『ガーリッシュナンバー』

ごちゃごちゃ。

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ガーリッシュ ナンバーとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2016年。オリジナルテレビアニメ作品。全十二話。監督は井畑翔太。アニメーション制作はディオメディア。新人女性声優が様々な人々との交流を通じて成長していく様を描いた青春ドラマ。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の著者である渡航が原作・シリーズ構成を務めている。

・主人公


 本作の最大の特徴にして最大の欠点は、新人女性声優である主人公のキャラクターが、全く「一つに定まらない」ことである。それがどういうことかを分かり易く示すために、主人公の人格を表す「単語」をできる限り列挙してみよう。わがまま、やさぐれ、天真爛漫、純粋、礼儀知らず、お調子者、グータラ、適当、エリート、腹黒、毒舌、自意識過剰、自己中心的、自信家、野心家、クズ、無責任、被害妄想、傲慢、くそ度胸、機転が利く、打たれ弱い、天才肌、ムードメイカー。これらは全て劇中で彼女が取った行動から切り抜いた言葉群である。本作をまだ視聴していない人がこの文字列を見ると、その一貫性のなさに驚くだろう。例えば、天真爛漫と腹黒は相反する言葉だし、やさぐれと野心家は矛盾した概念である。また、一言で「毒舌」と言っても、それを実際に口に出すのと心の中で思うのとでは大きく異なる。前者は気持ちをそのまま外に出してしまう裏表のない素直な性格であるのに対し、後者は気持ちを押し殺して何も考えていない振りをしている狡猾な性格である。普通、両者は明確に区別されるが、なぜか本作の主人公は二つを同時に内包しており、狡猾でありながら素直という訳の分からない状態になっている。もちろん、少しぐらいの自己矛盾なら奥深い深層心理として処理できるが、ここまで無茶苦茶だともう手の施しようがない。実際、回によって、場面によって主人公の性格はコロコロ変化する。まるで多重人格者か何かのように。おそらく、原作者の頭の中にあるのは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の主人公のようなアウトサイダーのイメージなのだろうが、それではネガティブな物語になってしまうため、そこにおだてられるとすぐ調子に乗って突っ走る暴走いじられキャラ的な要素を足してみた結果、両者が全く混じり合うことなくそのまま沈殿したといったところなのだろう。何のことはない、ただの設定の練り込み不足であって、それ以上でもそれ以下でもない。
 これで中の人(演じ手)に相応の腕があれば、掴みどころのない不思議な女性としてキャラ立ちできたかもしれないが、残念ながら主人公を演じているのは本作が初主演の新人声優である。例によって新人声優役を新人声優が演じるのは愚の骨頂、申し訳ないが、評価に値しないレベルで下手である。地声と演技の声の演じ分けができておらず、「下手な演技」がただの棒読みだったり、心の声がどう聴いても別人だったりする。その結果、不確かな人格にますます拍車がかかってしまっている。他の萌えアニメと違って、声優の演技力が足りなければそもそも作品として成立しないジャンルなのだから、もう少し製作側が配慮すべきだったのではないだろうか。

・ストーリー前半


 本作のストーリーの導入部は、前回紹介した『それが声優!』と全く同じである。すなわち、「養成所を出たばかりの新人女性声優が、初めての現場で出会った声優仲間と共に厳しい声優業界に立ち向かう」という物語である。ただし、『それが声優!』のストーリーが一行で表せるぐらいシンプルだったのに対して、本作はとてもじゃないがそんな高度な芸当はできない。それは量が多くて複雑だから一行では無理という意味ではなく、そもそもどう頑張っても一つの文章にならないのである。
 本作の作品テーマは簡単だ。「商業主義に毒されて低質化したアニメ業界を批判する」である。また、ストーリーテーマも簡単だ。「無気力な新人女性声優の人間的な成長を描く」である。だが、この二つのテーマを一つにまとめようと思った時、制作者はかつてない困難に襲われることになる。まぁ、冷静に考えると当たり前で、一方がマイナス方向、もう一方がプラス方向へのベクトルなのだから上手く噛み合うはずがない。だが、よせばいいのに無駄な足掻きを続けた結果、とにかくキャラクターを増やせるだけ増やして、それぞれにエピソードを詰め込むことにより、何とか作品としての体を保とうとした。その歪みが最も顕著に表れているのが主人公であり、上記のような多重人格化もストーリーが一つに定まっていないことが主な原因だ。
 こうして、試行錯誤の上で出来上がった本作のプロットは「もしも、新人声優が初めて主役を掴んだ作品がクソアニメだったら」である。なるほど、それはそれで面白くなりそうな気配はする。が、そのIFは全くシミュレーションされずに話だけが進み、第六話辺りで特に何も起こらないままクソアニメにまつわる騒動は終結してしまう。なぜ、そうなるかと言うと、肝心の主人公が何もしないからだ。グータラで自己中心的と設定付けられてしまった主人公は、初主演作のクソアニメ化に対しても特別な感情を抱かない。当然、人間的な成長など望むべくもなく、静かにフェードアウトする。要するに、本作は作品作りに完全に失敗しているのである。いっそのこと、「夢にまで見たアニメ業界が想像以上に腐っていたので主人公がやさぐれた」として、皆で力を合わせてクソアニメを改善する物語にした方が、業界批判に成長要素を上手く絡めることができただろうが、全ては後の祭りである。商業作品でここまで設定が破綻した作品はなかなかお目にかかれない。ある意味、貴重品だ。

