『魍魎の匣』

人間。

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・はじめに


 2008年。京極夏彦著の小説『魍魎の匣』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は中村亮介。アニメーション制作はマッドハウス。謎の連続バラバラ殺人事件に「京極堂」達が挑む推理伝奇アニメ。京極夏彦を代表する「百鬼夜行シリーズ」の二作目に当たる。1995年に刊行された原作は第49回日本推理作家協会賞を受賞している。

・メディアミックス


 人気小説家・京極夏彦の代表作「百鬼夜行シリーズ」より、最高傑作と名高い『魍魎の匣』がまさかの深夜アニメ化である。どうしてこうなった。この手のオカルト物は常に一定の需要があるとは言え、明らかに深夜アニメ向きの題材ではない。しかも、十年以上前の作品だ。ファンの間でも待望感より今更感の方が強いだろう。ただ、その疑問もメディアミックスだと言われれば、あぁそうかと納得できる。まず、「百鬼夜行シリーズ」を一から順番に映画化しようという流れがあってのアニメ化と漫画化である。それゆえ、別に本作がアニメでなければならない必要性は何もないのだ。大事なのは、とりあえず間口を広くすること。すなわち、何らかのきっかけでアニメ版を見たアニメファンが、ついでに原作や映画を見てくれれば御の字というところだろう。そのため、本作のキャラクターデザインを人気漫画家集団のCLAMPが手がけている。目論見通り、美青年キャラクター好きの女性ファンには好評だったようだ。もっとも、硬派な原作ファンには呆れられているようだが、その辺りは最初から想定済みであろうから問題ない。
 先に本作が抱える現実的な問題から処理すると、非常に「話が分かり難い」ことがあげられる。それもそのはず、わざと分かり難く作ってあるからだ。まず、各話のアバンタイトルで一連の劇中劇が繰り広げられるのだが、とある事情でそれを登場人物の一人が演じているため、極めて本編との違いが分かり難い。その本編でも複数の主人公が同時に登場し、それぞれの視点で話を物語るため、全体的な流れが掴み難い。しかも、時系列までバラバラに歪められているから尚のことだ。なぜ、このようなことをしているかと言うと、要は視聴者に怪奇ミステリーらしい掴みどころのない不安感を与えるためだ。この先、どこへ向かうか分からない不安感がおどろおどろしい世界観とマッチして、より気分を盛り上げるのである。ただし、それをストーリーでも演出でもなく構成でやっているのは、手段としてはかなり卑怯である。
 また、メインキャラクターの京極堂、榎木津、関口、木場、鳥口といった人物は、小説「百鬼夜行シリーズ」に共通する主人公である。そのため、初登場時に詳しい人物紹介のような物はほとんど行われず、当然のように画面に居座っている。特に、なぜ鳥口が新興宗教を探っているのかが分かり難い。シリーズファンなら言わずもがなのことかもしれないが、それ以外の人間にとっては非常に不親切である。これはメディアミックスという物をどう捉えるかという話でもある。ファンに複数の作品を見させることを目的とするのか、それとも新しいファン層を獲得することを目的とするのか、後者なら本作のようなやり方は良いとは言えない。ちゃんと正式な人物紹介を入れるべきである。

