『それが声優!』

成長のジレンマ。

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・はじめに


 2015年。あさのますみ原作・畑健二郎作画の四コマ漫画『それが声優!』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は博史池畠。アニメーション制作はGONZO。人気声優になることを夢見て頑張る三人の女の子を描いた青春ドラマ。原作者のあさのますみは声優・浅野真澄の別名義であり、彼女の経験が本作のネタ元になっている。彼女を含め、実在の声優が本人役で多数登場する。

・成長


 「三人の新人女性声優達が、失敗を繰り返しながらも力を合わせて成長していく様を軽快なタッチで描いた青春コメディー」、本作の内容はこの短い一文で全て表現できてしまう。こういう書き方をするとまるで貶しているように感じると思うが、逆だ。一つの文章で表すことができるということは、シンプルで無駄がないということである。そして、それは作劇の基本に忠実だということでもある。先人が長い年月をかけて作り上げたセオリーに則って作ってさえいれば、必ず良い物ができる。中二病を引きずったアニメの制作者は、得てして独自の道を歩みたがるが、基本を蔑ろにしたアニメが最終的にどうなるかは、本ブログで取り上げているダメな作品一覧を見れば一目瞭然だ。
 本作の主人公は新人女性声優。先日、養成所を卒業し、今は業界最大手の青空プロダクション(モデルは青二プロダクション)に預かり声優として所属している。だが、声優としての稼ぎはほとんどないため、近所のコンビニでのアルバイトが主な収入源になっている。彼女が声優を志した理由は、就職難の折に「この際、自分の夢の中で一番難しいのにチャレンジしよう」と思ったから。この度、端役ながら初めてのレギュラー番組出演が決まり、その現場で二人の新人声優と出会って意気投合する。こうして、三人は輝かしい未来を夢見て一歩ずつ歩き出す。
 ドの付く新人である本作の主人公達は、とにかく気持ちいいぐらい失敗をしまくる。声優のお仕事を紹介する作品なのだから当たり前だが、新人声優が犯しがちなミスを見事に全て網羅している。そして、失敗することで大事なことを知り、人間的に大きく成長する。その繰り返しだ。失敗するから彼女達に親近感を覚え、自分達の近くに住む者としてシンパシーを覚える。だから、早く一人前になれるように応援する。その結果、成長した彼女達に対して深い感動を覚える。まさに、これぞ物語というべき黄金パターンである。ここで大事なのは、あくまで他者との関係性において己を知るということだ。下手な作品は勝手に自問自答して自己完結させてしまうが、それではわざわざ物語にする必要がまるでない。本作の他に類を見ない長所は、その主人公にアドバイスを与えて良き方向へと導く担い手として、実在の人気声優・大御所声優を本人役で登場させている点である。これは非常に効果的で、かつ絶大な説得力がある。もちろん、かなり卑怯な手法ではあるのだが。

・ジレンマ


 挫折を経験することで何らかの気付きを得て人として成長する、これが物語のセオリーである。だから、本作の主人公は何度も何度も失敗を積み重ねる。だが、現実問題、その流れが必ずしも上手く行くとは限らない。なぜなら、そんなに何度も失敗を重ねる人間に、普通は次のチャンスは回ってこないからだ。声優のような特殊な専門職なら尚更である。つまり、一言で成長と言っても、「二つの軸」があるということである。個々の事例に対応する能力を磨くソフトウェア的な成長、それらを総合してキャリアをステップアップさせるハードウェア的な成長。上記の通り、この両者は時には干渉し合うというジレンマを抱えている。そのバランスを如何に取りながら最終目標へと近付けるか、それが成長ドラマの作り手に課せられた一番の試練である。
 では、本作はどうだろう。残念ながら、本作はそういった問題に正面から立ち向かうことを極力避けている。主人公達の元には、これだけ失敗を繰り返しながらも、かなり順調に仕事が舞い込んでくる。仲良し三人組でウェブラジオのMCをやることになり、その三人でユニットを組んでCDデビューする。最後には、かなり大きめのステージで単独ライブを行う。その一方で、ゲームやナレーションや外画の吹き替えの仕事も経験する。主人公は業界最大手の事務所に所属しているのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、本人の努力とは全く関係のないところで向こうから次々と仕事がやってくる状況には、やはり違和感を覚えざるを得ない。なぜかと言うと、個々の仕事に関連性がほとんどないからだ。一つの仕事を成功させ、それが別の仕事を呼ぶという流れなら問題はないが、それぞれが完全に独立しており連続性がない。そのため、成長ドラマとしてはかなり不自然な仕上がりになってしまっている。
 ところが、最終回。事務所の人間に、この二年間で目立った実績はユニット活動しかないとダメ出しをされる。素人目には順調に見えたが、この程度では全然足りていないらしい。確かに、メインを張るような仕事は何もないが、デビュー直後の新人にそこまで求めるのか。要するに、声優業界は我々が考える以上にシビアということだ。この現実を知らない批評家を鼻で笑うような圧倒的なリアリズムこそが、本作の最大の特徴である。

