『犬とハサミは使いよう』

必然性の欠如。

公式サイト
犬とハサミは使いよう - Wikipedia
犬とハサミは使いようとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。更伊俊介著のライトノベル『犬とハサミは使いよう』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は高橋幸雄。アニメーション制作はGONZO。ドSな女流作家と読書好きの犬が繰り広げるSMチックな愛憎の日々を描いたエロチックラブコメ。

・設定


 主人公は自他共に認める「読書バカ」の男子高校生。秋山忍という正体不明の人気ベストセラー作家の大ファンで、誰よりも新刊を心待ちにしている。そんなある日のこと、喫茶店で発生した麻薬密売事件に巻き込まれ、店内にいた女性をかばって命を落としてしまう。だが、秋山忍の新刊を読みたいという一念が奇跡を起こし、彼は犬の体に転生する。その後、なぜか主人公の心の声を聴くことができる女性に拾われるが、彼女こそが喫茶店で主人公が助けた人であり、しかも、小説家の秋山忍その人であった。彼女は鋭利なハサミを武器として常用するサディスティックな性格で、事あるごとに主人公を切り裂こうとする。こうして、猟奇的な小説家と読書バカの犬という一人と一匹の奇妙な同居生活が始まるのだった。
 ややこしい。シンプル・イズ・ベストの格言に真っ向から反逆する複雑極まりない初期設定だ。この難解な設定を成立させようと思ったら、「たまたま、主人公が犬に転生した」「たまたま、犬の声を理解できる人が近くにいた」「たまたま、それが主人公の助けた女性だった」「たまたま、それが小説家の秋山忍だった」「たまたま、彼女がハサミを愛用するサディスティックな女性だった」という五つの奇跡が同時に発生しなければならない。当然、それぞれの奇跡に対して論理的に納得できる説明を付けなければ、ただの都合の良いこじつけで終わってしまい、視聴者の没入感を妨げるだけでなく、後のシナリオに不整合を起こしてしまう。それでは自分で自分の首を絞めるだけだ。どうせ、本作がやりたいのは「女性と雄犬のSMチックな関係」しかないのだから、「犬の言葉が分かる特殊能力」という設定一つで全てを処理できるだろう。ただし、それだと痛々しい動物虐待の話になってしまうが。
 また、設定が混迷化しているがゆえに、「第一話の段階で物語の最終目標が分からない」という三流アニメにありがちな失敗も犯している。これが分からないと物語のメリハリがなくなり、続きを見たいという視聴者の意欲が損なわれる。「主人公が人間に戻ること」なのか「ヒロインが新作小説を書き上げること」なのか「二人が恋仲になること」なのか「ヒロインの過去が明らかになること」なのか、どれか一つでもいいから早い段階で目標を明示し、それを最終回で解決する、それが作劇の常識だ。はっきり言って、こんな物は基礎中の基礎の幼稚な問題であって、わざわざ行数を取って指摘したくない。非常に不愉快である。

・SM


 例えば、何らかの出版メディアが第三者に本作を紹介しようとすると、「ドSな女流作家と読書好きの犬が繰り広げるSMチックな愛憎の日々を描いたエロチックラブコメ」と呼称するだろう。事実、PVなどではそういったまとめ方がされており、それなりに楽しそうに見える。だが、この紹介文は必ずしも正確な表現ではない。確かに、そういうシーンは本作に存在するが、それは決して本作のメインストリームではないし、本作に存在しなければならない必然性もない。ただ、ユーザーのニーズに応えるため、前後の文脈に関係なく、それっぽいシーンを無理やり捻じ込んでいるだけだ。
 まず、犬となった主人公がヒロインの家に居座り続けなければならない理由が何もない。食料と寝床にありつけるから、好きなだけ本が読めるからと劇中で説明されているが、それは外に出るよりはましといった程度の後ろ向きな理由に過ぎず、完全なる主人公の自由意志である。そのため、物理的にも精神的にも全く束縛されておらず、逃げようと思えばいつでも逃げられる。一方、ヒロイン側も主人公を飼わなければならない理由がない。最初は心の声が聞こえるのが不快という理由で主人公を殺そうとしたが、彼が殺人犯から自分を守ってくれた命の恩人であることに気付いて、住む場所を提供した。ところが、その後も彼女は、まるでストレス発散でもするかのように暴力を振るい続ける。かと思えば、深い心理描写もないまま「犬」の主人公に恋愛感情を抱き、事あるごとにいわゆるツンデレ的な言動を繰り返す。その一連の行動には全く整合性がなく、彼女が何を考えているのかさっぱり理解できない。
 なぜ、そのようなことになっているかと言うと、要は愛情と暴力が完全に乖離してしまっているからだ。俗に言う「暴力は愛情表現の一つ」が、彼女からは全く感じられない。実際、後半になればなるほど、主人公がヒロインの小さな胸をからかい、怒ったヒロインが主人公の体毛を切るという行動がパターン化されるが、それはSMでも何でもないただの痴話ゲンカである。暴力という本来は相手の人格を全否定する行動が間に介在しても、なお離れられない「特殊な関係性」が男女間にあって初めてSMが成立する。例えば、本作の元ネタであろう『ゼロの使い魔』では、魔法使いと使い魔という絶対的な主従関係があり、ゆえに倒錯的な男女関係が意味を持っていた。対する本作は、ただの同居人程度の関係でしかなく、暴力も戯れ程度に過ぎない。そのため、本作がやっていることは「SMっぽい何か」でしかないのである。

