『AKIBA'S TRIP -THE ANIMATION-』

ハチャメチャ。

公式サイト
AKIBA'S TRIP - Wikipedia
AKIBA'S TRIP -THE ANIMATION-とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2017年冬。ACQUIRE制作のPSPゲーム『AKIBA'S TRIP』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は博史池畠。アニメーション制作はGONZO。謎の敵から秋葉原の街を守るために戦うアクションファンタジー。タイトルの読み方は「アキバ・ストリップ」ではなく、「アキバズ・トリップ」である。テレビアニメ『それが声優!』と同じ制作会社・同じ監督の作品であり、声優グループ「イヤホンズ」のヒロインCV起用など、ほぼ姉妹作と言えるほどの繋がりがある。

・主人公


 本作のキャッチコピーは「AKIBAの自由を守るため、ひと肌脱ぎます、脱がせますっ!」である。そのキャッチコピー通り、本作には秋葉原を支配しようと企む吸血鬼のような敵がいて、服を脱がせるとその敵を倒すことができるというハチャメチャな内容になっている。概要を読む限り、どんなに低俗で破廉恥な作品かと思われるが、これが意外とよくできている。それどころか、そこら辺の感動ヒューマンドラマに負けないぐらい作り込まれていて、完成度が高いのが本作である。

 世の中には、高尚だが不快感を覚える作品と、低俗だが不快感を覚えない作品がある。本作は後者だが、その違いは何かと考えると、これはやはり主人公によるところが大きい。すなわち、どれだけ主人公に共感できて、自分の分身として親しみを持てるかだ。それができないと、どんなに凝った設定やストーリーを構築しても無意味だし、逆に主人公に対する好感度が高ければ、どんなに無茶苦茶なストーリーでも何とかなる。下手すると、作品の価値の八割九割はそれだけで決まってしまう。具体的に本作の第一話を例に挙げよう。まず、冒頭で主人公が元中二病患者の常識人であるところを見せる。続いて、妹に対しては良き兄であり、不意のトラブルにも冷静な分析力があることを見せる。同じオタクでもマイナーな物を突き詰めるタイプのオタクであり、同好の士に対しては熱い友情を示す。妹の身が危ないと知ると一目散に駆け付ける。だが、ピンチに陥るとちゃんと人間らしく怯える。その後、「面白そうな物、気になる物は放っておけない性分なんだ」と言って、命を助けてくれたヒロインを助けに行く。その時、彼の持っている武器は消火器である。力のない彼でも戦えるよう必死に考えた末の結論だろう。こうやって並べると、彼の行動は全てに合理性がある。だからこそ、ラストの命がけでヒロインをかばうという行動を違和感なく受け入れられる。

 何だか当たり前のことを書いているように見えるが、こんな簡単なことすらできていないアニメが多過ぎる。例えば、主人公がヒロインの助けに行く際に手にする武器も、くだらない三流ライトノベル原作アニメだと、素手か木刀が関の山だろう。どんなに危機的状況であっても、ケンカをしたこともないオタクが、それで戦いに勝てると考えたならば、ただの馬鹿である。努力する弱者には共感できるが、何も考えない馬鹿には共感できない。その分、主人公を「思慮深くて気の良い馬鹿」として描いた本作の良さが際立つ結果になっている。作品の良し悪しは、こういった細かい点に現れるのだ。

・コメディー


 改めて、内容を紹介しよう。本作の設定・ストーリーは。原作をアレンジしたアニメオリジナルである。主人公はオタクの男子浪人生。一つのことに熱中すると、とことんまで突き詰めてしまう凝り性な性格。ある日、いつものように秋葉原を散策していた彼は、「バグリモノ」と呼ばれる秋葉原に仇なす謎の怪物集団と一人の少女との戦いに巻き込まれる。本作のヒロインである少女の絶体絶命のピンチに、主人公は彼女をかばって命を落としてしまう。責任を感じたヒロインは主人公にキスをする。すると、主人公は生き返り、ヒロインと同等の戦闘能力を身に着ける。実はヒロインはバグリモノの家系であり、秋葉原の街を愛するがあまり、一族を裏切ったのだった。バグリモノは大気に弱く、服を脱がされると消滅してしまう。当然、その体質はヒロインも主人公も同じで、裸になることは死を意味する。しかも、バグリモノの長が張った結界により、彼らは秋葉原の外に出られない。そこで、主人公はバグリモノから秋葉原の街を守るため、ヒロインと共に戦うことを決意するのだった。