・ストーリー後半


 中盤でストーリーが崩壊した本作は、一度、他の登場人物にフォーカスを移した後、第九話で再び主人公に戻ってくる。とは言え、事前に用意していた設定はすでに使い果たしているので、感動のエンディングへ向けてかなり強引な手法を投入している。それは主人公に過大な試練を与えることである。それも取って付けたように。優秀な後輩が登場して嫉妬する。依存していたマネージャーが交代する。大好きな兄に突き放される。そういった分かり易過ぎる障害を与え続けた結果、主人公は人が変わったようにひどく落ち込み、家に閉じ籠もる。そして、自分を卑下し「なりたい自分になれてたら、こんな自分になってない」と嘆く……これは何人目の人格だ? 一体全体、どこからそんな思想が出てきたのかさっぱり分からない。
 そんな主人公に対して、周囲の人々は驚くべき行動を取る。何と口々に彼女を称賛するのである。それもかなりやけくそ気味に。「凄く頑張ってる」「実力はある」「何するか分からないから面白い」「バカほど化ける可能性がある」「キャラクターと一緒に成長している」「舞台上で元気」「性格が役者向き」等々。だが、どう贔屓目に見ても、彼女は他人に褒められるようなことを何もしていない。演技は下手だし、やる気もない。大してリーダーシップもないし、ムードメイカーでもない。もしも、このストーリーを成立させようと思ったら、主人公は演技力は天才的だが、メンタルの弱さにより実力を発揮できていなかったとしなければならないだろう。結局のところ、昨今のオタク文化に蔓延する、主人公=視聴者をとことんまで甘やかし、凄い凄いと褒め称えることで自己承認欲求を満たすといういつもの流れだ。ただ、本作はその過程があまりにもいい加減なので、さらに違和感が大きくなってしまっている。
 最終回、挫折から立ち直った主人公はアフレコに遅刻しそうになり、走ってスタジオへ向かう。この「遅刻しそうになって走る」は、『けいおん!』の最終回でも使われているように、青春ドラマのラストシーンの定番である。決して悪いことではないが、第九話以降の強引な展開を見る限り、どうしても収拾が付かなくなったからテンプレートに頼ったとしか思えない。しかも、本作はその「遅刻しそうになって走る」を最終回で二度も繰り返す。脚本家の高尚な考えなど凡人には計り知れないが、もう少しアイデアを練る必要があったのではないだろうか。