・査定


 主人公の所属する青空プロダクションには鉄の掟があった。それは、事務所の預かり声優となってから二年後に行われる「査定」までに目立った成果を挙げておかないと、本人の意思に関係なく契約を解除されるという物だった。つまり、主人公の立場はまだ見習いに過ぎず、プロの声優としてのスタートラインにすら立っていないということである。だが、上述した通り、主人公の特筆すべき実績はユニット活動しかない。そこで、彼女は思い悩む。自分はどんな声優になりたいのか。何を目標に声優業を続けるのか。しかし、答えが出ないまま、最終回、運命の査定の日を迎えてしまう。
 会社のお偉いさんが並ぶ面接の席で、主人公は通りすがりの子供達が話していた「動かない、でかい物を目標にする」という言葉を思い出し、自分の目標は「息の長い声優になる」ことだと告げる。その目標に驚く役員達。なぜなら、それは言葉にすると簡単だが、実際は非常に奥深く、同時に非常に難しいことであるからだ。劇中で指摘されているように、若い頃から何度もメインヒロインを張っているような人気スター声優でも、三十歳を越えると急に仕事が減るのが、今の声優業界の厳しい現実だ。声優予備軍だけでも何万人といて、次から次へと新しい才能が現れる。ユーザーも若くてフレッシュな人材にどんどん目移りする。そんな中で「息の長い声優」、つまり、三十歳を越えても六十歳になっても第一線で活躍できる声優になろうと思うと、人並み外れた実力とどんな困難にも負けない精神力が必要になる。主役だけでなく脇役も均等にこなし、少年役から老人役まで演じ分ける。悪役も汚れ役も厭わない。たとえ、一言しか台詞のない端役でも一生懸命やる。そんな茨の道をあえて歩もうとする主人公の決意に心打たれた会社の役員は、彼女の研修期間を一年延長することを決断する。この一連のストーリーは、声優を使い捨てにする現在の声優業界に対する批判も含まれているのだろう。ただ単に声優を蝶よ花よと持ち上げるのではなく、ちゃんと闇の部分も描いた上で未来に希望を持たせる。なるほど、本作は良い作品である。
 なお、本作はアニメらしいデフォルメ演出を多用するのだが、最終回ではその演出を上手く使って主人公の揺れる心を描いており、非常に表現が豊かである。こういうアニメならではの良さを見れるのは嬉しい。やはり、脚本が良いと自然と演出も良くなるのだろう。

