『宙のまにまに』

残念ラブコメ。

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・はじめに


 2009年。柏原麻実著の漫画『宙のまにまに』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は高松信司。アニメーション制作はスタジオコメット。高校の天文部を舞台にした青春ラブコメ。綿密なロケハンを重ねた星空の作画の美しさには定評がある。

・設定


 本作の主人公はこの春、高校に進学した少年。幼い頃から父親の仕事の都合で転校を繰り返しており、そのせいか目立つことが嫌いで、できる限り静かに暮らしたいと願っていた。趣味は読書。理由は転校続きで知り合いの少ない寂しさを埋めてくれるから。そんな彼が、高校入学を機に昔住んでいた町へと帰郷し、そこで一人の少女と出会ったことから物語が始まる。彼女は一歳年上の幼馴染み。天真爛漫で無邪気、何事にも真っ直ぐな性格で押しが強く、小さい頃は否応なく彼女に連れ回される日々を送っていた。その性格は今でも変わっておらず、彼女は数年ぶりに再会した主人公に対して文字通り全身全霊で付きまとい、強引に天文部へと招き入れる。彼女は天文学者の父親の影響で、小さい頃から星を見るのが大好きだったのだ。こうして、主人公の思い描いていた平穏無事な高校生活は、全く別の物に変化するのだった。
 静かな日常を望む主人公と天然ボケで子供っぽいヒロイン、主人公は嫌がっているのに、なぜか美少女のヒロインが勝手に近寄ってきて困った困った、という飽きるほど繰り返されたベタ過ぎるラブコメである。特にヒロインの性格は、最早アニメでもきついレベルの無邪気さで、異性に対する恥じらいや恋愛感情といった物すらない。天真爛漫なのは、本作のメインガジェットである「天体観測」が現代人が忘れている子供らしいロマンや夢を体現した物だからなのだろうが、そちら方面に数値を振り過ぎて、俗に言うセックスアピールがまるでないのは、萌えアニメとしては痛い。もし、ヒロインが美少女じゃなかったら、本作は完全にホラーである。
 もっとも、本作の最大の問題点はそこではなく、そういった無邪気系ヒロインを違和感なく溶け込ませるためか、全体的な作風を少年漫画風ハイテンションギャグにしていることだ。それを面白いと思うかどうかは人それぞれなので不問にするが、天体観測という言葉が持つ静かでしっとりとした情緒的なイメージとは正反対に位置する。なぜ、このような作風にしたのか。もしかすると日常と非日常のギャップを演出するのが目的かもしれないが、やはりバラバラ感は否めない。天体観測のシーンは、落ち着いたファンティックな雰囲気をよく作り出せているだけにもったいない。

・ラブコメ


 話を元に戻すが、本作は典型的な青春ラブコメであり、ストーリー展開もキャラクター設定もどこかで見た物が続出する。そもそものキャスティングが、傍から見るとどこからどう見ても恋人同士なのに本人達にはその自覚がなく、それどころかむしろ嫌っているとさえ言い張る痛々しい男女を中心に、彼らに対して報われない仄かな恋愛感情を抱く可哀想な脇役が周囲を固めるという定番の構図だ。特に、主人公のクラスメイトの女の子は絵に描いたようなツンデレで、主人公に好意を抱きつつ、それを隠すために何だかんだと理由を付けて天文部に転がり込む。彼女の心理描写は、薄っぺらい主人公とは比べ物にならないぐらい深く、切ない片思いの感情が心を揺さぶる。本作を見た人は全員同じ感想を抱くと思うが、彼女を主人公にした方がラブコメとしては何倍も面白くなっただろう。
 第六話。新しいキャラクターが劇中に登場する。彼は二学期から主人公達の通う高校に赴任した男性教師で、なぜか空席だった天文部の顧問に就任する。ところが、彼とヒロインの関係がどうにも怪しい。まるで仲の良い兄妹、いや、それ以上の深い関係に見える。どうやら、ヒロインの父親を通じて古くから親交があるらしい。そんな親密な二人を見て、主人公は嫉妬に駆られ、ようやくヒロインを異性として意識し始める。という、これまたベッタベタのラブコメ展開である。元々、主人公とヒロインの関係がファンタジーなため、そこに容赦のないリアルを叩き込むことで無理やり目を覚まさせるという分かり易い手法だ。もっとも、設定に無理があるせいか誤解はすぐに解け、教師はその他大勢のポジションへ追いやられて、以後、ヒロインと絡むことすらほとんどなくなる。ドロドロの三角関係にならないのは、ある種の視聴者に対する「優しさ」なのだろうが、はたしてそれはラブコメとして正しいのかどうか。
 結局のところ、ラブコメが発生する大前提として、主人公もヒロインも「異性にモテる」という条件が必要で、本作の場合、そこに説得力がないから話が盛り上がらないということなのだろう。主人公はまだしも、ヒロインの女性的な魅力の無さは致命的である。それゆえ、もう少し設定を練り込まなければならなかったのではないだろうか。

