『神無月の巫女』

幼児向け。

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神無月の巫女 - Wikipedia
神無月の巫女とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2004年。介錯著の漫画『神無月の巫女』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は柳沢テツヤ。アニメーション制作はティー・エヌ・ケー。世界を破壊せんとする蛇神オロチと、それに対抗する二人の巫女との戦いを描いた学園恋愛ファンタジー。当時、萌えのスタンダードになり始めた「百合」を大胆にフィーチャーした作品である。

・第一話


 本作の主人公である来栖川姫子が通っているのは、「垂直の階段」を昇った丘の上にある私立乙橘学園高校、良家の子女達が集う格式高い共学校である。その中でも皆の敬愛を集める二人の生徒がいた。一人は地元の有力者の娘で、宮様と呼ばれるほどの文武両道・才色兼備を誇る姫宮千歌音。もう一人は姫子の幼馴染みの男子生徒で、同じく文武両道で女性からの人気が高い大神ソウマ。一般生徒にとって雲の上の存在である彼らには、とある共通点があった。それは二人共、密かに姫子が好きだということ。彼女の屈託のない優しい性格が彼らの冷え切った心を溶したようだ。そのため、伝統ある学園を舞台に女二人男一人の奇妙な三角関係が始まるのだった。
 姫子と千歌音の誕生日。その日、事件は起こった。突如、空が闇に覆われたかと思うと、禍々しい黒い太陽が上空に現れる。その太陽の発する「巫女を殺せ」という言葉が大神ソウマの心を揺さぶる。すると、自我を失ったソウマの力によって海岸の大岩が浮き上がり、真っ二つに割れて中から出てきたのは……何と巨大ロボット! 巨大ロボットは街を破壊しながら、巫女=姫子に迫る! そして、姫子を手中に収めようとしたその時、巫女の力が覚醒する!
 というわけで、実は「ロボットアニメ」である。それも、勇者シリーズのようなSF要素の欠片もない「スーパーロボット」である。事前情報がないとあまりの衝撃に天地がひっくり返る。そして、この手の作品は評価が非常に難しい。シュールなギャグアニメとして狙って作っているなら百点満点。本気で作ってるならただのバカ。だが、それは愛すべきバカであり、手厚く保護すべき対象である。一番問題なのは、とにかく自分の好きな要素や売れ筋の要素を適当に詰め合わせてみましたというパターンだ。この場合は、作品がどうという以前に商品として失格である。では、本作は一体どのパターンに当てはまるだろうか。少し怖いが第二話以降に注目して見て行こう。

・設定


 オロチ。オロチ衆と呼ばれる八人の部下を従え、世界を混沌の淵に引きずり込む最凶の邪神。だが、かつて彼らに立ち向かい、大地に封印せしめた者達がいた。陽の巫女・月の巫女と呼ばれる二人の乙女。数千年の時を経て、オロチが現代に復活した時、巫女もまた現世に現れる。来栖川姫子・姫宮千歌音、巫女の生まれ変わりであるこの二人の女子高生に世界の命運は託された。
 設定がおかしい。オロチの目標は世界の破滅であり、その最大の障害が神無月の巫女の召喚する剣神アメノムラクモである。それゆえ、彼らは鍵となる巫女を抹殺しようとするのだが、なぜか、その手段が巨大ロボットによる襲撃なのである。何と非効率的な。彼女達はただの人間であり、世界滅亡の危機なのに逃げも隠れもしないで普通に学園生活を続けている(それもどうなのか)のだから、そのまま黙って拉致すれば済む問題だ。しかも、彼らはロボットで移動中に街を無差別爆撃をしたり、謎の軍隊がそれに反撃したりと訳が分からない。世のロボットアニメのエッセンスをとりあえず入れてみましたという適当にも程があるシナリオには、呆れて言葉も出ない。
 もっと謎なのが大神ソウマだ。姫子の幼馴染みである彼は、オロチ衆の七の首という立場でありながら、土壇場で彼らを裏切って姫子達の側に付く。その際の物語的なロジックが何もない。例えば、『仮面ライダー』なら脳を改造される前だったから、『デビルマン』なら悪魔に対抗するために自ら悪魔と合体したからという反逆が可能になる具体的な理由がある。しかし、本作の場合は「巫女の力」という曖昧な物しかない。本当に巫女にそういう力があるのなら、他のオロチ衆も改心するはずだ。強いて言い訳を挙げるなら「ソウマは姫子が好きだから」で、それはそれで素晴らしい理由なのだが、その程度の簡単な理由で裏切る奴は、また逆もしかりというわけだ。何の活動実績も知らされないまま、ただ嫌だからと組織を抜けたところで、それはバイトのバックレと何も変わりがない。世界を守る者としては、思考が単純過ぎて使い物にならない。
 ここから分かる通り、本作は典型的な「セカイ系」の作品である。それも非常に幼稚で低レベルなセカイ系である。言葉で「世界が滅亡する」などと言っても、物語は主人公の周りでしか動いておらず、現実感も緊迫感も皆無。「世界」の価値が登場人物にとっても作者にとっても極めて低く、七十億の人口を生かすも殺すも彼らの気分次第である。何せ、大神ソウマが堂々と「今、俺ができることは精々地球を救うことぐらい」と発言するほどだ。愛は地球より重いとでも言いたいのか? そんな戯言は幼児向け戦隊物だけで勘弁して欲しい。

