『うた∽かた』

思春期。

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・はじめに


 2004年。オリジナルテレビアニメ作品。全十三話(テレビ未放送一話)。監督は後藤圭二。アニメーション制作はハルフィルムメーカー。十四歳の女の子が経験した一夏の不思議な出会いを描いた青春ファンタジー。漢字では「詩片」という造語で表記するが、本来の「泡沫」という意味も併せ持っている。各回の変身コスチュームをそれぞれ別のイラストレーター・漫画家がデザインするという珍しい形態を取っている。

・優しさ


 『ARIA The ANIMATION』『スケッチブック 〜full color's〜』『魔法遣いに大切なこと 〜夏のソラ〜』『たまゆら』等でお馴染みの、今は亡きハルフィルムメーカー制作の作品である。同社制作のアニメは、閉鎖的なアニメ業界の中でもかなりの異彩を放っており、脚本的な面白さを多少犠牲にしてでも、美術・音楽が一体になった柔らかい雰囲気作りを大事にする手法にこだわっている。本作にしても、ジャンルは魔法少女物でありながら、派手な魔法バトルなどは一切行わず、思春期の女の子の複雑な感情を温かみのある背景と美しいBGMを用いて丹念に描いている。いわゆる萌えでは他社に負けるが、見ていて優しい気持ちになれる作風はなかなか真似できず、今となっては貴重な存在である。
 本作の主人公は、中学二年生の十四歳の女の子。裕福な家庭に生まれ、優しい両親と一緒に何不自由なく育っている。そのため、非常に真面目で純粋、嘘をつくのもつかれるのも嫌いな性格である。その一方で、何事にも気後れして自分の意見を言うことができないという短所も併せ持つ。明日から夏休みという終業式の日のこと、旧校舎で想い人からもらった大事なアクセサリーを探していた彼女は、一枚の大きな古い鏡を見つける。すると、突然、鏡に一人の少女が映り、驚く主人公の目の前で実体化する。彼女は主人公の夢の中に出てきた少女だった。少女は主人公にアクセサリーを返す代わりに、自然界の神精霊(ジン)の力を与える。彼女が言うには、とある理由で十二種類の力を全て解放しなければならず、それを主人公に手伝って欲しいとのこと。こうして、二人は夏休みの間、一緒の時間を過ごすのだった。
 設定だけ見るとかなり複雑であり、かつ第一話で提示された謎が最終盤まで明かされないので、視聴者は常にもどかしい感覚を味わうことになる。もっとも、内容自体は非常にシンプルで、人と人の心の交流を十四歳の主人公の目を通して淡々と描いていくため、さほどストレスは感じない。例えば、第三話は、主人公の父から借りた何十万もする高価な腕時計を友人がなくしてしまい、それを神精霊の力を使って探すだけの物語だ。ここで描きたいのは、当然、金持ち自慢などではなく、そんな時計よりも友情の方が何倍も大事ということである。そういった良い意味での性善説に基づいたハートフル路線は確かに人を選ぶが、殺伐としたアニメが世に溢れている中、本作は一服の清涼剤になり得るだろう。

