『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 The Animation』

アニメである必要性。

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ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生 - Wikipedia
ダンガンロンパ THE ANIMATIONとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。スパイク・チュンソフト制作のPSPゲーム『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は岸誠二。アニメーション制作はラルケ。密室の学園に閉じ込められた十五人の高校生が、生き残るために殺し合いを強制されるサバイバルミステリー。物語の鍵を握るモノクマ役を、旧ドラえもんの声優である大山のぶ代が務めていることで有名。

・導入


 春。ふとした幸運により、晴れてエリート養成高校である「希望ヶ峰学園」に入学した主人公は、登校中に突然記憶が混濁し、気が付くと見知らぬ場所にいた。閉鎖された校舎。同じように集められた超高校級の才能を持った十五人の高校生達。と、そこへ白と黒に塗り分けられた動くクマのぬいぐるみが現れる。モノクマと名乗る彼は、十五人の生徒に向かって衝撃の言葉を告げる。「誰にも犯人だと知られずに誰かを殺せ。そうすればここから出られる」と。
 演出が酷い。本作は閉鎖空間における子供達の殺し合いという、要は小説『バトル・ロワイアル』の亜種である。この手のサバイバルホラーを行う場合、導入部分で最優先に示さなければならないは、平凡な日常から異常性が支配する非日常へと一気に急転するエスカレーター感覚である。その方法は二つある。一つは日常では決して味わえない現実的な死の恐怖を身を持って体験させること。もう一つは最初はただの冗談と見せかけて、後に紛れもない現実だと知らしめていくこと。本作はそのどちらにも中途半端である。前者のパターンに従うなら、最初のミーティングで見せしめに誰かを殺すべきで、それがやり過ぎだと言うなら、モノクマが爆発した時に生徒の指の一本や二本を吹き飛ばすべきだろう。それぐらいやらなければ、本当の死の恐怖を味わった生徒達が「生き残るために誰かを殺す」と発想する余地が生まれなくなる。後者のパターンに従うなら、モノクマの言葉に呆れて部屋を出るが、そこには明らかに現実と異なる風景が広がっていたという流れになる。その際、閉鎖空間で徐々に精神が蝕まれていく様子を描写しなければならないため、前者よりも演出は難しくなるだろう。どちらにしても、ここでとてつもない恐怖を与えておかなければ、わずか一日で死者が出るという後の展開に全く説得力がなくなってしまう。どんなに強い動機があろうと、人が人を殺すということの敷居はそれほど低くない。特に本作の場合は、ただの衝動殺人ではなく、他の人に犯人だと分からないように殺す=完全犯罪のトリックを考える冷静さも必要なのである。それを考えると本作はあまりにも稚拙過ぎる。
 演出の弱さと言えば、集められた十五人の高校生が危機管理チームを結成するまでの過程の描写も弱い。集められた十五人は全員、初対面である(正確には違うが)。誰が誰だか分からない、誰も信用できない状態で、これほど簡単にチームが結成されるわけがない。お互い、腹を探り合いながら、それでも生き延びるためには他人の力も借りなければならない。そういった極限状態の群像劇こそサバイバル物の醍醐味ではないだろうか。何の特殊能力も持たない幸運なだけのはずの主人公が、「みんなで協力すれば脱出できるよ」と周囲を説得する違和感。やはり、閉じ込められる前の日常描写をある程度入れておかないと、話にならないだろう。