・中盤


 物語の中盤で、来栖川姫子に対する恋心が限界を突破した姫宮千歌音は、ついに己を律することができなくなり、姫子の元を去る。その際、彼女がオロチ衆の一員であることが明らかになり、自ら愛する人に牙を剥ける。……はい? え、どういうこと? 千歌音は月の巫女なんでしょ? 何でダブルブッキングしてんの? 好意的に解釈すると、予め宿命付けられた八人の固定メンバーをオロチ衆と呼ぶのではなく、世の中に絶望して闇に堕ちた人間をオロチ衆と呼ぶということだろうか。でも、それだとソウマがオロチの七の首であることと矛盾してしまう。彼は一度たりと世の中に絶望などしていないのだが。ただし、ここで一番問題なのはそういった細かな言葉遊びではなく、千歌音が行方不明になったのに何も動かない社会の方である。なぜ、誰も探そうとしないのか。あれだけ屋敷にいたメイドはどこに消えたのか。これは冗談でも比喩でもなく、物語の焦点が二人に絞られた瞬間、周りの人が物理的に消えてなくなるのである。社会とはそれぞれが意志を持った個人の集合体であるはずなのに、全てが作者にとって都合良く変化する。上記の低質なセカイ系設定と同様に、作品として極めて幼稚である。
 その後、姫宮千歌音に去られた来栖川姫子は、勇気を振り絞って一人で召喚の儀に立ち向かい、気合でアメノムラクモを月から喚び出す。大方の予想通り、アメノムラクモは剣型の巨大ロボットである。そこに修行を終えた大神ソウマが現れ、自分をパイロットにするよう懇願する。……はい? え、動かせるの? いや、待て。そもそも、誰がアメノムラクモを操縦する予定だったんだ? 話の流れから行くと巫女自身が操縦するのだろうが、その画が全く思い浮かばない。今まで劇中でロボットを動かしていたのは、全員、オロチ側の人間だ。誰でも動かせるなら、何のためにソウマは修行をしていたのか。
 なぜ、このような意味不明な状態になっているかと言うと、その原因は全て「エネルギーの一元化」にある。国際ルールのある戦争アニメでもないのに、敵と味方で使用しているエネルギーが全く同じなのである。しかも、それは格闘にもロボ操縦にも応用でき、他人に譲渡することができ、さらには感情によって増減するという(作者にとって)理想の究極エネルギーである。そのエネルギーがより高い方が勝ちなので、物語的にもとても分かり易い。猿でも分かるという奴だ。だが、はっきり言って、それは作者の怠慢以外の何物でもない。こういった物を商業作品に持ち出してきた時点で、その人は科学的センスも文学的センスも皆無だと断言していい。

