『灰と幻想のグリムガル』

生活。

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灰と幻想のグリムガル - Wikipedia
灰と幻想のグリムガルとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2016年。十文字青著のライトノベル『灰と幻想のグリムガル』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は中村亮介。アニメーション制作はA-1 Pictures。異世界に召喚された日本の少年達が一人前の冒険者として独り立ちするまでを描いた冒険ファンタジー。

・異世界ファンタジー


 ある日突然、日本人の少年少女が異世界に召喚される。そこはまるでゲームの中の世界。中世ヨーロッパ風の街並み、魔法が実在し、街の外にはモンスターがうろつき、人々はそれらを狩って生活している。召喚前の記憶を無くした少年達は、お金を稼ぐために手に手に剣を取り、義勇兵(冒険者)として生きる。本作はそんな極めてオーソドックスな異世界ファンタジーの一作である。ただ、本作が他と違うのは、彼らが冒険者として一人前になるまでの行程を一から十まで懇切丁寧に描いていることだ。これは今までありそうでなかったジャンルである。他の作品だと、特に苦労することもなく異世界に順応したり、気が付いたら一人前になっていたりする。くだらない作品だと、自称普通の少年がなぜか最初から最強でモンスターを容易く虐殺する場合もある。一方、本作は驚くほど現実的であり、ろくに戦闘訓練を受けていない彼らは、ファンタジーでは最弱の敵とされるゴブリンすら倒せない。だが、生きるためには食事をする必要があり、食事をするためにはお金が必要で、お金を稼ぐためにはモンスターを倒さなければならない。それゆえ、嫌が応にも戦う力を身に付けなければならない。そんな一人の人間の「生活」を本作は独特の柔らかなタッチで淡々と描写している。普通は省略される物をわざわざ描くことによって独自性を出すという点において、本作はかなりニッチなアニメだと言えよう。
 異世界における生活を詳細に描くことのメリットは何か、それは架空のキャラクターが生きた人間としての実在感を得ることである。アニメなどそもそも嘘の塊なのだから、大事なのリアルさではなく、如何に「それっぽさ」を描けるかである。そのためには、登場人物がその世界の中でちゃんと生きていると思わせることが何よりも重要だ。我々と同じように、良いことがあると喜び、哀しいことがあると落ち込み、美味しい物を食べると満足して、夜はぐっすりと就寝する。そういった何気ない日々の生活を描くことで、ぐっと親近感が増す。「食べ物が美味しそうなアニメは良作」などと言われるのも同じ理由である。
 なお、なぜ彼らが異世界に召喚されたのかや召喚される前は何をしていたのかなどの疑問は、劇中では一切触れられない。これは賛否の分かれる点だと思うのが、個人的には支持したい。なぜなら、本作が訴えようとしているテーマには全く不要だからだ。それなら、最初から触れないようにするという判断は決して悪くない。もちろん、いつかは解明しないといけない謎ではあるのだが。

・命


 異世界に召喚された主人公は、とりあえず周りにいた人々と六人でパーティーを組み、見よう見まねで冒険者稼業を始める。だが、付け焼刃の戦闘スキルではゴブリンすら倒すことができない。当然、今日の生活費にも事欠き、困窮に喘ぐ六人。結局、初めてゴブリンを倒すことができたのは第二話、劇中の時間で言うと二週間以上も後のことだった。
 さて、その初めてのゴブリン退治だが、本作は演出として非常に凄惨に描いている。ほとばしる血飛沫。断末魔の咆哮。画面越しに痛みや苦しみが伝わるぐらい生々しい。それも六対一という卑劣な状況。最早、モンスター退治などという生易しい物ではなく、明らかな「殺戮」である。これはもちろん意図的にそうしている。理由は命の重さを描くことで、生きることの罪深さを強調するためだ。例えば、ゴブリンが悪の魔王の尖兵で、倒さなければ世界が滅ぶというなら話は簡単だ。遠慮なくぶちのめせばいい。しかし、本作のゴブリンには何の罪もない。普通にそこで暮らしているだけだ。それを自分達の生活のために命を奪うというのは、劇中の言葉を借りるなら「ゴブリンから見れば自分達が侵略者」である。善か悪かを問われると間違いなく悪だろう。だが、我々が普段口にしている牛や豚にも何の罪もないわけである。でも、彼らを食べないと生きて行けないから仕方なく殺す。本作は生き物の死を精細に描くことで、そういった誰かの犠牲の下に生きさせてもらっているという人間の「業」に真正面から切り込んだ作品である。
 正直、これを本当にアニメでやるべきだったかどうかは答えに窮する。アニメはすべからくエンターテインメントであるべきだ。子供も見ている。偏った思想を押し付けるプロパガンダアニメほど怖い物はない。しかし、おそらく、このシーンはアニメーション技法でしか描けない。小説や漫画ではこの凄惨さは表現できないし、実写だとただのグロテスクなホラームービーになる。程良い省略と程良い誇張という特徴を持つアニメだからできることだ。そういう意味では、批判を恐れず新しいことに挑戦した本作には大きな価値があるのではないだろうか。少なくとも、異形の怪物だから平気で殺していいという思想のアニメの方が危険であると信じたい。