・ギャグ


 公式サイトによると、本作のストーリーの概要は「読者犬×ドS作家が繰り広げるミステリ系不条理コメディ!」だそうだ。ミステリ系不条理コメディ……などと意味不明な供述をしているが、言うまでもなくこれは誇大広告である。ミステリだの不条理だの語る以前に、本作は根本的な作劇レベルが低過ぎて話にならない。単純な脚本の質だけで言うと、間違いなく業界トップレベルの酷さである。
 まずはソフトウェア的な面、すなわち、個々のシナリオを見ていこう。例えば、最初のエピソードでは、主人公を殺した犯人の潜伏先はかつて主人公の住んでいたアパートに違いないと、ヒロインが推理する。その理由は「犯人はまともな精神状態ではなかったから」。その際、ヒロインは主人公を死なせてしまったことで、ずっと自分を責めていたと告白する。主人公をノリノリでお仕置きしていたような気がするが? 二番目のエピソードでは、近所で通り魔事件が発生するのだが、なぜか主人公もヒロインも興味津々で自ら捜査を開始する。すると、被害者が皆、ヒロインの本を所有していたことが判明する。順番逆だろ。その後、通り魔の正体は嫉妬に狂った主人公の妹だということが判明する。実はそれはミスリードで、本当はヒロインのスランプを脱出させようとした担当編集者だということが判明する。実はそれはミスリードで、本当の通り魔は担当編集者がとっくの昔に退治していたことが判明する。ちなみに、ヒロインのスランプは自力で脱出していた。と、このように、序盤の一部分だけを取り出してみても、本作のシナリオがどれだけ狂っているかがよく分かるだろう。あらゆるストーリー上の不整合が「登場人物は変人だから」で処理されている。つまり、ギャグにしているということだが、それで誤魔化せる物と誤魔化し切れない物がある。本作は後者だ。この無茶苦茶な脚本をギャグで消化しろと言われても、笑いの神様は困ってしまうだろう。
 さて、そのギャグだが、ほとんどが女性の胸に関する物である。ヒロインの小さな胸をからかう、もしくは他の胸の大きな女性と比較して小馬鹿にし、笑いを取る。こうやって文字にすると酷さが際立つが、面白さの欠片もない犯罪ドストライクのセクハラである。この御時世、これを面白いと感じる腐った感性もどうかと思うが、それより、中高生がメインターゲットである深夜アニメ業界において、こういったあからさまな女性蔑視思想を垂れ流している現状自体が異常である。彼らが大人になって重役に就いた時、部下の女性に対してどのような行為に及ぶかは、さもありなんだ。
 なお、主人公は無類の本好きという設定だが、なぜかアニメや漫画のパロディ台詞(特にガンダム系)を度々口する。これに関してはもう論外なので語りたくもない。

