『少女たちは荒野を目指す』

商業主義批判。

公式サイト
少女たちは荒野を目指す - Wikipedia
少女たちは荒野を目指すとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2016年。みなとそふと制作の美少女ゲーム『少女たちは荒野を目指す』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は佐藤卓哉。アニメーション制作はproject No.9。高校生の男女六人が美少女ゲームを制作する学園青春ドラマ。経緯がややこしいので一から説明するが、人気シナリオライターのタカヒロが提唱した「タカヒロIVプロジェクト」において、『結城友奈は勇者である』等と共に企画された内の一作。ただし、メインシナリオはタカヒロではなく、『CROSS†CHANNEL』や『人類は衰退しました』でお馴染みの田中ロミオ。ゲームのテレビアニメ化という表記をしているが、体験版が事前に出ただけで、実際に先んじて発表されたのはアニメ版の方である。

・第一話


 主人公は高校二年生の男子生徒。両親は不在がちで都内のマンションに一人暮らしをしている。そのため、日々、ラーメン屋のバイトで汗を流している。彼は基本的にコミュニケーション能力が高く、誰に対しても優しくて面倒見が良いので、クラスでも町内でも人気者である。いつも二人の幼馴染みと一緒に楽しい時間を過ごしており、現状に対して特に不満がない代わりに、これと言ってやりたいこともなく、将来の進路に悩んでいる。そんなある日のこと、演劇部による舞台劇の脚本を手がけたことで、クラスメイトの女の子に興味を持たれ、デートに誘われる。心穏やかではない主人公だったが、そこで驚きの真実を知る。彼女は美少女ゲーム制作を目的として設立された「マーケティング研究会」唯一の部員であり、演劇の脚本に隠れた才能を発揮した主人公をシナリオライターとしてスカウトしようと思っていたのだ。彼女は言う。「この世界は荒野よ。純粋なだけでは食い物にされる。ただ好きなだけでやっても生き残れない。野望を胸に燃やす者のみが、この過酷な荒野で夢に挑むことができる」と。
 はぁ、そうですか……。劇中での美少女ゲーム作りは、2006年の『N・H・Kにようこそ!』がすでにやっているし、直近では2015年の『冴えない彼女の育てかた』が人気だ。広義のオタク文化で言うなら、2007年の『げんしけん2』では同人誌を作っているし、2009年の『涼宮ハルヒの憂鬱』では映画を作っている。いずれも物作りを通して、少年少女の友情と恋愛模様を描いている。それでは、後発である本作に先人と対抗できるだけの際立った特徴があるかと言うと、残念ながら何の新鮮味もない。しいて違いを挙げるなら、ハルヒを除く前三作品の主体が主人公側にあるのに対して、本作はヒロイン側に主体があって、主人公はただ巻き込まれただけである点だ。もちろん、そんな物は長所でも何でもないので、紛うことなき劣化コピーである。
 なお、彼らが作ろうとしているのは、明らかに十八禁美少女ゲーム(エロゲー)であるはずだが、劇中ではエロゲーのエの字も出てこない。もちろん、高校生が部活で商用エロゲーを制作したら大問題なので、そこは上手くぼかしていると好意的に解釈しよう。個人的には、初めての艶演技に恥ずかしがる幼馴染み(CV花澤香菜)のシーンがあるかと期待したので残念だ。