・パーティー


 こうして、少しずつ冒険者稼業にも慣れてきた主人公達六人だったが、ある日、油断が招いた不幸な事故によってパーティーリーダーの少年を失ってしまう。彼はパーティー唯一の回復職であると同時に、聡明かつ冷静沈着で面倒見が良く、皆の頼れるまとめ役だった。残された五人の間に深い悲しみが訪れる。例の如く、本作はそういった感情を何話もかけて淡々と丁寧に描く。誰かの命を奪って生きているということは、当然、自分達も殺される可能性があるということ。つまり、生きるということは「命のやり取り」をすることである。そんな現代人が皆忘れている事実に、アニメという媒体を通じてもう一度正面から向き合う。本作のそういうところは最後まで徹底している。
 その後、リーダーの穴埋めに新しい女性神官がパーティーに加わる。しかし、彼女は協調性を著しく欠いており、全く五人に馴染もうとしない。その結果、パーティーに亀裂が生じて、人間関係がギスギスする。元々、その場の成り行きで組んだ即席パーティーだったため、全員が同じ趣味趣向の仲良しグループという訳ではない。ただ、求心力のあるリーダーがまとめてくれていただけだった。今まで生きるのに必死で半ば意図的に気付かない振りをしていたこの問題に、五人は改めて直面する。なぜパーティーを組むのか、なぜこの六人でないといけないのか、それを主人公の目を通して見ていくのが後半のストーリーになる。
 元々、新メンバーは明るい女の子だった。しかし、以前所属していたパーティーで自身のミスにより仲間を三人も殺してしまい、それがトラウマとなって今のような性格になった。そこで、主人公は彼女の心の闇を取り除くため、かつての悲劇の舞台となったダンジョンでの狩りを提案する。その結果、パーティーに様々な問題が紛出するが、新リーダーとしての自覚が芽生え始めた主人公は、悩みながらも一つずつ問題を解決していく。戦いにおいて仲間が重要なのは当たり前だが、その当たり前のことをもう一度問い直すのが本作のテーマ。人間の性格は十人十色、良い奴もいれば嫌な奴もいる。そのことを認め、変えられる部分は変え、受け入れられる部分は受け入れ、順応する。そして、新メンバーの仇との戦いを通じ、六人は本当に掛け替えのないパーティーになっていく。

