『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』

簡略化の好例。

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蒼き鋼のアルペジオ - Wikipedia
蒼き鋼のアルペジオとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。Ark Performance著の漫画『蒼き鋼のアルペジオ』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は岸誠二。アニメーション制作はサンジゲン。世界を守るため潜水艦を駆って謎の艦隊と戦う少年の活躍を描いたSF海洋戦記。アニメ化に当たって、設定・キャラクター・ストーリーがかなり大胆に簡略化されている。一応書いておくが、ブラウザゲーム『艦隊これくしょん-艦これ-』がリリースされたのは2013年、本作の原作が初掲載されたのは2009年である。

・ストーリー


 地球温暖化で陸地面積が減少した近未来。突如として現れた「霧」と呼ばれる謎の艦隊が武力で海上を封鎖し、物流と情報が遮断された人々は困窮に喘いでいた。国連軍は総力を挙げて反撃を試みるも、圧倒的な敵の科学力の前に成すすべもなく敗戦。人類は滅亡の時をただ静かに迎えようとしていた。五年後、海軍の士官学校に通う主人公の前に一隻の潜水艦が現れる。明らかに霧側の軍艦に思われるその船は、自らの人工知能をメンタルモデル(擬人)化して主人公に接触する。イオナと名乗る彼女の意志に誘われるまま、主人公は潜水艦を駆って大海原へと旅立つ。それから二年後、そこには独立艦隊「蒼き鋼」として霧に単身立ち向かう主人公の姿があった。
 極めて王道のSFストーリーである。謎の侵略者と人類の間には圧倒的な科学力・軍事力の差がある。このままでは間違いなく人類は滅亡する。だが、降伏寸前に主人公達は敵側の兵器の鹵獲に成功する。その兵器のテクノロジーを研究し、もしくはそのまま用いて人類は最後の反撃に出る、というSFの黄金パターンを踏襲している。しかも、その兵器は、謎の力により主人公にしか操縦することができないということにしておけば、主人公が人類最後の希望になる必然性が生まれ、地球の平和を守る僕らのヒーローが誕生する。七十年代・八十年代のロボットアニメは大体がこういった流れを取る。さらに、その兵器には人格があり、殺戮兵器としてのアイデンティティと主人公に対する愛情の狭間で葛藤し、もがき苦しむなどとしておけば、九十年代・ゼロ年代のロボットアニメになる。本作は、人格を持つ軍艦同士の戦闘ということで基本的には後者のジャンルに含まれるが、主人公のヒーロー然とした佇まいは八十年代のテイストを色濃く残している。
 ここでいきなり最終話の展開を書いてしまうと、暴走した敵旗艦のメンタルモデルに対し、ヒロインのイオナが単身敵艦に乗り込んで説得を試みるというアニメオリジナルストーリーになる。これなどはまさに往年のロボットアニメのそれだ。単純な殴り合いでは終わらせず、当事者同士の思想のぶつけ合いで決着を付けようとする。原作付きとは言え、岸誠二監督の手がけた他の作品『persona4 the ANIMATION』『DEVIL SURVIVOR 2 the ANIMATION』『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation』『結城友奈は勇者である』等が総じて同じ展開になっていることを考えると、当時のロボットアニメの影響を強く受けているのだろう。そして、先に結論を書くと、そういったフォロワー群の中でも、本作は珍しく成功した部類に含まれる作品である。