・演劇論


 さて、これまで本作の短所を見てきたが、一方の長所はどうだろう。実は、主人公が絡んでいるメインストーリーの部分以外はなかなか良くできている。特に、ストーリー前半の金儲けしか考えていないインチキプロデューサーによってクソアニメが生まれる過程は面白い。様々な役割の人々が協力して一つの物を作り上げる様が楽しいのと同じぐらい、様々な役割の人々が足を引っ張り合って大失敗する様も楽しい。ただ、プロデューサーや原作者の成長要素は正直不要だ。何でもかんでも詰め込めばいいという物ではない。
 また、主人公の声優仲間である柴崎万葉と苑生百花の対立も興味深い。前者は役者志向が強く、父親の反対を押し切って上京し俳優の道を志したが、縁あって今は嫌々ながらアイドル声優を務めている。一方、後者は両親共にアニメ関係者というサラブレッドで、声優の仕事は大好きだが親の七光りのように扱われている現状に不満を抱いている。二人共、芝居に対する情熱は同じながら、何を持って幸福とするかの価値観の違いにより対立する。それは「出演した作品がクソアニメだった」という残酷な現実の前でより表面化する。そこで二人はそれぞれ、演技とは何か、声優とは何かという問いの答えを探すために、自分の最大の理解者であり己の鏡である両親と会う。残念ながら、尺の都合上、両親と仲直りしたところで一連のエピソードは終わってしまうのだが、この話をもっと続けていたら、本作は独自の演劇論に辿り着くことができていただろう。では、なぜ尺が足りないのかと言うと、それはもちろん設定すら定まっていないダメ主人公に余計な時間を割いているからに他ならない。最初からこの二人をメインにし、主人公を悪い見本としてトリックスター的に扱っていたら、本作は誰もが認める良作になったはずだ。
 ここでもう一度『それが声優!』の項目を思い返して欲しいが、一行でストーリーを表せるということは、それだけ中心の軸がしっかりしているということである。一方、本作は中身がごちゃごちゃで中心軸が存在しないため、一行でストーリーを表せない。それはつまり作品としての体を成していないということだ。結局、本作は劇中で散々馬鹿にしたラノベ原作クソアニメと大して変わりないのである。どんなに作画が良くても、中心軸のないアニメは決して良作にはならない。劇中でキャラクターが「結局、これ、何がやりたいお話だったのかしら」と言うように。

・総論


 ひたすら単純に作劇のセンスがない。もっとまともな人、それこそ『それが声優!』のスタッフが作っていたら、本作は何倍も面白くなっただろう。

星:★★★★(-4個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:51 |  ★★★★ |   |   |  page top ↑

『艦隊これくしょん -艦これ-』

奇作。

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艦隊これくしょん -艦これ- - Wikipedia
艦隊これくしょん -艦これ-(アニメ)とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2015年。角川ゲームス開発、DMM.com運営のブラウザゲーム『艦隊これくしょん -艦これ-』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は草川啓造。アニメーション制作はディオメディア。「艦娘(かんむす)」と呼ばれる擬人化軍艦が世界を守るために戦うSF戦争ドラマ。原作は登録アカウント数三百万を誇る化け物ゲーム。2016年秋に劇場版が公開予定。

・擬人化


 まず、原作であるブラウザゲーム『艦隊これくしょん -艦これ-』を簡単に紹介しよう。このゲームは、旧日本海軍の軍艦を建造して艦隊を編成し、世界に仇なす謎の軍隊と戦う戦略シミュレーションゲームである。最大の特徴は、その軍艦が可愛らしい女の子に擬人化されていること。彼女達は「艦娘」と呼ばれ、明確なストーリーこそないが、戦いを通じて少しずつ成長し、最後には強力な艦船に進化するといったRPG要素も兼ね備えている。ただ、この程度なら他社のゲームでもよく見られる仕様だ。では、なぜ、本作は並みいる強敵を押し退けてまで歴史に名を残すような人気ゲームになれたのだろうか。一般的には、同種の作品に比べて課金システムが良心的であることや、バトルシステムが綿密に作り込まれていることなどが理由として挙げられている。特に、後者は常に「基本無料のブラウザゲームとは思えない」が枕詞として付いて回る。それが真実の評価なのかどうかの判断は別に譲るとして、このゲームの売りが個性的な艦娘達による戦略性の高いバトルにあることは間違いないだろう。
 さて、それでは、そのテレビアニメ化作品である本作はどうだろうか。まず、視聴して最初に目に付くのは、直立不動のまま隊列を組んで海上をホバー走行する艦娘達の姿である。ちょ待てよ。いや、幾ら何でもそれはどうなのか。確かに擬人化した軍艦をそのままビジュアル化しようと思ったら、そうするより他に仕方ないのだろうが、見た目は明らかに変である。彼女達の姿から、全長数百メートル、排水量数万トンの巨大な軍艦をイメージすることは、どんなに想像力の豊かな人間でも不可能だ。逆にゲームユーザー側から見ても、自分達が長年プレイして漠然と想像していたゲーム版のバトルのイメージと、アニメ版のバトルのビジュアルとの間に言い様のないギャップを覚えるだろう。当然だ。なぜなら、ゲーム版で行われているバトルは、あくまで巨大な軍艦同士の「艦隊戦」なのだから。一方、アニメ版で行われているのは、武装した生身の兵士が戦艦に立ち向かう「歩兵戦」である。もう、比べること自体が間違っている。
 結局、これは「擬人化とは何か?」という根底的な疑問に帰着する。勘違いしている人も多いが、全長160メートルの軍艦を擬人化したら、身長160センチの少女になるわけではない。擬人化しても全長160メートルのままである。だからと言って、身長160メートルではない。禅問答みたいになってしまい恐縮だが、要するに擬人化とは対象が持っている抽象的なイメージを具体化した物であって、現実の物体に顕現化した物ではないということだ。前にも書いたが、猫を擬人化した人間が家で猫を飼っていたらおかしいだろう。そういう意味では、軍艦その物ではなく軍艦の人工知能を擬人化した『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』は実に上手い。これこそまさに理想の擬人化だ、と他のアニメの当て馬になるようではお終いである。