・匣


 匣と書いて「はこ」と読む。本来の読み方は「くしげ」で櫛笥とも書く。意味は化粧用品を入れておく道具入れのこと。本作に関して言うと、そちら側の意味はあまりなく、箱と同意である。おそらく、匣という書体その物が持つ四角形のイメージから、その字を当てているのだろう。ただ、最後まで見終えるとこのネーミングセンスの素晴らしさが実感できる。
 箱とただのブロックとの最大の違いは、中が空洞である点だ。その多くはふたが付いており、中に物を入れることができるようになっている。当然、覗き窓でも付いていない限り、外から箱の中身を見ることはできない。ここが重要である。見えないということは、中に何が入っていても分からないということだ。例えば、電車の中で相席した人物が手に箱を持っていた。見た目は何の変哲もないただの木箱。しかし、中に何が入っているかは他人には分からない。書類かもしれないし食べ物かもしれない。もしかすると、本来そこにあってはいけない物、例えば人の生首が入っているかもしれない。そういった不浄なる物が平穏な日常のすぐ隣にあるかもしれないという不安感が箱には詰まっている。人間が想像力の動物であるがゆえに、実際に目撃する以上に心をかき乱し、そこから恐怖心が生まれる。本作はそういった感情を巧みに操ることで、推理メインでありながら一線級の怪奇オカルト作品になっている。考えてみると、古来から妖怪変化の類はすべからくそうであったはずだ。目に見えない怪奇現象を科学的に検証することなく、勝手に妖怪に置き換えて勝手に怖がっていたわけである。それぞまさしく『魍魎の匣』である。
 箱のもう一つの特徴は、形が直方体もしくは立方体であることだ。これがただの「入れ物」だと様々な形を取るだろうが、「箱」だと正確な四角形の形状を取る。上下左右が平行で四隅が尖り、隙間なく並べることができる。その結果、箱の容器その物が正確性・緻密さ・秩序の象徴たる存在になり得る。幾何学的な平面に囲まれた箱は秩序が支配する現実世界の化身、だが、その中身は何が入っているか分からない純粋な混沌という二面性。劇中では、久保という新進気鋭の幻想小説家がその魅力に取り憑かれる。「空白」を極端に嫌がり、箱の外も中もきっちりと物で埋め尽したくなるという一種の神経症。だが、その感情は病気ではない我々でも何となく理解できることだ。面倒臭い自由を放棄して、正確無比な秩序の中に身を置きたくなる感覚。感情を捨てた機械になりたいという願望。つまり、死への願望。そういった宗教観までもが「箱」という一つの存在を通して本作に込められている。その辺りはさすが稀代の人気小説家と言うべきだろう。

・ストーリー


 戦後間もない東京近郊で奇怪な事件が発生する。小さな箱の中に若い女性の身体の一部が入れられ、街の片隅に放置されるという連続バラバラ殺人事件。警察の必死の捜査にも犯人の目途は全く立たない。時を同じくして、一人の女子中学生が列車事故に遭う。予断を許さぬ状況の中、彼女の姉を名乗る人物の提案で、とある医学研究所に搬送されることになった。そこで一命を取り留める彼女だったが、なぜか突然行方不明になってしまう。一方、雑誌記者の鳥口は、友人の小説家・関口らと共に新興宗教団体「穢封じ御筥様」を調査していた。すると、その団体とバラバラ殺人事件との間に奇妙な関連性を発見する。そこで、彼らは古本屋を営む傍ら拝み屋としても活躍する京極堂に協力を要請する。彼の卓越した推理力によって次々と事件の謎が明らかになる。独自に女子中学生失踪事件を調査していた探偵の榎木津や刑事の木場も加わり、京極堂達は事件の真相解明に向けて研究所へ乗り込むことになる。
 本作のストーリーをざっと挙げるとこうなる。意外と単純な物語であるが、上記のように複数の主人公が複数の視点で物語るため、非常に複雑である。ただ、作品の雰囲気が良く、話の引きが上手いので視聴意欲はそれほど損なわれない。また、人物描写が巧みで、個性的でありながら共感できる、俗に言う「キャラが立っている」状態なので、世界観に入り込むこと自体は容易い。例えば、中二病全開の女子中学生が大人びたクラスメイトに憧れる気持ちは理解できるし、堅物の刑事が好きだった女優を目の前にして戸惑う気持ちもよく分かる。特に、小説家の関口は本作きっての常識人であり、視聴者とのリンク役を担った重要キャラクターである。彼が変人揃いの登場人物達に囲まれて困惑する様子は、まさに視聴者の代弁であり、彼の存在によって作品自体が随分と救われている。そして、第八話にしてようやく主要キャスト五人が全員集合し、合同捜査に乗り出す。この時に味わう安堵感。視聴者がこの第八話まで我慢できるかが、本作の評価を分ける大きなポイントになる。
 ちなみに、タイトルに魍魎という言葉が入っているが、妖怪変化の類は劇中に一切出て来ない。むしろ、理知的な祈祷師が摩訶不思議な物を科学的に看破するのが本作の趣旨である。では、サイコパスな殺人鬼が登場し、人間の心にこそ魍魎が住み着いているのだといったベタな展開になるかと言うと、そうではない。人間はあくまで人間のまま。自分が正しいと思ったことをしているだけ。だが、他人から見るとそれが奇怪に見えるのである。つまり、「人間も魍魎も大して変わらない」が本作の訴えたい物ということになる。