・潜水艦


 上ではロボットアニメについて語ったが、本作はロボットアニメではなく潜水艦アニメである。数ある軍事兵器の中でも、潜水艦は独特の様式美を誇っている。その魅力に憑り付かれたファンも少なくない。それゆえ、そのオンリーワンの性質を上手く描けていないと、一気に評価が下落することになる。
 潜水艦の特徴、それは非常に制約が多いことである。まず、根本的に潜水艦は外が見えない。外界の様子を探るには超音波探信儀(ソナー)を使うのだが、それさえも相手の正確な位置を特定できる物ではない。だからと言って、こちらから探信音を打てば、自分の居場所を敵に伝えることになってしまうので、むやみやたらに使用することもできない。すると、多くを乗組員の予測と想像で補う必要が出てくる。戦闘にしても、全ての攻撃手段に対して有効な防御手段が用意されているため、単なる力押しでは絶対に勝てない。刻一刻と変化する状況に応じて、複数の攻撃を効果的に使い分ける必要がある。そして、何より大事なことは、海中では機体の一つの損傷が命取りになるため、魚雷一本で簡単に勝敗が決してしまうことだ。それはまさに剣術の達人同士の決闘を思い起こさせる。これらから導き出される結論は、潜水艦による戦いは極めて高度な「頭脳戦」だということである。敵の位置を予測し、敵の思考を読み、その上でこちらの行動を決定しなければならない。一つでも手順を間違えると海の底だ。潜水艦の艦長は、そのような状況下で持てる知識と経験をフル活用して意思決定し、乗組員を勝利に導かなければならない。そのとてつもない重圧と緊張感を描けるかどうかである。
 また、本作は人工知能vs人間の戦いでもある。つまり、将棋における電王戦のような様相を呈している。となると、人工知能らしい潜水艦の戦い方と人間らしい潜水艦の戦い方をちゃんと描き分けた上で、最終的に人間の方が優れていると示さなければならない。これは恐ろしい難問だ。人工知能らしい戦い方と言うと、やはり戦術が教科書通りで融通が利かず、ハプニングに対して臨機応変に対処できないということになるだろうか。ただし、将棋の電王戦を見る限り、余程のことがない限りコンピュータ側がミスを犯すことはないので、人間側にそれを越えるほどの天才的な発想力が必要になる。本作がそれを描けているかと言うと、正直なところかなり厳しい。劇中の戦闘描写を見る限り、ほとんどが敵側の判断ミスによる自滅だ。将棋で例えるなら、日曜日の趣味サークルレベルであろう。そんな連中に世界の海が支配されたと考えると哀しくなってくる。(なお、原作では霧には元々戦術という概念すらなかったとされている)

・人造人間


 本作のメインテーマは「人造人間譚」である。それは『ローゼンメイデン』や『GUNSLINGER GIRL』等、本ブログでも何度か取り上げているテーマである。そもそも、アニメのキャラクター自体がある種の人造人間なので、非常にアニメーションとの相性が良く、ゆえに名作も多く生まれている。基本的には、人造人間と人間の違いを探ることによって、逆説的に「人間とは何か?」を見つめ直すという物だ。その問いは人類にとって不朽不滅の哲学的課題であるため、人々を惹き付ける確かな魅力を有している。
 元々、霧の艦船は固有の人格を持たない従来型の人工知能で動いていた。だが、人類との戦いを通じて、人間型の知能の方が戦闘に有利であるという結論に至り、自らメンタルモデルを作り出した。それは同時に機械が感情を手に入れることだった。その結果、彼ら自身も予想が付かない様々な異常事態を引き起こす。霧の艦船の一人「ヒュウガ」は、自らを撃沈したイオナに対して倒錯的な憧憬の念を抱き、霧を裏切って主人公側に付く。「タカオ」は人間に操縦される船としてのアイデンティティーに目覚め、敵艦艦長の主人公に恋心を抱く。「ハルナ」と「キリシマ」は自分達に対抗する兵器開発のために作られたデザインベビーに同情し、彼女と一緒に脱出する。一方、ラスボスである敵旗艦の「コンゴウ」だけは、そんな彼女達を嫌悪して霧に忠誠を誓い、自分の手でイオナを倒すことを決意する。だが、機械はそもそも自分の役割に疑問を抱かない。霧に忠誠を誓うことやイオナを倒したいと願うこと、それ自体が感情の発露なのである。その事実を指摘されたコンゴウは我を失って暴走する。
 こうして見ると、機械が感情を持つことはデメリットしかないように思われる。実際、イオナは「自分の身を犠牲にして主人公を助ける」というロボット工学三原則的にあるまじき行為さえ行っている。また、兵器が自我を持つことは非常に危険である。『そらのおとしもの』の項目で書いた通り、殺人兵器が恋愛感情によって暴走することは幾らでもあり得るのだから。だが、本作では機械が感情を持った結果、辿り着いたのは敵と味方の相互理解であった。それは平和への唯一の道しるべである。そして、その一見遠回りに見える行程こそが人間型の人工知能が持つ可能性であり、人間の素晴らしさであると本作は訴えている。
 ただし、それを可能にするのは人間との関わり合いにおいてのみだ。機械は人間に使われて初めて存在価値を持つ。自立した機械はもう機械ではない。本作にはその観点が少し欠けている。そういう意味では、人間との絆をしっかりと描いた他作品には一歩及ばない作品である。

