『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』

母親参観。

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ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2015年。大森藤ノ著のライトノベル『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は山川吉樹。アニメーション制作はJ.C.STAFF。新米冒険者が凛々しい女戦士と出会ったことで大きく成長する青春ファンタジー。本編の内容よりもヒロインの衣装、俗に言う「例のヒモ」の方が知名度が高いだろう。

・ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか


 いつも通り、ライトノベル原作アニメ恒例のタイトルいじりから始めよう。まず、普通の冒険者がダンジョンに求める物は何だろうか。それは未知への冒険であったり、そこから得られる多額の報酬であったり、世界的な名声であったりするだろう。もちろん、人の価値観はそれぞれなので、中には報酬や名声よりも異性との出会いの方が大切という人もいるかもしれない。そういう人にとっては、百万の富より美女のキスの方が何倍も栄誉ある物だ。それは何もおかしいことではない。ただし、大事なのはそれらが全て「命懸け」であるということだ。ダンジョンには凶悪なモンスターや恐ろしい罠が待ち構え、いつでも冒険者の命を奪おうと舌なめずりしている。常に危険と隣り合わせで、明日も日の目を拝める保証はない。つまり、ダンジョンに出会いを求める人は、恋愛に命を懸けることを何とも思わない根っからのプレイボーイということである。その前提を踏まえた上で、本作のストーリーを見て行かなければならない。
 主人公はこの稼業を始めてわずか半月の駆け出し冒険者。少々気弱で誰に対しても優しい性格である一方、レベル1の状態でダンジョンの五階層に挑むという無謀さも持ち合わせている。案の定、ミノタウロスに襲われて死にそうになったところを、通りすがりの一人の女戦士に救われる。彼女の凛々しさにすっかり惚れ込んでしまった主人公は、彼女に相応しい男になれるようもっと強くなることを決意する。はたして、彼は女戦士のハートを射止めることができるであろうか。が、本作のメインストーリーである……って、え、どういうこと? 意味が分からないんですけど。まず、この男は何のためにダンジョンに潜っていたのか。それは当然、「生活」のためであろう。ダンジョンでモンスターを倒し、報酬を得て、衣食住を賄い、生き延びる。しかし、新米冒険者では弱い敵しか倒せないため、得られる報酬も限られている。ならば、普通の人は今の暮らしをより良くするために強くなろうと思うはずだ。
 もし、このストーリーを成立させようと思ったら、彼はダンジョン探索以外に何らかの副収入があるか、冒険があまりにも簡単過ぎて退屈だったとしなければならないだろう。怠惰な生活を送っていた男性が憧れの女性と親密になるために生まれ変わる話は、ボーイミーツガールの定番パターンである。そうでないなら、それこそ主人公は三度の飯より女が好きという本物の色狂いの人間になってしまう。さすがに、そんな主人公では軽薄なエロアニメにしかならないため、もし「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」と問われたら、「間違っている。その前にやることがある」と答えるしかない。