・戦争


 では、本作の設定を紹介しよう。「海の底から出現する謎の艦艇群、それらを人類は深海棲艦と呼称した。駆逐艦級から超弩級大型戦艦まで多彩を極める深海棲艦の攻撃によって、人類は制海権を喪失。その脅威に対抗できるただ一つの存在、それが在りし日の戦船の魂を持つ娘達、艦娘である。艤装と呼ばれる武器を装着し、生まれながらにして深海棲艦と互角に戦う能力を持つ彼女達、その活躍により制海権奪還に向けた反抗作戦が開始されようとしていた」といったことが、冒頭のナレーションで語られる。残念ながら、皆さんにお伝えできる情報はこれが全てである。これ以上の設定は劇中では何も語られない。いつの時代かも分からないし、どこを舞台にしているのかも分からない。敵の正体も分からなければ、何のために人類を襲うのかも分からない。艦娘が作られることになった経緯も分からないし、どうやって作られるのかも分からないし、なぜ艦娘と呼ばれるようになったのかも分からない。何より「艦娘とは何なのか?」という最大の疑問に答えてくれる人は誰もいない。彼女達は機械なのか人間なのか、その差異はストーリーの行く末を大きく左右するが、それすらも分からない。
 もっとも、これらの設定は原作ゲームでも謎のままなので、アニメ版だけ先走って種明かしをすることはできないし、する義理もなかろう。ただ、フィクションにリアリティを求める必要はなくとも、その実在感・生活感といった物は絶対に必要だ。摩訶不思議な物が現実に存在しても違和感を覚えさせない確かな説得力、それが本作には圧倒的に欠けている。その一番分かり易い例として、劇中に艦娘以外の普通の人間が全くと言っていいほど出て来ないことが挙げられる。甘味処の主人と整備兵だけが人間なのではないかと推測される程度(もしかしたら、彼女達も艦娘なのかもしれない)で、当たり前のように全員が女性である。もちろん、学園物なら別にそれでもいい。だが、本作のジャンルは「戦争物」なのである。謎の軍隊が人類を襲う。それなら、襲われる側の人類を詳細に描かなければ何の意味もない。戦争の目的は「誰を倒すか」ではなく「誰を守るか」である。深海棲艦によって被害を受ける街や人々を丹念に描き、艦娘がそれを守らなければならない必然性、すなわち彼女達が存在する必要性を描写する。そうして初めてフィクショナルな艦娘が我々と同じ大地に足を付ける。それがなければ、武装して水上をホバー走行する美少女などただのジョークだ。そんなジョークキャラが戦いで大破しようが轟沈しようがどうでもいい話なのである。

