『キルミーベイベー』

どうすんだよ、これ。

公式サイト
キルミーベイベー - Wikipedia
キルミーベイベーとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2012年。カヅホ著の四コマ漫画『キルミーベイベー』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は山川吉樹。アニメーション制作はJ.C.STAFF。殺し屋という裏の顔を持つソーニャ、彼女に付きまとう天然ボケのやすな、二人の女子高生が繰り広げるちょっぴりバイオレンスな日常系ハイテンポコメディー。

・こ、これは


 つまらないねぇ。実につまらない。四コマ漫画原作の萌えアニメにギャグの質を求めること自体、間違っているのかもしれないが、ここまで1クールの間、一切盛り上がることなくラストを迎えるアニメが地上波で放送されたとは。普通、ここまで低空飛行が続くと、何らかの外圧によってテコ入れが図られる物だと思うが、全くぶれずに最後までやり抜いたのは逆に偉い。もちろん、劇中のギャグがつまらないからと言って、等しく作品自体がつまらなくなる物ではないのだが、本作はストーリーも何もない純然たる「ギャグアニメ」であるため、やはりネタの質が評価の大きなウェイトを占めると言わざるを得ない。それゆえ、ここではキャラ萌えや雰囲気などの要素を抜き、あくまでギャグアニメとして本作を検証してみたい。

・設定的なつまらなさ


 殺し屋が登場するコメディー・コントは世に数多く存在する。むしろ、定番ネタと言ってもいい。その理由は、殺し屋などの反社会的な職業が最も「別世界の住民」感を出すのに容易なガジェットだからだ。当然、ギャグの構造も「常識と非常識のカルチャーギャップ」になり、普段、我々の住んでいる世界とは違う世界に住んでいる殺し屋が、現実社会の常識からは考えられない奇行を繰り返すことで、そこに面白さが生まれるというパターンが主になる。それゆえ、殺し屋キャラが天然ボケ役になり、一般人キャラがその暴走をフォローする役になるのが通常だ。ところが、本作ではなぜか殺し屋キャラがツッコミ役なのである。天然キャラが殺し屋キャラの職業病をいじり、返り討ちにあうという流れが中心で、わざわざ無駄なワンクッションを入れてネタの質を下げている。基本的に何かを間違えている。
 また、殺し屋という設定から来るはずの毒々しさが本作にはない。精々、ぶん殴られたり首を絞められたりする程度で、人の生き死に関するようなブラックネタがほとんど見受けられない。それはそれで構わないのだが、「ゆるさ」を前面に出すためにキャラクターの個性まで薄めてしまっては、ギャグのキレが欠け、結果的につまらなくなるのも必然であろう。殺し屋キャラは楽しい学園生活を過ごす裏で、日常的に人を殺しているのである。そういった暗い部分まで隠してしまっては、殺し屋キャラにした意味がまるでない。それこそ、忍者や秘密探偵レベルで十分である。

・ギャグ的なつまらなさ


 面白い面白くない以前に、本作はお笑いの基本的な文法ができていないという欠点を抱えている(特に前半の第一話~第六話)。例えば、犬に追い詰められるというシチュエーションなら、必ずそこは逃げ場のない場所でなければならないが、本作ではただの小高い岩場だったりする。普通は海に囲まれた突堤の先端にでもするだろう。つまり、ギャグの質を高めるためには、大袈裟なぐらいのフリの「誇張」が必要なのだが、本作はあらゆる面で舞台や小道具が適当なのである。これは、本気でお笑いを極めようとしている人に対して失礼なレベルであろう。
 また、どんなに不条理なギャグであっても、当たり前の物理法則を無視してはならない。こちらに向かってくるボールにナイフを当てたのに、そのまま飛んで来てぶつかったなどという運動は物理的にあり得ない。ギャグとして成立させるためには、ナイフの切れ味が良過ぎて貫通し、そのままボールが飛んでくる(もしくは破片が他の人に当たる)にしなければならないはずだ。と、同時に「熊が脱走した公園に屋台が出ているはずがない」などといった当たり前の常識も無視してはならない。要するに、ボケるのはあくまで登場人物であって、「制作スタッフがボケてはならない」のである。
 さらに、本作は二重オチを適切に処理できていないという問題点も存在する。スプーン曲げを試みる代わりに、視力検査のようにスプーンを目に当ててボケる。それはちゃんと一つのネタとして成立しているが、その時、なぜか当てていない目まで閉じているのである。そうすると、「それは視力検査だ」と「それじゃあ見えないだろ」という二つのツッコミを入れなければならないため、せっかくのネタの面白さが濁ってしまう。本作では、こういったオチ被りのパターンが「隠れ蓑の術+変わり身の術」など随所に見られる。ネタは一つずつ順番に全て処理するのがお笑いの基本だ。