・最終回


 ついに動き始めたオロチと地球を守る巫女との間で激しい戦いが繰り広げられる。その間、千歌音の攻撃により地球は呆気なく滅亡。逆上した姫子の反撃により、千歌音は致命傷を負う。すると、彼女の口から途方もない真実が告げられる。オロチを封印するためには、巫女の一人がもう一人の巫女によって殺されなければならない。だから、自分はわざと裏切ったのだと。……何それ? 頭おかしいの? どう見ても適当な後付け設定だが、それが当たり前のことのように話は進む。すると、オロチ化していたソウマが突然復活し、彼の謎のパワーによって地球を覆っていた謎の赤い光(オロチ本体?)が取り除かれる。だから、どうした? このシーン、いるのか? 勢いで誤魔化せると思うなよ、糞スタッフ。それは置いておいて、心のわだかまりを解消し、晴れて恋仲になった千歌音と姫子だったが、致命傷のはずなのにやたらと元気な千歌音はすでに決断していた。自分を犠牲にすることで地球を守ると。そして、無人で動くアメノムラクモによって自ら命を絶つ。……って、お前、それじゃあ「自害」だろ! ついさっき自分で言った設定を忘れるなよ! すると、これまでのことが全てリセットされ、以前と変わりない平和な日常が舞い戻る。……はぁ? 巫女の役割はオロチを封印することじゃなかったのか? オロチを封印すると時間が巻き戻るのか? いい加減にしろよ、糞脚本!
 というわけで、褒めるところの一切ない究極のダメストーリーなのだが、それっぽい台詞と暑苦しい絶叫と上質の音楽によって無理やり感動的な場面に見せかけている。まぁ、それはそれでいいのだが、あらゆる言動が説教臭いのはどうにかならないのか。特に、オロチの面々は世の中に絶望した社会的弱者であり、この世界は地獄であるという訴えは不快である。自分の頭の中だけで成立した幸せなお花畑に住んでいて、幼稚なセカイ系しか描けない人間が何を偉そうに語っているのかということだ。本作の作者には、大神ソウマの兄が弟に向って発した台詞をそっくりそのまま送り返すことで、締めの言葉とさせて頂こう。「お前は路地裏で残飯を食ったことがあるか? 仲間と信じていた相手に背中から撃たれたことがあるか? 殺したいほど憎い相手に這いつくばって命乞いをしたことがあるか? あるわけがないよな?」

・総論


 見た目がおっさんの幼稚園児向けアニメ。価値があるのは、窪田ミナのBGMとKOTOKOの歌だけ。

星:★★★★★★★★★★(-10個)
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by animentary  at 22:39 |  ★★★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『エルフェンリート』

グロ。

公式サイト
エルフェンリート - Wikipedia
エルフェンリートとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2004年。岡本倫著の漫画『エルフェンリート』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は神戸守。アニメーション制作はアームス。驚異的な殺人能力を持つ新人類「ディクロニウス」の少女を巡るバイオレンスアクション。残虐描写が多いため、各メディアの表現規制の違いによって様々なバージョンが存在する。なぜか、海外ではやたらと人気らしい。

・グロ


 本作は『BLOOD-C』などが登場する前は、グロアニメの代名詞のように扱われていた作品である。具体的に言うと、首が吹っ飛ぶ、腕が千切れる、出血が画面を染める、切断面がアップになる、胴体が引き裂かれる、内臓が滴り落ちる、肋骨が剥き出しになる、などだ。もう、文字だけでも背中が寒くなるようなシチュエーションである。特に第四話では、幼気な少女の四肢が切断されるというショッキングなシーンが描かれる(さすがに、ショッキング過ぎて地上波では放送できなかった)。もっとも、色水のような現実感のない血液を代表に、全体的なデザインに作り物感が溢れているので、それほど痛みは感じない。ただ、気持ちが悪いだけだ。そういう意味で言うと、『BLOOD-C』の方がエンターテイメントとしては何倍も優秀だと言える。
 ただし、留意しなければならないのは、本作はホラーアニメではなく「萌えアニメ」だということである。萌えアニメの本懐は、女の子の持つ可愛らしさをより強調することであり、劇中に登場するアイテムは全てそのために存在する。では、上記のグロ描写もそのために盛り込まれているのか? 実は冗談でも何でもなく、そうなのである。実際、萌えの前段階として、身体の一部分を失った女性に強い性的興奮を覚える「欠損フェチ」という嗜好の人が確かに存在する。彼らは人間が本質的に有す嗜虐性向に忠実で、女性を痛め付けることに強い性的興奮を覚える。そして、その流れで、そういった女性を可愛く思う「欠損萌え」も確かに存在する。身体の一部を失うことでより非人間的な物に近付き、人間ではなく人形として女性を慈しむ。言ってみれば、ロボ娘萌えやモンスター娘萌えに近い趣向だ。本作のグロシーンは、そういった人々にとってはまさに天国の如き所存であろう。本作が海外にウケたのは、そういう趣向の人間が多いからか? いや、これ以上書くと妙な国際問題になりそうなのでやめておこう。