・第二話


 上記の通り、第一話はそこそこよくできた学園ドラマである。恋と友情に揺れる高校生の甘酸っぱい青春を、作画が悪いなりに丁寧に描いている。ところが第二話、本作は怒涛のように急降下して一気にクソアニメ化する。今まで深夜アニメと呼ばれる物を少なからず見てきたつもりだが、ここまでの激しいナイアガラを自分は経験したことがない。
 何がおかしいって、主人公のキャラクターが第一話とそれ以降で明らかに違うのである。いや、どう見ても別人だ。第一話では爽やかで頼りがいのある好青年だったのに、第二話では急に典型的なオタク主人公と化す。常時、妙なハイテンションで独り言をぶつぶつと呟き、一人でボケて一人でつっこむ。同人誌やメイドカフェなどのオタク文化に興味津々で、秋葉原に行くと萌えの洪水に狂喜乱舞する。この短時間で彼の身に一体何が起こったのか? さらにおかしなことに、主人公は美少女ゲーム制作の誘いに対して、何も悩むことなく、嫌な素振り一つ見せることなく易々と承諾するのである。今までオタク文化に全く触れて来なかった人間が、いきなりそんな怪しい話を持ち掛けられて、ほいほいと参加するはずがない。この手のストーリーは、美少女ゲームに興味のなかった人間が、ゲーム制作を通じて徐々にのめり込んでいくから面白いのではないのか。一応、終盤の回で、主人公は「ずっとやりたいことが見つからなかったけど、ゲーム制作に探している何かがあるかもしれないと思った」と誘いを受けた理由を説明するのだが、後から当時の感情を台詞で補足することに何の意味があるというのか。
 その後、なぜか主人公主導でメンバー探しを行うことになり、本作は巻き込まれ型主人公の枠を飛び越えて、「操り人形型主人公」という新ジャンルを打ち立てる。その結果、あっと言う間に計六人のメンバーがマーケティング研究会に集結する。もっとも、その内の半分は自分から参加を申し出るというお手軽ストーリーだ。最後の一人、原画家だけは主人公がネットなどを駆使して自力で探し当てたのだが、なぜか、その行程はばっさりと省略されて台詞だけで語られる。にも係わらず、ヒロインは「自分ではできなかったことを成し遂げた」と主人公の功績を褒め称える。何なんだ、この適当極まりない脚本は。とてもじゃないが、これから物作りをしようとする人間に贈るストーリーではない。それゆえ、この第二話を2016年のクソ脚本オブザイヤー候補に推薦したい。

・第三話~第九話


 第三話から美少女ゲーム制作が本格的にスタートするが、これがまぁ、温い。真夏のプールぐらい温い。たまたま集まったはずのメンバーがなぜか全員天才レベルで、まるでベテラン開発チームのようにトントン拍子に話が進む。たまにメンバー同士で衝突が発生したり、スランプから挫折を経験したりもするが、それも全て想像の範囲内であり、「荒野」と称されるほどのゲーム制作の大変さは何一つ伝わって来ない。なぜ、そう感じるかと言うと、彼らの作ろうとしているのが高校生でもできる「同人作品」ではなく、正真正銘の「商業作品」だからである。同人なら多少温くても構わないが、エロゲー黎明期でもないのに、正式な流通に乗せる商業作品がこんなに簡単に作れるわけがない。さらに、彼らは謎の資金力によって、背景や音楽や音響(声優・音響監督・スタジオ)に本職のプロを起用する。お金がないから高校生をタダ働きさせているのではなかったのか? 高校生だけで作るから価値があるのではないのか? これほど単純で、ここまで破綻した設定も珍しい。
 また、このパートの内容自体は、典型的なエロゲースキームを用いたハーレムアニメである。複数のヒロインがそれぞれ別個の困難にぶつかって悩み苦しみ、主人公が彼女達の傷を癒す。その結果、ヒロイン全員が主人公に恋をするが、なぜか本人はそれに気付かないといういつものアレだ。彼女達は困難から立ち直る際に感情を露わにするので、感動しないというと嘘になるが、あまりにもワンパターン過ぎてつまらない。ところが、第七話において、主人公が非常に気になることを口走る。美少女ゲーム制作に必要なのは己の願望を表現することだと言われた主人公は、じっくりと考えた結果、自分の願望は「自分を肯定して欲しい。好きになって欲しい」ことだと気付く。いや、それ、絶対に言っちゃダメな奴だから。確かに、「愛するよりも愛されたい」は美少女ゲームの根幹を成す思想である。何の取り柄もないはずの冴えない主人公が、なぜか周囲の女性にもてまくる。本作はそういった美少女ゲーム特有のお約束をアニメで再現した物である。が、仮にも男性視点の恋愛ドラマを描こうとしている以上、たとえ、それが建前であっても「愛されるよりも愛したい」を表明すべきではないか。何だか、知りたくもない手品の種明かしをされているようで、あまり気分が良い物ではない。