・神精霊


 鏡から出てきた謎の少女と出会ったことにより、主人公は俗に言う変身魔法少女になる。可愛らしい衣装に華やかな変身シーン。しかも、本作は水や風などの十二種類の神精霊の力を用いるため、各回で変身コスチュームが異なるという豪華さである。ただし、本作において主人公が魔法少女的な活躍をすることは全くない。なぜなら、彼女が得た物は厳密に言うと魔法ではなく、ただ単に神精霊と一体化するだけの能力だからだ。では、一体化して何をするのか? それは、一言で言うと「見る」ことである。千里眼のような物と解釈してもらって構わない。神精霊とは自然その物の力、それを通して世界を見るということは、すなわち、地球的な視点で我々人間の活動を見直すということ。その時、世界は普段我々が見ている物とは全く違って見えるだろう。
 当初、その能力は人や物を探す程度の使われ方しかしなかった。だが、徐々に主人公は今まで見えなかった物が見え始める。それは人の心の醜さ。欲望のままに女性を我が物にしようとする男。怠惰の限りを尽くした挙句、自分の身を危険に晒す女。平気で嘘を付いて他人の心を弄ぶ男。ほんの少しの気持ちのすれ違いから心を壊す女。また、いつも笑顔で振る舞っている主人公の友人達も、密かに重いトラウマを抱えていた。本作では、それらをキリスト教における七つの大罪「傲慢・憤怒・嫉妬・怠惰・強欲・暴食・色欲」になぞらえている。良家のお嬢様で、人間の汚い面を何一つ知らずに育ってきた主人公にとって、それはショッキングな光景だった。そのため、彼女は理想と現実の狭間で悩み苦しむ。結果、神精霊の力に恐れを抱き、もう二度と使わないと宣言する。
 「ハートフル路線はどこに行った?」と突然の掌返しに困惑する方もいらっしゃると思うが、心の闇を描くことと優しい世界を描くことは矛盾しない。むしろ、闇のない光など紛い物である。揺れる心とそれにくじけぬ心を同時に描くことで、人間の本来持つ温かさを表現できる。そして、それを可能にしているのが、最初から最後まで一貫した優しい雰囲気の演出である。つまり、演出は脚本に勝るということだ。そう言えば、本作は近年の深夜アニメ以上に下着や裸といった性描写が多いのだが、あまり気にならない。つまり、演出はエロに勝るということだ。

・恋愛


 主人公には片思いの相手がいた。それが彼女の家庭教師をしている双子の大学生の一人。主人公が魔法少女になったのも、彼からもらったアクセサリーを傷付けたくないという一途な恋心がきっかけだった。だが、ある日、彼が別の女性と話しているのを目撃してしまい、主人公は激しく動揺する。それは嫉妬の心。普通、想い人が異性と話したぐらいではこれほど嫉妬しないが、何と言っても彼女は汚れを知らない十四歳の中学生。彼女にとって、それは世界が崩壊するのと同じぐらい衝撃的な出来事だった。結果、彼女の心はますます不安定になる。二重人格のような状態に陥り、神精霊の力を使って恋敵を殺そうとしたり、崖から飛び降りて自殺しようとしたり。最後は体にまで変調を来たし、食事が喉を通らなくなるなどボロボロに疲れ果てる。
 そこで終わると、昨今流行りの終末系魔法少女物と同じ結末になるが、本作の主人公は違う。悩みに悩んだ末、彼女はつらい現実から逃げることなく、人として強くなることを決意する。そして、ついには自力で立ち直り、子供時代から卒業して大人の階段を昇り始める。その姿は実に感動的だ。ここで疑問に挙がるのは「なぜ、他のアニメと違って彼女は自分の力で立ち上がることができたのか?」である。もちろん、神精霊の力が上手く働いたのは事実だが、それはあくまで副次的な物に過ぎない。大きな理由として考えられるのは二つ。一つは鏡の少女がずっと側にいてくれたから。本音で語り合える親友の存在が、思春期の人格形成に如何に大切かということ。もう一つは恋をしていたから。恋愛は一人ではできず、必ず他者の存在が必要になる。それは言いかえると、常に他者の視線=鏡を気にしているということである。自分の殻に閉じ籠もっている人間は絶対に成長しない。他者との関係性があって初めて前に進むことができるのだ。昨今の女性だらけのアニメの一番抜け落ちている観点がこれである。他者を排除し、自分達だけで答えを出そうとするから不自然なことになる。それほど人間は器用な生き物ではない。
 ちなみに、この双子は実は主人公達と同じ境遇の人々で、元魔法少年と元鏡の少年の組み合わせである。そして、主人公と鏡の少女が親友の枠を超えて親密になるのと同じぐらい二人も親密になる。つまり、同性愛的な関係になる。男性視聴者からするとあまり気持ち良いとは言えない光景だが、百合が良くてBLがダメな道理はない。まぁ、わざわざこの作品でやる必要はないと思うが。