・演劇論


 さて、これまで本作の長所を見てきたが、一方の短所はどうだろう。実は、本作の特徴である声優の世界をリアルに描くこと、それ自体が一番の短所である。なぜなら、本作が取り上げているのは一般的に言う声優ではなく、その中でも極めて限定的な「アイドル声優」だからである。
 実際のところ、本作で紹介されている様々な声優のお仕事の内、本来の意味での「声優業」に該当する業務は半分もない。ラジオのMCはあくまで副業だし、ユニットを組んで歌って踊るのはアイドル活動だ。ストーリーの後半は、ライブを成功させるために皆で協力するという感動展開がメインになるのだが、本来の声優業とは程遠い位置にいる。すると、どうなるのか。それは、声優を題材にした作品で最も重点的に取り上げるべき「演劇論」が、二の次になってしまうということである。演劇論とは、すなわち、自分とは別人のキャラクターを演じることに対する哲学や心構え。例えば、主人公は少年役が得意という設定になっているが、少年の声を出すことと少年を演じることは全く違う。少年を演じるためには、その年代の男の子の思考や思想を十分に理解し、その人物に成り切らなければならない。もちろん、女性が少年の心を正確に把握することは不可能なので、そこは想像力で補う必要がある。では、主人公はそれほどまで少年の心理に通じているのか? 残念ながら、そのような描写は皆無である。本作にはそういった演劇に対する深い見識が抜け落ちているため、どうしても底の浅い記号的な物語になってしまっている。
 また、同ジャンルのアニメ『REC』の項目でも書いたが、声優にとって最も難しい役どころは、他でもない「新人声優役」であろう。なぜなら、地声と演技の声を巧みに演じ分けつつ、その演技の声が徐々に成長していく様を具体的に示さなければならないからだ。ベテラン声優でも完璧に演じられるとは思えないその無理難題に、本作の若手声優陣も果敢に挑戦しているのだが、やはり厳しい物がある。地声がそもそも演技なため、演技の声がわざとらしい。結局のところ、これも演劇論を軽視したことによる弊害だ。歌って踊ることも声優の大切な仕事だろうが、やはり「演技とは何か?」を自問する回が一話ぐらいあっても良かったのではないだろうか。

・総論


 声優アニメとして見ると問題は多いが、青春ドラマとしては非常に良くできている。GONZOがこんなにいいアニメ作るんだ。意外。

星:☆☆☆☆☆(5個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:19 |  ☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『翠星のガルガンティア』

異文化同士の交流。

公式サイト
翠星のガルガンティア - Wikipedia
翠星のガルガンティアとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。オリジナルテレビアニメ作品。全十三話+OVA二話。監督は村田和也。アニメーション制作はProduction I.G。遠い未来の地球で異なる文化を持った人類同士の交流を描いたロボットSFアニメ。シリーズ構成は『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵玄、キャラクター原案は漫画家の鳴子ハナハルという豪華布陣である。

・設定


 先に全体的な結論を書こう。本作は設定・ストーリー・作画共に非常にクォリティの高い作品である。特に練り込まれたSF描写は素晴らしいの一言。それゆえ、人によっては歴史的な傑作として本作を捉える向きもあるだろう。それは否定しない。だが、多くの人は本作を視聴している間、ずっと目に見えない何らかの違和感を味わい続けるのではないだろうか。言っていることは理解できるのに、なぜか話が頭に入って来ない。見ていて気持ち良くないため、ストレスが溜まる。そんな感覚が常に付きまとうせいで、面白いはずなのにいまいち面白く感じられないのである。それゆえ、その違和感の正体を明らかにしない限り正当な評価は下せない。
 まず、基本的な設定を整理しよう。遠い未来の物語。氷河期により居住不可能になった地球を後にした人類は、長きに渡る漂泊の末、謎の宇宙生物「ヒディアーズ」と対抗するために「人類銀河同盟」なる組織を結成し、日々戦いに明け暮れていた。本作の主人公は、そんな対ヒディアーズ用の殲滅兵器「マシンキャリバー」のパイロット。幼い頃より兵士としての訓練を受けてきたため、いわゆる人間らしい幸福や家族愛を何も知らずに育った。ある日のこと、ヒディアーズとの交戦中に起きた不幸な事故により、彼は見知らぬ水の惑星へと飛ばされてしまう。まるで一つの町のような船団「ガルガンティア」に救出された彼は、そこで純粋無垢なヒロインと出会い、その星が氷河期を脱した地球であることを知る。地球の文明の低さに戸惑いつつも、主人公は人類銀河同盟からの救援が来るまで、ガルガンティアで生活することを決意する。
 ご覧の通り、本作は「謎のスーパーロボットと異星人のパイロットが地球にやってきて、人類が戦争に巻き込まれる」という王道ロボットアニメをベースに、視点だけを逆にしてみたという作品である。視点を逆転するということは、異星人側を善の執行者にするということだが、残念ながら現在の地球には何の問題も発生していないため、本作には敵という敵が登場しない。それゆえ、ロボットアニメを名乗りながら、ロボットによる戦闘シーンはほとんどなく、主人公側とヒロイン側との異文化交流がメインになる。こう書くと思い出すのが『∀ガンダム』であり、どこまで意図的かは不明だが、両作品にはかなりの類似点が見られる。興味がある方は見比べてみると面白いだろう。