・第十話~第十二話


 第十話。同日に体験版をリリースしたライバル会社との間でトラブルが発生し、製品版の売り上げ本数で勝負をすることになる。え、売り上げ本数? マジかよ。アンケートや評判などの内容で勝負するのではなく、純然たる売り上げで争うということは、金こそが正義の商業主義を肯定するということである。しかも、この勝負、圧倒的に主人公側に分がある。なぜなら、彼らが作っているのは、ユーザーのニーズに直結したロープライスの恋愛ゲームであるのに対し、ライバル会社が作っているのは、作品としてのクオリティを重視したシリアスなノベルゲームだからだ。客に媚びた製品が売れるのは当たり前。そんな出来レースに勝ってどうしようというのか。
 数日後、ヒロインが美少女ゲーム制作に着手したのは、実は兄の借金を返済するためだったという衝撃的な事実も軽くスルーされ、ついに製品版が発売される。すると、一万本売れるとヒットとされる美少女ゲーム業界において、何と九千本も売り上げてセールスランキング2位に躍り出る。そして、無事に売り上げ勝負にも勝利し、これからもビジネスとしてゲームを作って行こうと誓い合って終幕する……何このクソアニメ。普通は勝負に負けて、「やはり売り上げ重視はダメだ。自分達が本当に作りたい物を作ろう」と考えを改める物だろう。それまで散々「金に汚いヒロイン」という伏線を張ってきたのは何だったのか。とまぁ、ここまで書けば誰でも気付くと思うが、おそらく、これらは全て意図的な物だ。美少女ゲーム業界に蔓延する商業主義を強調するために、わざとこういったある種の「バッドエンド」で締めくくったのだろう。そうでなければ、本作はクソアニメというレベルではない。ただのネガティブキャンペーンだ。
 結局のところ、本作はオタクビジネスを「荒野」と称することで、商業主義に毒された業界全体を皮肉った作品である。そのために、あえてゲーム制作を高校生でもできる温い遊びとして描き、売り上げ至上主義を小馬鹿にしている。それは分かる。だが、訴えたいことがあるなら、そんな回りくどい皮肉など使わず、正々堂々、真正面から問題点を批判すればいいのだ。意図的に作られたクソアニメはやはりクソアニメである。そんな物を世に出すのは、視聴者に対して非常に失礼な行為であり、自分で自分の首を絞めるだけである。

・総論


 果てしなく時間の無駄だった。

星:★★★★★★★(-7個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:43 |  ★★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』

不快。

公式サイト
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 - Wikipedia
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。渡航著のライトノベル『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は吉村愛。アニメーション制作はブレインズ・ベース。友達が一人もいない「ぼっち」の男子高校生が、ヒロイン達との交流を通じて成長していく様を描いた青春ラブコメ。略称は「俺ガイル」。やはり「俺」の青春ラブコメはまち「が」って「いる」。「俺ハマチ」じゃダメなのか?

・主人公


 本作の主人公は男子高校生。ネガティブな性格の持ち主で、常に世の中を斜めに見ながら不平不満を口にしている。青春を謳歌しているクラスメイトに対して羨望と侮蔑の感情を同時に持ちつつ、孤高を貫いている。恋人はおろか友達すら一人もおらず、異性とは二年以上話していない。精神発達が未熟で、日常的にネットスラングを連発する。教師にすら「死んだ魚の目をしている」と馬鹿にされる。これらの設定から察するに、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(以下、ワタモテ)の主人公と似たようなタイプのキャラクターなのだろう。だが、実際に映像を見てみると、両者にはかなりの違いがある。ワタモテの主人公が、コミュケーション能力に難があって人前ではしゃべることすらできなかったのに対し、本作の主人公は教師に対して面前で暴言を吐くなど、能力はあるのにそれを正しく使わない。過去のトラウマこそ大量にあるが、肉体・精神に何らかのコンプレックスを持っているということもなく、ただ自らの意志で他人との間に壁を作っている。要するに、彼はひたすら単純に「性格が悪い」のである。性格が悪いから友達もいない。実に分かり易い。完全に自業自得であり、ここまで同情も共感もできない主人公は珍しい。ただし、こういう性格だから友達がいないのか、友達がいないからこういう性格になったのかは、劇中の描写からは読み取れない。おそらく、卵が先か鶏が先かなのだろうが、視聴者側がそこまで気を遣う必要があるのかと考えると馬鹿らしくなる。
 何にしろ、本作は青春ドラマである以上、主人公の抱える悩みや問題が最終的に解決されれば、それで物語が成立する。だが、その肝心要の彼の悩みが、第一話の段階ではさっぱり見えてこない。本心は別にして、彼は独りぼっちであることを苦にしていないどころか、むしろ誇りに思っている。現状に満足しているため、物語の目標が全く見えない。それはゴールの分からないマラソンを延々と続けるような物だ。ワタモテの主人公が何とか現状を打破しようと失敗を繰り返しながらも一生懸命に頑張っていて、それが彼女の人間的魅力を生んでいるのに比べると、延々と悪態を吐いているだけの本作の主人公の魅力の無さは致命的である。今のままではただの「嫌な奴」であり、そんな人間が将来どうなろうと知ったことではない。それゆえ、正直なところ、この作品には全く興味が湧かない。