・欠点


 このように本作は非常によくできた作品であるが、だからと言って、全く欠点がないという訳ではない。まず、誰しもが目に付くであろうことは、主人公達が冒険者にならざるを得ない動機が薄いということである。劇中では、一人前の義勇兵にならなければ生きて行けないとやたら脅迫的に話が進むが、別に農家でも職人でもお金を稼ごうと思えばできるはずだ。ここをしっかりと煮詰めないと後の「命のやり取り」の意義が薄れてしまうため、村の掟でも宗教的教義でも何でもいいから、適当な理由をでっち上げるべきだった。これらやステレオタイプなキャラクター造形なども含めて、本作はやはりどうしても「ゲーム的」である。異世界に召喚されたというより、テーブルトークRPGやオンラインRPGの世界の中に取り込まれたといった方が正しい。せっかくキャラクターに現実感を持たせようと頑張っているのに、自らハンデを課す必要もあるまい。
 ストーリー的もおかしな点がある。ラスト、新メンバーの仇である強敵モンスターを倒してハッピーエンドを迎えるのだが、その方法は主人公が謎の力を用いて一人で討伐するという物だった。それは仲間との絆という後半のストーリーテーマと矛盾する。謎の力自体はちゃんと劇中でも説明されているし、今後の伏線になる物だが、今まで散々パーティー六人の協力の大切さを訴えてきたのに、最後の最後に一人で倒してしまっては意味がない。主人公の成長を描きたいのかパーティーの成長を描きたいのか、もう少し物語の軸を一つに絞るべきだっただろう。
 最後に、これが一番の欠点になるかもしれないが、「演出がくどい」ことだ。本作は事あるごとに感動的な挿入歌をバックにして情緒的なシーンを流す。それもかなりの長時間。ただ、それを初めてゴブリンを退治した後やリーダーが死亡した後にするのは分かるのだが、お墓参りやただの休日にもするのはさすがにくどい。あまりセンチメンタルになり過ぎると、他者の命を奪って生きるという人間の業まで否定しかねない。パーティーメンバーの一人がいきなりベジタリアンになったら、この物語は成立しないだろう。それゆえ、ナイーブさとある程度のドライさのバランスを取らなければならない。

・総論


 ニッチアニメなのでどうしても評価が甘くなるのは否めないが、やりたいこととやるべきことがはっきりした良作。できることなら、もう少しゲーム的な要素を減らして異世界の創造に注力して欲しかったところだ。

星:☆☆☆☆☆☆☆☆(8個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:30 |  ☆☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『あさっての方向。』

斜め上。

公式サイト
あさっての方向。 - Wikipedia
あさっての方向。とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2006年。山田J太著の漫画『あさっての方向。』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は桜美かつし。アニメーション制作はJ.C.STAFF。とある田舎町を舞台に、大人になってしまった少女と子供になってしまった女性が繰り広げる恋愛ファンタジー。設定・キャラクター・ストーリー共に原作とは大きく異なる。

・キャラクター


 本作の主要キャラクターは四人。主人公は五百川からだ。小学六年生の女の子。四年前に両親を事故で亡くし、現在は歳の離れた兄と田舎町で二人暮らし。年齢の割に体が小さいため小学六年生には全く見えず、それが本人にとっても大きなコンプレックスになっている。口調は兄の影響で誰に対しても丁寧語。実は兄とは血が繋がっておらず、自分のせいで赤の他人である兄に「負担をかけている」と考えているため、早く大人になって兄を「自由にさせてあげたい」と思っている。その大人びた考え方からも分かる通り、見た目と違って非常に精神年齢が高く、家事なども普通の大人以上に何でもこなす。ただし、社会的にはまだまだ知識・経験不足なので、そういった点に自己矛盾を抱えている。
 五百川尋。からだの兄(実際は従兄)。ただし、彼女とは血が繋がっていない。かつては海外で薬学を専攻していたエリート研究者だったが、からだの両親の訃報を聞いて帰国し、それ以来、彼女を引き取って育てている。現在は薬局の受付勤務。昔は爽やか系の好青年だったが、かのような事情から自暴自棄になって老成し、今はエロゲー主人公のように前髪で目を隠している。基本的には優しい性格だが、妹に対しても敬語で話すなど、どこか余所余所しくて現実感がない。
 野上椒子。二十四歳。眼鏡の才女。海外留学時に尋と出会って同棲していたが、妹のことで彼が帰国したため、結果的に捨てられた形になった。以来、彼のことを愛しつつも恨んでいたが、環境を変えるために引越しした田舎町で運命的な再会をする。大人の女性らしく冷静沈着なキャリアウーマンだが、家事全般は苦手で生活面は子供のようにだらしない。幼少の頃から根暗でプライドが高く、あまり友達のいない性格。それゆえ、直接、子供になりたいと願っていたわけではないが、子供のように素直になって人生をやり直したいとは思っていた。
 網野徹允。からだのクラスメイト。彼女とは正反対に体が大きく、たまに大学生と間違えられることも。からだに対して片思いしている。良い意味で猪突猛進、自分は何でもできると思っている子供らしい性格。過去、からだとはある約束を交わしていた。
 以上の四人が主要登場人物である。これらの設定を見れば分かる通り、各人のキャラクターが非常にアンバランスでありながら、それが結果的に良いバランスを生んでいる。見た目と性格、社会的な側面と生活的な側面の大きなギャップ。現在と過去の雰囲気の違い。血が繋がっていないとは言え、兄妹なのに敬語で話す。そういった誰が見てもおかしさを覚える違和感を、本作は第一話で十分に描いている。昨今、インパクト重視で導入部を省略してしまう作品が多い中、この慎重さはかえって新鮮である。

