『パパのいうことを聞きなさい!』

疑似疑似家族物。

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パパのいうことを聞きなさい! - Wikipedia
パパのいうことを聞きなさい!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2012年。松智洋著のライトノベル『パパのいうことを聞きなさい!』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は川崎逸朗。アニメーション制作はfeel.。突然の姉の死去により、その子供三人を預かることになった男子大学生の奮闘を描く疑似家族ラブコメディー。公式の略称は「ぱぱきき」だが、俗的な略称は「ぱいこき」。先に断わっておくが、この『パパのいうことを聞きなさい!』というタイトルは詐欺である。

・疑似家族物


 まさかの「疑似家族物」である。疑似家族物とは、読んで字の如く、それまで面識の少なかった家族、もしくは赤の他人同士が一つ屋根の下で共同生活することによって、逆説的に「家族とは何か?」を問いかけるというジャンル的には非常にオーソドックスな作品群である。一番多いのは離れて暮らしていた家族が数年振りに再会するという形式だが、全く面識のない数名の男女がある種の家族ごっこをするという形式も少なくない。また、男やもめの中年男性が純粋無垢な子供と二人暮らしをしている内に、大切な物を思い出すというパターンも確立されている。内容が内容だけに、性質的に名作を生み出し易い。オタク業界にも十八禁美少女ゲーム『家族計画』という金字塔がある。その理由としてだが、要は我々の生きている現実社会があまりにも無慈悲で理不尽なため、最小の集団である家族だけはせめて安全で平和であって欲しいという願望が私達の中にあるからだ。世間の人々は簡単に他人を裏切り傷付け合うが、家族の絆だけは何があっても崩れないという願い。だからこそ、人は偽物の家族が本物の家族になる過程を通じて、その良さを再確認しようとする。言い換えると、冷酷な社会との比較があって初めて疑似家族物というジャンルが成立するということである。
 では、本作の何が「まさか」なのかと言うと、それは「ライトノベル原作の日常系萌えアニメ」であることだ。例外はあるが、ライトノベルは基本的に中高生が読者ターゲットである。彼らの多くは、親の庇護の下で温々と育っているがゆえに、家族という物をリアリスティックに実感することができない。つまり、家に家族がいるのは当たり前のことなので、その存在を疑ったり有難く思ったりはしない。実際、本作を含めた多くのライトノベルの主人公は、親が海外出張等で不在か、居ても画面に映らないのである。そんなライトノベル原作の萌えアニメで疑似家族物をやろうとしても、「リアルな家族を蔑ろにしておいて、疑似もくそもねーだろ」と思わなくもない。現実逃避もここまで来ると立派だが、とにかく本作を参照することで、新時代の疑似家族物とは何かを検証して行こう。

・家族


 主人公は家賃五万円の安ワンルームアパートで一人暮らしをする大学一年生。両親とは幼い頃に死別し、歳の離れた当時高校生の姉に女手一つで育てられた。そんなある日、姉夫婦が交通事故でこの世を去ってしまう。残されたのは、中学生と小学生と保育園児の三人の娘達(上の二人は旦那の連れ子なので血は繋がっていない)。葬儀の後、親戚達が一堂に集まり、彼女達をどうするか話し合う。それぞれ別の家で育てるべきだと現実的な主張をする親戚達に対して、萌えアニメの主人公らしく、彼は突然キレて啖呵を切る。「血の繋がりなんかどうでもいい。家族は一緒にいなきゃダメなんだ!」と。そして、自分の手で三人を育てると宣言する。……こんな台詞を口にする奴が目の前にいたら、その瞬間、間違いなく殴り飛ばしているが、それはまぁ別にして、この彼の発言は非常に重大である。なぜかと言うと、物語が始まる前に、すでに本作のテーマに対して結論を出してしまっているからである。それゆえ、主人公は自分の発した言葉に責任を持ち、自説の正しさを全力で証明しなければならない。よもや、家族を性的な目で見たり、恋愛感情を抱いたりするはずがなかろう。もっとも、よく読んで頂ければ分かると思うが、実は「家族」の定義が極めて曖昧である。家族は一緒にいなければならない。では、長年一緒にいて気持ちが通じていないと家族ではない? それだと、疑似家族という存在自体を否定することにならないだろうか。もう、この時点で完全に見切り発車であることがうかがわれる。
 さて、本編に入る前に現実的な問題を処理しておこう。つまり、一人暮らしの大学一年生に子供を三人も養えるのかどうかという話である。そもそも、主人公の学費と生活費はどうなっていたのだろう。奨学金とバイト代だけでは到底立ち行かないだろうから、おそらく姉からの援助を受けていたと考えられる。だが、その姉夫婦が亡くなり、さらに子供が三人増えた。なぜか、子供の学校は元のままで交通費がかかる。末っ子の保育園代も馬鹿にならない。そんなサラリーマンでも大変な出費を、いくらバイトの量を二倍にしたところで本当に賄える物だろうか? そう言えば、親権や戸籍、親の遺産といった公的な手続きはどうなっているのだろうか。お上も未成年の大学生を後見人にするほど狂ってはいないだろうから、実際は親戚側にあると思われる。ならば、当然、彼らも幾らかの資金援助をしているはずだ。そう考えると、冒頭の主人公の台詞は失礼というレベルではない。血の繋がりというただの一点だけで、彼らは無償奉仕をしているのである。やはり、早めに殴り飛ばしておいた方が良さそうだ。

