彼女は、探窟家になれるという甘い言葉に騙されて非人道的な人体実験の被験者になり、友達と一緒にアビスの上昇負荷を受ける。その結果、彼女はケモノ少女に、友達は不死の化け物になってしまったのだという。その後、機械少年の持つビーム兵器の威力を見た彼女は、彼に頼む。その武器で友達を殺してくれと。

 またかよ……。例の如く、『新世紀エヴァンゲリオン』-『最終兵器彼女』-『エルフェンリート』の流れで育まれた「子供をとことんまで酷い目に合わせる」パターンである。子供が傷付き苦しんでいる様を見て現実の理不尽さを再認識し、彼らの不幸な境遇に同情して涙を流す。それをシリアスだと言い張り、質が高いとうそぶく。はっきり言って、カスである。ストーリー的に彼らが子供である必要性は全くない。ただ、純粋無垢な子供が苦しめば、より事が重大そうに見えるだけだ。つまり、作り手の勝手な都合である。こう書くと、表現の自由の行使だとの反論が返ってくるだろうが、では、漫画やアニメ以外のメディアに、「騙されて人体実験の被験者になり、不死の怪物と化した子供を、その友達に頼まれて主人公が殺す」などというストーリーの作品があるのかということである。やたらと人権問題にうるさいハリウッドで、こんなシナリオを脚本家が持ってくれば、彼にもう次の仕事は来ない。なぜなら、ハリウッドはエンターテインメント業界のトップである矜持があるからだ。よく日本のアニメが海外で人気と言うが、ただ単に規制が緩くて他のメディアでは禁じられたことを平気でやっているから、マニアックな好事家が評価しているだけという側面があることを忘れてはならない。

 勘違いされると困るが、別にこういう設定自体が悪いわけではない。要は描き方の問題である。例えば、映画『魔女の宅急便』では、主人公が初潮を迎えたことで魔法を使えなくなる。だが、そんな描写は映画のどこにもない。何気ない所作や会話の中にそれとなく匂わせているだけだ。良き映像作品とはそういう物ではないか。登場人物に回想シーンで過去をペラペラと語らせるだけなら、素人監督でもできる。本作がよくできたアニメーションであるだけに、こういった映像作品としての詰めの甘さに対して非常にもったいなさを覚える。

・総論


 上記の諸問題により、星9個ではなく星8個とする。ただ、個人的な感想では、出発前の第一話が本作のピーク。

星:☆☆☆☆☆☆☆☆(8個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
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