・変化


 第一話のラストである不思議な現象が発生し、物語が一気に加速する。街に伝わる「願い石」、その石の力により、五百川からだは大人に、野上椒子は子供になってしまう。兄に負担をかけたくないから、ずっと大人になりたいと願っていたからだ、心のどこかで意地っ張りな自分を直して素直になりたいと思っていた椒子、そんな二人の願いを神様が叶えたのだった。そして、二人の奇妙な一夏の物語が始まる……。
 何という魅力的な設定であろうか。もう、この設定だけでご飯三杯ならぬ、メインストーリーの三本ほどが想像できてしまう。つまり、変化した二人が実生活で様々なトラブルと遭遇する物語、兄と友人が変わり果てた想い人の姿に戸惑う物語、そして、同年代となった兄と妹が禁断の恋に落ちる物語だ。これだけ魅力的な設定が揃っていたら、後は普通に話を進めるだけで魅力的なストーリーになるだろう。その前提をよく理解しているのか、本作の作風を一言で表現すると極めて「丁寧」である。全体的に尺が余り気味なので、かなりゆったりと時が進み、そこで起こったことを全て詳細に描いている。体が変化した二人の苦しみ、当面の生活をするための買い物、行方不明になった妹を探す兄とクラスメイト、二人の変化に気付かない兄、葛藤を経ての事実の告白、そして、その事実をなかなか受け入れられない兄。服やメガネといった小道具一つ取っても、フィクションにありがちな突然の変化は起こらず、入手経路も明確で簡単に入れ替わったりしない。ともすれば、先に先にとストーリーを進めたくなる中で、その気持ちをぐっと堪えて、地に足付いた作品作りを行っている制作スタッフの努力は素直に称賛したい。
 作劇における永遠の命題として、設定が特殊だった場合、同時にストーリーをも特殊にすべきか否かということがある。本作で言うなら、肉体が変化した二人がそれぞれの学校・職場に行って、同僚達とハプニングを起こすという物語でもいいのである。ただ、視聴者側の立場からすると、やはり、見たいのは人々が特殊な状況に巻き込まれた時、どのような事態が発生するかというシミュレーションであろう。肉体変化という非日常的なシチュエーション自体をじっくりと楽しみたいのである。そう考えると、本作のように時系列を一つ一つ描いて行くのがベストである。とは言え、何も起こらないとそれはそれで退屈になるので、ある程度の変化球は必要になり、その辺りのさじ加減に制作者のセンスが問われることになる。