・ヒロイン


 本作のヒロイン「ルーシー」は、ウィルスにより突然変異した新しい人類「ディクロニウス」の一人である。ディクロニウスは、超人的な身体能力と「ベクター」と呼ばれる透明な腕を持ち、恐ろしいまでの殺人術に長けている。性格は残忍その物で、三歳ぐらいを期に強い殺人衝動に目覚めるため、政府により密かに抹殺、一部は施設で研究用に隔離されている。ルーシーはその中でも極めて攻撃性が高い個体だったが、その影響からか二重人格を発症しており、もう一つの人格は言葉をしゃべれないほど純粋無垢である。そんな彼女がとある事情で研究施設を脱走し、大学生の主人公達と出会うところから物語が始まる。
 人間であって人間ではない人格の壊れた悲劇の少女。こう聞けば、誰もが九十年代後半辺りに流行した一つのブームを思い出すだろう。手塚治虫が提唱し、富野由悠季が発展させ、庵野秀明が完成させた例のアレ。人造人間であるがゆえに自分のアイデンティティーが分からず、最後までそれを欲しながら儚く戦いの中に散っていく。そう、「アヤナミ系」である。正直なところ、この一言だけで『エルフェンリート』という作品の全てを説明できてしまう。持って回ったくどい評論など一切必要ない。それぐらい本作のヒロインは定型パターンにハマり過ぎている。
 彼女以外のヒロインも同様だ。あるヒロインは義理の父親から性的虐待を受けて出奔し、主人公の家に世話になる。あるヒロインは赤の他人を父親だと洗脳され、戦闘マシーンとなるよう強制される。あるヒロインは自分を捨てた父親に対して強い愛情を求めながらも、最後はその父親自身に殺される。いずれもどこかで聞いたような分かり易い悲劇だ。こういったヒロイン全員が何らかの重石を背負い、見ていて胸がつまされるぐらい惨めな生涯を送るというパターンが、信じられないかもしれないが、二千年前後のオタク業界、特に美少女ゲーム界隈で大流行した。ヒロインを限界まで不幸な目に遭わせて、その悲惨な境遇に対する「可哀想」という同情心を「可愛い」という萌えに変換して楽しむ娯楽。本作はそういった時代の流れに忠実に則った作品である。その背景にあるのは、やはりオタク特有の自虐心をヒロインに投影した物なのだろうか。女子高生が楽しい毎日を過ごすだけの日常系アニメが栄華を誇っている現代からすると、萌えの形も様変わりした物だ。そのどちらが正しいかと問われると、双方に一長一短があって回答に窮すが、研究対象としては間違いなく面白いだろうから、誰か挑戦してみて欲しい。

