『ガリレイドンナ』

ダ・ヴィンチ・コード。

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・はじめに


 2013年。オリジナルテレビアニメ作品。全十一話。監督は梅津泰臣。アニメーション制作はA-1 Pictures。ガリレオ・ガリレイの遺産を巡って、その末裔である三姉妹が世界を飛び回るアクションSF。ガリレオ・ガリレイは、十六世紀から十七世紀にかけて活躍したイタリアの物理学者・天文学者で、近代科学の創始者の一人と言われている。これぐらいはまぁ常識として。

・理系


 エネルギー問題が深刻化し、貴重なメタンハイドレードを独占する大企業とそれを奪わんとする空賊との争いが日常茶飯事となった近未来のイタリア。そこにはガリレオ・ガリレイの末裔である三姉妹が暮らしていた。ある日、彼女達はガリレオの遺産「ガリレオテゾロ」を巡って空賊に命を狙われる。ガリレオテゾロは夢のエネルギー源、それさえあれば、世界はエネルギー危機から救われるのだ。空賊に捕らわれた家族を救うため、中学生の三女は地下室に隠していた金魚型の飛行艇を起動させる。それはガリレオ(もしくはその子孫。劇中の描写からは分からず)が設計し、彼女が三年かけて独力で復元した最新鋭の戦闘兵器だったのだ。
 荒唐無稽にも程があるだろう。よくもこんな馬鹿馬鹿しい企画が通った物だ。もちろん、フィクションの世界なのだから、ガリレオ・ガリレイがあらゆる科学分野に精通した天才科学者で、時代を超越した新技術と新兵器を開発したというトンデモ設定は許せる。その設計図を元に中学生の少女が一人で復元したというのも、まぁ、ギリギリ許せなくもない。材料も家の中に転がっていたのだろう。だが、その兵器が「武装」されているのは絶対にあり得ない。完全に超えてはいけないラインを超えてしまっている。それとも何だ? 中学生の女の子が闇の商人と取り引きして武器弾薬を購入したのか? そんなはずはない。後のストーリーを見れば分かる通り、彼女は平和を愛する心優しい女の子のはずだ。そんな彼女が防犯のためとは言え、自分の作ったメカを実弾で武装する訳がなかろう。それなら、最初は無防備で旅立ったが、姉妹に促されて嫌々武装を施したとした方が余程論理的だ。つまり、いい加減な科学考証がキャラクターの人格さえも歪めてしまっているのである。
 本作は最初から最後までこの調子である。ガリレオ・ガリレイという誰もが知る科学者を題材にしているのに、全く科学的ではない。よく「十分に発達した科学技術は魔法と見分けが付かない」という格言を額面通りに捉える人がいるが、あれはフィクションの世界は一歩間違えると何でもありになってしまうため、科学の力によって制限を加えなければならないという意味だ。このままでは、三女は科学者ではなく超人的な魔法使いになってしまう。そうなれば、生き残る道は『タイムボカン』シリーズのようなギャグコメディーしかない。当然、そちらの道もSFに負けず劣らずのいばら道であることは言うまでもない。

・文系


 では、本作は科学考証を蔑ろにしてまで文芸を重視した文系アニメなのかと言われると、残念ながらそれも怪しい。むしろ、そちらの方が多くの問題を抱えている。と言うのも、本作はとにかく全体的に説明不足・描写不足が深刻で、作劇が非常に稚拙なのである。
 ざっと問題点を並べると、なぜ今になって企業や空賊がガリレオの遺産を探し始めたのかの明確な理由がない。命の危険に晒されたのに、全く危機感がないガリレオの子孫達。パワードスーツを着た侵入者にリボルバーピストルを乱射し続ける警官達。しかも、銃の構え方がおかしい。カットの繋がりが悪く、いつの間にか敵が倒されていたり、いつの間にか脱出していたり、いつの間にか怪我をしていたりする。第三話で早くも正体がバレる黒幕。ガリレオの遺産のヒントが書かれたスケッチ集めが子供の宝探しレベル。三姉妹の手助けをしてくれる女性の行動があからさまに怪しく、案の定、敵のスパイ。だが、なぜか三姉妹は気付かない。世界規模の物語のはずなのに、三姉妹を付け狙う敵がたったの二人。生身で襲いかかってきた空賊に何の躊躇もなく発砲する三女。話の導入が第四話と全く同じ第六話。「人間は増え過ぎた」と言って、いきなり拳銃で一人ずつ虐殺を始めるラスボス。大破したはずなのに次の回では綺麗に直っている飛行艇。誰も気付かない間に三女がすり替えておいた重要アイテム。誰も気付かない間に三女がすり替えておいた金魚。ネタ被りな上に、後者はする必要が全くない。
 なぜ、このような事態になっているかと言うと、それはもちろん「要素の詰め込み過ぎ」である。全十一話しかないアニメなのに、いろいろなことを一度にやろうとし過ぎなのだ。もっとテーマを絞らないと作り手の許容量を超えてしまう(注:元々は2クールアニメの予定だったらしい)。では、本作が重点的に描くべきテーマとは何か、それは当然「家族愛」だろう。特に三姉妹の絆である。確かに、バラバラだった家族が絆を取り戻すという基本的な流れ自体はよく描けているが、それだけだ。年齢も性格も特徴も違う仲の悪い三姉妹が、非常事態に協力し合って一つの飛行艇を運用する、これこそが本作の最も描くべきことだが、残念ながら本作はそこが一番描けていない。こう言っては悪いが、三人が赤の他人でも全く差し障りのないストーリーである。実際、他人どころか敵のスパイが一人紛れていても、何も支障がないのだから。姉妹とは何か、家族とは何か、文系アニメならばこれぐらい一言で答えられないと失格である。

