『エロマンガ先生』

諸悪の根源。

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エロマンガ先生 - Wikipedia
エロマンガ先生とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2017年春伏見つかさ著のライトノベル『エロマンガ先生』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は竹下良平。アニメーション制作はA-1 Pictures。高校生ライトノベル作家の主人公と中学生イラストレーターの妹が繰り広げるラブコメ。自社他社問わず、有名な漫画・アニメ・ライトノベル作品が多数実名で登場する。

・設定


 本作は、ライトノベル『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(以下、俺妹)と同じ原作者が手掛けた作品である。その内容は、俺妹の完全なる「焼き直し」であり、あらゆる点が似通っている。そして、その欠点もほぼ同一である。それゆえ、俺妹の項目を読んで頂ければ、本作の八割方は理解できるだろう。ただし、本作独自の問題点も少なからず存在するため、両者を併せて論じていきたいと思う。

 まず、本作を視聴した人全員が感じるであろう問題点は、どう考えても「設定に無理がある」だ。主人公は高校一年生の男子生徒。血の繋がらない中学一年生の妹がいる。だが、彼女は一年前の両親の再婚以来、ずっと自室に閉じ籠もっており、顔を合わせたことすらない。両親は不在(その理由はアニメ版では一切明かされない)で、生活費は主人公がライトノベルを書いて稼いでいる。そして、そのライトノベルのイラストを担当している正体不明のイラストレーター「エロマンガ先生」こそが、一年以上自室に引き籠もっている妹だったのだ!……という、知らない人が見たら絶対に信じてくれないであろう無茶苦茶なプロットが本作の設定である。この内、本作最大のギミックである「ライトノベルの文と絵を同居中の義理の兄妹が知らずに担当していた」という奇跡的な偶然は、創作における「大きな嘘」の一つなので別に問題はない。それより問題なのは、例えば、両親が不在であることや、高校生で職業ライトノベル作家であること、また、妹が一年間も自室に引き篭もっていることである。それらは主人公達の生活に直結する、言い換えると「生命に関わる」ことであり、ゆえに万人の納得できる設定が必要になる。具体的に言うと、なぜ主人公を高校一年生に、妹を中学一年生にする必要があるのかだ。本作は主人公を社会人に、妹を大学生に設定しておけば、何の支障もなく奇麗にまとまり、中学一年生の少女がエロティックなイラストを描くという異常性からも離脱することができるのである。逆に言うと、本作がやりたいのは「エロティックな女子中学生」だけであって、そんな丸出しの性欲によって人間性が犠牲になっているから、設定に無理を感じるのだ。その点は俺妹と全く同じである。

 だが、安心して欲しい。これだけ不条理な設定を抱えておきながら、本作はさほど破綻することもなく全十二話を走り終えている。なぜなら、最初の十分間で上記の設定を全て使い果たしてしまうからだ。ギャグ的に面白いのも最初の十分間だけだし、作品として成立しているのも最初の十分間だけ。ある意味、体を張った壮絶な出オチこそが本作の本質である。

・ライトノベル


 では、残りの十一話分と少し、本作は何をやっているかと言うと、主人公の職業であるライトノベルについて延々と語っている。一方、妹の職業であるイラストレーターについては、ほとんど触れられない。それなら、タイトルを『エロラノベ先生』にすべきだと思うのだが、それはライトノベル作家としてのプライドが許さないのだろうか。酷い話である。

 その内容だが、ライトノベルの素晴らしさを伝えているように見えて、実際のところはネガティブキャンペーンにしかなっていない。単行本の売り上げが全てで、より本数が出た方が偉い。完全なるキャラクター先行で、テーマも設定もストーリーも後回し。性的な描写は当たり前、エロさが売り上げに直結する。何の社会経験も恋愛経験もない中高生が、当たり前のように人気作家になっている。事前に資料集めを一切行わず、全て想像だけで書いている。イラストレーターの影響力が大きく、作家同士で人気絵師を奪い合う。身内が担当編集者になったり、作家の圧力で出版枠が変更されたりと、コネがまかり通っている。そして、極め付きは「アニメ化」に関することである。劇中の描写によると、ライトノベルにとってアニメ化されることが最終目標であり、アニメ化されることで作品に箔が付いて、その作家はより発言力を増すらしい。いや、おかしいだろう。仮にそれが事実であったとしても、ライトノベルとアニメは全く別のメディアであって、そこに上下関係はない。活字メディアの一翼としてのプライドはないのか。おそらく、作り手の中ではライトノベル業界の常識を普通に描いただけなのだろうが、第三者からするとその異常性を自ら暴露しているようにしか見えない。