・第六話


 本ブログでは、これまでダメなアニメのダメな脚本を何度も取り上げてきたが、特定の回だけをピックアップしたことはほとんどない。強いて言えば『けいおん!』の第九話ぐらいな物だろう。なぜなら、オムニバス形式ならともかく、長いストーリーの中の一話だけがおかしいということはあまり起こり得ず、一つ歯車が狂えば残り全てがダメになるのが常だからだ。だが、本作は明確にこの第六話だけがずば抜けて不出来という珍しい特徴を持っている。
 ダメ脚本の要因には様々があるだろうが、その中でも最大の物は「目の前で起こっている事象に対して、本来、普通の人間が取るべき行動を取らない」ことである。これに比べたら設定の矛盾や超展開など可愛い物だ。この第六話で言うと、部屋に入る時にノックをしない、秘密の研究を簡単に訪問客に教える、研究所で死体を発見してもうろたえない、都合良く記憶が飛ぶ、ケガの程度を忘れている、ルーシーを探して必死なはずなのに従妹といちゃつく、やっと見つけたルーシーの人格が交代していても気にしない、等々だ。主人公は殺人現場に出くわしたわけなのだから、その後の全ての行動が慎重であってしかるべきなのだ。登場人物にこういった特殊な行動をされると、視聴者の間に認識のズレが発生し、違和感が生まれてしまう。主人公を研究室に案内した助手の奇行は、元々そういう人間なのだろうと納得できなくもないが、主人公の奇行だけは絶対に納得できない。なぜなら、この回で強調しなければならないのは、敵の黒幕の非人道性なのだから。これでは、明らかに主人公の方が非人間的である。
 また、もう一つ気になるのが二重人格の扱い方だ。この回でルーシーはかつての暗い記憶を取り戻し、主人公の元から立ち去ろうとする。その時の彼女は元の厳しい人格である。だが、なぜか、純真な別人格でも記憶が蘇った風の描写がある。これでは二重人格にした意味が何もない。作劇のセオリーからすると、ルーシーがつらい記憶を封印するために自ら新しい純粋無垢な人格を作り出して、現実逃避したとしなければならないだろう。もちろん、元の人格は記憶を有したままなので、人格が変わる度に場に緊張が走る。しかし、純粋な人格が元の人格に徐々に影響を与え、彼女の心を成長させるとするのが筋だ。今のままでは、純粋な人格は視聴者に媚びるためだけに登場したようにしか見えず、設定の練り込みの甘さを感じざるを得ない。

・幸福論


 本作には二つのストーリーがある。一つはメインヒロインであるルーシーの物語だ。彼女はディクロニウスであるがゆえに、小さい頃は周囲の子供達から壮絶なイジメを受けていた。それゆえ、誰よりも人間を憎む気持ちを持っている。彼女にとって人間は鬼と変わらず、多くの人間を殺傷しているにも係らず、「今まで人を殺したことは一度もない」と豪語するほど。そんな彼女が過去に因縁のある主人公と再会することによって、徐々に人間らしい感情を獲得し、最後に二人は恋に落ちる。と、概略だけを挙げると感動的な物語に見えるが、残念ながら全体的に温い。主人公は優しい男だが、優しいだけで何も際立った行動はしていない。ルーシーのこれまでの過酷な人生を思うと、この程度のことで生き方を変えるとは考え難く、リアリティに欠ける。それでも、殺人鬼の少女が本物の愛情を獲得する過程は感動的ではある。
 もう一つは、ルーシーを抹殺するために送り込まれた最強のディクロニウス、通称「35番」の物語だ。彼女は生まれた時から隔離され、施設内に監禁されて育った。彼女の生きる希望は研究所の室長である父親に会うことだけ。だが、彼は娘を失った哀しさから、ディクロニウスの「7番」を自分の娘として洗脳し慈しんでいた。そして、最終回で三人は出会う。父親に愛される7番を見て動揺する35番。父親はそんな彼女を憂い、共に命を絶つことを決心する。そして、35番は父親の腕の中で幸せそうな表情を浮かべて天に召される。
 以上、いずれも「人ならざる者の幸せとは何か?」がテーマであり、そこだけを見ると人造人間の幸福論を描いた『GUNSLINGER GIRL』とほぼ同一である。本ブログでは『GUNSLINGER GIRL』の評価が高いので、当然、本作もそうなるかと言うと……難しいところだ。『GUNSLINGER GIRL』は、短い生涯を終えるはずだった少女達に仮初の余生と幸福感を与えることで、幸せとは何かを逆説的に我々自身に問いかける物語だった。一方、本作は壮絶極まりない人生を歩んできた少女達に恋愛や家族愛などの人間らしい感情を与え、人間とは如何に素晴らしい生き物であるかを訴える物語だ。だが、それはどうだろう。この手のテーマを訴えるには、本作はあまりにも誠実さに欠けるように感じる。もっと分かり易く言うと、メタ的な表現になるが、少女の四肢切断シーンを平気で放送できる人が、人間賛歌を訴えても何も説得力がないということである。制作スタッフのやっていることは、劇中の黒幕がやっていることと丸っきり同じであるため、テーマの正しさを証明しようと思えば、作品自体を否定するしかない。よって、お望み通りの結論にさせて頂く。

・総論


 グロが売りだが、それが作品の評価を下げている。だが、グロを取ってしまうと、ただ当時の流行に乗っかっただけの凡百の萌えアニメになる。要するに最初から詰んでいる。

星:★(-1個)
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