・共同生活


 そんなこんなで共同生活を始める四人だが、それがもう、びっくりするぐらい「何も起こらない」。家庭崩壊に繋がるようなトラブルは皆無で、最初から最後まで延々と穏やかで幸せな家族の姿が描かれ続ける。極稀に幸せを壊そうとする妨害者が現われるのだが、それすらもちょっとした気持ちの切り替えだけで簡単に解決してしまう。なぜ、何も起こらないのか? それは子供達の主人公に対する好感度が最初から常にMAXだからである。ろくに会ったことがないわりに叔父のことを全面的に信用しており、それゆえ、子供とは思えないぐらい行儀が良く、命令にも素直に従う。作品タイトルが『パパのいうことを聞きなさい!』なのに、子供達が主人公の言うことを聞かないシーンが一度もないという意味不明さだ。しかも、一番上の子は主人公に恋愛感情まで抱いている。そんな状態で、子供と大人の世代間の価値観の違いによる対立や、疑似家族の共同生活の難しさなど描けるはずがない。
 さらに、その何もなさに拍車をかけるのが主人公の人物設定である。容姿端麗で爽やかな好青年なのは別にいい。女性にモテモテなのも萌えアニメなので別にいい。それより注目すべきは、彼が仏陀も裸足で逃げ出すレベルの人格者であり、非の付け所のない完璧超人であることだ。子供達への対応も誠実その物。人当たりが良く敵を作らない。生活費が足りないと分かると身を粉にして一生懸命働く。そして、そんな優等生の主人公(=視聴者)を子供達や周りの人々が寄ってたかって凄い凄いと褒め讃える。これは何の新興宗教だろうか。似たような雰囲気の自己啓発ビデオを以前に見たことがある。結局、本作も他のハーレムアニメや日常系アニメと本質的には同じなのである。気の合う身内を集めてわいわい楽しく過ごすことだけが目的で、敵は全て枠の外にいる。最終目標は自分にとって最も心地良い理想郷を作ること。ただ、本作の怖さはそれを「家族」と称していることである。「血の繋がりなんかどうでもいい。家族は一緒にいなきゃダメなんだ!」この台詞が指す家族の定義を考えてみると恐ろしい。
 ちなみに、本編とはあまり関係ないのだが、主人公の友人にロリコンのキモオタがいる。要するに、ネットスラングで言うところの「お前ら」なわけだが、本作では完全にギャグキャラとして、子供達の平和を脅かす「敵」として描かれている。つまり、視聴者は容姿も性格も主人公の方に近く、キモオタとは正反対であるということだ。ほぅ、なるほどねぇ……いや、何も言うまい。