・空白の二年間


 それとは別に、本作には極めて大きな欠点が三つ存在する。まず、一つ目は、主人公の思想形成の過程が全く分からない点だ。彼は非常に博愛的な思想の持ち主である。人類を滅亡寸前まで追い込んだ霧に対しても寛容で、「必ず分かり合える」という信念を元に共存共栄の道を探っている。しかし、彼がなぜそのような思考を持つに至ったかがさっぱり分からないため、言葉に全く重みがない。初登場時はもっとクールな性格だったはずだ。普通に考えると、イオナとの交流を経て機械と人間の共存の可能性に気付いたということになるが……さて、どうなのだろうか。二つ目は、上述した霧が擬人化するようになった理由、それが劇中で具体的に描かれない点だ。台詞としてはちょくちょく出てくるので脳内補完できないこともないが、実際のところはよく分からない。この設定に説得力を持たせるなら、人間型人工知能の方が有利であると気付いた何らかの決定的な事件が必要ではないだろうか。そして、三つ目は、ヒロインの主人公を慕う理由がテレビアニメ版では最後まで謎として残る点だ。ヒロインが恋人のように主人公に付き従うのは、誰かにそう命令されたからである。信頼関係でも恋愛感情でもない。これは劇中で明言されている。しかし、本作のテーマは人造人間譚なのだから、ここが命令であっては困るのである。おそらく、どこかのタイミングで感情が命令を上書きして自立したのだろうと思われるが、それを匂わせるようなエピソードはない。これではただの三流萌えアニメになってしまう。
 こういった欠点が発生している原因は明らかで、それは主人公がイオナと出会ってから蒼き鋼として活躍するまでの二年間が、物の見事に省略されてしまっているからである。本作における面倒事は、全てこの空白の二年間の中に押し込められ、受け手の想像に委ねられている。これは、大事なところをあえて隠すことで「描かずして描く」を可能にするという一種の創作テクニックなのだろうが、さすがにこれでは説明不足だと言わざるを得ない。少なくとも、回想シーンや外伝などでフォローすべきだっただろう。
 もっとも、原作は十巻以上にも及ぶ長編漫画で、それをたったの1クールにまとめようというのがそもそも無茶な話だ。そういう意味では、本作は上手く原作を簡略化していると言えよう。創作の基本は足し算ではなく引き算と言うが、本作は余計な物を上手く削ぎ落とすことで、本当に描きたいテーマに絞って描いている。それは純粋に評価されるべきことである。

・総論


 もちろん、欠点は多数あるのだが、こういった難しいテーマに真正面から取り組んだ作品を適切に評価しないとアニメを語る資格がなくなる。まぁ、要は原作の出来がいいってことなんですけどね。

星:☆☆☆☆☆☆☆(7個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:35 |  ☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『がっこうぐらし!』

日常系アニメの終焉。

公式サイト
がっこうぐらし! - Wikipedia
がっこうぐらし!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2015年。海法紀光原作・千葉サドル作画の漫画『がっこうぐらし!』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は安藤正臣。アニメーション制作はLerche。ゾンビに占拠された学校で女子高生達が生き延びる日常系サバイバルホラー。ニコニコ動画のアニメ部門で初めて第一話の再生数が百万回を超えたことが大きな話題になった。