・物語的なつまらなさ


 四コマ漫画原作なので、これと言うストーリーはない。本来あってしかるべき「二人の出会い」や「なぜ殺し屋だと分かったのか」という話までないのはどうかと思うが、とにかく一切の無駄は省いている。ただ、全体的なストーリーがないのは仕方ないとしても、各回ごとのストーリーまでないのはさすがに問題だろう。ギャグアニメに物語は必要ないと思われがちだが、物語がないと三十分の尺を全て一発ネタで埋めないといけないため、かえって大変なのである。しかも、各回ごとの個性が弱いため、全十三話、延々とワンパターンギャグの繰り返し。余程、本作の雰囲気が好みでない限り、普通の人は三話ぐらいで確実に飽きる。
 ところが、ラスト近辺で突然、天然キャラが「殺し屋をやめさせるのが自分の使命」と語り出す。実はこれ、原作では第一話で語られる本作のメインテーマなのだが、なぜかアニメ版ではオミットされて最終回に回されている。そんな重いテーマを入れると日常系ギャグアニメとして成り立たなくなるからという判断かもしれないが、これは無理してでも原作通り第一話から入れるべきだ。人間の暗い面を描いたからと言ってコメディーの質が下がることは絶対にない。むしろ、人間の喜怒哀楽を描いて初めて喜劇を名乗ることができるのだから。

・良点


 とにかく、明るい。暗さが全くない。ギャグアニメ的には毒がないのは欠点だが、萌えアニメ的には毒がない方が気持ち良く鑑賞できる。昨今の「自称」ギャグアニメにしては珍しく、パロディネタも下ネタも時事ネタもないため、見ていて不快感がない。ネタに詰まると安易にキャラ増加へ進む傾向があるアニメ界において、最後まで主要三キャラ・声優六人でやり抜いたのも好感を持てる。OP・ED曲も、歌詞は意味不明だがポップで楽しい。
 また、やすな役の声優の赤﨑千夏が非常に良い。特別、演技が上手いというわけではないが、声幅と演技幅が広く、暴走気味に天然ボケの主人公を好演している。途中から「やすなの中の人を楽しむアニメ」になっているぐらいだ。このまま、日本有数のコメディエンヌとして成長してくれることを切に願う。

・総論


 はっきり言ってどうしようもないのだが、出来が悪い子ほど可愛い物だ。最近のアニメにありがちな売り上げ最優先で視聴者に媚びた要素が少ないのも評価が高い。頭を空っぽにして何も考えずに楽しく視聴できるオススメ作品である。

星:☆☆☆☆(4個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 23:43 |  ☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『たまゆら~hitotose~』

劣化ARIA。

公式サイト
たまゆら (アニメ) - Wikipedia
たまゆら(アニメ)とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2011年。オリジナルテレビアニメ作品。全十三話。監督は佐藤順一。アニメーション制作はTYOアニメーションズ。広島県竹原市を舞台に女子高生四人組が楽しい日常を過ごす青春ドラマ。雰囲気アニメの最高峰『ARIA The ANIMATION』シリーズのスタッフが中心になって制作しているため、作風は似通っている。前日譚となる先行OVA『たまゆら』全四話(ハルフィルムメーカー制作)は本項では取り扱わない。舞台となった都市とは、放送前から様々なタイアップが図られた。