・父性


 作品を評価する際、よく「底が浅い」という表現をするが、それは一体どういう意味だろうか。わざわざ、深い・浅いという上下の概念を付け足していることから分かる通り、要は平面ではなく三次元的な観点で物を見る必要があるということだ。では、仮にストーリーをX軸、演出や作画をY軸とするなら、Z軸は何に当たるだろうか? もちろん、それは登場人物の背景や心理描写に他ならない。
 主人公は見た目こそ普通の男子大学生だが、その他大勢の一般人とは決定的に異なるポイントがある。それは、彼が物心が付く前に両親と死に別れ、歳の離れた姉に育てられたこと、つまり、両親、特に「父親」という存在を知らずに育ったことである。言い換えると、彼の中で父親の具体的なイメージ=父性が確立していないということだ。しかも、彼は末っ子である。親戚も少ないので自分より小さい子の面倒を見たことがない。そういう人間が突然、従妹達と共同生活をすることになったら、はたしてどういう反応をするだろうか。そのシミュレーションがちゃんとできているか、一般人との違いをちゃんと描けているか、これが全ての大前提である。
 結論を先に書くと、「こんなに上手く行くわけがない」のである。父性に目覚めていない男性は、まず子供達とどう接すればいいか悩むところから始まるはずだ。例えば、子供が粗相をした時に怒るべきか慰めるべきか、最適解が分からずに戸惑うのが人間らしさだろう。また、子供達のために仕事量を増やして骨身を削って働くなど、実の父親でも大変なことである。それを「血の繋がりなんかどうでもいい」と豪語する十八才の主人公が当たり前のようにできるそのモチベーションは何か? 過去のトラウマが原因で強迫的に動いているとしたら、ちゃんとそれを描写しなければならない。そして、それが如何に独善的で押し付けがましい親切であるかに劇中で気付かないといけないだろう。しかし、本作において両親不在という初期設定は、共同生活を始めるための理由付けにしかなっていないのである。
 結局は作者の家族イメージの貧困さが原因だ。実際に子供を持てば、いや、別にそこまでしなくてもその辺のドラマや映画を見れば、父親が本当の父性を獲得するためにどれだけ長い期間がかかるかぐらい分かるはずだ。にも係らず、主人公は何の欠点もない聖人君子、子供達はわがままの一つも言わない天使、周囲の人々は見返りなしに協力してくれる仏様といった設定にして、一体何を描こうと言うのだろうか。一応、最終回近辺では今までの子育ては間違っていた的な反省描写を入れて、主人公の成長を描こうとしているのだが、上記の通り、彼の行動には何も間違いがないわけである。前提がないのに結果だけを求めるという昨今のアニメの欠点がそのまま表れていて哀しい。

・総論


 疑似家族物ではなく、ただのハーレムアニメ。まぁ、別に悪くない。底が浅いだけで。ライトノベル原作の萌えアニメなんてこんな物……と言われて怒って欲しいんだけどなぁ。

星:☆(1個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 22:28 |   |   |   |  page top ↑

『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』

一体感。

公式サイト
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX - Wikipedia
攻殻機動隊とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2002年。士郎正宗著の漫画『攻殻機動隊』を元にしたスピンオフ作品。全二十六話(テレビ放送版は全二十三話)。監督は神山健治。アニメーション制作はProduction I.G。近未来の日本を舞台に公安9課が活躍するサイバーパンクSF。「もし、草薙素子が人形遣いと出会わなかったら」というIFを描いたパラレルストーリー。原作か映画を見ていないと意味不明だが、あまり気にする必要はない。

・笑い男


 すでに各所で語り尽されている作品なので、今更、独自の視点とやらであれやこれやと難癖を付ける必要もないだろう。ゆえに、ここは本作のメインエピソードである「笑い男事件」に絞って見て行くことにしよう。笑い男事件とは、世界的製薬会社の社長が誘拐されテレビカメラの前で脅迫を受けるという衝撃的な事件に端を発した劇場型連続企業テロの通称である。それ自体はこの世界ではよくあることだ。だが、その犯行が奇抜だったのは、犯人が周囲の人間の電脳や監視カメラを瞬時にハッキングして、リアルタイムで自分の顔にモザイクをかけるという超特A級のハッカーだったことである。しかも、その際、顔を隠すために使った画像がポップで親しみのあるイラストだったことから、ネット上で若者を中心に一大ブームを生む。また、事件の詳細が謎に包まれていたこともあって、笑い男という象徴のみが偶像化され信仰の対象となり、その結果、自らを笑い男だと称する模倣犯が大量発生し、事件が際限なく繰り返されることになる。
 そういったオリジナルなきコピー現象を、劇中では「スタンドアローンコンプレックス」と称している。コレクティブ(集合)ではなく、スタンドアローン(独立した個人)のコンプレックス(複合体)。人間とは本来、「自我」の名の下に自分で考え、自分で行動を決定する動物であるはずなのに、まるで我を失ってしまったかのように他者と同一の行動を取る、もしくは自分ではオリジナルと思っているが、第三者が見ると他人のコピーでしかない、そういった状況がインターネットが発達して情報が誰にでも手軽に得られるようになる(劇中ではそれを「情報の並列化」と称す)と目立つようになる。本作は、笑い男事件という劇場型犯罪を用いて、そういった情報化社会特有の社会現象を描こうとした意欲作である。
 本作が放送されたのは2002年。ネットメディアの黎明期に当たり、触れている人自体が限られていたため、まだスタンドアローンコンプレックスという概念が一般化していなかった。こうなるであろうという未来は容易く想像できても、身近な物として実感はできなかった。ところが、2014年現在、確かに現象として感じられる段階まで達している。それゆえ、ここでは本編と少し離れてスタンドアローンコンプレックスの具体例を挙げて行きたい。