・ゲーム


 監督の岸誠二は『Persona4 the ANIMATION』において、本作と同様にゲームのアニメ化という作業を行い、その際、様々な革新的なアイデアを盛り込むことで、新しい作品のフォーマットを作り上げることに成功している。本作はその際に培われたノウハウを十二分に活用して制作された意欲作である。特に目玉である学級裁判のシーンでは、ゲーム内で用いられた数々のエフェクトをそのまま採用することによって、まるでゲーム画面がアニメーションでさらにパワーアップしたかのような感覚を味わうことができる。全く違和感がない。まるでゲーム画面のようだ。だが、実際のところ、その最大のメリットこそが本作の最大のデメリットである。そう、そんなにゲームっぽいのであれば、アニメ化なんてしないでゲームをすればいいだけの話なのである。わざわざ多大なコストをかけてアニメ化しているのだから、アニメでしかできない表現を模索すべきであり、ただの再現ビデオならやる必要はない。特に文字による演出などは、映像作品であることを根本から否定する行為である。
 また、『Persona4 the ANIMATION』でダンジョンの行程を全てカットしてボス戦だけに注力したように、本作も事件の捜査や推理の過程は全て簡略化している。ほんの数秒のモンタージュカットだけで全ての証拠品が揃い、当然、それに伴うキャラクターの心理描写などもない。作品の目玉は学級裁判シーンであり、そこに至るまでの過程は面倒臭いだけなのだから描く必要はないという事情はよく分かる。ただ、本作の原作はRPGではなく推理アドベンチャーなのである。そこで捜査の過程を省略してしまうとどうなるか。結局、ただのダイジェスト映像以外の何物でもなくなってしまうのだ。つまり、『Persona4 the ANIMATION』の項目で書いた通り、本作の存在自体がプレイしなくても無料でプレイした気になれるゲーム実況動画と同レベルの物に堕ちるということである。
 そもそもの原点に立ち返ってみよう。元々、推理小説やミステリー映画という娯楽のジャンルがあった。フィクションの世界で探偵や刑事が抜群の推理力を披露して事件を解決する。読者や視聴者は、彼らに自分の重ね合わせながら、一緒になって事件の謎を推理する。だが、メディアの性質上、どんなに受け手が謎を解き明かしても、それが結末に反映されることはない。そこにコンピュータが現れた。条件によってルートが分岐するというプログラムの特性を生かし、プレイヤー自身が探偵となり、事件に能動的に関われるようになった。それはまさに神の所業の如き大革命だったわけである。ところが、そのゲームがアニメ化されると、また黙ってストーリーを追うだけの受動的な娯楽に先祖返りしてしまう。それはありやなしやということだ。もしかすると、人と時間に追われて一つの物に執着しなくなった現代人の志向的にはありなのかもしれない。斜陽になりつつあるゲーム業界を見ているとそんな結論に達しそうになるが、だからと言って、推理小説やミステリー映画が復権しているわけではないので、ただ単に自分で自分の首を絞めているだけにしか見えない。

・統一感


 話が前後するが、本作では全ての証拠品を集めると操作パートが終了し、「学級裁判」という名の犯人当てゲームが始まる。ここでは皆が犯人と思う人に投票し、一番多かった者が強制的に処刑されるという恐ろしいルールが存在する。ただし、間違った犯人を選んでしまった場合は、逆に全員が処刑されてしまうため、犯人は極めて慎重に選ばなければならない。そして、本作の最大の問題要素は、この「おしおき」と呼ばれる公開処刑シーンにある。確かに、内容が内容だけに、角が立たないようコミカルチックに描いている。前衛アート的な手法を取り入れているため、芸術的にも評価は高い。だが、はっきり言って、こんなに胸糞の悪い映像はないわけである。特に、最初に処刑された生徒などは正当防衛による偶発的な犯行だったにも係らず、まるで安い見世物小屋のように容易く始末されてしまう。例えば、アニメ『地獄少女』シリーズでも、罪のない人間が地獄流しに遭う場面は何度も登場するが、それはそうならざるを得なかった人間の業に対する皮肉という側面もあったわけである。ブラックユーモアを否定する気はないし、モノクマの凶悪性を示すための演出であることも理解できるが、実際問題、このノリに付いて行けない人は第三話で見るのをやめてしまうだろう。せっかくゲームをアニメ化して、万人に名を売るチャンスなのに何も自分から敷居を高くする必要はない。
 上記のことも含めて、本作の欠点を挙げるとすれば、それは「あらゆるイメージがバラバラで統一感がない」ことである。設定・脚本・演出・作画がどれも好き勝手な方向に向いており、全く一つにまとまっていない。分かり易い例がキャラクターデザインで、これはもう誰がどう見えてもギャグタッチである。あり得ない髪型の持ち主や、一部の特徴をデフォルメ化したキャラクターの数々、筋肉ムキムキの路上格闘家にしか見えない女子高生なんて者もいる。それらのふざけた人々が極限状態の閉鎖空間において、生と死とは何か、人間の本質とは何かとやっても、何の説得力もない。また、学級裁判で犯人が追いつめられると人格が豹変するのは、ネタ元となったゲーム『逆転裁判』から引き継がれた物だが、あれは最初から最後まで一貫してギャグとして描いているからこそ、犯人が本性を表すと極上のカタルシスが生まれるのである。ギャグをやりたいのかブラックユーモアをやりたいのかミステリーをやりたいのかシリアスをやりたいのか、事前にちゃんとイメージを統一してくれないと視聴者側は混乱するだけである。
 物語のキーパーソンであるモノクマもそうだ。その名が示す通り、白と黒に塗り分けられたクマのぬいぐるみである。当然、心にも白い部分と黒い部分を持ち合わせたキャラクターであるはずだ。だが、彼にそういった二面性はない。ただ、ひたすら猟奇的なシリアルキラーでしかない。これはあまり言いたくないが、大山のぶ代の演技が一本調子過ぎるせいで、さらにそういった感想になる。制作者側も演じ手の権威に依存したりせず、もう少しキャラクターを練り込む必要があったのではないだろうか。