・構成


 続いて、ハードウェア的な面、すなわち、全体的なストーリー構成を見ていこう。冒頭で「五つの奇跡」に対して論理的に納得できる説明が必要と書いたが、何とそれらは最後の最後までただの一つも解き明かされない。「主人公が犬に転生した理由」はまだいいとしても、「ヒロインが主人公の心の声を聴ける理由」や「ヒロインがハサミを愛用する理由」といった誰もが疑問に思う事象すらスルーされるのは一体どうなっているのか(主人公の心の声はなぜか担当編集者も聴くことができるが、それも説明がない)。唯一、「ヒロインが正体を隠している理由」だけは最終回で明らかになるが、そんな物は話の中心軸でも何でもないし、その理由も「若くしてデビューしたから」という恐ろしくどうでもいい内容である。つまり、本作には全体を通した一つのストーリーという物が何もない。ただ乱雑に複数のエピソードを並べているだけだ。
 その構成も無茶苦茶である。本作は、第一話から後のエピソードの重要人物が伏線として顔見せ程度に出演しているのだが、ストーリーに関係なく突然現れるため、完全に存在が浮いている。その中に三大若手ベストセラー作家と呼ばれる人々がいて、彼女達はちょこちょこ本編に顔を出しつつ、第十一話でついに一堂に集結する。そして、皆で執筆勝負をすることに……ならない。対決は直前でドタキャンされ、そのまま放置される。この盛り上がりそうで盛り上がらないという目先のギャグのために、ストーリー上の最大のクライマックスすらオミットしてしまう。今まで張ってきた伏線は何だったのか。このアニメは何がやりたいのか。最終的に、主人公が「みんな、前に進んでんだな」とつぶやいて、無理やりいい話風に締めくくる。
 結果的に一つ余った形になる最終話だが、全体の総括をすることもなく、今まで通りの陽気な単体エピソードを描くことに終始する。そのまま何事もなく終わるかと思うと、ラストにとんでもない事実が待っている。何と、これまでの話は全てヒロインが書いた小説の粗筋だと言うのだ。ここに来て「楽屋オチ」を持ち出すセンスもアレだが、それより、当代きっての人気作家であるヒロインがこのようなくだらない話を書くわけがない。小説家を馬鹿にしているのか? 本作は劇中で本の素晴らしさを力説しているのだが、どう考えても最も本を冒涜しているのは、ここのスタッフである。

・総論


 笑えないクソアニメ。GONZOらしいと言えば、GONZOらしいが。

星:★★★★★★★★★(-9個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:51 |  ★★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『聖剣使いの禁呪詠唱』

無制限。

公式サイト
聖剣使いの禁呪詠唱 - Wikipedia
聖剣使いの禁呪詠唱とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2015年。あわむら赤光著のライトノベル『聖剣使いの禁呪詠唱』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は稲垣隆行。アニメーション制作はディオメディア。二人の英雄を前世に持つ高校生の主人公が悪と戦う学園ファンタジー。禁呪詠唱と書いてワールドブレイクと読む。壊してどうする。

・主人公


 本作は「意図的に作られたクソアニメ」である。「そんな物、この世に存在するわけないだろう」と考える全国一億人の良識ある方々は、ぜひ一度、本作を見て欲しい。そうすれば、よく分かるだろう。アニメ制作スタッフが心の底から原作小説と原作者を馬鹿にしており、最初から良いアニメを作ろうという考えなど微塵も存在しないことが。
 クソアニメとそうでないアニメの違いなど一目瞭然だ。それは主人公がちゃんと物語の主人公をしているかどうかである。例えば、第一話。高校の入学式で居眠りをした主人公は、起床後、誰もいない講堂で二人の少女と出会う。彼女達はそれぞれ主人公と前世で因縁の間柄だったと語り、初対面の相手に濃密なスキンシップを要求する。こういった非現実的な状況に遭遇した時、普通の作品の主人公は一体どのような反応をするだろうか。驚いたり、怒ったり、逃げ出したり、反応自体は三者三様だろうが、物語の大きな転換点なのだから脚本的にも演出的にも極めてドラマチックなシーンとして描かれるはずだ。だが、本作の主人公はほぼノーリアクションのやれやれ系。それどころか、まるでよくある日常風景かのようなドタバタギャグとして処理される。当然、主人公のプロフィールや性格・趣味・特技、これまでの成育歴等は何一つ分からない。ところが、その後、彼は戦闘実技で辱めを受けたヒロインの復讐を果たすため、いきなり相手に決闘を挑む。何の戦闘スキルも持たないのに、だ。その間の葛藤はおろか心理描写すら一切ない。彼は入学式で居眠りをするようなグータラ人間ではなかったのか。ライトノベル原作アニメにおける男性主人公の扱いは総じて軽いが、ここまでどのような人間なのか分からない主人公は記憶にない。
 また、その作品特有の世界観を何も知らない視聴者に伝えるのも、主人公の大事な役目である。主人公自身がモノローグで語るパターンもあるが、無知な主人公が視聴者と一体になって未知なる世界を体験するパターンの方がより没入感が得られる。だが、本作はそのどちらもやろうとしない。他のキャラクターが代わりに説明することもない。それゆえ、最後の最後まで作品の世界観が分からないのである。どうやら舞台は現代の日本らしいが、魔法的な物が普通に存在する。一方、主人公の記憶にある前世の光景は、どう見ても中世ファンタジーである。ここはどこ? 私は誰? 前世の記憶をどうにかする前に、現世の記憶をどうにかしろと言いたい。