・提督


 さて、上には劇中に普通の人間が出て来ないと書いたが、実は一人だけ、間違いなく普通の人間だと断定できる人物が登場する。人外の女性しかいない謎空間に唯一存在する男、それが「提督」である。彼はその名の通り軍の司令官であり、艦娘達の上官である。軍の組織図がさっぱり分からないので断定できないが、どうやら艦娘達が配属された鎮守府の中で一番偉い人のようだ。ただ、登場すると言っても姿は見せない。本人はカメラの画角の外に隠れ、影だけが映り込む。当然、台詞もなければ艦娘達との会話もなく、彼がどのような人物なのかは全く分からない。
 皆まで言う必要はないと思うが、提督=ゲームプレイヤーである。本来はモニターの向こうにいて、この世界その物を操作している人間が、ある意味ゲスト的にアニメ内に登場する。これをメタフィクション構造だと言ってしまうと、本作はゲーム内世界の物語ということになってしまい、いろいろと齟齬が発生するため、単なるファンサービスだということにしておいた方が無難だろう。つまり、プレイヤーを具現化することで、可愛らしい艦娘達が熱を上げているのは、他の誰でもない貴方なのですよと示しているわけだ。言わば、本作自体が彼らのための壮大なハーレム空間なのである。
 ただし、それはあくまでゲームプレイヤーからの観点であって、ゲームに関係のない一般のアニメ視聴者から見た場合、大変なことになる。この姿なき提督は、その名に反して提督らしい行動は何もしない。作戦の立案も指揮も全て艦娘自身が行う。提督は大まかな戦略を練り、後は自室に閉じ籠もって悠々自適に過ごすだけ。傷付いた艦娘達の心のケアをすることもほとんどない。普通の作品なら、この手の人間はほぼ間違いなく黒幕である。ところが、艦娘達はそんな提督をまるで実の父親のように慕っている。中には恋愛感情のような物を抱いている人もいる。それは非常に奇怪な光景だ。これが創造主とその創作物という関係なら分からないでもないのだが、前述の通り、艦娘達は人間なのか機械なのかも判別できない。そのため、理由もなく上官を恋慕しているようにしか見えず、蚊帳の外である視聴者には不快感しか残らない。
 さらに言うと、本作は戦争物であり、舞台は軍隊である。艦娘達は世界を守るために命を懸けて大海原へ出撃する。実際、戦いの最中に命を落とす者もいる。なのに、それを命令する立場の最高責任者が、カメラの影に隠れて姿を現さないというのは人としてどうなのか。そんな人間を盲目的に信仰しているなら、それは紛れもないファシズムである。他の作品で当たり前のように行われている人と道具の絆というテーマを排除すれば、ここまで気持ちの悪い物が出来上がるのだと、本作は反面教師にするには最適の作品である。

・ストーリー


 では、最後にストーリーを紹介しよう。と言っても、本作のストーリーには改まって論述するほどの価値はない。ダメダメな駆逐艦の艦娘が戦いを通じて成長し、最後には艦隊の旗艦になるという単純な話だ。彼女は典型的な主人公型熱血娘で、素敵な先輩に憧れ、困難にぶつかると特訓し、苦しいことがあると落ち込むという実に分かり易いキャラクターである。良く言うと王道だが、悪く言うと何も考えていない。なぜ、軍艦の擬人化娘がスクワットで筋力を鍛える必要があるのか。なぜ、ドックで装着するはずの艤装を自由に出したりしまったりしているのか。いくら日常描写がメインの萌えアニメでも、もう少しSF的な思考を取り入れて欲しい。本作の場合、さらにそこへゲーム特有のシステムを輸入した描写が追加され、何とも掴みどころのない訳の分からない物に仕上がっている。シュールという単語はこういう時に使う物だろう。
 第十一話。何の前触れもなく、突然新しいテーマが挿入される。艦娘達は、かつてのモデルになった旧日本海軍軍艦の記憶を受け継いでおり、その敗北の歴史は繰り返される運命にあった。深海棲艦は歴史をあるべき形に戻すために送り込まれた刺客。はたして、艦娘達は歴史の刺客を倒して残酷な運命に抗えるのだろうか、と。……はい? いきなりハードSFが始まって混乱するが、どうやらそういうことらしい。ということは、やはりこの世界は我々の住む日常の延長線上ではなく、ゲーム内世界などのメタ空間であるということだろうか。それではただの楽屋オチだと思うのだが、制作者の深い思慮など分かるはずもない。なぜなら、これらの設定は見事に投げっ放しにされるからだ。深く設定が掘り下げられることもなく、そのまま重要拠点を懸けて艦娘と深海棲艦の最終決戦が開始される。当初は劣勢だったが、行方不明だった提督が精霊会議により突如復帰し、謎の援軍が駆け付けたことで辛くも戦闘に勝利する。こうして、艦娘は自分達の運命に逆らい、それを導いた主人公は英雄になったのだ……ということらしい。たぶん。いや、何もかも曖昧で申し訳ないが、こう書く以外に方法がないのだから仕方ない。結局、軍艦の擬人化という行為に満足して、世界観を作り込むという面倒な作業を放棄したため、いざ映像化してストーリーが必要になった時に問題が露呈するのである。それはアニメーション文化に対して失礼な行為だ。ゲームプレイヤーのために想像の余地を残したいという気持ちは分かるが、それなら映像化自体をするなと言うより他にない。

・総論


 戦闘シーンはそこそこ面白いが、ただそれだけの作品。この真面目に考えれば考えるほど損をする感覚は、まさに奇作と呼ぶに相応しい。ハマる人はハマるかもね。

星:★★★★(-4個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:36 |  ★★★★ |   |   |  page top ↑
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