 ところが、奇妙なことに、作中のライトノベル作家達は、申し合わせたように「小説を書いている」と言い張っているのである。別に、ライトノベルは小説ではないとまでは言わないが、極めて限定された読者層に向けて完全にパターン化された物語を機械的に生み出しているだけなのは、紛れもない事実である。一般小説の世界から見ると、その温さは半端ない。劇中でも、一般人に「キモオタ小説」と貶されて激怒するシーンがあるが、それぐらいライトノベルに対して誇りを持っているなら、「俺が書きたいのは小説ではなくライトノベル。ライトノベルで世界を取る」と宣言してもいいのではないか。それとも、ここでも「売り上げが全て」であり、売れているから一般小説など眼中にないということだろうか。その考えに対する感想は、「調子に乗るな、キモオタ風情が」しか出てこないのだが。

・内輪


 上記からも分かる通り、本作の最大の特徴は、主人公達の生きている世界が恐ろしく狭いことである。これは俺妹にも当てはまることだが、アニメ・ゲーム・漫画・ライトノベル・美少女イラスト・動画サイト等、自分の好きな物、自分を傷付けない物しか画面に出てこない。そうやって自分の周りに味方だけを集めて小さな輪を作り、その中だけで全てを賄おうとしている。一方、輪の中にいない者は全て「敵」であり、その敵を倒すことで自分達の正義を確かめるということを平気で行う。元来、物語とは外界へ向かうエネルギーを原動力にして動く物なのに、本作はそのエネルギーをただ今の自分を守るためだけに使っている。それでは当然、成長も発展も望めない。

 もっとも、俺妹の場合は、妹が陸上競技に打ち込んでいたり、学校外でオタク友達を作ろうと努力したりするなど、ある程度は外界と繋がろうとする意志が垣間見えた。だが、本作にはその意志さえない。妹は自分の部屋に閉じ籠もり、両親は存在すら抹消されている。第一話の冒頭を除いて学校のシーンは皆無で、上述の「敵」以外、クラスメイトは一人も出てこない。妹は主人公を拒絶しているように見えて、実は小さい頃から恋愛感情を抱いている。それは他のヒロインも同じで、主人公は特に何もしていないのに、勝手に向こうが惚れてくれる。主人公は、最初から最後まで永遠に自分の好きなライトノベルを書いているだけだ。よく、こたつの周りに必要な物を全部置いて、冬の間はずっとこたつの中で過ごす「こたつ族」と呼ばれる人がいるが、本作はそれをそのままアニメ化したような作品である。

 その主人公が書くライトノベルにしても、序盤は二十万部しか売れない三文小説という扱いだったのに、徐々に主人公の作品を褒め称える人々が登場する。しかも、成長して上手くなったというわけではなく、売れてないけど実は昔から好きだったという流れである。つまり、第一話の時点ですでに彼は勝利していたのである。この作品の存在意義は一体何なのか。さらに、終盤には俺妹のキャラクターまでもがゲスト出演して、本作の主人公の書いたライトノベルを絶賛するという暴挙に出る。自分で作ったキャラクターに自分の分身を誉めさせるという世にもおぞましい光景だ。しかも、その回の脚本を書いているのは原作者本人である。これ以上の自慰行為はない。かつて、富野由悠季監督は宮崎駿監督に対して「パンツを履いている(本心を隠している)」と批判したが、本作の作者は逆に脱ぎ過ぎて倫理的に見せてはならない部分まで見せてしまっている。それが許されているのは、ライトノベル業界特有の閉鎖性が故であることに気付かなければならない。

・家族


 第八話。突然、新たなるテーマがストーリーに割り込んでくる。主人公は、両親が離婚した時のつらかった過去を振り返り、妹に向かって「一人でいるのが怖い。だから、新しい家族ができて嬉しかった」と打ち明ける。うっわ、嘘くせー。彼は当時、小学六年生の妹に対して一目惚れし、ずっと性的な視線で眺めておきながら、「兄妹で恋愛なんてあり得ない」と妹に説教していた人間だ。言行不一致にも程がある。もし、その発言が事実ならば、ほとんど赤の他人と変わりない義理の妹を、恋人ではなく家族として認識するための多大なる苦悩と葛藤があってしかるべきではないか。また、彼は他のヒロイン達の寵愛を当たり前のように受け入れ、事実上のハーレムを形成する。妹の寂しさを理解し、自分の手で守りたいと言っている人間がやることだろうか? それなら、最初からエロス目的のエロ漫画の方が余程説得力がある。