・部活アニメ


 本作が放送されたのは2009年。いわゆる『けいおん!』に代表される「部活アニメ」が大量生産され始めた年である。当然、粗製乱造で似かよった作品が市場に並ぶ中、制作者に求められるのは、その作品のテーマとなる部活の素晴らしさを的確にプレゼンテーションする能力である。文化系・体育系・同好会・サークル・委員会、多種多様な部活が世間に溢れている中、なぜ主人公はその部活を選んだのか、その部活が他の部活より優れている点は何かを克明に描写しなければならない。ただ、これは口で言うより何倍も難しい。それぞれに必ず良い点はあるし、基本的には個人の相性の問題だ。どんなに良さを訴えても、視聴者がそれに共感してくれるとは限らない。だからと言って、例えば、野球部のアニメなのに野球の楽しさを全く伝えようとはせず、なぜか野球のボールでサッカーを始めたりしたら、それはネタとして面白いかもしれないが、作品としては最低である。軒先を借りて商売している以上、対象にリスペクトを持つのは人として当たり前である。
 そんな中、本作が最初に用いたプレゼン方法は、他の部活との比較である。発想は安易だが、非常に効果的だ。そして、そのやり玉として挙げられたのが「文芸部」である。主人公が読書好きなのは先に記したが、元々、彼は文芸部に興味を持っていた。それがヒロインの魔の手に掴まり、強引に天文部へと入れられたのである。その後、主人公は次第に天体観測の面白さに目覚めていくのだが、ヒロインのライバルとして登場した文芸部員兼生徒会長が、主人公を文芸部にヘッドハンティングしようと画策し、その対立の過程で天文部の良さをクローズアップするという展開になる。では、文芸部と天文部の違いとは何か? あくまで本作独自の考えだが、文芸部はずっと狭い部屋に閉じ籠もっているのに対して、天文部は広い屋外に出て雄大な自然を相手にしている。だから、天文部は素晴らしいのだと主張している。これはなかなかセンセーショナルな意見であろう。確かにそういう側面もあるだろうが、アクティブさを売りにするなら、文化系の天文部より体育系の運動部の方が余程優れている。むしろ、星を見るだけの天文部に対して、クリエイティブな活動をしている文芸部の方がアクティブと言えるのではないか。意見としては弱い。そして、何より失礼甚だしい。こうして見ると、他部活と比較するというやり方は決して良いとは言えない。もちろん、本作は底意地の悪いアニメではないので、ちゃんと文芸部の良さもフォローしていることは追記させて頂く。