・ガリレオ


 第九話。敵に襲われてピンチに陥った三女は、無意識にガリレオの遺産の力を解放する。すると、突然時間が止まって、三女は過去に飛ばされる。先に結末を書くが、この現在から過去へと繋がる一連のシークエンスは、設定的にも物語的にも全くの無意味である。作り手の頭の中だけで成立したトンデモストーリーだ。事実、時間を止めなくとも彼女達は助かっていたし、彼女が過去に行くことで歴史が大きく変動したということもない。じゃあ、何のために過去に行ったのか? それこそ深く考えるだけ時間の無駄である。
 さて、三女は過去の世界で一人の青年と出会う。自作の人力飛行機で空を飛ぼうとしていた彼こそが、三女のご先祖様であるガリレオ・ガリレイ本人であった。マジかよ……。ガリレオが若い頃、飛行機に興味を持っていたなどという話は聞いたことがないし、ライト兄弟より五百年も早く有人飛行に成功していたなどという歴史も初耳だ。故人で遊ぶのはあまり感心しない。もしや、ガリレオとレオナルド・ダ・ヴィンチを取り違えているのではないか。あり得る。それはそれとして、彼は三女が未来から来た人間であるとすぐに認識し、彼女を元の世界へ帰すための飛行機作りを行う。その際、他の作品で見られるような未来の技術を伝授して飛行機が完成するといったタイムパラドックス展開がなく、ガリレオがほぼ自力で飛行機を完成させるため、彼女が過去に来た意味がまるでない。ちなみに、ガリレオの遺産のスケッチに書かれていた文章は、実は彼が三女に宛てたラブレターだったというのが本作のメイントリックになる。しかし、ガリレオが月のスケッチをしたのは四十代だし、三女はまだ幼さの残る中学生。このエピソードが正しければ、ガリレオはロリコンだということになってしまう。故人で遊ぶのはあまり感心しない。
 もっとも、気になるのはそこではない。一番気になるのは、アニメの制作者が徹底してガリレオのことを「少年の心を持ったロマンチスト」として描いている点だ。驚くべきことに、彼に「愛やロマンが一番。科学は二の次」といったニュアンスの発言までさせている。いや、それはおかしい。もちろん、そういった側面も持っていただろうが、彼はどこまでも純粋な科学者である。例の地動説裁判で最後まで自説を主張したのも、別にロマンを追い求めたからではなく、それが論理的に証明できるからだ。だからこそ、彼は近代科学の創始者と呼ばれているのである。要するに、本作はガリレオ・ガリレイの人物像を180度歪めているのだ。それは最もやってはいけないことだろう。もう故人で遊ぶとかいうレベルではない。