・設定


 仕方ない。主人公が劇中で全く設定を語ってくれないので、Wikipediaの解説文をそのまま引用しよう。「どこからともなく現れる異形の怪物『異端者』を倒すことの出来る者達・救世主(セイヴァー)の育成のために、前世の記憶を持つ人間が集まる亜鐘学園。ここで聖剣の守護者フラガと冥王シュウ・サウラの二つの前世を持つ少年・灰村諸葉(はいむら もろは)が、前世で出会った二人の少女と再び出会う。聖剣の巫女サラシャの前世を持つ嵐城サツキ(らんじょうさつき)と冥府の魔女の前世を持つ漆原静乃(うるしばらしずの)。二つの前世が目覚める時、最強の救世主が誕生する!」……ということらしい。何が凄いって、今初めて知った情報が半分ぐらいを占めている上に、未だに舞台である日本の歴史や怪物の目的、救世主の役割が何も分からないことである。こんな物は間違いなく前代未聞だ。映像作品としての良し悪しを語る以前に、スタートラインにすら立っていないということを制作者が気付く日は来るのだろうか。
 さて、これらの設定の中で、本作独自にして最大の売りは「前世」にまつわることである。だが、それは同時に最も説明不足な点でもある。主人公はかつての英雄の生まれ変わりで、強大な力を受け継いでいる。だが、彼自身はその記憶をほとんど持っていない、という基本設定は理解できる。しかし、その前世が彼の人格形成にどのような影響を与えているのかがさっぱり分からない。上述した通り、主人公は基本的には怠惰で漫然とした深夜アニメの主人公らしい性格の持ち主である。だが、バトルが絡むと急に態度が大きくなり、余裕綽々で敵を見下したり、上から目線で説教をしたり、時には暑苦しい啖呵を切ったりする。もし、それらが前世の記憶による物だとしたら、彼本来の人格は何なのかという疑問が生まれてくる。現世の主人公は実戦経験もなければ、戦闘訓練を受けたことすらないのだ。そんな普通の人間が急に尊大な態度を取り始めるのは、明らかにイレギュラーであり、違和感が果てしない。
 まともなストーリーテラーなら、現世の人格と前世の人格をまるで二重人格のように描き分け、自他共にそのギャップに驚く様を強調するだろう。例えば、漫画『寄生獣』の主人公は、寄生生物と融合したことで次第に非人道的な性格になっていく。そのことに対して本人自身が悩み苦しみ、人間らしさとは何かを自問する。それが物語という物だ。本作にしても、なぜか残酷な戦闘場面に直面しても冷静でいる自分に戸惑い、己の中の英雄を制御できずに苦しむといった描写があってしかるべきではないだろうか。何の抵抗もしないまま前世の人格が現世の人格を支配するなら、それはただの恐ろしい肉体乗っ取りでしかない。

・制限


 本作の主人公は、いわゆる「最初から最強のチート主人公」である。この世に生を受けた時点で世界最強であり、ゆえにあらゆる鍛錬や修行を必要としない。どんなに巨大な化け物も一人で倒すことができ、本気を出せば地球の地形すら変えることができる。ただ、勘違いしてはならないのは、「力があること」と「力を使いこなすこと」は全く別の概念だということだ。そして、その両者を混同している作品は、どう転んでも絶対に面白くはならないと断言できる。
 スポーツを例に挙げよう。サッカーは手でボールを触ってはいけない。バスケットボールはボールを持って歩いてはいけない。バレーボールはボールに三回しか触れてはいけない。といった形で、ルールにわざと不便さを盛り込んでいる。なぜ、そのようなことをするかと言うと、その不便さを解消しようとプレイヤーが創意工夫するによって、そこに「ゲーム性」が発生するからだ。技術を磨いたり、戦術を練ったり、チームワークを鍛えたりするのはそのためである。そこで必要になるのは「制限」という考え方である。どれだけ強大な力を持っていても、それを使いこなすのに十分な技量が必要になる。そういった制限を加えることで、ただの力押しに頼らないゲーム性のあるバトルの面白さが生まれる。だが、本作の場合はほぼ「無制限」。それはサッカーで言うと、いきなり主人公がボールを持って走り出し、一人でゴールを量産するような物である。確かに常人離れしているが、そんな物はやっている方も見ている方も面白くも何ともない。もちろん、本作も「前世の記憶を忘れている」という形で簡単な制限をかけているのだが、それを思い出すのに何の鍵も必要とせず、さらに思い出した呪文もただ威力が高くなっただけの単純な攻撃魔法なので、ほとんど無意味だ。
 また、無制限はストーリーにも悪影響を与える。第九話~第十話は、救世主団体のロシア支部に対して「たった一人で戦争」(原文ママ)を仕掛ける話だが、末端の組織から一つずつ潰していって最後に本部に辿り着くというゴリ押しにも程がある頭の悪い戦略を用いている。しかも、高校生だから健全な電車移動。平和ボケにも程がある。まぁ、それも仕方ない。真正面から戦っても必ず勝てるのだから、知略や謀略を巡らせる必要が全くないのである。だったら、寄り道せず真っ直ぐに向かうのは理に適っているが、物語的には死ぬほどつまらないと言わざるを得ない。