・神様


 改めて設定をまとめよう。本作は神話の神々が実在し、下界に降りて人々と共に生活している世界である。神々は冒険者に戦う能力を与える代わりに、彼らを自分の眷属とし、「ファミリア」という名のギルドを形成している。そんな神々の内の一人、ロリ巨乳な女神「ヘスティア」は、未だに眷属が主人公一人しかいない駆け出し神様。彼女はなぜか主人公のことが大好きで、既成事実を作ろうと積極的にアタックするが、主人公はその好意に全く気付かない……という、少し視点を変えただけの典型的な「落ち物」系アニメである。こんな物は世の中に腐るほど転がっているので、さりとて話題にすることでもない。
 ただ、本作が他の作品と決定的に異なるのは、その神様がメインストーリーに全く絡まないことだ。詳しくは後述するが、彼女がいなくとも話は滞りなく進む。では、彼女は何のために存在するかと言うと、主人公のことを「全肯定」するためだ。彼女は主人公の隠れた才能を信じ、事あるごとに彼を褒め称え、どんなに失敗しても前向きな発言で勇気付ける。一つ屋根の下に同棲し、「君ならできる」と主人公をダンジョンに送り出して、無事に帰ってきたら「頑張ったね」と膝枕で慰める。神様なのにアルバイトをして、ファミリアの生計を支える。そんな彼女の存在は、間違いなく主人公にとっての「母親」である。主人公を外敵から保護し、絶大な安心感を与え、成長を後押しする。彼が「ダンジョンに出会いを求める」などとふざけたことを言えるのも、優しい母親に身分を保証されているからだ。もちろん、主人公本人はまだ十四歳なので幾らでも母親に甘えていいのだが、分別ある大人の視聴者が彼に自分自身を重ね合わせているとしたら、気持ち悪いというレベルではない。
 さらに気持ち悪いのは、その神様が鍛冶屋に土下座をしてまで主人公のために特注の短剣を作らせたことだ。その魔法の短剣は、持っているだけで能力を高める特別な力がある。ただ、主人公は他の女のために強くなると宣言しているわけで、それを手助けする武器を提供するような都合の良い女性が、この世に存在するはずがない。いるとすれば、それは母親以外にあり得ない。主人公も主人公で、断ればいいのに当たり前のように短剣を受け取って使用する。これでは息子のデートに来ていく服を母親があつらえるような物だ。この先、彼がどのように成長していくかは分からないが、少なくともストーリー開始時点では、全く自立できていないマザコンのお坊ちゃんである。ちなみに、父親に該当する役割の人物は当然のように出て来ない。しいて言えば、女戦士か。

・成長


 そんな本作であるが、折り返し地点となる第七話以降、微妙に路線を変更する。ひょんなことから女戦士に特訓を付けてもらうことになった主人公は、その過程で自分の本当の目標は「英雄になること」だと悟る。そして、強大な敵にたった一人で立ち向かったことで、彼は冒険者として大きく成長する。一見すると「強くなる」という目的自体は同じに見えるし、無謀さという意味ではレベル1で第五層に挑んでいた頃と何も変わりない。変わったのは、それらを「自覚した」ということだろう。以前は訳も分からずにふらふらとダンジョンに突入し、女戦士と仲良くなると馬鹿げたことを言っていたが、彼女と剣を交えたことで、自分自身の名誉のためにあえて危険を恐れず「冒険」し、報酬や名声を手に入れるというように変わった。女戦士の寵愛などその報酬の一つに過ぎない。つまり、それが良いか悪いかは別にして、本作はライトノベル原作アニメにしては珍しく、物語の途中でタイトルを否定した作品なのである。ただし、主人公自身がその誤りに気付いたという具体的な描写はなく、極めてナチュラルに目標変更している。最大の懸念材料である神様の存在もそのまま放置だ。本気で成長しようと思ったら、神様=母親から自立することが第一だと思うが、彼女はストーリー的に蚊帳の外に置かれ、ある意味大事に保護されている。だからと言って、女戦士との恋愛が精彩に描かれるということもなく、ハーレムでもボーイミーツガールでもヒロイックファンタジーでもない中途半端さが、第七話以降のストーリーの特徴である。
 それはともかく、その後、主人公は爆発的に急成長する。正確に言うと、秘められた天才的な素質が次々と明るみになる。特殊なスキルが幾つも発現し、魔法さえも軽々と使いこなす。そして、皆が驚く中、たった一ヶ月半でレベル2(中級者)にランクアップし、ダンジョンの中層へと進出する。確かに0からのスタートだったので、広義では成長に当たるのだが、やっていることはくだらない三流アニメのチート主人公と同じである。非常に疑問なのだが、これを見て本当に視聴者は楽しいと思うのだろうか。努力しているように見せかけて、全て「才能」の一言で片付けているこの物語に、何の才能もない視聴者が自分を重ね合わせるのは極めて困難だと思うのだが……。少なくとも第一期のストーリー上では、彼を急成長させないといけない理由は特に見当たらないため、違和感しか覚えない。