・裁判


 そんなこんなでピンチを脱した三姉妹だが、結局、追いかけてきた警察に捕まってしまう。そして、ラスボスの策略により、メタンハイドレード強奪の濡れ衣を着せられ、あっと言う間に起訴される。地動説裁判のオマージュをやりたいのは分かるが、幾ら何でもお粗末過ぎないだろうか。元ネタは科学と宗教、二つの価値観が真正面からぶつかり合う中、自分の信じる正義をどこまで貫き通せるかという話である。しかし、こちらは捏造された罪状で起訴されているのだから、自分の正義を押し通すに決まっているではないか。こんな物は法廷闘争でも何でもない。ただの学級裁判だ。あまりに作り手にとって都合の良いディストピア像は、一歩間違えると本作のように「登場人物が全員馬鹿」という事態を招いてしまう。で、最終的にこの裁判がどうなるかと言うと、行方不明だった両親が突如復活し、大企業の悪事の証拠を突き付けて見事に逆転勝訴する。つまり、三姉妹は何もやっていない。これまでの長い旅は何だったのか。ガリレオの遺産が裁判の決定的な証拠になるのではないのか。形式的な家族愛を描くことに注力し過ぎて本編を疎かにするようでは、本末転倒この上ない。
 ここまで書けば十分に理解して頂けると思うが、本作の最大の欠点はガリレオ・ガリレイという歴史上の人物を全くリスペクトしていないことである。仮にもタイトルにその名を拝借しているのに、対象の人物像を全く調べていない。思想を全く理解していない。何より、科学を全く愛していない。実在の偉人・有名人をモチーフにしたアニメの中でも、最悪に近い部類である。これに比べれば、戦国武将の女性化など可愛い物だ。ちなみに、血眼になって探していたガリレオの遺産はどうなったのかと言うと、何も詳細が分からないままエンディングを迎える。次回作があるのか映画版があるのか知らないが、どうせくだらない物だろう。なぜなら、科学に興味のない人間が想像する革新的なエネルギー技術などたかが知れているからだ。そして、その時、ガリレオは間違いなく科学者ではなく魔法使いにさせられているだろう。

・総論


 どう考えても、レオナルド・ダ・ヴィンチと人違いしている。

星:★★★★★★(-6個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:46 |  ★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『神さまのいない日曜日』

軽い。

公式サイト
神さまのいない日曜日 - Wikipedia
神さまのいない日曜日とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。入江君人著のライトノベル『神さまのいない日曜日』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は熊澤祐嗣。アニメーション制作はMADHOUSE。人が死ななくなった世界において、唯一死者を成仏させられる「墓守」の主人公を描いた終末系ファンタジー。

・設定


 ここは神に見捨てられた世界。十五年前より人は死ななくなり、同時に新しい命が生まれなくなった。世界は死者で溢れ、暴力と絶望が支配した。彼らを成仏させる方法はただ一つ、「墓守」と呼ばれる特別な人間が墓穴を掘って埋葬すること。主人公はその墓守として生まれた十二歳の少女。七歳の頃に同じく墓守だった母を亡くした後、人口四十七人の小さな村で育てられた。ある日、そこへ一人の男がやってくる。不老不死という特殊能力を持つ彼は、突然、村人全員を殺害するという暴挙に出る。実は、村人はとっくの昔に死んでおり、主人公はそれを知らずに育てられたのだった。主人公は怒りと悲しみを内に秘めたまま、男と一緒に旅立つ。それが運命の出会いとは分からずに……。
 と言った感じで、ツッコミどころは大量にあるが、それなりに面白そうな設定の作品である。ただし、面白いのは初期設定だけである。どんなに舞台が豪華であっても、その上で演技を行う俳優の行動が頓珍漢では、物語としての面白さは発生しない。まず、本作序盤のストーリーの最大の肝は何か。それは、墓守の主人公を育てた村人達が全員すでに死んでいたという衝撃の事実、そして、そんな彼らを埋葬しなければならない主人公の哀しみであろう。だが、本作はそういった複雑な心理はほとんど描かれない。もちろん、言葉としては何やかんやと口にするが、それが行動として全く現れない。国語のテストではないが、主人公の気持ちになって考えてみよう。今まで自分を育ててくれた村の人々とは別れたくない。自分が埋葬しなければ、たとえ死者であってもずっと一緒に暮らしていける。だが、母から受け継いだ墓守としての役割を果たさなければならない。その葛藤、とてもじゃないが十二歳の少女に導き出せる結論ではない。だが、本作の主人公は極めてあっさりと村人を始末する。そして、なぜか敵であるはずの男と一緒に旅に出る。もう支離滅裂というレベルではない。こういったストーリーにするなら、主人公は墓守や世界の仕組みを知らずに村人を埋葬し、彼らの仇を討つために男を追いかけた後、男の口から「人が死なない世界」の真実を知ったという流れにしないといけないだろう。
 このように、本作の登場人物は本来あるべき行動を取ろうとしない。では、どうやって物語を進めるのかと言うと、この手のC級ファンタジーにありがちな「設定の追加」である。超常現象がデフォルトな世界をいいことに、次から次へと都合の良い設定を継ぎ足していくことで、何となく話が進んでいるように見せかける。最終的には、何のロジックもなく奇跡的なことが起こってハッピーエンドを迎える。ただ、本作の愚かなところは、自分で作った設定が物語の足を引っ張っていることである。第三話のラスト、男が幸せに包まれながら息を引き取るのだが、その直後、初期設定に倣って彼は死者として「生き返る」。何と面白いギャグドラマであろうか。