・天体観測


 さすがに、これはまずいと判断したのかどうなのか、第五話近辺で生徒会長と和解した後は、純粋に天体観測の楽しさを追及することへとプレゼン方法をシフトする。壮大な宇宙のパノラマ。その美しい光景は、純粋だった子供の頃の夢を思い出させる。星にまつわる神話の物語。古代から人々は同じ想いを紡いできた。その感動を後世に伝えるのが自分達の役割。それが天文部の存在意義。ということを、天体マニアのヒロインを中心に全十二話かけて一つずつ伝えていく。宇宙をテーマにしておきながら、天体観測の楽しさを全く表現できていない作品が多い中、本作のヒロインが根っからの星好きなのは好感が持てる。そして、主人公もそんなヒロインに惹かれていくと同時に、星の美しさにも魅了されていく。
 このように、本作は描くべきことをしっかりと描いているため、一般的には良作と呼ばれる部類に当てはまる。それこそ星の数ほどある部活アニメの中では群を抜いている。ただ、ちょっと待って欲しい。本作が描いているのはあくまで天体観測の楽しさであって、天文部の楽しさではない。星空が綺麗で感動するのは当たり前だし、そんなことはみんな知っている。当たり前のことを当たり前に描いても意味がない。それに天体観測は一人でもできる。わざわざ天文部という団体行動にこだわるなら、それなりの理由が必要ではないか。残念ながら、本作は生徒会長の言う「ただ夜に騒ぎたくて部活をやっているとしか思えない」という疑念に十分に答えられていない。
 少し厳しいかもしれないが、本作の欠点はこういうところにある。やろうとしていることは分かるが、全てにおいて弱い。天体観測を純粋さの象徴として用いるなら、主人公の人格を純粋さとは正反対の位置に設定しなければならないし、天文部の優位性を描くなら、一人で星を見ることのつまらなさを強調しなければならない。そして、何よりもラブコメと天体観測を上手く組み合わせなければならない。主人公が好きなのは星なのかヒロインなのか、最後まで曖昧なままである。また、せっかく幼馴染みを題材にしているのに、過去の約束といった時間的な伏線が何もないのは、ストーリー的に大きなマイナスポイントであろう。よって、本作は良作かもしれないが、名作・傑作には程遠い作品である。

・総論


 とにかく、少年漫画風ハイテンションギャグが人を選ぶ。下ネタやオタクネタよりましとは言え、そこを乗り越えなければ評価も何もないのが、非常に大きなハンデである。

星:☆☆☆☆(4個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:16 |  ☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『BACCANO! -バッカーノ!-』

馬鹿騒ぎ。

公式サイト
バッカーノ! - Wikipedia
バッカーノ!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2007年。成田良悟著のライトノベル『バッカーノ!』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は大森貴弘。アニメーション制作はブレインズ・ベース。禁酒法時代のアメリカを舞台にマフィアと不死者達の狂乱を描いたバイオレンス群像劇。バッカーノとはイタリア語で「馬鹿騒ぎ」の意。アニメ版は原作のストーリーをかなり複雑に再構成しているが、詳しくは後述。後日談を描いたOVA版全三話に関しては基本的に取り扱わない。

・群像劇


 禁酒法時代のアメリカ。広大な荒野を東西に貫く大陸横断鉄道に、三度の飯より人殺しが大好きな殺人集団と、ボスの解放のために上院議員の家族の誘拐を企むマフィアと、新型爆弾の謎を追って列車の積み荷を狙う不良グループと、連続強盗犯のお馬鹿なカップルと、何やら秘密を抱えた子供と、情報屋のエージェントと、化け物と恐れられる不死身の殺し屋が偶然乗り合わせたらどうなるか。そんなコントのようなシチュエーションを大真面目に描いた作品、それがこの『BACCANO! -バッカーノ!-』である。
 本作は一般的に「群像劇」だと言われている。群像劇とは、特定の主人公を設定せず、数多くのキャラクターを同時に登場させて、それぞれの視点で一つの事件を描く創作のスタイルのことである。単純に考えて、主人公がいないことで没入感が損なわれる、視点が分散し過ぎてまとまりが悪くなる等のデメリットを思い付くが、それでは群像劇のメリットとは一体何だろうか。多角的な物の見方ができて物語の深みが増す、複数の事件を同時に扱うので話のスケール感が増す等、いろいろと考えられるだろうが、やはり一番の利点は「パーティー感・お祭り感」を程良く演出できることだろう。アニメだろうが映画だろうが小説だろうが、それがエンターテインメントである以上、受け手が楽しめるかどうかが全てだ。多種多様な人々が一堂に会して、わいわいがやがやと騒ぐ感じは理屈抜きで楽しい。たとえ、それがお葬式であっても、悲しみの表情に隠された参列者それぞれの思惑を丹念に描くことでエンターテインメントになり得る。そういった何が起こるか分からないガチャガチャとしたパーティー感を表現するには、群像劇の形式が一番である。
 ここで気を付けないといけないのは、主人公を一人に特定せず、複数のキャラクターに分散するということは、逆に言うと「全員が主人公になる」ということである。すると、各キャラクターを他作品の主人公並みに作り込まなければ、見た目だけが豪華な非常に底の浅い作品になってしまう。その悪い例として『機動戦士ガンダム00ファーストシーズン』や『コードギアス 反逆のルルーシュR2』が挙げられる。こちらも多数のキャラクターが一度に登場する群像劇スタイルだが、数が多過ぎる上に各キャラクターの個性が弱いため、二・三言しゃべっただけで次の人に交代するという大変お粗末な場面が頻出する。楽しいパーティーどころか、やる気のない学級会である。つまり、群像劇はそれだけの手間と覚悟が必要だということで、安易な気持ちで手を出してはならない。では、この『BACCANO! -バッカーノ!-』という作品はどうだろうか? 順を追って見て行きたい。