・イナゴ


 2006年のテレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の登場以降、オタク業界の様相が一変したことは周知の事実である。それまで日陰者だったオタク文化が、ハルヒのヒットによってメジャー化し、マスコミにも好意的に取り上げられ始めたことで、元々、オタク的な趣向を持っていなかった人々が、周囲と話題を共有するためだけにオタク文化に触れるようになった。その結果、一つの物をとことん突き詰めるというオタクの唯一の利点が崩壊し、「俺の嫁」が三ヶ月ごとに更新されるという異常事態が発生した。もちろん、それ自体は別に悪いことではない。問題なのは、コミュニティに属することを優先するがあまり、自分自身の趣味趣向を無意識の内にすり替えてしまうことである。今なお絶大な人気を誇る「東方Project」などがその良い例だろう。練り込まれた設定と魅力的なキャラクター群という比類なきセールスポイントを持った作品であるが、その中心に位置するのは、かなり高難度の「弾幕系シューティングゲーム」なのである。弾幕シューティングなど言ってみればマニアックの極地であり、百人中一人でも面白いと思う人がいれば良いジャンルだ。にも係らず、彼らは他人と共通の話題を持つために、趣味に合わないはずのゲームを面白い面白いと遊ぶ。それは実に奇妙な光景である。
 こういった本来は千差万別であるはずの「嗜好の統一化」が蔓延するようになった原因は、それこそ千差万別だろうが、アニメ的に一つ挙げるとするなら「絆の強制」になるだろうか。バブル崩壊以降、特に二度の震災以降は顕著になったが、金や物ではなく人と人の心の繋がりこそが最高の物であるという耳触りの良い思想がスタンダード化し、世間一般に広く流布した。その流れを受け、昨今のアニメのテーマにも積極的に取り入れられるようになっている。例えば、『persona4 the ANIMATION』は、その物ズバリ仲間との絆がパワーの源であり、絆を拒絶した人物が悪であると断じている。一方で仲間内でのドタバタを描いた日常系アニメが大流行りだ。ところが、冷静に考えてみると、オタクと呼ばれる人々は基本的に他者とのコミュニケーションを不得手にする傾向がある。そういった人々に対して絆が大事だと言っても、ただのプレッシャーにしかならない。結果、自分の嗜好を奥に閉じ込めてでも無理やり周囲と合わせようとし、最終的に中身のない上辺だけの大集団が形成される。
 絆の強制が生む物は、気の合う仲間ではなく仲間外れになることへの恐怖心である。そのため、何事にも集団で行動するようになり、何か面白そうな物を見つけると一斉に押し寄せる。やがて、彼らの属するコミュニティの価値観が絶対となり、それと対立する物を徹底的に排除するようになる。彼らが望む物は、正義でも名誉でもなく周囲との「一体感」である。口の悪い人は、そういった人々を「イナゴ」や「イワシ」といった集団生活する動物に例えたがる。言い得て妙だが、これは日本社会全体に蔓延る病理なので、もっと幅広く捉えていかないといけないだろう。