・生と死


 本作の設定は「人が死なない世界」である。当然、生と死が大きな作品テーマとなっている。では、人が死なない世界とは一体どういった状態だろうか? その問いに答えたいのは山々なのだが、解答を導き出すための情報が少な過ぎるせいで「よく分からない」としか答え様がない。一言で死なないと言っても不老不死とは違う。当然、肉体に何らかの大きなダメージが発生すれば身体機能が停止する。寿命もある。ただ、どうやら生命を司る魂のような物が死後も肉体に宿り続けるという設定らしく、肉体は死んでいるのに心は生き続ける。そして、死者となった人間がどうなるか、これがまた情報不足でよく分からないのだが、どうやら肉体の腐敗も再生もなく、死んだ時の状態のまま永遠に生き続けるらしい。この時点で完全に科学の領域を超えているので、何らかの魔法的な力が働いているのだろう。だが、死者が普通に食事などの生命活動をしているシーンもあり、生者と死者の外見上の違いはないので、見た目だけでは全く分からない。中には自分が死者だと気付いていない者もいるらしい。こうなると、死者であることのデメリットは何もなく、むしろ生者の方が生物的に弱い立場になるはずだ。ただ、たとえ死者でも肉体が完全に破壊されるともう復活できないらしい。意味が分からない。それなら墓守などいらないではないか。どうなっているんだ、この世界は。
 一方、精神面はどうなのだろうか。劇中の説明によると、死者は時間が経過するごとに生存本能が強くなり、獣のように「わがまま」になるらしい。彼らは埋葬されたくないという想いから墓守を目の敵にし、見付け次第抹殺しようとする。いや、それはどうなのか? 死者は仏教風に言うと六道輪廻から解脱した存在である。ならば、欲望を失って植物のように穏やかな存在になるのではないだろうか。とは言え、生者にとって死者は忌むべき存在なのは変わりないので、生者はそんな死者に対する恐怖心から生への渇望が湧き上がり、よりエゴを強化させて獣のようになるだろう。この世に暴力を運ぶのは死者ではなく生者である。もっとも、それも最初の頃だけで、死者の数が増えて存在が当たり前になると、ほとんどの生者が生への興味を失って、死者と変わらない状態になると思われる。本作の舞台である大異変から十五年後という時期は、ちょうどその過渡期に当たるのではないだろうか。そう考えると、本作の基本的な設定はよくできているということになる。後はその設定を活かした物語作りができるか否かだ。