・視点


 さて、最初に違和感が訪れるのは第二話である。突如、海賊がガルガンティアを襲撃し、ヒロインに救援を頼まれた主人公がロボットを駆って迎撃する。彼は超兵器を用いて海賊を一瞬で全滅させ、ガルガンティアの平和を守る。すると、なぜか住民は一斉に彼を非難する。どのような理由があっても殺戮行為は悪であり、憎しみの連鎖を生むだけだ、と。多くの視聴者はここで戸惑いを覚えるのではないだろうか。海賊に襲われて身に危険が及んでいる状況下で、彼らを殺害するのは正当防衛の範囲内であり、神に与えられた基本的な権利である。それが我々現代人の価値観だ。それを否定する人々とは相容れない。つまり、ガルガンティアの人々は、我々から見ると「異文化の民」である。もちろん、主人公も異文化の民であるため、本作がやっていることは異文化交流ではなく「異文化同士の交流」なのである。それでは視聴者が完全に蚊帳の外だ。かと思うと、第四話以降、今度は視点が完全にヒロイン側に固定され、ガルガンティアの文化に戸惑う主人公がそこに馴染んでいくまでの様子が面白おかしく描かれる。その間、ガルガンティアは我々の地球文化の代表として振る舞っている。それは別に悪くないが、つい先日の蛮行のせいでどうにも気持ちが落ち着かない。
 第九話。衝撃の事実が明らかになる。人類銀河同盟の敵であるヒディアーズは、実は人間が宇宙に進出するために人為的に進化した生き物だったのだ。今までずっと人間同士で殺し合っていたことを知った主人公は戦慄し、激しく動揺する……って、違うだろ! 主人公は人間らしい感情を何も知らずに育ち、海賊をあっさりと皆殺しにした生粋の兵士である。最近になって、ようやくヒロインに諭されてヒューマニズムを理解し始めた人間が、この程度のことで動揺するはずがない。本来、この役目を担うのは我々地球人の代表であるヒロインのはずだ。だが、ストーリーの都合上、視点を主人公側に移さざるを得なかったため、このようなことになってしまっている。
 ここまで書くと理解できると思うが、本作が抱える違和感の正体は「物語の視点があちらこちらに飛び回って全く一つに定まらない」ことである。お互いがお互いを異文化扱いしているため、物語の主体がどこにも存在しない。ドラマツルギーにおいて思想の対立は非常に重要な要素だが、どちらの勢力にも共感できないと、それは全て視聴ストレスとして帰ってくる。それを防ぐのが主人公という存在であり、どのような時でも創作の基本を蔑ろにしてはならない。