・演出


 本作の演出には二つの大きな特徴がある。一つ目は「ゲーム的」だ。本作は人間の持つ能力や特徴を全てステータスやスキルといった物で表している。比喩表現ではなく、実際に劇中で神々が能力を測定し、その具体的な数値が日常的に台詞として語られる。本作のメインターゲットである中高生にとっては、文学や映画よりもゲームの方が身近な存在だろうから、こういった演出法もありと言えばありなのかもしれない。ただし、主人公が女戦士に惚れて急成長したことさえも「憧憬一途」という名のスキルで表しているのは、論外である。そういったアナログな感情をデジタル化した瞬間、それはもう血の通った人間ではなくなってしまう。逆に言うと、そのスキルを持たない人間は、どれほど好きな女性のために頑張っても、努力が報われることは決してないということだ。そんなふざけた話が通るわけがない。
 もう一つの特徴は「感情的」だ。本作の登場人物は皆、何かある度に生の感情を剥き出しにして、大声で絶叫する。第六話などは、ヒロインの一人が数分間にも渡って涙ながらに主人公を激しく問い詰める。確かに、キャラクターが感情的に声を張り上げれば場は盛り上がるし、何となく言葉に重みがあるように錯覚する。ただ、感情が先走ると理論が置き去りになるのは自然の摂理。本作でも、なぜ主人公が急激に強くなったのかという疑問は、彼の叫び声によって体良く誤魔化される。いや、本当に誤魔化せているのだろうか。余程、純粋な人間でない限り、彼らの言葉を鵜呑みにしないと思いたいが。
 最終話。ダンジョン内にある街を巨人が襲撃し、皆で力を合わせて撃退するという『進撃の巨人』を丸パクリした展開になる。当然、各キャラクターは感情を剥き出しにして大声で叫び続ける。そのドサクサに紛れて、今まで張っていた伏線を一気に消化する様は別の意味で面白い。そんな中、主人公だけは当たり前のように特別扱いされ、秘められた才能をさらに開花させて、一人で巨人を打ち倒す。その偉業に対し、周囲の人々が一斉に天才だ英雄だと褒め称える。そして、ラストシーンは神様の膝枕。いや、あのさぁ……。まぁ、こういう物を好む人を否定するつもりはないが、そんな生き急がなくてもいいのにと素直な感想を述べさせて頂く。

・総論


 あくまで中高生向けアニメとして見れば許容範囲内だが、これをいい歳した大人が見ていたら痛いというレベルではない。本ブログの読者には、間違いなく『灰と幻想のグリムガル』の方をオススメする。

星:☆☆(2個)
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by animentary  at 09:42 |  ☆☆ |   |   |  page top ↑

『ご注文はうさぎですか?』

文化祭の模擬店。

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ご注文はうさぎですか? - Wikipedia
ご注文はうさぎですか?とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2014年。Koi著の四コマ漫画『ご注文はうさぎですか?』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は橋本裕之。アニメーション制作はWHITE FOX。ヨーロッパ風の街の喫茶店を舞台にした日常系アニメ。略称は「ごちうさ」。キャッチフレーズは「すべてが、かわいい。」で、明らかに特定の作品を意識している。