・真相


 第十話辺りから本作の真相が明かされる。詳しく書いてしまうとネタバレになって、未見の人に申し訳ないので簡単なことだけを述べさせて頂くが、かなり奇想天外である。ただ、奇想天外であることと荒唐無稽であることは違う。本作はどちらかと言うと、後者の方が強い。一つ具体例を挙げるなら、主人公を含めた本作に登場する十五人の高校生は皆、「記憶喪失」である。正確に言うと、事件の黒幕が彼らを死のゲームへ誘導するために二年間の記憶を消したのである。何だよそれ。もう、ミステリーでは禁じ手中の禁じ手である。それが許されるなら、あらゆる不可能なトリックが可能になってしまう。もっとも、本作に登場するトリックは、お世辞にもよくできているとは言い難い。舞台自体が黒幕の用意した特殊空間であり、その特殊な構造を利用した仕掛けばかりだからだ。表現方法に限りのあるゲームだとそれでも許されるかもしれないが、映像作品として見るとかなり厳しい物がある。
 ただ、問題はそこではない。本作の何が悪いと言うと、「言い訳をする」ことである。上記の記憶喪失の件にしても、非現実的なオカルトじみた話だという高校生達の批判に対して、モノクマは「そんなことはどうだっていいんだよ。問題はそこじゃない」と自ら説明を拒絶する。それは視聴者側が言うべき台詞であって、決して制作者側が言っていい台詞ではない。さらに、エンディングへ向けて真相に触れ、黒幕の正体や学園の外の様子が明らかになるにつれて、一気にメタ的な表現が多くなる。物語の真相に対して主人公が「とんでもなく馬鹿馬鹿しい」と言ったり、「くだらん」だの「よくある設定」だのと徹底的に自虐する。要するに「照れている」わけである。自分の作った作品の杜撰さに対して、恥を覚えているわけである。そんな物を見せられても困る。荒唐無稽なら荒唐無稽で良いではないか。俺はこれをやるんだと情熱を持って強引に突き進めばいい。今のままでは、くだらない陰謀論とニヒリズムが好きな中高生ぐらいしか付いて来られないだろう。
 ちなみに、ラストは安全な学校に残り続ける「絶望」と無理をしてでも学校から抜け出る「希望」のどちらを選ぶかという、昨今のアニメにありがちな観念的な話し合いが中心になる。まぁ、それはそれでいいのだが、そもそも崩壊した世界に絶望して、シェルターに留まることを選んだのは自分達だったのではないかと。記憶を取り戻した記憶喪失者が過去の自分と全く異なる思想を持つ物語は、よくあるとは言え……とんでもなく馬鹿馬鹿しいくだらん設定である。

・総論


 ゲームをやればいいんじゃないかな?

星:☆☆☆☆(4個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 14:20 |  ☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『フルメタル・パニック? ふもっふ』

コメディー。

公式サイト
フルメタル・パニック! - Wikipedia
フルメタル・パニック?ふもっふとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2003年。賀東招二著のライトノベル『フルメタル・パニック!』シリーズのテレビアニメ化作品。全十二話。監督は武本康弘。アニメーション制作は京都アニメーション。現役傭兵の主人公が、不慣れな日本の高校で様々な騒動を巻き起こす学園ラブコメ。『フルメタル・パニック!』シリーズの中でもコメディー色の強い短編をアニメ化したため、全編メインストーリーとは関係のない一話完結型のギャグアニメとなっている。内容が内容だけにファンからの批判も少なくないが、純粋なコメディーとしては多くの人々に支持されている。