・人造人間


 一口に「人造人間」と言っても、大きく分けて二種類が存在する。すなわち、アンドロイドとサイボーグである。前者は無から人工的に生命を作り上げる物、後者は人間を改造して強化する物。アプローチは正反対だが、究極的には同じ位置に着地する。つまり、神になるということである。また、その強化にも二通りあって、生物学的に人口の肉体を作り上げるか、工学的に機械の身体を作り上げるかだ。作るだけなら簡単なのは間違いなく後者である。生命の神秘を解き明かさなければならない前者と違って、後者は肉体の機能を機械に代替わりさせれば良いだけである。実際、医療の現場では人工透析などですでに実用化されている。問題はそれをどこまで小型化できるかということである。少なくとも、現代の科学技術では人間の機能を全て体内に収められるほど小型化はできない。実現しようと思えば、体外に巨大な装置が必要になってしまう。特に、本作の舞台である戦後間もない時代だと、その装置は大きなビル一つ分ぐらいになってしまうだろう。
 さて、なぜ、いきなりこのようなことを話し出したかと言うと、実はこれが本作のメインテーマだからである。冗談のように聞こえるかもしれないが本当だ。最終回近辺でこのテーマを聞かされた時、「なるほど」と思うか「馬鹿馬鹿しい」と思うかは人それぞれだが、人間の本質という物を考えて行くと無視できないテーマであることは違いない。すなわち、人を細かく分解して必要最低限の存在になった時、それは人であるか神であるか魍魎であるかということだ。ネタバレになるので詳しくは語れないが、劇中でそうなった人物がいて、視聴者を含む多くの人がそれを魍魎だと感じるが、ある人物は彼女を生前と変わらず愛し続けている。そんな彼は明らかに他人と感性が異なるのだから、彼こそが魍魎なのかもしれない。
 このように、本作のタイトルの『魍魎の匣』には様々な意味が含まれている。『匣の中の娘』であったり研究所であったり録音機であったり御筥様であったり。また、現実社会の暗喩だったりもするだろう。ただ、本作が訴えたい『魍魎の匣』は、やはり人間その物であろう。見た目はきっちりとした箱でも、中身には魍魎が詰まっているかもしれない。それが人間なのであって、それを否定もしないし肯定もしない。本作はそんな深いテーマを含むことによって、ただの怪奇ミステリーを越えた名作である。

・総論


 間違いなく人を選ぶが、話の筋は全くブレないので我慢して見続ける価値のある作品。第八話まで来れば何とかなる。もちろん、アニメ版が原作を超えることはないので、京極夏彦ファンが無理して見る必要はないが。

星:☆☆☆☆☆☆☆(7個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:40 |  ☆☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『中二病でも恋がしたい!』

中二病の権化。

公式サイト
中二病でも恋がしたい! - Wikipedia
中二病でも恋がしたい!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2012年。虎虎著のライトノベル『中二病でも恋がしたい!』のテレビアニメ化作品。全十二話+OVA。監督は石原立也。アニメーション制作は京都アニメーション。元中二病患者の主人公と現役中二病患者のヒロインが織り成す学園ラブコメ。原作は『第一回京都アニメーション大賞』の奨励賞の受賞作である。原作とアニメ版とでは大きく設定が異なるので、ここではあくまでアニメ版第一期全十二話に絞って見て行くことにする。