 ご覧の通り、本作の設定は非常に安定している。主人公が戦う理由や目的、能力のメリット・デメリットまでも予め明確に定義してあるため、どんなにハチャメチャなことをやっても屋台骨が揺らぐことはなく、常に陽気でお馬鹿なアニメであり続けられる。取り扱っているネタは極めてマニアックで、ネットやサブカルチャーに通じていればいるほど、ニヤリと笑えるような仕掛けになっている。心配されたストリップに関することも、実際は男性も女性も区別なく豪快に脱がされており、全てギャグとして処理されているため、特に気にならない。少年漫画のお色気シーン程度の存在であり、むしろ劇中で最も服を脱いでいるのは主人公である。美術・演出面も優れており、バトルシーンはデフォルメや凝った構図を巧みに使ってダイナミックなアクションを描いていて、低予算を感じさせない。下品さを極力減らしつつ、とにかく視聴者を楽しませようとするエンタメ志向は非常に好感度が高い。

 また、特筆すべきは、コメディーの真骨頂とも言える「社会風刺」を適度に盛り込んでいる点だ。第三話の芸能界の闇、第七話のブラック居酒屋、第八話の外国人転売屋といった社会の厄介事を上手く笑いに変えながら批判している。シリアスドラマでやると角が立つようなことも、コメディーでやるとよりマイルドになり、より効果的になる。それができていないアニメが多い中、本作の存在は実に貴重である。

・オタク


 さて、ここで悪い例として、毎度お馴染みの『アウトブレイク・カンパニー』にご登場を願おう。日本のオタク文化を異世界に布教するという崇高な目的を持った作品なのだが、そこで取り上げられているオタク文化は、漫画・ゲーム・アニメ・フィギュア・同人誌・メイド喫茶である。一方、本作で取り上げられているオタク文化は、上記に加えて、ミリタリーグッズ・地下アイドル・ピュアオーディオ・アマチュア無線・eスポーツ・自作PC・プロレス・カードバトル・フードファイト・YouTuberである。この時点で格が違うのはお分かり頂けるだろう。『アウトブレイク・カンパニー』が扱っているのは、数あるオタク文化の中でも「萌え」と呼ばれる一つのカテゴリーに過ぎない。確かに、それらはオタク業界における最大派閥なのだが、逆に言うと広く浅いという意味であり、オタクの本質とはむしろ正反対に位置する。

 こういうことを書くと老害だと怒られるのだが、やはりオタクの定義が昔と今で変わっていると言わざるを得ない。本来、オタクとは、本作の主人公のように自分の好きな物をとことんまで突き詰める人のことだった。「人と同じことをして何が楽しいのだ」と台詞であるように、どこまでも我が道を歩き、他人と違っていることに誇りを抱くのが性癖だった。そのため、そもそもオタク文化などという物は範囲が広過ぎて定義しようがなかったのが実情だ。だが、いつしか他人と異なることよりも他人と同じになることを志向し、オタク文化が周囲との一体感を得るためだけの道具と化している。その結果、オタクなる物がどんどん浅薄になってしまっている。

 一方、本作は古き良きオタク像を描いている。第四話のアマチュア無線回はそれが特に顕著で、分かる人だけが分かるというマニアックの極致だ。劇中の台詞を例に挙げると「アマチュア無線は、現代人が忘れた探求心・冒険心を蘇らせてくれるのだ」「スマホは確かに便利だ。だが、それは企業が作った環境を端末で使わせてもらっているだけに過ぎない。それに甘えているようでは、何も考えないアンドロイドと同じ」である。これは主人公がヒロインに語った台詞だが、制作者が現在のオタクに向けて発したメッセージでもある。余計なお世話と言われればそれまでだが、せっかく秋葉原を題材にしているのに、萌えだけで終わらせてしまっては味気ないだろう。