・バカッター


 2013年、ネット上で奇妙な流行が巻き起こった。それは、飲食店などで食材や調理器具に不衛生な悪ふざけを行い、その様子を撮った画像をtwitter等で公開する通称「バカッター事件」である。その「犯人」の多くは十代・二十代の若者で、主な動機は仲間内で盛り上がって楽しむため、要は「悪戯」だ。ただ、本件と一般的な悪戯との違いは、自ら顔出しをして個人情報が分かるような状態で画像を公開していることである。もちろん、そんなことをすればあっという間に身元が割れ、警察のお世話になることは子供でも分かる。実際、幾人もの若者がニュースで取り上げられ、店側に謝罪と賠償を行ったのだが、なぜか、次から次へと模倣犯が現われて世間を驚かせた。
 多くの有識者がこの奇妙な現象を考察したようだが、これと言う決定打はなさそうだ。最も有力な説は「SNSをクローズなメディアと勘違いしているから」という物だが、現象の全てを説明し尽しているとは言い難い。なぜなら、仲間内で確信的に犯罪行為を行っている人ばかりではなく、そもそも犯罪だと気付いていない=罪悪感がない人が多くいたからである。これだけニュースで報道されているにも係らず、だ。彼らがニュースを見ない人間だったら話は簡単なのだが、そもそも報道がなければ情報が広まらないわけで、そのため、事件の概要は知っているのに事件の顛末だけは知らないという非常に奇妙な状態になっている。まさに、かつての都市伝説(口裂け女、人面犬等)と似たような状況と言っても過言ではない。
 結局、「報道」と「情報の共有」は違うということなのだろうか。報道の場合は、自分にとって都合の良いニュースも悪いニュースも否応なく耳に飛び込んでくるが、情報の共有の場合は、自分の属する組織にとって都合の悪いニュースは飛び込んでこない(もしくは、最も都合の悪いニュースだけを選別して組織の結束力を高める)。そうすると、人は自分で物を考える必要がなくなり、一部の情報だけが跋扈して徐々に知識が偏っていく。そう言えば、最近はマスコミの偏向報道に辟易し、インターネット上の情報を重視する人が増えている。確かに、ネットにはマスコミが報道しない「真実」の情報も数多く存在するのだが、それは能動的に自分で探しに行った結果の産物である。もし、その行為を他人に委ねてしまうと、自分達にとって都合のいい情報しか入って来なくなり、結局は偏向報道と同じになってしまうことに注意しなければならない。それこそがバカッター事件を生み出す最大の要因であろう。

・個


 さて、本編に戻ろう。攻殻機動隊シリーズの共通テーマは「人間と人形の違いは何か」である。劇中の人々は大半が脳を電脳化し、体の一部を義体化している。主人公の草薙素子に至っては、全身が義体であり生身の部分が一切ない。一方、完全なロボットであるタチコマは人間以上に人間らしい。そういった捻じれ現象が標準化した世界で、サイボーグ(強化人間)とアンドロイド(人造人間)の違いを挙げることは非常に困難である。そこで、本作は両者を分ける要素をゴースト(魂・自己)の有無であると定義している。つまり、魂を持つのが人間で持たないのがロボットだ。だが、その定義に真っ向から逆らうのが、スタンドアローンコンプレックスである。自ら考え、自ら行動する魂を持った人間なのに、集団と合一化することで自ら魂を失おうとする。それは非常に哀しい、もっと言えば腹立たしいことだ。それゆえ、草薙素子は笑い男の「情報の並列化の果てに個を取り戻すための一つの可能性とは何か?」という質問に対して、こう答える。「好奇心」だと。
 ただ、かの如き素晴らしいテーマが、本作において物語として十分に昇華されているかと問われると正直なところ答えに窮す。笑い男は実在するのか否かというミステリー展開は第十一話で早くも終了し、その後はオリジナルの笑い男が当たり前のように画面に登場して話に絡む。そして、一連の事件は模倣犯などではなく、事件に便乗した警察と厚生省と某政治家の陰謀だったことが明らかになる。その後、スタンドアローンコンプレックス的な物語はなく、政府と公安9課の内輪揉めに終始するという悲しい展開が待っている。制作サイドは、草薙素子が笑い男に扮するという状況を持ってスタンドアローンコンプレックスを表現したかったようだが、どうにもパワー不足が否めない。結局、黒幕を逮捕したのは検察、公安9課は一時解散、笑い男は放置という果てしなくどうでもいい結末で終わってしまう。これほど練り込まれた物語を作っておきながら、この乱暴な幕の閉じ方は非常に残念である。

・総論


 このような作品が2002年に作られたことがすでに驚嘆である。十年以上たった今、改めて見返してみると新たな発見があるだろう。逆に言うと、今の時代にこそこういった作品が作られるべきだと思うのだが。

星:☆☆☆☆☆☆☆☆☆(9個)
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by animentary  at 23:04 |  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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