・概要


 言わずと知れた名作アニメ『フルメタル・パニック!』の外伝的作品が本作である。言わずと知れているのだから解説は必要ないはずなのだが、後の文章との絡みがあるので、今一度、簡潔に説明しておく。『フルメタル・パニック!』とは、冷戦構造が現代まで引き継がれたパラレルワールドの日本を舞台にした学園SFロボットアニメである。主人公の相良宗介は子供の頃から戦場で育ち、今は超国家の傭兵部隊の一員として活躍中という特異なプロフィールを持った少年。性格は、冗談や暗黙の了解も理解できないぐらい真面目で堅物ないわゆる朴念仁。ある日、彼はヒロインの千鳥かなめを護衛するため、同じ高校に生徒として潜入する命令を受ける。しかし、彼はずっと硬派な軍人として育ったため、一般的な日本の常識が分からない。そのため、彼を中心にした予想外の騒動が次々と巻き起こる。と、もちろん、この後はロボットアニメらしいシリアスな展開も発生するのだが、大部分を占める日常パートは基本的にこうである。つまり、一般常識を知らない主人公が現代社会で直面するカルチャーギャップやそのコントラストを楽しむ物だ。劇中では、そんな彼を平和ボケならぬ「戦争ボケ」と称しているが、言い得て妙である。戦争という非日常な空間に慣れ切ってしまった人間から見ると、現実社会の方がファンタジーになり、まるで現代にタイムスリップしてきた古代人のような扱いになる。その少し社会批判を含んだ主客逆転現象こそが本作の最大の魅力である。
 本作は、そういった本編の一部分を抽出して何倍にも誇張した作品である。次回予告で自虐ネタにしている通り、本編のシリアスなロボット戦争アニメの側面を完全に排除し、何のストーリー性も持たない一話完結の学園ラブコメに徹している。宗介のキャラクターも本編より何倍もパワーアップし、最早、日常生活が送ることすら困難なレベルにまでデフォルメ化されている。それは他のキャラクターも同様で、千鳥も本編以上に豪快なツッコミキャラになっている。分かり易く言うと、セルフパロディーの形式に近い。問題はそれが面白いかどうかだが、戦争ボケの人間が日常生活を送るというネタは、オーソドックスではあるが、その分、人類共通の普遍的な面白さがある。もちろん、人の笑いのツボはそれぞれなので一概には言えないが、靴箱に入れられたラブレターを爆弾テロと勘違いし、靴箱ごと爆破処理してしまう高校生がいたら、それは誰がどう考えても滑稽な光景なのである。また、セルフパロディーと言うと、得てして原作視聴者じゃないとキャラクターの相関関係やお約束が分かり難くく、それゆえ、特定の人間にしか理解できない内輪ウケになってしまいがちだが、本作はそういった閉鎖性を極力除外して初見でも分かるように調整しているのは好感が持てる。ちゃんと第一話の冒頭で世界観を簡潔に説明しているのも良い。つまり、それが良いか悪いかは別として、独立したコメディー作品として必要な基本的なことをしっかりとこなしているという意味では、十分評価に値する作品である。

・コメディー


 本作は非常に優秀なコメディー作品である。優秀であるがゆえに、制作の京都アニメーションが新作萌えアニメを発表する度に、「そんな物はいいから、ふもっふの第二期を作ってくれ」と古参のファンに言われ続けることになる。実際、京都アニメーションほどの作画力を持って萌えアニメを作るほど無駄なことはないので、ふもっふとは言わずとも、何らかの一般ウケする作品を制作して欲しいのは本音である。
 ところで、優秀なコメディーと劣悪なコメディーとの差は何だろうか。上記の通り、笑いのツボは人それぞれなので面白さに良し悪しを付けるのは難しいのだが、作品の良し悪しは判別することができる。こういった場合、蓋然的に話しても切りがないので、具体例として第九話『女神の来日(温泉編)』を挙げてみよう。この回は慰安旅行にやってきた旅館の温泉で、男子生徒達が女子生徒の入浴を覗こうと奮闘するというお馬鹿な物語である。ちょうど一つ前の『Persona4 the Golden ANIMATION』でも似たような話があったが、コメディーとしてはよくある定番ネタである。ただ、本作のそれが他作品と異なるのは、男子生徒の覗きを阻止しようとするのが、ヒロイン護衛に命を懸ける戦争ボケの宗介である点だ。現役の傭兵である彼が全力を出せばどうなるか、当然、近代兵器による軍事防衛という話になる。対する男子生徒達もその防衛網を突破するために全力で立ち向かい、結果、たかが覗きなのにまるで戦争映画のような馬鹿馬鹿しくも爽快なアクションムービーになる。もちろん、そのシチュエーション自体も面白いのだが、大事なのはこの「全力」という点にある。ここで「たかが覗きなのに」と制作スタッフが照れを出してしまうと面白くも何ともない。生徒達が死に物狂いで行動しようとしている以上、脚本や演出も全力で戦わなければならない。重火器類はリアルに、防衛も軍事的に正しく、そして、アクションシーンは持てる作画力をフルに生かして、グニグニとキャラクターを動かす。はっきり言って、それはコスト的に見て非常に無駄な行為である。動かない一枚画でも十分に意図は伝わる。だが、そうやって無駄に細部の質を高めることで、制作者の本気度が伝わり、万人に好まれるエンターテイメント性が発生する。それが優秀なコメディーである。第九話以外にも、ちょっとしたミスが原因で細菌兵器が教室中に蔓延する最終回などは、ホラーアニメの『Another』以上の緊迫感に満ちている。それができるのは日本屈指の技術力を持つ京都アニメーションだからであり、だからこそ「そんな物はいいから、ふもっふの第二期を作ってくれ」と言われ続けるのである。
 ちなみに、第九話の演出はかの山本寛である。いろいろと素行に問題のある方だが、こうやってゲストで演出を担当すると『スケッチブック ~full color's~』の第十一話や『ペルソナ ~トリニティ・ソウル~』の第六話など、なかなか面白いコメディー回を作る。何とももったいない話である。