・秋葉原禁止法


 第十一話。とある政治家の暗躍によって、国会で「秋葉原禁止法」が成立する。その法律を元にオタク的な表現が規制され、浄化隊と名乗る特務機関が秋葉原を支配し、オタクは排斥されてしまう。その思想的根拠は「ただの有害なポルノ産業と成り果てたオタク文化は完全排除すべき」である。なるほど、確かに。そもそも、このアニメ自体がソフトポルノだしなぁ……いや、納得したらダメなのだが、敵側の思想は決して間違っておらず、ゆえに否定し難い魅力がある。「大体、オタク共は普段、ネットで人の悪口言ってるくせに、自分らが攻撃されると『オタク差別』だの『個人の趣味に口出しするな』とか言いやがりまして」という台詞もあって、おそらく、制作者自身の本音も幾らか混じっているのだろう。また、その政治家のバックには、本作の黒幕であるバグリモノの長(ヒロインの祖母)がいて、彼女の言によると、一族はずっとこの秋葉原に住んでいたが、太平洋戦争の空襲でヒロインの両親が殺され、彼女達は地下に逃げ延びた。さらに、オタクの汚れた欲望によって街が汚染されたので、元の姿に戻すために秋葉原からオタクを排除する、というのが彼女の動機であり、それもまた理解できる。敵側の思想にも十分な説得力があるのは名作の条件だ。後は、その思想を実現するのに「表現の自由の規制」という方法が正しいのかどうか。要はプロセスの問題である。

 それでは、敵の思想に論理的に打ち勝つにはどうしたらいいだろうか? それは当然、現在の秋葉原が如何に素晴らしい街であるかを具体的に訴えることである。確かに、有害なポルノ産業に成り果てた側面もあるだろうが、それが全てではない。そこで効いてくるのが、前述した多様性のあるオタク文化なのである。秋葉原という街は、いろいろな物を愛する人々が集い、日々進化し続ける楽しい街だと。そういった背景を全十三話かけてコツコツと描き、秋葉原へ行ったことがない視聴者にも訴えてきたからこそ、最終回で人々の街を愛する心を結集させて主人公にパワーを送るという「ご都合主義極まりない」(原文ママ)展開が訴求力を持つ。そんな一つの確固たるテーマに沿って、笑いと感動をまとめて視聴者に送り届ける本作は、深夜アニメでは珍しい本物のコメディーである。

・総論


 頭を空っぽにして楽しめる極上の馬鹿アニメ。この監督さん、もしかして凄い人なんじゃないか?

星:☆☆☆☆☆☆☆(7個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:06 |  ☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『ef - a tale of memories.』

記憶。

公式サイト
ef - a fairy tale of the two. - Wikipedia
efとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2007年秋minori制作の十八禁美少女ゲーム『ef - a fairy tale of the two.』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は大沼心。アニメーション制作はシャフト。記憶をテーマにした群像劇。続編として『ef - a tale of melodies.』が制作されている。

・演出


 本作は、いわゆる「シャフト演出」で作られたアニメである。その詳細を書くのは果てしなくスペースの無駄なので割愛するが、明らかに演出過多である。こういった凝った演出は、ここぞと言う場面で用いるから効果的なのであって、最初から最後までフルスロットルでアクセルを踏み続けたら、視ている方が疲れるだけでなく、肝心のここぞと言う場面での演出が過剰になって、結果的にシリアスなのかギャグなのかよく分からない状態になってしまう。また、極めて情緒的で内省的な心理描写が多い割に、全般的なテンポが異常に早い。例えば、ヒロインが初めて学校に行ったり、初めて体を重ねたりといった本来ならじっくりと描かなければならないシーンでさえ、なぜか駆け足で消化する。そのため、全体を通してひどく「忙しい」アニメになってしまっており、元々の意図とは違った地点に着地している。