・中二病


 まず、皆が思っているであろうことに、あえてツッコミを入れさせて頂く。それは「中二病」という単語の定義についてである。この際、はっきりと言わせてもらうが、ネットスラングで言うところの中二病と本作が提唱するところの中二病は明らかに定義が異なっている。本作の意図しているのは、同じくネットスラングで言うところの「邪気眼」である。混同している人が非常に多くて哀しくなるが、本来、それら二つは全く異なる物である。具体例を挙げると「神なんかいねーよ、バーカwww」となるのが中二病で、「いや、私が神だ」となるのが邪気眼である。ただ同じ年代、同じ時期に発病し易いというだけで、例を見れば分かる通り、全く正反対の意味になることもある。もちろん、中二病を発症している人が自己表現の在り方の一つとして邪気眼持ちになることはあるが、邪気眼持ちだからと言って必ずしも中二病とは限らない。ちなみに、用語の提唱者であるタレントの伊集院光は、邪気眼のことを中二病ではなく「小二病」と称している。
 良い機会なので中二病とは何かを解説しておこう。劇中では「形成されていく自意識と夢見がちな幼児性が混ざり合って、おかしな行動を取ってしまうというアレ」と説明されているが、何の説明にもなっていないばかりか、明らかに自分達に都合良く曲解している。中二病とは肉体の成長と精神の成長、それらと社会的な役割の不一致によって発生する根拠のない万能感のことである。同一性が未発達であるがゆえに自己を過大評価し、「自分は特別な存在である」「他人と違う俺かっこいい」「今はダメでも本気を出せば凄い」とうそぶく。そのエネルギーがファンタジーに向かえば邪気眼になるし、目上の人間に向かえば反抗期になるだけだ。つまり、ほぼ全ての人が中二病的な物を発症すると言っても過言ではない。高校生ぐらいになって現実社会の仕組みに触れ始めると、「上には上がいる」ことを知って井の中の蛙から抜け出す。後になって中二病だった自分が恥ずかしく思うのは、ファンタジー世界に没入していたからではなく、そんな自分を特別に優れた人間だと勘違いしていたからだ。
 また、性質上、自分が中二病であると認識した時点で、その人はもう中二病ではないわけである。だが、本作は中高生向けのライトノベルを映像化した中高生向けの萌えアニメ。そこで中二病(邪気眼)を小馬鹿にしたネタを持ち出す理由が分からない。要するに、「自分達は中二病患者ではない選ばれた人間だ」と勝ち誇っているのだろうか。そうなると、本作自体が中二病の権化のような存在になる。ただし、作っているのはいい歳したおっさんおばさん達であり、どうにもオタク業界全体が歪んでいるようにしか思えない。
 どちらにしろ、タイトルに中二病と入っている以上、第二次性徴期の中学生の微妙な心理を描けているかどうかが最大の論点になる。言い換えると、世代論がテーマである。子供でも大人でもない中学生という特殊な年代をどう描くか、元来、アニメーションが得意としている分野だけに期待したい。