・喫茶店


 日本のどこかにある、なぜか中世ヨーロッパ風の外観を持った小さな街。本作のストーリーは、この春、高校に進学した主人公がその街へやってきたところから始まる。彼女が学校に通いながら住み込みで働くことになったのは、人語をしゃべるうさぎと中学生の一人娘が切り盛りする喫茶店「ラビットハウス」。そこで、主人公はバイト仲間やライバル店の店員達と共に穏やかながらも楽しい日常を過ごすのだった。
 本作の抱える最大の欠点、それは街の喫茶店を舞台にしている意味が何もないことである。主人公達が勤務している喫茶店は、ボランティア施設でも地域集会所でもない。商品とサービスを提供し、その対価として料金を徴収する立派な営利団体である。すると、当然、店の主体は「客」になるはずだ。すなわち、喫茶店とは「客がコーヒーを飲みに来る場所」である。だが、本作は店員である主人公達と店に客として訪れた人物との間で特別な交流が発生することは一切ない。第一話の来店客は一人だけ、その後も時折思い出したように現れるだけで、基本的にはただの背景と同じ扱いである。それ以外の時間は、店員同士の遊びや雑談が延々と描かれる。実店舗を舞台にした他のアニメ、例えば『ARIA The ANIMATION』や『ココロ図書館』や『はたらく魔王さま!』や『WORKING!!』や『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』だと、必ず客が主体のエピソードが存在し、彼らとのコミュニケーションが物語の発生を手助けする。なぜなら、客が幸福になることが店の売り上げに繋がり、それが店員の満足を生むからだ。そんな客商売における当たり前の哲学が本作では全く考慮されていない。
 客ではなく、店員が主体。サービスは二の次。売り上げはどうでもいい。店員が楽しければそれでいい。このシチュエーションを聞いて、何かを思い出さないだろうか? そう、それこそ「文化祭の模擬店」である。本作の喫茶店は、学生が余興でやっているそれと完全に同レベルである。実際、本作の舞台を街の喫茶店ではなく、深夜アニメにありがちな謎の高校の部活に変換しても何の問題もない。毎日、狭い部室で利きコーヒーを研究したり、ラテアートを練習したり、パンを焼いたりして喫茶店ごっこを思う存分楽しめばいい。それなら誰にも迷惑をかけないし、より楽しい日常を描くことができるだろう。
 もっとも、第十一話ではクリスマスで店に大勢押し寄せた客が、次々とパンケーキやラテアートを絶賛するというふざけた展開になる。例の如く、主人公達は大して努力もしていないのに、第三者が勝手に褒めてくれるイージーな世界だ。また、最終回では主人公が「喫茶店のやりがいはお客さんの笑顔」と心にもないことを平然と口にする。今までそのようなエピソードが一つでもあったか? 毎日、真面目に商売をやっている人が不快になるような作品作りはそろそろ止めにして頂きたい物だ。

・物語


 こんな作品であるが、一応、メインストーリーらしき物は存在する。それが喫茶店の跡取り娘である中学生の少女の成長物語である。彼女は内気で自分の気持ちを素直に打ち明けられない人見知りな性格がコンプレックスだった。だが、ある日、陽気で屈託のないキャラクターの主人公が喫茶店に住み込んだことで、彼女の人生に転機が訪れる。勝手に姉を自称する押しの強い主人公を最初は嫌がっていたが、徐々に打ち解けて心を開いて行く。そして、彼女自身も前を向いて歩き始めるのだった、といった感じの爽やかな感動物語だ。ただし、こうやって結論だけを並べてみると確かにそう見えるが、実際の映像は正直かなり厳しい。なぜなら、その結論に辿り着くまでの過程がほとんどないからである。
 設定上では大人しい性格の彼女だが、主人公が街に来た時にはすでに喫茶店の店員としてバリバリと働いていた。学校にも仲の良い友人が二人いる。学内での彼女の様子はよく分からない。大好きだった祖父と母親を早くに亡くし、兄弟もいない一人っ子の彼女は寂しそうであるが、それを明確に描写したシーンはない。一方、勝手に姉を自称する主人公も、兄弟という物にどういう信念を抱いているのかいまいち判断できない。そもそも、この街に引っ越す前の生活が全く描かれないため、何を持って良い悪いと言っているのか分からない。このような感じで、言わんとしていることは十分理解できるが、それを物語に落とし込むための要素がいろいろと足りないのである。本当に成長物語をやりたいなら、開始時にもっとマイナス面を強調しなければ話にならない。アニメ『のんのんびより』で小学一年生の宮内れんげの物悲しさをはっきりと描いていたのとは対称的だ。
 本作は一事が万事その調子である。あらかじめ複雑な物語が発生しそうな個所全てをかなり意図的に潰している。例えば、劇中に商売敵となる同業種の喫茶店が複数登場するが、ラビットハウスがそれらの店と売り上げを競い合うというようなことは一切ない。それどころか、最初から「昔はライバル同士だったけど、今はそうじゃない」と釘を刺される。ライバルとの競争は物語を面白くする一番のファクターであるはずだが、ゆるさ至上主義の本作ではそういった蛮行は許されないのだ。また、祖父と古い親交のあった小説家が登場しても、彼女はこれと言ってメインストーリーに絡むことなく退場し、しゃべるうさぎの謎も最後まで分からない。つまり、本作は「何も起こらない」作品ではなく「何も起こさない!」という強い意志を持った作品なのである。確かに、余計なストーリーを入れて穏やかな雰囲気が崩れるよりはましなのだろうが、何も自ら名作となる糸口を絶つ必要はあるのだろうか。ちょっと理解できない。