・試練


 第十二話において、ようやく本作の真実が明かされる。今までのことは、全て何らかの高次の存在の命により、鏡の神精霊が仕組んだことだった。彼らの目的は、地球の実質的な支配者である人間の未来を試すこと。そのため、子供ほど純粋ではなく大人ほど汚れていないちょうど中間の年代である十四歳の少年少女を「試しの子」に選び、彼らに神精霊の目を通して世界を見させて、人間の行く末を決めさせる。彼らの返答次第で、人類全員を抹殺するか試しの子を抹殺するかを決定する……どこかで聞いたような話だが、まぁそれは置いておいて、要は人間視点でなく神視点で人間の活動を見返してみるとどうなるかである。すると、人間の醜さが嫌と言うほど見えてくる。では、主人公はその試練にどう答えたのだろうか? 地球の未来のために人類抹殺を選ぶのか、それとも、世界に絶望して自分自身を消し去るのか。もちろん、人として大きく成長した主人公は、そんな答えは出さなかった。彼女の回答は「選べないじゃなくて、選ばない」。明と暗、善と悪、好と嫌、真と偽、どちらか一方に傾くのではなく、両方を一つに飲み込んでいるのが人間だと。そんな曖昧さや危うさを内包しつつ、常に成長し変わっていくから人間は素晴らしいのだと。その回答は鏡の神精霊の満足を得る物ではなかったが、鏡の少女の自分の身を犠牲にした助けもあって、主人公の処分は保留される。そして、試しの子は次の十四歳に受け継がれる。
 正直、ストーリー的には問題満載である。こういった話にするなら、七つの大罪をもっとフィーチャーして、人間の醜さをこれでもかと描かないといけないだろう。また、なぜ主人公が許されたのかに対してのロジックが足りないため、視聴後に何とも言えないもやもや感が残る。ただ、本作がやりたいのは、あくまで思春期の心の成長を美しい美術と音楽で描くことである。最後の審判はその舞台装置に過ぎない。特に「自分と世界の二者択一」などは典型的な中二病患者の思考であって、主人公の未成熟な心理のメタファーになっている。言ってみれば、本作の物語全体が主人公の妄想、もしくは脳内世界のような物なのである。そういう意味では本作の完成度は極めて高い。テーマを一つに絞ること、そのテーマに沿って設定・脚本・演出を決定することが如何に大切かが良く分かる作品である。

・総論


 テーマとストーリーと演出が見事にマッチした良作。いろいろと荒削りな部分はあるが、それも含めてずっと視聴者の心に残り続ける、そんな作品である。

星:☆☆☆☆☆☆☆(7個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 12:39 |  ☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『有頂天家族2』

二代目の苦悩。

公式サイト
有頂天家族 - Wikipedia
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・はじめに


 2017年。森見登美彦著の小説『有頂天家族 二代目の帰朝』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は吉原正行。アニメーション制作はP.A.WORKS。京都洛中を駆け回る狸達を描いたシリーズ第二段。エンディングムービーは各シーンを弁天目線で描き直した物、早い話がネタバレである。

・第二期


 本作のコンセプトは、前作に引き続き「阿呆(あほう)の代名詞である狸の、その中でも特別に阿呆な主人公が巻き起こすドタバタな日常を面白おかしく描く」である。人間は誰しもが適当にのんびり暮らしたいと思っているが、様々な生活の柵によって自分自身を偽って生きている。時には狸以上に平気で他人を化かす。そんな人間の馬鹿らしさを自由気ままな狸の目を通して見て行こうというのが本作の趣旨である。「面白きことは良きことなり!」が全体の共通メッセージになっており、風光明媚な京都の町を舞台に天狗と狸と人間の阿呆な化かし合いを情緒豊かに描いている。
 ただ、この第二期は、前作に比べるとより無節操なドタバタ感が強く、終始、締まりのない作品になってしまっている。偽右衛門選挙と金曜倶楽部の忘年会という縦軸がしっかりと通っていた第一期と違って、何をやりたいのかがいまいちはっきりしない。ストーリー一つ取っても、主人公が偽右衛門選挙の立会人に二代目を指名したことや、敵役である夷川早雲の動きなどにやや強引さを覚える。前者にしても、二代目を推挙すれば弁天が怒るのは目に見えていたはずである。いくら「波風立てるぜ」と歌にしたところで、無理やり立てればいいという物ではない。後者にしても、どう考えても死んだようにしか見えない演出は如何な物か。よしんば主人公は騙せたとしても、実の娘までは騙せないだろう。それゆえ、もう少し無理なく話を進められるような伏線か何かが事前に必要だったのではないだろうか。
 そして、二代目である。第二期からの新キャラクターである彼は、主人公の師匠に当たる天狗・如意ヶ嶽薬師坊の二代目で、正真正銘の天狗である。ところが、彼は第一話において華々しく登場するにも係わらず、その後は積極的にストーリーに絡んで来ようとはしない。なぜなら、彼は基本的に争い事を好まない冷静沈着な性格であり、しかも、過去の諍いによって天狗であることに嫌気が差し、物見遊山を決め込んでいるからだ。そのため、第二話以降はその他大勢の中に埋没し、重要な役どころを担うと予想していた視聴者は総じて肩透かしを食らう。ストーリー的に仕方ないとは言え、タイトルにもなっているのだから、もっと彼は話の中心にいてもいいのではないだろうか。