・序盤


 主人公はこの春、高校に入学した新一年生である。……は? え、中学生じゃないの? タイトルが中二病なのに? まぁ、それは後に回すとして、彼は元中二病(邪気眼)患者だったが、中学卒業を期に引退して真人間になり、いわゆる高校デビューを果たした。一方、ヒロインは高校一年になっても中二病(邪気眼)を引きずっている現役患者である。そんな二人がマンションのベランダで衝撃的な出会いを果たすところから物語が始まる。ただし、この出会いは、ほんの二分ほどの短いアバンタイトルであっさりと終了してしまう。印象的な演出など何もない。ボーイミーツガールにおける最も重要で、下手すれば第一話全てを消費してもいいぐらい大事なシーンをこんなに簡単に消化してしまうのは、何らかの深い演出意図があるのでなければ、監督はただの馬鹿である。
 こうして、元中二病患者と現役中二病患者という絶対に交わらない二人の物語が始まったわけだが、そんな複雑な設定に反してこれという大きなトラブルは何も起こらず、時間だけが淡々と過ぎていく。第二話に移るとすでに一週間が経過しており、主人公が「この真正中二病の扱いにも慣れてきた」という衝撃のコメントを発表する。第三話では早くも一ヶ月が経過し、ヒロインのことなど忘れたかのように新キャラクターが投入される。酷い。酷過ぎる。本作は腐ってもラブコメであるはずだ。一組の男女が恋に落ちる過程を第三者的視点で楽しむ物であるはずだ。それをこうも簡単に省略するとは、時間をかけて取った出汁を全て流し台に捨ててしまうに等しい。中二病患者のヒロインと適切なコミュニケーションを取り、信頼関係を築き上げるまでにどう考えても四・五話は必要なはずだ。せっかくの設定を物語に昇華せず、ギャグでしか使わないのならば、宝の持ち腐れというレベルではない。
 そして、同じく第三話では「部活作り」が行われる。あれ? 自分は別のアニメを見ていたのだろうか。「似ている」とか「どこかで見た」といった物を遥かに超えて、最早ただの「コピー」である。この作品に関わっている人間にプライドはないのだろうか。オリジナリティーの欠片もなく、他人が作った物を丸写しし、それで自分はクリエイターを名乗っているのである。よく、いわゆるテンプレ展開は、視聴者が望んでいるからそれに合わせているだけだという言い訳を聞くが、本作を見ればそんな言葉が大嘘であることがよく分かる。初期設定やイントロダクション部分はそれなりに奇抜で独創性もある。だが、話が進み始めるといきなり時間がワープして強引にテンプレ展開へ持って行く。要するに、そうしなければ「話が作れない」のである。想像力が貧困過ぎて、ストーリーを作るということができないのである。例えば、主人公がベッドの下に隠していたエロ本をヒロインが見つけて赤面するというテンプレシーンが出てくるが、このネット社会で今時、紙メディアのエロ本を購入している高校生がどこにいる? 新しく物を作るということはせず、既存の物を適当に切り貼りしているから、そんな現実離れした場面が出てくるのである。最早、恥を知れとしか言い様がない、それぐらい酷い導入部である。

・中盤


 第七話で突然、話がシリアスになる。つい先程までゆるい日常を過ごしていたにも係らず。このように、日常パートとシリアスパートが完全に解離しているのも、ダメなアニメの特徴である。優秀な作品はシリアスの中に笑いを織り交ぜたり、何気ない日常の中に重要なキーワードを忍ばせたりする物だが。それはそうと、そこでヒロインがなぜ中二病(邪気眼)に傾倒したのかが語られる。その理由は、病気で亡くなった父の死を受け入れられなかったから。小学生か! いくら何でもトラウマが幼過ぎないだろうか。中学生年代なら(ヒロインが中二病を発症したのは中学生の時)、母親の不倫が原因で両親が離婚し、引き取り手となった父親から虐待を受けていたが、実は彼とは血が繋がっておらず、本当の父親は母親の兄だったぐらいでもいいはずだ。この件に限らず、基本的に萌えゲーム・萌えアニメはヒロインを実年齢以上に幼児化させる傾向がある。高校生の設定のはずなのに、どう考えても幼稚園児にしか見えない言動をしたり、妙な趣味や妙な偏食を持っていたりする。これはもちろん、制作者が密かに抱えている女性コンプレックスの反動であるわけだ。同年代の女性と適切な関係を築けないから、絶対に自分に逆らわない目下の女性を相手にしている。本作でも、主人公は精神年齢の低いヒロインに対して「お前」「~してやる」と徹底的に上から目線である。で、最終的にヒロインを苦しみから解放してハッピーエンドといういつもの流れに収束する。
 とにかく、そういった理由で高校生になっても中二病(邪気眼)を続けているヒロインに対し、彼女の姉が批判する。「いつまでも子供みたいなことをやって。楽しいか?」と。そこへ主人公が登場し、三流萌えアニメにありがちな熱い啖呵を切る。「分かっているから、こうしている。逃げてるんじゃない。現実だと割り切りたくないから」と。だが、この青少年の主張は、特に物語に影響を与えることなく爽やかにスルーされる。当然だ。なぜなら、当の主人公自身は何一つ苦労をしていないのだから。彼は元中二病患者だが、無事に中二病を卒業して高校デビューした。だが、その際に直面するであろう現実という壁が全く描かれない。普通は高校デビューしたはいいが、バイトとバイクと女の話しかしないリア充な友人達に上手く溶け込めず苦労するという展開を入れるだろう。そういった容赦のない現実に翻弄されている主人公だからこそ、言葉に説得力が生まれるのである。だが、本作は他の萌えアニメと同様に主人公は置き物である。悩みも葛藤も何も描かれない。趣味はギャルゲー。これで酸いも甘いも噛み締めてきた大人を説得しようなどとは片腹痛い。
 また、主人公が高校で新しく作った友人の趣味はバンド活動である。ロックバンドなどまさに中二病の象徴のような物だ。彼本人もまさに男子中学生といったノリの持ち主で、ヒロイン並みに痛々しい。ここからも分かる通り、本作は舞台を中学校にして、小学生が中学生に進級する話にすれば全てが上手く収まるのである。しかし、制作者は頑強にここを高校と言い張る。これではまさに、自分達は同年代の人間より優れた大人だと錯覚する中二病の見本市ではないか。