・クソアニメ


 等々、本作の欠点を書き連ねてきたが、実はこれらが最大の欠点ではない。一番の問題点は、全てにおいて明らかに「かっこ悪い」ことである。本作は、視聴者ターゲットである中高生がかっこ良いと思うような物をこれでもかと詰め合わせているのだが、それら一つ一つが悉くダサい。子供が剣を振り回しているようにしか見えないバトルシーンの殺陣に始まって、半 年 前、中二病丸出しの呪文名、無駄に細かいランク付け、主人公達が所属する討伐グループの英語のスローガン、世界を支配する秘密組織、幼稚園児レベルのモンスターデザイン、謎のカーチェイス、乱用する禁呪、ヒロインのトレーニング、ハードボイルド小説のような台詞回し、スマートホンで翻訳、捕虜を拷問、主人公しか使えないという兵法、そして、空中に指で文字を書く呪文詠唱。特に呪文詠唱に至っては、どう考えても早回しコントにしか見えないというお粗末さ。『チャップリンの禁呪詠唱』にタイトルを変えた方がいいのではないか。
 なぜ、ここまでかっこ悪いのか。逆説的だが、「かっこ悪さを描かなかったから」と言うことができる。例えば、本作のアニメ版オリジナルのラスボスは、主人公達と前世から因縁のある悪しきドラゴンである。おそらく、前世ではどうやっても勝てなかったであろう相手だ。それが成長はおろか劣化しているはずの現世で倒せた理由は何か? それはもちろん「仲間と協力したから」である。通常なら王道の感動物語になるところだが、本作では仲間の協力はあくまで応援程度であり、結局は主人公一人の力で倒したことになっている。なぜなら、仲間の力を借りて敵を倒すと、前世の主人公の弱さを認めることになってしまうからだ。この矛盾である。主人公を持ち上げるために、仲間すら犠牲にするのである。結局、真のかっこ良さを描くには、ある程度のかっこ悪さを同時に描かなければならないということであり、それを嫌った結果、見事なまでのダサさが生まれるという本末転倒な事態になっている。
 どちらにしろ、どれだけ原作がダメでも、アニメスタッフがもっと良い作品にしようと思って努力すれば、幾らでも良作になれたはずだ。だが、本作は悪い意味で原作をそのままアニメ化し、意図的にツッコミどころ満載のかっこ悪いクソアニメにすることで、手数を掛けずに視聴者の耳目を集めようとしている。いわゆる「実況向きのアニメ」という奴である。実際、第十話と第十二話は酷過ぎて逆に面白い。そういう意味では、制作者の目論見は成功していると言えるのかもしれない。しかし、意図的に作られたクソアニメは、やっぱりクソアニメである。それゆえ、世間が本作を評価することはないし、こうなってはいけないという悪い見本にしかならない。

・総論


 ちなみに、公式サイトのイントロダクションはこうである。「私立亜鐘学園高校。そこは前世の記憶に目覚めた若者たち――「救世主(セイヴァー)」が集う学び舎。ある者は、前世の記憶をもとに自らの進退から《通力(プラーナ)》を汲み出し武器と体術の戦技をもって敵を砕く「白鉄(しろがね)」となり、またある者は、物理を越える異能《魔力(マーナ)》を自在に操り、この世にあらざる魔術の業で敵を滅ぼす「黒魔(くろま)」となる。そんな亜鐘学園に、一人の少年が入学した。彼の名は「灰村諸葉」。史上初めて、白鉄と黒魔の二つの前世《剣聖×禁術保持者》の力に目覚めた彼は、それぞれの前世で永遠の絆で結ばれた最愛の少女2人とも同時に再開を果たし、誰よりも特別な運命を歩み始める――」(原文ママ)

星:★★★★★★★★★(-9個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:56 |  ★★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑
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