 そして、実質的な最終回である第十一話。この回、前後の脈絡がほとんどないまま、突然、過去のエピソードが妹視点で語られる。無駄に長いので詳細は割愛するが、要するに両親が離婚した寂しさを主人公の小説が埋めてくれたので、妹は義理の兄妹になる前から実は主人公のことが好きだったという話だ。だから、どうした? このエピソード自体はそれなりによくできているが、本作の物語全体を総括するだけの力はない。それどころか、これまでの妹の態度を全て否定してしまうことになる。そんなエピソードをラストに持ってきたところで、ただの蛇足にしかならない。(ちなみに、第十二話は皆でツイスターゲームをやるだけの頭のおかしい話である)

 それにしても、家族とは何なのだろうか? 実は、第一話で妹が「一緒に暮らしてるけど家族じゃない」という非常に重要な発言をしている。言い換えると、赤の他人が家族になるためには、何らかの通過儀礼的な物が必要になるということだ。なぜか主人公は軽くスルーしてしまうが、この意見をそのまま膨らませていれば、本作は名作になる可能性は十分にあったのである。だが、実際は、家族を求める妹を放っておいて延々と自分の好きなライトノベルの話をしているわけで、終盤に思い出したようにそのテーマを持ち込んだところで、全て後付けにしかならない。まるで宿題に追われる小学生の夏休みのような、何とも情けない作品である。

・総論


 元凶はライトノベル。それを証明してくれる作品。

星:★★★★★★★★★★(-10個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:53 |  ★★★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『この美術部には問題がある!』

問題作。

公式サイト
この美術部には問題がある! - Wikipedia
この美術部には問題がある!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2016年夏いみぎむる著の漫画『この美術部には問題がある!』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は及川啓。アニメーション制作はfeel.。中学校の美術部を舞台にした日常系ラブコメ。原作は「あくまでギャグ漫画であってラブコメではない」ということらしいが、アニメ版は恋愛要素がかなり強いため、やはりラブコメと呼ぶべきだろう。なお、監督の及川啓は『アウトブレイク・カンパニー』を手掛けた監督として、(本ブログでは)唯一無二の存在である。

・女性主人公とヒーロー


 本作のタイトルは『この美術部には問題がある!』である。なかなか刺激的なタイトルだが、本作はそれ以前に作品構造自体に重大な問題がある。そのため、そちらを先に処理しなければ、話が前に進まない。

 本作の主人公は、美術部に所属する中学二年生の「女の子」である。順番的に最初に登場するし、冒頭のナレーションも行う。何より、彼女の視点で大半の物語が綴られる。そのため、この定義について異論を唱える人は少ないはずだ。そんな主人公である彼女は、同じ美術部の男子部員に片思いをしていた。女性主人公の相手役を示す適切な単語がないため、ここでは仮に彼のことを「ヒーロー」と呼称するが、そのヒーローこそが本作の抱える「問題」の元凶である。と言うのも、彼はオタクである。それも悪い意味で殊更に誇張された記号的な萌えオタクである。彼は「二次元が最高。三次元の女子には興味ない」と公言し、身近にいる女性に対して一切の興味を示さない。多感な思春期の中学二年生なのに、恋愛感情はおろか性欲すら抱かない。それどころか、一般社会常識に欠陥を抱えており、他人に対するデリカシーが欠けた言動を繰り返し、セクハラさえも平気で行う。また、彼は「最高の二次元嫁を描き出す」という目標を掲げて、美術部でいわゆる「萌え絵」をずっと描いている。美術に対する彼の思想は主人公と正反対であり、従来の絵画技法で静物デッサンをしている主人公を小馬鹿にする。このように、容姿こそイケメンの部類に入るだろうが、それを除外すると、彼は100人中99人の女性が嫌悪感を覚えるであろうタイプの醜悪な人間である。ところが、なぜか主人公はそんなヒーローにベタ惚れしているのである。あばたもえくぼ、上記の欠点すらも許容してしまうぐらいの惚れっぷりである。そうなったきっかけは第二話で簡単に語られるが、迷子の子供を助けたのを見て「意外と悪い奴じゃないと思った」という程度の軽い話で、「なぜ、彼のことが好きになったのか?」は最後の最後まで全く分からない。この時点で、本作は論述する価値もない壊滅的な駄作である。なぜなら、視聴者の感情と主人公の感情が完全に解離しているのだから。