・原作との違い


 本作は人気小説の第二作目をアニメ化した作品である。基本的な流れは原作と全く同じなのだが、尺の都合上、削ったり順番を入れ替えたりしたシーンが幾つか存在する。それが同時にアニメ版の特徴になっている。
 前半はかなり飛ばし気味で、多くのシーンが本編から削られている。そのため、前後の繋がりがおかしなポイントや、説明が不足している登場人物などが多数存在する。特に、呉一郎という新規キャラクターがその煽りを一番受けており、原作を読んでいないと設定を理解するのはかなり難しいだろう。他に目立つ変更点と言えば、第二話~第五話のエピソードの順番が入れ替わっていることが挙げられる。具体的に言うと、将棋に関する事項は全て後に回され、量自体も大きく減らされている。その考えられる理由としては、主要キャラクターである弁天の登場をできるだけ早くして、視聴者に重要性を強くアピールするためだろう。第三話で登場するのと第五話で登場するのとではインパクトがまるで違う。つまり、わざと順番を入れ替えることによって、この作品は弁天の物語だということを示しているわけである。
 後半は原作とほぼ一緒だが、最終話だけは大きく変更されている。弁天と二代目の戦闘シーンを詳細に描くのはさすがアニメーションの真骨頂と言うべきだが、その後の主人公と弁天の切ない会話はあっさりと流され、本来は中盤のエピソードであった主人公と許嫁の微笑ましい会話を最後に持ってきている。これも意図は明確だ。主人公と弁天という「狸と人間」の関係よりも、主人公と許嫁という「狸と狸」の関係の方が大事だとアニメ版の制作者は言いたいのである。だが、それでは前半の順番変更と矛盾する。この作品は弁天の物語ではなかったのか。そもそも、本シリーズはあらかじめ全三部作であると明言されており、この第二期はクライマックスへの繋ぎの物語である。それならば、狸と狸の関係は第三期に回し、この第二期では狸と人間の関係をしっかりと描くべきではなかっただろうか。正直なところ、この改変はアニメ版制作者の勇み足に思える。原作に思い入れがあり過ぎるがゆえの失態だ。もっとも、必ずしも第三期を作れるとは限らないので、難しい判断ではあるのだが。