・ラブコメ


 本作はただのコメディーではなく、恋愛コメディー(ラブコメ)である。とは言え、世の創作物を鑑みると、ただのコメディーよりもラブコメの方が多いだろう。その逆もしかりで、ただのラブロマンスよりも喜劇チックなラブコメの方が多い。一見、無関係に思えるそれらがなぜ組み合わされるのか、その理由を考えてみるとなかなか面白い。まず、喜劇を描こうと思ったら、登場人物が何らかの非常識なアクションを起こさなければならない。だが、非常識な人間だけを集めても、コントにはなるかもしれないが喜劇にはならない。そのため、ストーリーとギャグを両立させようと思ったら、常識と非常識が混在する人格を作り出すという困難な作業を行わなければならない。一番簡単なのは酒なりドラッグなりを飲ませて、強制的に人格自体を変えてしまうことだ。実際、深夜アニメでも登場人物がお酒を飲んで酔っ払う話は多い。ただし、近年の表現規制により、未成年者の飲酒は自粛する方向にある(甘酒や謎の神酒に変更されることも)。そこで恋愛である。恋は盲目という慣用句のままに、人は恋に落ちると周りが見えなくなる。どんなに真面目な人でも、いや、真面目であればあるほど恋愛が絡むと人が変わり、非常識な行動を取るようになる。ある意味、合法ドラッグである。そこに面白さが生まれる。また、二人の関係がこの後どうなるか、視聴者の関心はそこに集中するため、一話完結なのに全体的なストーリーを感じるというメリットも生まれる。そういう意味で言うと、恋愛とコメディーの親和性は極めて高い。
 さて、本作は主人公とヒロインのラブコメである。ヒロインの千鳥は、主人公の宗介に対してほのかな恋心を抱いている。もっとも、それは明確に好きだと言える物ではなく、何事においても危なっかしい宗介に対する「放っておけない」という親心が発展した物だ。また、自身の強気な性格もあって、なかなか気持ちを表に出せないでいる。一方、根っからの戦争ボケである宗介は、その生い立ちのせいで恋愛感情その物が認識できない。だが、心の奥では千鳥に対して少なからず好意を抱いており、彼女にだけは他の友人とは明らかに異なる接し方をする。そんな二人の心のすれ違いから生まれる奇妙な男女関係は、実に微笑ましく面白い。まさに誰もが認める正統派ラブコメである。
 ところが、ここ最近、深夜アニメ業界において根っからラブコメと言える作品は数少ない。ヒロインに対する注目が高くなり過ぎて、男性主人公すら余計な物となり、結果的に恋愛その物を忌憚する。その流れを牽引したのが、他ならぬ『らき☆すた』や『けいおん!』を制作した京都アニメーションなのが皮肉なところだ。オリジナル作品の『たまこまーけっと』はラブコメの基本すらできておらず大コケ(映画版は好評だが)、2014年に『甘城ブリリアントパーク』でようやく原点回帰したが、機を逸した感が強く、まさに失われた十年である。やはり、素直にふもっふの第二期を作るべきだったのかもしれない。

・総論


 アニメ史を語る上で見ておかなければならない作品だが、見てしまうと現状に対する哀しみが増すだけなので、見ない方がいいかもしれない。

星:☆☆☆☆☆☆(6個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 13:44 |  ☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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