・終盤


 『中二病でも恋がしたい!』……考えてみると変なタイトルである。「恋をする」のは、その人個人の感情の問題なのだから、肩書きが何であろうと勝手にすればいい話だ。別に、中二病だから恋愛禁止ということでもないし、むしろ、ファンタジー好きな女子中学生なら恋に憧れる物ではないか。これが「ドラマのような恋愛をしたい」や「素敵な彼氏が欲しい」なら少し勝手が違ってきて、確かに中二病では難しいところもあるかもしれないが……。
 さて、そんなこんなで気持ちが通じ合い、晴れて恋仲になった二人だったが、そこに中二病問題が圧し掛かる。最初はヒロインの中二病(邪気眼)に肯定的だった主人公も、彼女の母親が登場したことで心変わりし、二人を仲直りさせるためヒロインに現実へ帰るよう要求する。その言葉に素直に従いトレードマークの眼帯を外すヒロイン。だが、それ以来、彼女の様子がおかしくなる。ストーリー的に中二病を止めたヒロインが自分らしさを見失って元気をなくすという展開は理解できるのだが、この一連のシーンの演出はあまりにも恣意的で印象は良くない。現実と向き合って大人になるということを完全に否定的に描いているため、まるで最初から仕組まれた出来レースのようである。もう少しスマートに変化を見せられない物か。そして、最後は部屋に閉じ籠ったヒロインを主人公が助け出し、「中二病も悪くない」という結論で締めくくる。
 さて、どうだろう。こうやってストーリーだけ書き出してみると、それなりにまとまっているように見える。しかし、実際に一つの作品として見ると、まとまっていないどころか根本的に無茶苦茶である。その理由は明白だ。なぜなら、中二病(邪気眼)の対極に位置する「現実」を何一つ描いてないからである。何より登場人物に悪人が全く出て来ない。クラスメイトも学校の先生も皆いい人ばかりで、ヒロインの邪気眼に対しても基本「放置」である。明らかにモラルに反している眼帯を問題視する人もいない。そんな生温い「現実」を描いておいて、「現実はとても厳しい物だから、緊急避難としての中二病も悪くない」などと結論付けても何の物語にもならない。この物語を成立させたければ、中二病のヒロインがクラスメイトからイジメにあったり、主人公が周囲に溶け込むために自分を偽ったりするシーンは絶対に必要なはずだ。
 なぜ、こんな壊滅的なことになっているかを今更説明するまでもないと思うが、要は何も考えず「ゆるい日常系」のフォーマットを流用しているからに他ならない。何の敵もいない閉鎖空間で誰にも邪魔されず自由に遊ぶ。それが家や部活内だけに限定されるならまだいいのだが、本作はクラス・学校にまで広がっているから問題なのである。学校は社会の縮図のはずだ。そこで社会勉強をして世に出て行く修行場のはずだ。それを放棄して自我に閉じ籠っているから、いつまで立っても精神的に未熟なのである。それを「中二病」と呼ぶのであり、本作はまさに中二病の権化のような作品である。

・総論


 さすが、信頼と実績の京アニブランド。期待を裏切らぬ出来栄えに大満足です。

星:★★★★★★★★(-8個)
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by animentary  at 11:27 |  ★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑
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