・ユートピア幻想


 本作は特定の原作を持たないオリジナルアニメであるが、『ARIA』シリーズと同じスタッフが手がけているため、ほぼ同様の方法論で制作されている。まず、最初に注目すべきは背景美術と音楽だ。この二つに関しては一切妥協せず、それ単体で芸術作品として成立するレベルの一流素材を用意する。続いて、物語の舞台を設定するのだが、その際、主人公の住んでいる街をこの世の理想郷として描く。街は優しさで溢れており、悪人は一人もいない。悩みも苦しみもなく、夢は必ず叶う。そうすることにより、見ていて気持ち良くなる柔らかな雰囲気ができあがる。その上で、主人公をあちこちに連れ回し、街の素晴らしさを自画自賛する「良かった探し」をさせれば完成だ。これがいわゆる「雰囲気アニメ」の作り方である。
 ただ、『ARIA』が惑星アクアのネオ・ヴェネツィアという架空の都市を舞台にしていたのに対して、本作は広島県竹原市という実在の都市を舞台にしているという違いがある。つまり、現実的に日本に存在する街をこの世の理想郷として描いているのである。はっきり言って、このやり方には賛同できない。実際のイタリアのヴェネツィアは、観光案内で見るような見目麗しい街ではないというのは有名な話だ。当然、実際の竹原市も我々の住む街同様、内部に様々な問題を抱えているだろうし、優しくない人もいっぱいいるだろう。そういった場所を理想郷として描くことは非常に危険である。それでは、某国を地上の楽園と喧伝した人々と同じ「ユートピア幻想」になる。理想郷は理想郷、この世に存在しないからこそ、人々は努力して自分達の手で作り上げようとするのである。青い鳥は私達のすぐ側にいるのではなかったのだろうか?

・キャラクター


 主要キャラクターは四人。全員、地元の学校に通う女子高生である。最近の女子高生キャラには珍しく、一人一つずつ固有の特技・趣味を持っていて、それぞれ視覚・嗅覚・味覚・聴覚を司る。つまり、視覚がカメラ、嗅覚がアロマテラピー、味覚が料理、聴覚が口笛演奏である。残念ながら、触覚を担当する人はいない。特技と言っても、女子高生が独力で創意工夫している程度の物なので、他の安いドラマで見られるような非現実性はない。ただし、キャラクターデザイン自体は可愛いものの、髪型を変えれば全く見分けが付かないといういわゆる「ハンコ絵」であり、さらに四人中三人が同じ声質の甲高いテンプレ萌え声のため、キャラクターの個性は弱い。特に、主人公は声が細過ぎて何をしゃべっているのか聞き取れないというレベルである。人間性を重視した雰囲気アニメで、そういったキャラクター群を主役に据えることには疑問を覚える。
 彼女達以外の街の人々も当然のように良い人揃い。と言うより、良い人を通り越して聖人君子のようである。詳しくは後述するが、感情の変化がなさ過ぎて本当に人間かと疑問を覚えるぐらいだ。それが作風とは言え、何も悩みがない人間というのは、見ている側のコンプレックスを刺激されてあまり気持ちの良い物ではない。約一名、トラブルメイカー的な子供がいて場を混ぜっ返したりするが、絵に描いたような「悪戯小僧」なのでキャラクターとしての底は浅い。また、マスコットキャラクターとして謎の生物も出てくるが、『ARIA』のアリア社長と比べるとインパクトに欠ける。ただ、その生物が主役の回は、それまでと視点が変わるので面白い。
 なお、個人的な意見で申し訳ないのだが、「口笛が死ぬほどうざい」。人前で口笛を吹くという行為自体が道徳的に不快というだけでなく、このキャラクター、何と他人への返事代わりに口笛を吹くのである。一体、どういう教育を受けたらこういう育ち方ができるのか。親の顔が見てみたい。出てくるけど。