 しかも、本作はただのアニメではなく「男性向け萌えアニメ」である。男性向け萌えアニメとは、男性の視点で女性の可愛らしさを描くことに特化したジャンルである。そして、男性の視点から見ても、ヒーローの性格は厳しい。そうなると、いろいろとややこしい問題が発生するのだが、詳しくは次の章で語ることにしよう。

・男性向け萌えアニメ


 ここで改めて、男性向け萌えアニメの歴史を振り返ってみよう。女性の可愛らしさを描く上で、男性主人公こそが最も不要な存在であることに気付いた制作者は、登場人物が全て女性の「日常系アニメ」を作り出した。しかし、それでは最重要萌えポイントである「恋する女性の可愛らしさ」を描くことができない。そこで、女性同士で恋愛させることを思い付き、その結果、生み出されたのが「百合アニメ」である。一方、男女の恋愛こそが正道と考える人が、女性を主人公にしたまま、細々と普通の恋愛ドラマを作り続けていた。ただし、それだと男性視聴者の分身である主人公が同性のヒーローに恋をするという奇怪な状態になってしまうため、逆転の発想で、ヒーロー側に視聴者が自己投影できるように様々な工夫を凝らしている。例えば、困っている人を放っておけない根っからのお人好しにしたり、我が道を突き進む天才肌の奇人変人にしたり、もしくは、あえて非の打ち所がない完璧超人にしてしまうこともある。大事なのは、愛すべき女性主人公を「彼なら安心して任せられる」とまるで花嫁の父親のように視聴者に思わせることである。

 では、本作はどうか。視聴者層に合わせて、ヒーローをオタク化しているのはセオリー通りだが、極めて人格に難のある誇張されたオタク像にしているため、非常に共感しづらいキャラクターになってしまっている。中でも「二次元が最高。三次元の女子には興味ない」という彼の思想が相容れない。もちろん、同じことを考えている萌えオタクは多い。だが、実際問題、主人公のような可愛い女の子のアプローチを受けて、なお二次元の方が良いと言い切れる人が何人いるだろうか? 性欲すら湧かないのなら、その人はもう人間ではない。意思のないロボットか何かである。こんな人間に大事な女性主人公を任せられない。

 このように、本作は主人公に対してもヒーローに対しても共感し難い作品構造を有している。そのため、視聴者の魂は誰に乗り移ることもできず、中空にふわふわと漂うしかない。もし、この作品に自己投影できる人がいるとすれば、それは「男性的な視点を持ちながら、女性主人公に自分を投影して、ヒーローを恋愛対象にできる人」、すなわち「同性愛者」だけだ。実際、主人公とヒーローのキスシーンでヒーローの唇を大写しにするなど、結果的にいわゆる「BLアニメ」のようになってしまっている。もちろん、それは悪いことではないが、少なくとも本作の制作者にそういう意図はなかったはずで、評価はできない。

・萌え絵


 それとは別に、もう一つ気になる点がある。それはヒーローが愛して止まない「萌え絵とは何か?」である。ヒーローは「最高の二次元嫁を描き出す」と称して、いつも美術部で美少女イラストを描いている。それに対して、主人公は強い嫌悪感を抱いている。つまり、萌え絵は芸術ではないという「一般常識」に沿って動いているからだが、さて、実際のところはどうなのだろうか。