・あさっての方向


 第八話のサブタイトルは、メインタイトルと同じ『あさっての方向』である。その名が示す通り、この回を期にストーリーが明後日の方向へ走り出す。ひょんなことから椒子と尋がかつて恋人同士であると知ったからだは、居た堪れなくなって家を飛び出す。その理由が椒子と尋、そして、視聴者にもいまいち伝わり難く流れが停滞する。後に、からだは自分と兄に血の繋がりがないことを昔から知っていたと告白するのだが、それでもこの家出という行動はかなり突飛である。彼女の慎重な性格を考えると、ちょっとこの展開が想像できない。ただ、よく考えてみると、からだは見た目は大人だが中身は小学六年生なのである。突飛な行動をする方が当たり前なので、彼女の不安定な感情をよく表しているとも言えよう。
 家出したからだは、様々な現実的な困難に直面しながらも、とある海岸沿いのペンションに住み込みで働くことになる。そこで思わぬ活躍を見せるのが、それまで脇役同然のキャラクターであったクラスメイトの網野徹允である。彼は身を粉にしてからだを探し回り、ある偶然も手伝ってついにペンションに辿り着く。その情熱に心打たれたからだは、自分の正体を彼に打ち明けるが、網野はそれを信じられずに衝突する。というように、ほとんど主人公と言っていいぐらいの目覚ましい仕事振りである。一方、主人公だと思われていた尋は、グチグチと悩んだまま最終回近辺まで動かない。この時点で、兄と妹の物語に終始するであろうと思われていた視聴者の予測は、明後日の方向に裏切られる。最終的に、からだと網野は気持ちを確かめ合って和解し、椒子と尋も元の鞘に戻る。
 本作はいわゆる萌えアニメに該当する作品であるが、他の同ジャンルの作品と比べるとかなり異質な雰囲気を保っている。それは、ゆったりとした空気感だとか美しい美術・音楽だとかだけではなく、萌えアニメが有している「常識」に真っ向から反しているからであろう。からだにとって「大人になる」ということは、誰にも負担をかけずに自分の力で生き抜くこと、つまり、「自立」である。それゆえ、家から飛び出して一人で世間の荒波に立ち向かい、それを他のキャラクターが呼び戻そうとするのが本作の筋である。一般的な萌えアニメだと、ヒロインに困難が訪れるのは同じでも、彼女達は内に閉じ籠って、それを主人公が解放するというパターンを取る。完全に逆である。この無意識的なパターン破りこそが本作の独自性を生んでおり、名作と呼ばれる素地を作り出している。

・原作との相違


 冒頭で書いた通り、原作とアニメ版とは大きな相違点がある。同じなのはキャラクターの名前と容姿、後はヒロイン二人の肉体が変化するという点ぐらいなので、ほぼ別作品と呼んでも過言ではない。逆に言うと、どこが変更されているかを詳しく調べることで、アニメ版スタッフが本当に訴えたかったことが透けて見えるだろう。
 一番の大きな違いはストーリーである。原作では、どうやって元の身体に戻るかという伝奇ミステリー的な面に重きが置かれており、特に終盤はかなりファンタジーストーリーへとシフトする。よって、肉体変化に対する主人公達の心理描写は深く描かれず、からだが網野に自分の正体を明かすタイミングも随分と早い。何より、家出するという展開自体がない。一方、アニメ版は男女四人の複雑に絡み合った感情面に重きが置かれ、それまでアンバランスに安定していたバランスを正しい姿へと戻すことが主題になっている。ファンタジックな側面もないことはないが、その辺りは専用のオリジナルキャラクターを用いることであっさりと処理している。さて、そのどちらが優れているかだが、1クール全十二話で完結した物語として見ると、これはもう圧倒的にアニメ版である。肉体変化はあくまで舞台装置に過ぎず、人々の積極的な行動によって事態を変化させる。つまり、本作はアニメという媒体を通じて、ありのままの「人間」を描こうとしているのである。その強い意志を我々は変更箇所から読み取ることができるだろう。
 もう一つの大きな違いは、尋のキャラクターである。原作ではアニメ版以上にいい加減でやさぐれた人物として描かれている。いなくなった妹を心配する描写も少なく、変化した二人をかなりあっさりと受け入れている。それは性格が悪いというよりも、どこか人格が欠落した人間かのような印象を覚える。実は過去設定にも大きな違いがあり、それはアニメ版より何倍もハードなので、そういった事情があるなら納得できなくもない。一方、アニメ版の尋は、一言で言うと「善人の振りをしたダメ人間」である。椒子との確執で堕落したというより、元々こういう人間なんだろうなと想像できる。もっと分かり易く言うと、見た目通りの典型的なエロゲー主人公である。そんな彼を放っておいて、子供らしい率直な感性を持った網野が大活躍するのだから、いやはや皮肉めいていて面白い。もちろん、誰に対しての皮肉なのかは言うまでもない。

・総論


 上には書かなかったが、何よりキャラクターがいい。見た目は妖艶な大人だけど中身は純粋無垢な小学生、見た目は幼い子供だけど中身は素直になれないダメな大人という二人の組み合わせがいい。エロくていい。以上、身も蓋もない斜め上な結論になってしまったが、個人的に高評価。

星:☆☆☆☆☆☆☆☆(8個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 19:54 |  ☆☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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