・ストーリー


 全体的なストーリーは、オーソドックスな青春ドラマの法則に則っている。毎日、のんびりダラダラと過ごすだけの日常に不安を覚え、「自分が本当にやりたいこと」を思い悩む主人公達。そこで彼女達が思い付いたのは「自分展」を開催すること。店の二階を借り切って、各人の特技を生かした作品を展示し、日頃、お世話になっている人に楽しんでもらおう……という見ている方が恥ずかしくなるような『中学生日記』的青春ストーリーである。まぁ、それは別に問題ではない。ただ、不思議なのは、こういった自分探しストーリーを好むのは一般的に女子中高生だと思われるが、本作のメインターゲット層は、普段、仕事や家庭でストレスを溜めがちな二十代・三十代の男性なのである。それなら、本作のようにエゴを前面に押し出す話ではなく、もう少し皆で支え合ってのんびりと過ごす穏やかな話にすればいいのに。どうも、傍目にはマーケティングに失敗したような印象を受けるが、それなりに関連グッズの売り上げがあるらしいので、やはり萌えアニメのストーリーなどあってないような物なのだろうか。
 それより注目すべきは、この自分展が何の滞りもなく、当たり前のように大成功したことである。普通に考えて、どこの誰だか分からない高校生の自主イベントに街の人々が積極的に集まってくれるはずがない。特に、口笛キャラが開催した朗読劇は、事前の準備すら適当で開催自体が失礼なレベルである。だが、そんな失敗は全て「青春だから」で許される。これは優しさでも何でもなく、ただの「甘やかし」である。街の人間が皆、感情のないロボットみたいで気持ち悪い。こんな街には死んでも住みたくない。

・問題点


 本作における最大の問題点は、父親から受け継いだ主人公の趣味であり、アニメ演出のメインテーマとなっている写真が「何の表現手段にもなっていない」ことである。芸術は、制作者の心の内が形となって表れることに意味がある。写真などその際たる物で、その人の喜怒哀楽が画像に映し出されて初めて価値が生まれるのだ。ところが、本作の主人公の撮る写真は、喜怒哀楽の「楽」しかない。「怒り」や「哀しみ」はおろか「喜び」すらないため、実に薄っぺらい。言ってみれば、素人街角スナップ写真集レベルである。
 そもそも、本作のコンセプトは、「父親を亡くして悲しみに捕らわれている少女が、友人達との心温かい交流によって幸せを再発見する」という物のはずだ。それなのに、この主人公、あろうことか第二話の時点で完全に立ち直っているのである。そのため、最初から「楽しい」という正の感情しかなく、写真に心の陰の部分が全く現われない。これでは視聴者が彼女に自分を重ね合わせるのは困難で、ゆえに感動も何もない。
 先程の話と被るが、「ゆるい」「ほんわか」「優しい」という言葉は「甘やかす」と同義ではない。「何の障害もなく、周りの人間が自分の思った通りに動く」は、別に「ゆるい日常」でも何でもない。例えば、最終回。展覧会を企画して宣伝もしたけど、お客さんが来てくれなくて哀しい。不平不満を口にする友人に対してちょっぴり怒り。と思ったら、何かのきっかけで人々が集まってくれて嬉しい。こういうストーリーにすれば、ちゃんと「喜怒哀楽」の感情も描けるはずだ。理想郷を描くことにこだわって負の側面を徹底的に排除した結果、中心となるコンセプトまで薄っぺらな物になるようでは本末転倒、低レベルな三流ドラマだとしか言い様がない。

・総論


 雰囲気アニメとしてはさすがによくできている。背景と音楽だけでも一見の価値はあるだろう。だが、それ以外の部分は空っぽである。適当な主人公が適当な日常を過ごすだけの物語。しっかりとした成長ドラマを描いた『ARIA』には遠く及ばない作品である。

星:☆☆☆(3個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 23:27 |  ☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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