・ストーリー


 本作は大きく分けて三つのストーリーが描かれる。一つ目は、1930年に起こった不老不死の薬を巡る事件。二つ目は、1931年に起こった大陸横断鉄道社内での大量殺戮事件、三つ目は、1932年に起こった令嬢誘拐事件。いずれも第二次世界大戦前の不安と混沌と暴力が支配した時代特有のバイオレンス&サスペンスに満ち溢れたアクションドラマである。登場するのは全員、マフィアや強盗犯や愚連隊などのろくでもない奴ら。遵法精神の欠片もない連中なので、盗みたいと思ったから盗む、殺したいと思ったから殺す、と誰にも縛られず本能の赴くままに行動している。賛否は分かれるだろうが、彼らは間違いなく自由人であり、自分の気持ちに正直に生きているため、普段、社会の柵に捕らわれている人々は、その痛快な生き様に憧れを抱くだろう。そんな彼らが紡ぎ出す物語は、間違いなく良い意味での「バッカーノ(馬鹿騒ぎ)」であり、とても心地良い。また、心配されたキャラクターの個性もバラエティー豊かで、それぞれ単体でも主役を張れるほど内面が作り込まれている。作画も丁寧なので、少なくとも誰が誰だか分からないという最悪の状況は発生しない。演出面でも、美術と音楽が当時のアメリカを上手く再現しており、極めてレベルが高い。OPムービーの疾走感をそのまま本編でも継続している作品は稀だろう。
 ただ、肝心のストーリーの中身はと言うと、最大の売りであるはずの群像劇が足を引っ張って、やや甘さを感じる。数多くの登場人物が出てくるのはいいのだが、その組み合わせがほぼ偶然に頼っているため、どうしても行き当たりばったり感を覚えるのである。例えば、たまたま落とし物を拾ったとか、たまたま車にひかれたとか。冒頭の大陸横断鉄道内における複数勢力のバッティングにしても、結局は代表同士のタイマンバトルで決着をつけてしまう。これでは群像劇ではなく、ただの「バトルロイヤル」である。わざわざ群像劇を名乗るなら、それぞれのキャラクターがそれぞれの目的のために自分勝手に行動し、それらが思わぬところで影響を与え合うとしなければならないだろう。
 また、本作のキーアイテムである不老不死にしても、取り扱い方が非常に粗雑だ。こういった物は希少だから価値があるのに、次から次へと不老不死の人間が登場して自ら価値を暴落させている。最終的には不死者と互角に対抗する普通の人間も出てきて、不老不死に対する神秘性などどこにもない。あくまで人と人の関係性がテーマであり、不老不死はただの設定上の舞台装置に過ぎないとは言え、もう少し丁寧に扱って欲しい物である。