・学園生活部


 巡ヶ丘学院高等学校学園生活部。学園に泊まり込んで生活することを目的に設立された部活動。部室は元々生徒会室だった部屋、主な活動場所は屋上、現在の部員は四人。その中の一人、高校三年生の主人公は友人達に囲まれて楽しく毎日を過ごしていた。彼女は明るく元気な性格で、ヤンキー系のクラスメイトとも仲が良い。だが、その光景は全て心を病んだ主人公の見た幻想だった。実際の学校はパンデミックによって発生した大量のゾンビに占拠されており、唯一の生き残りである主人公達は屋上に閉じ籠もって救助を待っていた。学園生活部とは、そんな彼女達に生きる希望を与えるために、今は亡き女性教師が作った架空の部活動だったのだ。
 という感じで、本作は衝撃の第一話を持って物語の幕を開ける。『結城友奈は勇者である』と同じく、日常系アニメというジャンル自体を伏線にして、その前提を覆すことで強いインパクトを与え、視聴者の注目を集めるという手法を取っている。実際、ネット界隈では大きな話題になり、斬新なアイデアが称賛を集めた。その事実が示すことは、もうアニメファンは日常系アニメという物それ自体に飽き始めているということだろう。卓球に飽きた卓球部員がラケットを左手に持って遊び始めるように、そろそろ同じことの繰り返しではなく新しい刺激を求め始めている。その結果が、穏やかな日常と正反対に位置するゾンビ系のサバイバルホラーということになったのだろう。それは非常にトリッキーな手段であり、ある意味卑怯なやり口である。ただ、『結城友奈は勇者である』と違って、本作は設定と構成の組み立て方が抜群に上手いため、不快感は少ない。特に構成は、第一話でどんでん返しを仕掛けた後、すかさず第二話で設定をフォローし、続く第三話からの回想回でキャラクターの紹介をしつつ、第六話でもう一つのどんでん返しを起こす。そして、事件の真相に迫りながら、ラストのクライマックスに辿り着くという流れで、最後まで視聴者の興味を持続させる作りになっている。インパクト重視でありながら、ただの「出オチ」で終わらないようにしているのはさすがだ。とは言え、話のピークが第一話にあるのは紛れもない事実なので、視聴意欲が右肩下がりになるのは否めない。戦闘能力のインフレと同じく、以前味わった刺激より大きな刺激を受けなければすぐに飽きてしまう。ゆえに、本作はこの世に生を受けた瞬間から、そういったジレンマと戦わなければならない宿命を抱えている。

・ゾンビ


 もちろん、ストーリー上の問題点も幾つか存在する。ただし、それは本作の問題点というより、世に乱立するゾンビ物の共通の問題点だ。ゾンビ物というジャンルが成立して早数十年、今ではお約束となっていることも、冷静に考えると奇妙ということが多い。
 まず、最初の問題点として、感染拡大のスピードがどう考えても早過ぎる。本作で言うと、早朝の段階では市内の交通事故が話題になり始めたという程度なのに、夕方にはもう都市機能が完全に麻痺して学校がゾンビの巣窟と化している。感染爆発により患者がネズミ算式に増えるのは理解できるが、このスピードは幾ら何でも異常だ。これではゾンビに咬まれた直後にゾンビ化しないと計算が合わず、後の描写と矛盾する。そして、何より大切なのは、それほど感染が早いのならば、なぜ主人公達だけが大丈夫なのかということである。主人公達よりも身体能力が高く、危機管理のスキルを持っている者は幾らでもいるのに、彼らが死んで主人公達が生き残る道理がない。例えば、有名なゾンビゲームだと主人公は生まれ付きウィルス抗体を持っていたという後付け設定でお茶を濁しているが、そんな人間がたまたま同じ学校に集結するとは考え難い。すると、また余計な設定を付け加えないといけなくなり、どんどん内容がインフレ化する。最終的には異次元からの侵略者と戦う羽目になって、ゾンビとは一体何だったのだとなるのがオチである。
 もう一つの問題点は、やはりどうしても主人公達が超人的な活躍をしてしまうことだ。奇跡的に惨劇を生き抜いたとは言え、彼女達は普通の女子高生、自我を失い本能のままに活動するゾンビに戦闘能力で対抗できるはずがない。ところが、本作の登場人物はスコップ一本でゾンビと対等に渡り合い、ゾンビのひしめく通路を単独で突破し、自ら自動車を運転して物資の補給に向かったりする。家事仕事に苦労している様子もない。何の取り柄もない普通の少女達が極限状態を生き抜く様子を描かなければ感情移入は難しく、リアリティが失われる。もっとも、本作の場合は、ゾンビと直接的に戦うのは身体能力に優れた元陸上部員のヒロインのみで、他の部員にゾンビと対抗できる力はないため、『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』のような無茶苦茶さはない。また、音や光に興味を惹かれるゾンビの習性を上手く活かして排除するというシーンも幾つか見られるため、単純な力押しではない。そういった点には非常に好感が持てる。