・二代目


 本シリーズにおいて重要な位置を占めるキーワードが「二代目」である。主人公の父親は今は亡き先代の狸界の長こと偽右衛門であり、その名を洛中に轟かせていた。主人公達兄弟はそんな偉大な父を心から尊敬し、父のようになりたいと日々努力している。だが、阿呆の血が災いし、いつまで立っても彼に追い付けそうにない。偉大な先代を持った二代目の苦悩、それが本作のテーマの一つとなっている。
 第二期では、そんな主人公達のカウンターパートとなる人物が登場する。それが如意ヶ嶽薬師坊の二代目である。彼もまた偉大な父を持つ二代目(※血は繋がっていない)だが、かつて一人の女性を巡って父子で悶着を繰り広げた結果、今では父を殺したいほど憎んでいる。その一方で天狗その物に嫌気が差し、「私は天狗ではない」と言い張って悠々自適の生活を続けている。彼は落ちぶれた父親を見て一笑し、「殺すまでもない」と言い放って引き下がる。父を心から敬愛し、父のようになりたいと思っている主人公とは正反対である。似たような境遇でありながら、育ち方一つでここまで考えが変わるのは面白い。ただし、受け入れるにしても拒絶するにしても、結局は父の存在を意識していることには変わりない。彼の優雅な生活を支えている財力は、おそらく天狗の力を使って手に入れた物であろうことは想像に難くないのだから。天狗であることを拒否するなら、全ての力を捨てて人間として生きなければならない。どうせ逃れ得ぬ運命ならば、父と同じ道を歩み、父を追い越して初めて本当に精神的に自立したと言えるだろう。それゆえ、薬師坊は戦いで傷付いた息子に向かってこう告げるのである。「悔しければ強くなれ」と。
 また、本作のラスボスが主人公の叔父であることも興味深い。つまりは、一代目と二代目の世代間の争いである。時代は移り変わる物だ。旧世代がいつまでものさばっていては、決して世の中は進歩しない。子供はいつの日か親を打ち倒す物である。そういった生き物が何万年も続けてきた営みを、狸の頭領を決める偽右衛門選挙という形で本作は描いている。偽右衛門を目指す主人公の兄と叔父との対決、つまり、子供の夢を邪魔する大人という構図である。そうなると、子供の側を応援したくなるのは自然の摂理。本作が幅広い世代に親しまれている理由の一つがそれだろう。

・弁天


 さて、本題に入る。本作の主役は、誰が何と言おうと弁天である。主人公は物語の中心に立って全方位に波風を起こすトリックスター的存在であるが、彼はあくまでも狸、我々とは違う世界の生き物だ。一方、弁天は数少ない人間のキャラクターであり、様々な業を背負って生きている人間の儚さを象徴している。それゆえ、本当に視聴者の分身となり得るのは、主人公ではなく彼女である。
 本作において、弁天は如意ヶ嶽薬師坊の二代目と二回戦い、二度共敗れている。物語のセオリーに従えば、通常は二度目に勝利、最低でも何らかの爪痕を残す物だ。だが、本作では彼女は二度にも渡って無残に敗退し、ボロボロに傷付いている。そこに作者の強いメッセージが見て取れる。ここで今一度、彼女の生い立ちを振り返ってみると、如意ヶ嶽薬師坊にさらわれるまで彼女は汚れを知らない純真な少女だった。だが、天狗の能力を身に付け、己の中に眠る天狗的才能に気付いた時、彼女は性格を一変させる。人を人と思わない傲岸不遜な性格になり、金曜倶楽部に加入して傍若無人に振る舞う。そして、人間でありながら天狗になろうとする。だが、その鼻っ柱を本物の天狗が叩き折る。すなわち、弁天はどこまでも普通の人間であり、どんなに頑張っても本当の天狗にはなれないということだ。言い換えると、彼女の生き方は間違っているのだと作者は物語のセオリーを無視してまでも訴えたいわけである。
 本作が他の作品と違うのは、本人が最もそれを理解していることである。劇中で直接語られることはないが、そのヒントはあちこちに残されている。だが、一度走り始めた車を止めることはできない。心の底では元に戻りたいと思っていても、このまま天狗への道を突き進むしかない。そのため、彼女は自由気ままに生きている狸に羨望と共感を抱いている。そこに来て今回の事件である。彼女は言う。「私って可哀想でしょ?」。主人公は思う。「弁天に必要なのは私ではない」。彼女の側にいるべきなのは狸でも天狗でもなく、道を正してくれる人間である。それを担うべき人材は第二期には出て来ないが、はたして第三期はどうなるだろうか。心して待ちたい。

・総論


 ドタバタと見るか、バラエティ豊かと見るか。実に三部作の二作目らしい作品。魅力的な女性キャラクターが多数登場する点は、良いセールスポイントだが。

星:☆☆☆☆☆☆☆(7個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:17 |  ☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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