 萌えとは女性の特徴の一部分を取り出して記号化した物であるが、萌え絵はそれをビジュアル化した物と考えていい。それゆえ、ある意味、抽象画に近いとも言える。現実問題、目があんなに大きく、鼻と口があんなに小さい人間はいないわけだから。だが、抽象画と萌え絵には決定的に異なる点がある。それは、萌え絵は長年に渡って多くの人々が模倣に模倣を重ねて徐々にパターン化してきた物であって、そこにオリジナリティは一切存在しないということである。そういう観点で言うと、純粋な芸術とは対極に位置する物だ。ところが、ヒーローは自作の萌え絵を一般の絵画コンクールに二度出品し、二度共に優秀な賞を受賞している。これは一体どういうことだろうか? 常識的に考えると絶対にあり得ないことであって、「萌え絵が好きなオタクを喜ばせるためのフィクションだから」では済まされない事態である。おそらく、審査員は主人公の絵に何らかのオリジナリティと芸術性を感じたのだろうが、残念ながら劇中では全く言及がない。一つ考えられる理由としては、審査員は生まれてこの方、萌え絵なる物を見たことがなく、それゆえ、欲望を具現化した主人公の絵が非常に斬新に思えたのだろう。それでは『アウトブレイク・カンパニー』である。そんな卑怯な手段を使ってまで、自己承認を得ようとするやり方には賛同できない。

 もっとも、そこまで大げさに考える必要はないかもしれない。なぜなら、本作自体が萌え絵で構成された「萌えアニメ」であるからだ。世界全体が二次元ワールドで、登場人物も二次元キャラクター、そのような世界で萌え絵が受賞するのは、冷静に考えると当たり前のことなのかもしれない。むしろ、二次元ワールドで普通の芸術を志向した主人公の方が異常なのだ……とまぁ、こういう面倒なことになるので、本作のようなテーマを取り上げる時は、リアルタッチの劇画アニメにするか、いっそのこと実写ドラマにするのが常識である。主人公とヒーローの逆転も含めて、本作がどこまで意図的に常識に逆らおうとしたのかは分からないが、結果を見ると大失敗であると言わざるを得ない。

・萌え否定


 さて、前置きは以上にして、残り少ないが本題に入ろう。本作は基本的には何の変哲もない日常系アニメであり、たまに上記のような気持ち悪いラブコメが挿入されるが、正直、大して面白くもない代わりに、大して問題要素もない。ただ、第十一話の文化祭回には、少なからず違和感を覚えた。主人公達は、校内で出た空き缶を使って空き缶アートを作ることになったのだが、とあるトラブルで制作中に数が足りなくなる。そこで彼らはどうしたかと言うと、何と外から缶ジュースを買ってきて校内で売りさばいたのである。リサイクルをテーマにしておいて、ゴミを増やしてどうする! 深夜アニメに時折現れるこの手の倫理観の欠如は一体何なのだろうか。これを本気で美談だと考えているなら、小学校から道徳の授業を受け直した方がいい。

 最終話。それなりに主人公とヒーローが良い仲になった後、最後の最後でヒーローがとんでもないことを口走る。とある女性アニメキャラに熱を上げていたヒーローが、突然、そのキャラを嫌悪し始める。その理由を主人公が尋ねると、返ってきた答えは「そのキャラに彼氏がいるのが判明したから」……おい、待て。本作は、そのアニメキャラが全十二話かけて彼氏を作ろうと必死に奮闘する物語なのだが。今まで散々、主人公目線でヒーローを持て囃す拷問を視聴者に見せておいて、この仕打ちはない。登場人物が作品を否定するな。それは、ミステリーで主人公が真犯人だったような重大なる背任行為である。

 一億歩譲ってヒーローの発言を擁護するなら、彼の言うアニメキャラの定義は「三次元」の主人公には当てはまらないという考えがあるのかもしれない。すなわち、主人公は萌えオタクのヒーローにとって特別な存在であるという考えだ。それは「二次元が最高。三次元の女子には興味ない」という思想だったヒーローが、初めて三次元の女性に興味を持ったということであり、彼の心の成長を意味する。つまり、本作の真のテーマは「萌え否定」だったのだ!……ということもないだろう。それをやるなら、このテーマに沿ってストーリーを構築しないといけないし、何よりコンクールで萌え絵が受賞するという既成事実まで作ってしまっている。結局のところ、奇をてらっていろいろと配置を逆転してみたら、作品として成立しなくなったというだけの話だ。こんな苦労をするぐらいなら、最初からヒーローを主人公にした実写ドラマにしておけば良かっただろうに。

・余談


 ここから先は完全な余談である。第五話、美術部員の一人がデッサン用の石膏像に悪戯し、肌を茶褐色に塗ってしまう。そして、彼女は白人から黒人に変化した石膏像を見て、こう言う。「こんがり焼けました」……いや、この発言はアウトだろ。アニメ業界って本当にどうなってんの?

・総論


 常人にはこのアニメを理解できない。

星:★★★★★★★★★★(-10個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:37 |  ★★★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑
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