・ロードムービー


 第四話以降は、主人公達ご一行様が車を旅をしながら、世界各地の街を巡るというロードムービー風の物語になる。その街はそれぞれ他にない特徴を持っており、街自体が物語の主役になる。ライトノベル好きなら、同様のコンセプトを有した作品『キノの旅』を想像してもらえると分かり易い。違うのは、主人公が孤高を望む人間か「世界を救いたい」という野心に溢れている人間かといった点である。
 最初に訪れたのは「死者しか住んでいない国」である。生者に迫害された死者達が安息の地を求めて自ら建設した国だったのだが、次第にその噂を聞き付けた生者が世界中から集まり、自ら命を落として住民になろうとしていた。その行為に加担していたのは、人の命を奪う力を持った国の姫。だが、彼女はその行為の意味するところを知らなかった。そこでお節介な主人公が真実を知らせようと奮闘するという話だが……この概要だけでも分かる通り、主人公の墓守設定がストーリーに何一つ関係しない。主人公の動機はただの感情論だし、なぜ生者が死を選ぶのかにも言及していない。ただ単に特殊な国の事情を描いただけで終わっている。ついでに言うと、魔女と人造人間設定は何のために出てきたのかさえ分からない。とりあえず思い付いた設定を適当に入れてみるのはやめて欲しい。
 続いて訪れたのは「特殊能力を持った子供達が強制的に隔離された学園」である。この世界は、神の「優しさ」によって強く願えば望みが叶ってしまう世界になっており、各地に異能力者が誕生していた。主人公も墓守ということで学園に捕えられる。もう、死者も生者もどうでもいい。しかも、その学園、隔離施設のくせに異常なほど警備が甘く、主人公達は呆気なく脱出に成功する。追っ手も教師一人だけというふがいなさ。設定的にも物語的にも、何をやりたいのかさっぱり分からない。なお、この後は別の墓守がマタニティブルーになるという意味不明な展開に続くが、観念的なことをペラペラと語るだけで何のお話にもなっていない。
 最後に訪れたのは「一年ごとにループし続ける教室」である。最早、街ですらない。主人公達は生還の可能性が低いことを承知で、閉じ込められた人々を救出するためにその空間へ足を踏み入れる。お節介にも程がある。そして、主人公が当たり前のように転校生としてクラスに加入するなど、とんでもなく質の低い学園ファンタジーを続けた後、主人公と一緒に空間へ入った人物が自らの秘密を告白したことでループが終了して生還する。最初の時点で告白していれば、そもそもループは発生しなかったのでは? と言うか、人が死ななくなった暴力と絶望が支配する世界はどこに行ったんだよ。この作品でやる必要がどこにある。ちなみに、主人公が墓守としてのお役目を果たしたのは、旅立ちの村だけである。

・二次創作


 ここでもう一度、「墓守」とは何かを考えてみよう。この世界では、墓守が墓穴を掘って埋葬することで、初めて死者が成仏できるという設定になっている。逆に言うと、墓守が手を下さない限り、死者は永遠にこの世に留まり続ける。それは一体どういうことを意味するのだろうか。これまで人が死んで天国に行くのは自然の摂理、言い換えると「神の所業」だったわけである。だが、この世界ではその役割を墓守が担っている。墓守には人の生とは何かを決定付ける重大な権利が与えられており、それは世界を構築するシステムを根本的に組み替えることである。つまり、「神の代行」を果たしているわけだ。中には成仏したくない死者もいるだろう。死者を成仏させたくない生者もいるだろう。墓守はそういった人々を自らの判断で選別しなければならない。その重責、一人の人間が抱えられるレベルを遥かに超えている。だが、逃げるわけには行かない。なぜなら、墓守が自分の役割を投げ出せば、世界は死者で溢れてしまうのだから。
 このように、墓守とは本作における神の如き存在である。生と死の境界線を直視し続け、常に人の生とは何かを考えなければならない。苦しい仕事だが他に代わりはいない。ところが、上述の通り、本作中で墓守が本来の役割を果たすことはほとんどない。物語が後半へ進むにつれ、墓守どころか生と死の問題さえも薄れていく。それはどういうことか。要するに、同じく神の如き存在である本作の作者が、墓守という重大な役割から「逃げた」ということである。自分で設定を作っておきながら、死を司るという重責に耐えられずに放棄した。そして、その作者が何をしたかと言うと、「強く願えば望みが叶う世界」という都合の良い設定だけを利用して、「死者しか住んでいない国」「特殊能力を持った子供達が強制的に隔離された学園」「一年ごとにループし続ける教室」といった他のアニメやゲームで飽きるほど繰り返された定番のネタを流用することである。そんな話はこの特殊設定を使わずとも幾らでもできる。仮にこの設定でやるなら、墓守の主人公を上手くストーリーに絡めなければ何も意味がない。
 これはもう一言で言うと、クリエイターとしての素養の問題である。設定を作るだけなら誰でもできる。中学生でもできる。だが、その設定を活かした物語作りを行うなら、それなりに優れた作劇能力が必要になる。もし、その能力の穴を他作品からの流用で埋めようというなら、それはただの「二次創作」に過ぎない。いくら同人文化や動画投稿サイトの興盛でプロと素人の境い目が薄くなっているとは言え、あまりにも世の中をなめ過ぎだろう。かつて、『けいおん!』の主人公は「軽音楽って軽い音楽のことだと思っていた」と言っていたが、ライトノベルのライトも手軽とか読み易いという意味であって、決して「軽い」という意味ではないはずだ。

・総論


 なぜ、ライトノベル原作アニメは駄作の宝庫なのか、それがよく分かる作品。遊びでやってるんじゃないんだからさぁ、もう少し何とかならないのだろうか。

星:★★★★★★(ー6個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:59 |  ★★★★★★ |   |   |  page top ↑
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