・家族


 本作が抱える違和感はそれだけではない。もう一つの大きな違和感の正体、それを探るためにもう一度主人公の生い立ちを振り返ってみよう。主人公が生まれ育った人類銀河同盟は、徹底的に合理化・効率化された管理社会である。生まれてすぐに教育施設に隔離され、兵士としての素養がない者は選別されて排除される。両親の顔を知らなければ、人間らしい温かい生活をしたこともない。そんな主人公のカウンターパートたる立ち位置のガルガンティアには、当然、描かなければならない物が存在する。それは「家族」である。複数の世代が共同生活する家族の温かさを描いて、初めて主人公との対比が生まれる。しかし、実際のガルガンティアには家族らしい家族がほとんど出て来ない。背景のモブとして描かれる程度で、家族愛を主体にしたエピソードは一つもない。ヒロインには病床の弟がいるが、両親の話は全く出て来ない。誰かが誰かに惚れたという話すら皆無だ。
 では、ガルガンティア自体が一つの疑似家族のような共同体を形成しているかと言うと、それも怪しい。彼らはあくまで各職業のスペシャリスト集団であり、船団を形成するとより作業が効率的になるから一箇所に集まっているに過ぎない。つまり、それは家族ではなく、ただの「社会」である。実際、物語の後半では意見の衝突により、あっさりと船団が分裂する。まるで合併した企業が内紛で再分裂するように。また、劇中で謝肉祭が行われるのだが、ヒロイン達が半裸で踊るシーン以外、祭りらしい光景は全く描かれない。そもそも、何のために踊るのかも分からない。住民全員が日頃の苦労を忘れて大騒ぎする、それが祭りではないのか。視聴者はこれを見て本当に「この街に住んでみたい」と思うのだろうか?
 これらは細かいことのように見えて、非常に由々しき問題である。本当に作り手が人類銀河同盟を悪しきディストピアだと認識しているなら、誰に頼まれなくてもガルガンティアを地上の楽園として描くはずだからだ。そうなっていないということは、頭の中だけで考えた悪役設定に過ぎず、作り手の想いが全く込められていないということである。そんな小手先のテクニックで人の心は動かない。如何に人間を生き生きと描くか、それはすなわち如何に人間が好きでよく観察しているかということであり、それが感じられない本作はやはり同種の作品より一段落ちると言わざるを得ない。

・機械


 終盤の第十一話、新たな勢力が劇中に登場する。リーダーはかつて主人公の上官だった男。彼は先達ての事故で主人公と共に地球へ飛ばされ、そこで現地住民を懐柔し、自らが教祖となって宗教国家を建設していた。要するに新たなる「異文化の民」である。主人公と人類銀河同盟を分けて考えるなら、これで五つ目の異文化か。設定が混迷化して収拾が付かなくなったため、とりあえずの敵を出して強引に話をまとめるという手法自体は決して批判される物ではないが、視聴者の置いてきぼり感はとてつもない。一体全体、我々はどこの誰に自分を重ね合わせればいいのか。
 さすがにこれでは不味いと気付いたのか、本作はとあるカラクリを用いることで、ヘイトをラスボスに集中させることに成功している。実は、主人公の上官はすでに死んでおり、彼の乗っていたマシンキャリバーが自律行動をして集団を率いていたのだ。敵が人工知能となれば話は別で、遠慮なく叩き潰せばいい。ただ、何を血迷ったのか、本作はなぜか最終決戦中に主人公のマシンキャリバーまでが自立し、単独でラスボスに戦いを挑むという異様な展開になる。ロボット同士の熱きバトル。自爆して世界を守る人工知能。横で見守るだけの主人公(と視聴者)。一方、その間もずっと人間は人間同士で無益な戦争を続けているのである。どのような理由があっても殺戮行為は悪ではなかったのか。何なんだ、この作品は。
 本作のメインテーマは、もちろん「ヒューマニズム」である。人間の素晴らしさ。性善説に基づいた無為自然の心。そういった物をロボットアニメという媒体を通して訴えかけている。そして、そのヒューマニズムと対を成す物は何か、それはもちろん「機械」であろう。中でも「人工知能の自立」は、人間の根本的な尊厳を脅かす物であり、絶対に認めてはならないことだ。ところが、本作はそれを敵側だけではなく味方側でもやるのである。正直、理解不能だ。好意的に解釈するなら、人為的に進化して化け物と化したヒディアーズに対し、人間の科学力の良き方向性を示すため……いや、それではヒディアーズが一方的に悪となり、共存共栄を描いたラストシーンと矛盾してしまう。蛇足以外の何物でもない。結局、これだけ緻密なSF設定を構築しておきながら、肝心なところは全て曖昧なまま処理しているのである。設定にこだわる前に、もう少し「本当に自分が訴えたい物は何か?」を突き詰めて欲しい。

・総論


 一言で言うと「頭でっかち」。設定は豪華だが、それを十分に活かしたとは言い難い。特に、ヒロインはいる意味あったのか、これ?

星:☆☆☆☆☆(5個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:33 |  ☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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