・群像劇


 本作の最大の特徴は、十八禁美少女ゲーム原作でありながら、男性主人公が三人もいることである(正確には五人だが、内の二人は第二期が主戦場なので、本作では顔見せ程度の扱い)。原作ゲームでは、それぞれが独立したシナリオで一人ずつ順番に登場するが、アニメ版では同時進行で描かれる。つまり、一種の群像劇のようになっているということである。そして、それは本作の最大の欠点でもある。と言うのも、麻生蓮治と新藤千尋が織り成す物語に比べて、他の二人の物語が明らかに数段劣るからだ。あまりにもレベルが違い過ぎて釣り合いが取れておらず、蓮治達のシナリオからすると他の二人は没入を阻害するつっかえ棒にしかなっていない。しかも、三つのシナリオは横の繋がりがほとんどなく、互いに影響を与え合わない。例えば、三人の主人公を無二の親友にしておいて、ある男子高校生の仲良しグループが体験した一冬の群像ラブストーリーという形にしておけば、本作は映像作品としてもっとクオリティアップしていただろう。

 それでは、「他の二人」こと、広野紘と堤京介のシナリオを簡単に紹介しよう。一言で言うと、典型的な四角関係である。高校生ながらプロの漫画家として活躍する広野紘。紘に一目惚れして何かと付きまとう不思議ちゃんの宮村みやこ。紘の幼馴染みで妹的存在のバスケットボール部員の新藤景。景をヒロインにした映像を撮ろうとする映画監督志望の堤京介。この四人が繰り広げる愛憎劇という、今時、少女漫画でもやらないようなベッタベタに手垢の付いた恋愛ドラマである。しかも、問題なのは、四角関係の中心にいる広野紘が普通に「いい人」なことである。漫画に対して真剣に向き合っていて、商業主義と作家性の狭間で苦しんでいる。彼を慕う二人の女性に対しても、特に曖昧な態度は取ってない。むしろ、彼女達が自分勝手なだけだ。そのため、広野紘のライバル役であり、彼の二股を戒める立場の堤京介が、何の結果も残していないのに上から目線で説教するだけの屑野郎になってしまっている。主人公の一人がこれでは厳しい。

 最終的にこの四角関係がどうなったかと言うと、正直なところ、よく分からない。どうやら、新藤景とは普通の兄妹のような幼馴染みの関係(普通なのか?)に戻り、宮村みやこと恋人の関係になったようだが、明確には断定できない。それもこれも、上述した演出のせいである。つまり、感情を吐き出すシーンの演出が大袈裟過ぎるため、恋愛の勝ち負けが非常に分かり難いのだ。演出は話を盛り上げることだけが役割ではなく、時には意図的に盛り下げることも必要だと理解すべきだろう。いくら群像劇でも、誰もが主役になれるわけではないのだから。

・前向性健忘


 さて、本題に入ろう。メインストーリーのヒロインである新藤千尋は、四年前の交通事故の後遺症で、十三時間しか記銘(新しい物事を覚えること)ができなくなる「前向性健忘」を発症した十六歳の少女である。この前向性健忘を題材にしたフィクションの始祖が何であるかは、寡聞にして存じ上げないが、近年では映画『メメント』や小説『博士の愛した数式』などが代表作として挙げられるだろう。『メメント』の十分間、『博士の愛した数式』の八十分間に比べると本作の十三時間は長いが、一日から一週間程度がスタンダードの他のアニメ・漫画作品に比べると短い。本作を見てみると分かると思うが、この十三時間という長さは絶妙である。朝の出来事の記憶が夜には薄れ始め、寝る前に記憶を整理すると翌日も覚えていられる。この設定が、本作のストーリーを構築する上で非常に重要な舞台装置になっている。ヒロインは、その日に起こったことを全て日記にしてメモ帳に書き込んでおり、毎晩、寝る前にその日記を読み返すことで記憶を翌日に繋いでいる。つまり、そのメモ帳が彼女の記憶の全てであり、彼女その物になっている。もし、記憶こそが人格の形成に最も大きな役割を果たすと考えるなら、そのメモ帳を失うことは、すなわち彼女の人格を否定するということである。その時、彼女は完全な別人になってしまうだろう。美少女ゲーム業界では、生まれ付きの障害や何らかの迫害によりアイデンティティの危機に直面するヒロインが多数登場するが、その中でも彼女の希薄さは飛び抜けている。さすがに、やり過ぎの感は否めない。