・違和感


 以上、主だった批判ポイントを連ねてきたが、これらを抜きにしても、本作は全般的に作りが甘い作品である。上記の通り、ストーリーの組み立てが弱いため、最初から最後まで話が盛り上がらない。劇中のギャグはびっくりするぐらい笑えないし、ラストのオチが積み上げてきた物を全部覆してしまうことも多々ある。登場人物はどこかで見たテンプレキャラのオンパレードで新鮮味がない。穏やかな作風に反して、水着や下着のシーンが過剰。ミリタリーオタクのキャラクターが完全に浮いている。美術と音楽こそは中世ヨーロッパ風の雰囲気を出そうと頑張っているが、そもそも、ここがどこかも分からない。特別な舞台を用意するための設定的背景が何もないため、張りぼて感が満載である。と、ここまで書いて来て一つの大きな壁に突き当たる。なぜなら、これらはあくまで本作を普通のストーリーアニメとして見た場合の批判であり、日常系アニメという特殊なジャンルの一作として見た場合、どこまでその批判を当てはめていいのかという疑問に辿り着くからだ。実際、本作は日常系アニメの中では名作の一つとして数えられている。一方から決め付けるのはフェアじゃない。
 では、日常系アニメとして見た場合、本作はどういった評価になるだろうか。例えば、「何も起こらない」作品の代表である『ゆるゆり』や『ゆゆ式』と比べてみると、馬鹿の一つ覚えのように高校の部活を舞台にするのではなく、ちゃんと特殊な世界観を作り込んでいる点に好感を覚える。接客を伴った実店舗を舞台にしているため、狭い空間に引き篭もらず雰囲気がオープンである。百合やお色気シーンも多くてサービス精神に溢れている。そして、何より中学生の成長物語という明確なストーリーがあって感動できる。と、このように全く正反対の評価になるのである。この不思議な現象をどう説明付けたらいいのだろうか。そのためには、日常系アニメと普通のアニメの違いを改めて定義付けしなければならないのではないだろうか。
 日常系アニメとは何ぞや。日常系アニメと普通のアニメはロックとクラシックぐらい解離しているのか。残念ながら、その問いに答えるのは非常に困難である。確かに、本ブログではこれまで幾つもの日常系アニメを論じてきた。中には『苺ましまろ』や『スケッチブック ~full color's~』のように高評価の作品もあれば、『けいおん!』や『あっちこっち』のように低評価の作品もある。ただし、それらは作品に付加された+αを評価しているのであって、日常系アニメ自体を評価しているわけではない。よって、両者を明確に区分することは現時点では不可能である。ただ一つ言えるのは、本作が非常に大きな「違和感」を覚える作品であって、その理由は日常系アニメと普通のアニメ、どっち付かずの中途半端さにあるということだ。そして、そうなっている原因は、間違いなく本作の中身の薄さにある。全体的に作り込みが浅く、作り手の楽しさが優先され、「~げ」「~ぽさ」といった表層の感覚で全てを済ましてしまう。ロックミュージシャンがクラシックっぽい音楽を作って絶賛される感覚。それこそまさに……いや、皆までは言うまい。

・総論


 日常系アニメを評論することに限界を覚える一作。真面目に作ればもっと良い作品になっていたはずだが、それが許されない風潮は本当につまらない。その事実が確認できただけでも本作には意味がある。

星:☆☆(2個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
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