・生きる希望


 本作は、第一話のネタばらしを持って日常系アニメとしての役割は終わりを告げ、死と恐怖が支配するサバイバルホラーへと移行する。だが、第二話以降も、心の病で現状認識できない主人公を中心にした日常系アニメ風のコミカルなシーンが時折挿入される。また、電波ソングが鳴り響く陽気なOPムービーもそのまま継続する。正直なところ、これらは全く作品の雰囲気に合っていない。無理やり話を明るく見せかけようとしている様子がかえって痛々しく、逆に視聴意欲を削ぐ。事実、劇中でも、後から学園生活部に加入した部員がそんな主人公の態度に疑問を覚え、「このままでいいのか」と部員達に問う。それに対して部長は答える。「こんな時だからこそ必要なのだ」と。
 ある日突然、平穏だった日常が瓦解し、世界は闇に覆われた。情報が遮断されたことで学校の外の様子を何も知り得ず、家族がどうなったのかすら分からない。知人・友人が皆ゾンビと化し、生きるためにはその友人すら殺さなければならない。そのような状況下で生きるということ、それは我々が想像する以上に過酷であるはずだ。しかも、主人公達は何の訓練も受けていない普通の女子高生で、つい昨日まで命の価値など考えたことすらなかった。そんな人々がこの状況下でまともでいられるはずがない。もちろん、正気を保とうと努力はしているが、人間である以上、それには限界がある。そんな彼女達にとっての唯一の「生きる希望」とは何か、それが主人公の存在である。妄想に捉われ、異変前と同じ行動を繰り返す少女。本来あってはならない光景。しかし、彼女達にとっては唯一昔の穏やかだった頃の日常を思い出させてくれる光景。いつかあの頃に戻りたい。その気持ちが今の彼女達をギリギリのラインで支えている。だからこそ、主人公の異常行動をこのままではダメと分かっていても放置して見守っている。
 考えてみると、世のサバイバル物でここまで「生きる希望」に注目した作品は少ないかもしれない。普通は「どうやって生き延びるか」というハード面に主眼が置かれ、「何のために生き延びるか」のソフト面は添え物になっていることが多い。一方、本作はあえて衣食住が何でも揃った楽園を用意し、そこでどう暮らすかに注目している。それを可能にしたのは、本作が日常系アニメのパロディーだからだ。この構成は実に見事である。

・卒業


 物語終盤、ついに廊下のバリケードが破壊され、ゾンビの集団が学園生活部員の生活スペースになだれ込む。その結果、極限状態でありながらもそれなりに安定していた日常があっけなく崩壊する。そして、部員達に危機が迫る中、追い詰められた主人公がようやく自我を取り戻し、彼女の機転によりゾンビを追い払うことに成功する。だが、ライフラインが全て破壊されてしまったため、もうここで暮らしていくことはできない。そこで彼女達は学校を引き払って、新天地に旅立つことを決意する。それは楽しかった学校暮らしからの卒業を意味する。
 さて、こういったストーリーを描くことで、本作は何を訴えたかったのだろう。それは当然、広義では学校生活、狭義では日常系アニメその物である。頑丈なバリケードに覆われた学校の一角。外は恐ろしいゾンビが蠢いているが、中は安全であらゆる設備が揃っている。親も教師もおらず、気の合う仲間だけで毎日を面白楽しく暮らす。これはもう今まで何度も見てきた日常系アニメの構図その物である。本作はそういった理想的な世界観をゾンビ物に置き換えることで、その状況が如何に不自然であるかを暴いている。そんな仮初の楽園は、いつか必ずゾンビにバリケードを突破されて終わりの時がやって来るのだから、いつまでも安全な場所に閉じ籠っていないで新しい世界へ旅立たなければならない。本作が訴えようとしたのはその一点だ。
 まとめよう。本作は日常系アニメのテンプレートを意図的に覆すことによって注目を浴びた。その世界は非現実的な理想郷に過ぎず、いつか必ず終わりがやってくる。それは明確に日常系アニメというジャンルの終焉を告げている。しかし、第一話こそ各方面から称賛を浴びたが、その後の評判は右肩下がり、最終話になると誰も話題にしなくなった。実際、メディアの売り上げは三千枚程度で、百万回以上も無料動画が再生されたことを考えると記録的な大失敗である(※ただし、原作漫画は飛躍的に売り上げを伸ばした)。結局、視聴者側は終焉を拒否したということだろう。よくよく考えればそれも当たり前で、アニメはただの娯楽なのだから、他人にどうこう言われる筋合いはない。卒業するかどうかは自分で決めるということだ。

・総論


 だから、もういいよ、こういうの……。

星:☆☆☆☆☆☆☆(7個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
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