 そんなある日のこと、ヒロインはいつも通っている廃駅でメイン主人公である麻生蓮治と出会う。本が好きでいつか自分の小説を書きたいと思っている彼は、今まで他人と接触することを極端に避けていたヒロインの心を溶かし、二人は徐々に仲良くなる。やがて、ヒロインは主人公に恋心を抱くようになる。ここで疑問に挙がるのは、はたしてヒロインは恋愛感情を永続的に維持することができるのかである。十三時間しか記憶を持続できないのだから、彼と出会った時の感情や心が通じ合って嬉しい気持ちなどを翌日まで残すことができない。メモ帳にその時の感情を記したり、寝る前に記憶の整理をしたところで、一度文字情報になった物を再び脳にインプットしているに過ぎない。そうなると、残酷なようだが、正確な感情の維持は不可能という結論になる。では、彼女が抱いている恋愛感情はまやかしなのか? 難しいところだが、ならば、逆に我々が抱いている恋愛感情は確固たる物なのかと問われると答えに窮すように、元々がどうしようもなく曖昧な物だ。結局のところ、ヒロインにとって大事なのは、不確かな自分のアイデンティティを肯定してくれる存在である。主人公がまさにそれであり、だからこそ、我が身を犠牲にしてでも守りたいと願う。そういった利己と利他の重なり合いこそが愛情なのだと、本作は我々に訴えかけているのではないだろうか。

・奇跡


 ヒロインには一つの夢があった。それは自分の不幸な境遇をモデルにした物語を書くこと。今まで三十一度も挑戦していたが、記憶を保持できない彼女にとってそれは極めて困難な作業であり、ずっと途中で挫折していた。しかし、今回、主人公が手助けを申し出たことで、彼女は勇気を振り絞って書き始める。その内容は、誰もいない世界で一人生きている少女が、心の寂しさを埋めるために男の子の絵を描くという物だった。当初は順調そうに見えた物語作りも、根を詰め過ぎたことによる過労で彼女は倒れてしまう。十三時間以上、昏睡状態が続いた結果、目を覚ました彼女は主人公との記憶を全て失っていた。ショックを受ける主人公。彼は知る。生半可な気持ちで前向性健忘の人間に近付くと、誰よりも主人公自身が傷付くのだと。だが、この事件は、主人公に自分が本当にヒロインを愛していたことを気付かせてくれた。もう一度、最初から関係を構築し直す二人。そして、彼女は再び物語作りを開始する。

 第十一話。ついに物語が完成する。しかし、それはヒロインをモデルにしたキャラクターが世界から消えてしまうというバッドエンドだった。驚く主人公に追い打ちをかけるように、ヒロイン自身も彼の前から消えることを夜の学校の屋上で宣言する。物語を書くという子供の頃からの夢が叶った今、彼女に思い残すことは何もなかった。だが、障害を持った自分と一緒にいると、主人公が不幸になってしまう。それだけは嫌だから、「好きです」と言える内にお別れしたい。それが彼女の考えであり、愛の形であった。止めようとする主人公の眼前で、ヒロインはメモ帳を破り、主人公のことが書かれた日記を空にばら撒く。日記はヒロインの記憶の全て。日記を失った時、彼女は別人になってしまう。それは今のヒロインが死ぬことを意味する。愛する女性との楽しかった時間がもう二度と戻らないという事実に、主人公は絶望する。

 さて、この後の最終回で主人公が何を行い、その結果、何が起こったのかは、文章で書くより実際に見てもらった方がいいだろう。基本的には、美少女ゲームが得意とする「奇跡」のストーリーであるが、ただの神頼みではない。むしろ、本作において、神は人間に試練を与えるだけの厄介な存在に過ぎない。根底にあるのは、人々の努力と信じる心。本当に相手のことを想って一生懸命行動した時に初めて奇跡が訪れる、それが本作のテーマである。主人公家のお隣さんの台詞を引用すると「でも、時にはね、行動の結果が必然となり、それが偶然と重なって、図らずも夢が叶うなんてこともある。それが奇跡と呼べるかどうかは分からないけど、確かなことが一つだけある。想いがなければ何も起きないんだよ」というように。

・総論


 メインストーリーは素晴らしいのだが、あまりにも無駄が多過ぎる。最初からメインだけに注力した二時間程度の映画にしておけば、本作はもっと評価されただろうに、何とももったいない。

星:☆☆☆☆☆☆☆(7個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:31 |  ☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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