・ストーリー


 まぁ、そんなことを言っていると話が進まないので簡単にストーリーを紹介するが、クラスで孤立していた主人公は、見かねた生活指導担当教師から「奉仕部」への入部を薦められる。そこは部員がヒロイン一人だけしかいない潰れかけの部活だった。嫌々ながらも入部することになった主人公は、ヒロインと一緒にボランティア活動に精を出す。こう書くと、典型的なライトノベル原作学園アニメの第一話である。しかし、残念なことに、本作はその典型的な流れすら作れていない。主人公は教師に半ば命令される形で奉仕部に入部するのだが、いつでも辞められる立場でありながら、なぜか毎日そこへ通い続ける。口では嫌だ嫌だと言っているにも関わらずだ。本作はその辺りの心理描写が極めて杜撰で適当である。それ以外にも、なぜ主人公とヒロインが勝負するのかや他の部員が奉仕部に入る理由など分からないことだらけ。青春ドラマになくてはならない気持ちや感情の変化といった物が全く描かれない。最低でも、主人公がヒロインに対して何らかの興味を持ったことだけは、明確なビジュアルにしなければならなかっただろう。
 上記を踏まえて、本作の特徴にして最大の欠点は、映画的なダイナミズムやポップセンスといった物が徹底的に省かれていることである。例えば、第三話では、クラスのリア充グループとテニスで対決するという展開が発生する。ヒエラルキー下位の人間が上位の人間に立ち向かうのだから、これはもう世の中がひっくり返るような重大事件のはずだ。だが、このエピソードは全く盛り上がらない。正確に言うと「盛り上げない」。娯楽作品として当然あるべき誇張や外連味のある演出が何もなく、ただただ淡々と事態が進み、淡々と事態が終結する。その場に正義も悪も存在しないため、何のために対決するのかすらよく分からない。また、第五話では、部員の一人が過去の主人公の交通事故に係っていたというストーリー上の重要情報を、主人公の妹がさらりと口にする。なぜ、このタイミングで? 部員の正体に気付いた妹が恨みを募らせる等、もう少し話の盛り上げ様があるのではないだろうか。
 結局、何が言いたいかと言うと、本作は全てにおいて「日記」的なのである。その日に起こったことを順番に並べて報告しているだけで、何一つ物語になっていない。それを「人間のありのままを描いたネオリアリズムだ!」と主張するのは勝手だが、恐ろしく退屈でつまらないのは否定できない。孤高を望む嫌味な少年という最もヒーローから遠い人間をどうヒーロー的に描くか、この難問に全力で立ち向かうことを放棄した作品が面白くなるはずがないのだ。ネットスラングを声に出したら面白くなると思ったら大間違いだし、心の底から寒い。

・やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。


 改めて、よく意味が分からないタイトルである。これが『やはり俺の人生はまちがっている。』なら理解できる。もしくは、『やはり俺の恋はまちがっている。』でも少し日本語はおかしいが理解できないことはない。だが、本作は対象を「青春ラブコメ」と限定しているせいで実に珍妙なことになってしまっている。ラブコメとは「複数人の恋愛を面白おかしく描いた喜劇」のことである。悪い意味ではないが、真剣に恋愛を描いた純愛ドラマとは正反対に位置する。すなわち、この主人公は自分の恋愛を面白い喜劇だと称した上で、予想通りセオリーから外れていると冷笑しているのである。何なのだろうか、この神の如き上から目線は。恋愛は一人ではできない。かならず相手が必要だ。つまり、自分の恋愛を馬鹿にするということは、その相手も含めて馬鹿にするということである。失礼甚だしい。深夜アニメの歴史はもう二十年以上に及ぶが、ここまで性格の悪い主人公も珍しい。
 さて、実際のところはどうなっているかと言うと、男女の恋愛感情のズレが笑いを生むという分かり易いラブコメ要素が顔を出すのは、物語終盤の第九話からである。それまではラブコメですらないのだから、タイトル詐欺に当たる。もっとも、ヒロイン達はそれ以前から主人公に対して時折、好意的な素振りを見せているので、広義ではラブコメと言えなくもない。だが、その理由はさっぱり分からない。同じ境遇の相手に共感したから、困っている時に助けてくれたから、共依存だから、といろいろ強引に解釈できなくもないが、その相手は自他共に認める腐った性格の主人公である。萌えアニメにありがちな「なぜ、主人公がモテるのか分からない」の究極系と言っていい。
 そもそも、この世界の住民は優し過ぎる。あからさまに他人を拒絶している主人公の周りに勝手に集まって、勝手にストーリーを進めてくれる。これだけ悪行を振り撒いているのに、物理的に攻撃する人間が一人もいない。本当なら今頃は病院送りになっていてもおかしくないはずだ。自分が安全な場所にいて、どんなに無茶苦茶やっても傷付かないと分かっているから、ますます付け上がるのである。それでは、彼が嫌いなリア充の人間と何も変わらない。結局、主人公もラブコメ世界の住人に過ぎないというわけで、そんな彼が青春ラブコメを小馬鹿にしている様は滑稽である。どうせ数年後には、彼も社会に出て本物の現実と直面するのだから、その時の彼の態度は見ものである。

・ぼっち


 人がなぜ「ぼっち」になるのかは様々な原因があるだろう。だが、本作の主人公やヒロインがそうなった理由は明白である。それは「他人を見下しているから」だ。彼らは強烈な自己愛の持ち主である。「ぼっちの気持ちはぼっちにしか分からない」など自分が特別な存在であると思っている。それゆえ、自分の価値を下げる可能性がある他人には興味を持たず、壁を作って自ら孤立する。ワタモテを始めとして、『ローゼンメイデン』『N・H・Kにようこそ!』『四畳半神話大系』といった同種の主人公を抱えるアニメでは、そういった負の感情をギャグとして昇華していたが、本作は生のまま垂れ流すので堪らない。それこそ、自分の日記帳にでも書いていろと言わざるを得ない。
 そんな主人公が初めて他人に興味を持つのも、やはり第九話である。過去の交通事故に係っているのを隠していたヒロインが自責の念から元気をなくし、その様子を見た主人公が初めて自らを省みる。それを機に様々な変化が訪れる。その後、文化祭実行委員の活動を通じ、実行委員長やヒロインの姉といった分かり易い「悪役」が登場したことで、主人公側にもようやく正義が生まれる。絆や助け合いを強要する彼らに対し、それは誰かの犠牲の上に成り立っているに過ぎないと看破する主人公。しかし、主人公自身がヒロインに興味を持ち始めたことで、その主張に自己矛盾を起こす。はっきり言って、彼の心理は無茶苦茶なのだが、これまで完全に思考が凝り固まっていたことを思えば、矛盾が生じただけでも確かな成長の証である。後は主人公がその矛盾に気付いて、自分の中でどう折り合いを付けるかという話だ。
 このように、終盤の展開自体は決して悪くない。青春ドラマらしい感情の変化がしっかりと描かれ、主人公がヒーロー的な活躍をする。もし、第一話の時点で主人公がヒロインに対して興味を持ち、自己矛盾に葛藤していれば、本作は比べ物にならないぐらいまともな作品になっていただろう。だが、全ては遅きに失した。現実的に第一話~第八話という果てしなく長い無駄な時間がある以上、本作を評価することはできない。それはもちろん、青春ラブコメとしてではなく、映像作品としてである。つまり、本作が名乗るべき正しいタイトルは『やはりこの作品はまちがっている。』である。

・総論


 つまらなかった。読むのが苦痛ですらあったわ。想像を絶するつまらなさ。(原文ママ)

星:★★★★★★★(-7個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:04 |  ★★★★★★★ |   |   |  page top ↑
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