・謎


 さて、ここで終わると綺麗にまとまるのだが、哀しいことにそうはならない。なぜなら、本作は主人公が悪者をやっつけて「めでたしめでたし」で終わるような普通のアニメではないからだ。と言うのも、上記の年代が異なる三つのストーリーは、驚くべきことに「同時並行」で描かれる。しかも、1931年の列車事件以外は時系列すらもバラバラに歪められ、過去と現在が同列で語られる。今見ているシーンがどの年代の何番目のエピソードなのか、一目では判別できない。そのため、普通に鑑賞しているだけでは簡単なストーリーすら理解できず、まるで難解なパズルを解くように1シーンずつじっくりと考えながら見て行かなければならないのである。ゲームに詳しい人なら、ザッピングシステムを持ったノベルアドベンチャーを想像してもらえると分かり易いだろう。あの手のゲームを攻略サイトに頼らず当てずっぽうにプレイしているような感覚だ。
 なぜ、このような面倒臭いことを行っているのか。視点を分散することで群像劇がより強調されるという頭の悪い理由を除けば、考えられるのは「視聴意欲」の問題だろう。商売的にも人情的にも、せっかく作った作品は最後まで見てもらいたい。そのためには、「続きを見たい」という視聴者の感情をどこまで掻き立たせられるかがポイントになる。それには「謎」を提示することが一番の方策だ。設定の謎、ストーリーの謎、人物の謎、それらを全て解消しようと思えば、嫌が応にも最後まで視聴しなければならない。途中で止めるとモヤモヤだけが残るため、止めたくても止められないという一種の強迫観念。本作はわざとストーリーを分かり難くすることによって、謎の混迷度を深め、視聴意欲を高めるというある種「卑怯」なことを行っている。
 ただし、それは作品の構成を複雑に変化させることで無理やり生み出した仮初の謎に過ぎない。本作のストーリー自体の謎は、例えば、列車を襲うレールトレーサーの正体のような物もないことはないが、基本的には弱い。1930年の事件はマフィア全員が不死でしたという分かり易いオチだし、1931年の事件も結局は悪い奴が順当に倒されて終わる。不老不死は本当の名前しか名乗れないという伏線もうまく使えていない。また、同時並行で描いているにも関わらず、1930年の主要人物は1931年の事件にはほとんど絡まないなど、ギミックもお粗末である。まぁ、それも仕方ない。なぜなら、元のストーリーは単純明快なアクションドラマなのだから。どんなに小手先をいじったところで限界がある。

・物語


 第一話(とOVA版の最終話)にある二人組が登場する。彼らはある新聞社兼情報屋の副社長と社員で、本作の一連の事件を報道しようと考えている。その際、どのように報道するかにかこつけて「物語とは何か?」をくどくどと論じる。「物語とは受け手が考えることで発展する物。そのため、誰が主人公で、どこから始まりどこで終わるかを明確に決める必要はない。物語の可能性は無限である」と。
 言わずもがなだが、この二人は制作者の化身である。つまり、作者自身が劇中に登場して作品を語るというメタフィクションの一つである。それゆえ、彼らの言葉は、そのまま本作の複雑な物語構造に対する制作者本人の意見になっている。「申し開き」と言っても差し支えはないだろう。では、この考えは正しいのだろうか? 難しいところだが、一面では真実だと言えよう。なぜなら、創作という活動は「編集」という活動と表裏一体だからだ。長いストーリーのどこを切り取って、誰の目線で描くか、それだけで同じ話でありながら全く別の作品になり得る。これと言う一つの正解などはなく、作り手の判断に全てが委ねられる。優秀な作家は同時に優秀な編集者である。そういう意味では、間違いなく物語の可能性は無限である。実際、続編が次々と作られて終わりの見えない作品もあれば、同じ世界観をベースにした外伝が本編をフォローする作品もある。また、受け手側が二次創作という形で係ることもあろう。ただ、この思想には一つの大きな落とし穴がある。なぜなら、そういった手法で作られたこのアニメ版『BACCANO! -バッカーノ!-』は「大して面白くない」からだ。元々完成された作品をどう切り貼りしたところで、オリジナルを越えることは難しい。独りよがりな技法が鼻に付いて、逆に不快感を呼ぶこともある。レストランで例えるなら、確かにモモ肉やバラ肉も美味しい。しかし、真の料理人ならば最高の部位だけを切り取ったフィレステーキを客に出すべきであろう。
 また、本作の思想にはもう一つの大きな落とし穴がある。それは本作が「原作付き」であることだ。どんなに「物語は無限に続く」と主張しても、原作者が一言「ダメだ」と言えば、そこで終わってしまうのである。要するに、偉そうにご高説を垂れるなら、オリジナル作品でやれということだ。他人のふんどしで相撲を取っている以上、何を言っても説得力は皆無である。

・総論


 タイトルが『BACCANO! -バッカーノ!-』でなければ、ただの胸糞悪い自己満足アニメ。まぁ、制作者が自分で馬鹿騒ぎだと言っているのだから、こんな物なのではないだろうか。

星:☆☆☆☆(4個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:26 |  ☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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