『人類は衰退しました』

くどい。

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・はじめに


 2012年。田中ロミオ著のライトノベル『人類は衰退しました』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は岸誠二。アニメーション制作はAIC ASTA。遠い未来の人類が衰退した地球を舞台にして、国連調停官の主人公が新しい人類「妖精」と共に暮らすSFファンタジー。原作者の田中ロミオは、名作美少女ゲーム『CROSS†CHANNEL』で知られる人気シナリオライター。『加奈 ~いもうと~』『家族計画』の作者である山田一と同一人物とされているが、確定には至らず。

・設定


 遠い未来の地球。そこでは人類という種が衰退し、世界的な人口減からの文明崩壊の危機に瀕していた。代わって、いつの頃からか「妖精」と呼ばれる新しい種が発生し、徐々にその勢力を拡大していた。主人公の「わたし」は、そんな妖精の調査と管理を主任務とする国連の調停官。元々は内気で孤独を志向する人間だったが、無邪気で屈託のない妖精との触れ合いを重ねる内に、段々と心を開いて行く。
 このように、作品ベースは終末系の未来型SFである。ただし、末期ではあるが退廃はしておらず、緩やかな人口減からの過疎化で世界中が現代の田舎町のようになっている。よって、作品の空気自体も牧歌的である。漫画『ヨコハマ買い出し紀行』を思い出して頂ければ、雰囲気が伝わり易い。遠い未来、成長・発展という概念をなくした人々は、時間に縛られることなく誰とも争わず、その日その日を心穏やかに暮らす。これはつまり、文明が衰退した後の世界をある種の理想郷として描くことで、現代の文明社会を批判的に描こうとする一つのテクニックだ。ただ、終わりに向かっていることには違いないので、いろいろ問題はあっても、結局は今が一番いいという結論に辿り着く。要するに、根底に流れているのは「あるがまま」を信条とする仏教思想である。
 もっとも、本作に関して言うと、基本的に二話構成のオムニバスストーリーなので、各話ごとにバラエティーに富んでおり、その内容もかなりコメディー重視でブラックやアイロニーに満ちたネタも多いため、全体的にひどくゴチャゴチャとした印象を受ける。主人公も見た目は清楚なお嬢様風だが、性格はかなり陰険・腹黒で、常に心の中で周囲に毒を撒き散らしている。そこだけ見ると、あまり牧歌的という雰囲気はない。一昔前ならナンセンス脱力系ギャグファンタジーなどと言われていたジャンルに該当するだろう。また、現代のオタク文化のパロディーも多く、第三話・第四話などはそのまま日本の同人誌文化の焼き直しである。正直なところ、未来を舞台にした作品で現代のサブカルチャーのパロディーを出す意味が分からない。その時代の人々が現代のことを知っているはずがないのだから。こんな無駄なことに全力で取り組めた昔=現代は良かったねという自己肯定なのだろうが……それをわざわざ特定の人間しか理解できない同人文化でやるというところに、本作の抱える歪みが感じられる。

・妖精


 本作のキーとなる存在である。見た目は、おとぎ話に出てくる可愛らしい妖精さんとほぼ同じ、手のひらサイズのヒューマノイドである。性格は非常に無邪気で純粋無垢、甘い物や遊ぶことが大好き。楽しいことがある、つまり、気分が充足すると個体が増殖するという奇妙な特徴を持っているため、ちょっとしたきっかけで爆発的に増えることも。どこから現れたのか、何から進化したのかは劇中では明言されていない。文化水準は人類よりも高く、生産能力に極めて優れ、一夜にして街を作り上げてしまうことも可能。また、様々なファンタジックな能力を有し、妖精が側にいるだけでトラブルに巻き込まれ易くなるが、なぜか身の危険の心配だけはないというジンクスもある。以上が本作における妖精の概要である。文字だけで見ると、何と恐ろしい生物であろうか。間違いなく人間という種を越えており、早めに対策を取らなければ、地球の覇権を明け渡すことは必至だと言えよう。と言いつつ、実は現在の地球上にも似たような生物が存在する。それが「ウイルス」である。本作は未知のウイルスが地球上に蔓延し、人類が絶滅の危機にある物語として見ると非常にすっきりする。さしずめ、主人公はアウトブレイクを警戒するユニセフの医療従事者といったところだろう。
 もちろん、話の内容はそういった類の物ではない。一言で説明すると「未来型おとぎ話」である。いわゆる妖精さんが不思議な魔法で人々を幸せにする物語に、論理的な設定を加えた物だ。妖精は、その天真爛漫な純粋さから人間の役に立とうと頑張るのだが、それがどうにもズレていたり、人間の文化を理解していなかったりして暴走した挙句、結局は失敗して元の鞘に戻るという寓話的な流れを取る。また、人間の欲が深いばかりに、かえって墓穴を掘り、最終的に自分に返ってきて損をするという自業自得な物語も多い。ここでも根底に流れているのは仏教思想である。主人公自身、内気でプライドが高く学内でも孤立した存在というアニメファンが非常に感情移入しやすいベタなキャラクターだったが、妖精と交流を重ねる内に外向的な性格へと変化した。今や地域住民に「先生」とまで呼ばれている。このように、妖精という超自然的な存在を媒介にして、人とはどう生きるべきかを問うのが本作の趣旨である。つまるところ、「ハートフル」という単語に集約されるのだが、上記の通り、かなりブラックな要素や反社会的な行為なども多く、それは人として大丈夫なのかと心配するような点も見られる。それは言い換えると、作品自体がおとぎ話のセルフパロディということであり、自分で自分のアイデンティティを否定しているとも取れるため、何とも掴みどころのない摩訶不思議な作品である。

・モノローグ


 以上が本作の解説である。かなり人を選ぶとは言え、一つ一つのストーリーはそれほど悪くない。勧善懲悪・自業自得なおとぎ話を否定する人はいないだろうし、深いテーマも含まれているため、いろいろと考えさせられることも多い。では、問題点が全くないかと言うと、残念ながら二点、どうしても見過ごすことができないポイントが存在する。
 その一つがナレーションである。ライトノベル原作アニメにありがちなことだが、元々の原作が一人称の小説なので、その雰囲気を再現するために主人公が語り部となってモノローグを多用するという形式を取る。そのため、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』と同様に、最初から最後まで主人公が心の中で思ったことをしゃべり続けるという非常に忙しない作風になっている。それがもう、一言で言うと「くどい」のである。量の問題ではなく、会話の内容が。もっと言うと口調一つ一つが。簡潔に伝えられるはずのことをわざわざ回りくどい表現で述べようとする。メタ的なフレーズが多発し、登場人物の一人なのにまるで読者側の視点で物を語ろうとする。常に斜に構えて、一歩引いたスタンスから皮肉を言おうとする。こういった大してエスプリも効いてない小難しいことを誰ともなしにブツブツと語り続ける様は、まさに型通りの「オタク」の行動である。おそらく本人は否定するだろうが、本作の主人公は誰が見てもそっち系の人間であり、どうしても鼻に付く。もっとも、アニメなど所詮はオタクがオタクに向けて作っているのだから、主人公もそうであった方が共感できて良いのかもしれない。独り言をしゃべり続ける主人公を可愛いと思う層もいるだろう。ただ、問題は制作者がその事実に気付いているかどうかである。仮に、彼女を非オタクの一般人のつもりで描いているなら、視野が狭いというレベルではない。一般業界へ進出した時に必ずや大恥をかくだろう。
 また、本作の場合はスクリプトだけではなく演出もくどい。文字を使った画面効果やクラシック音楽など、いつの時代のセンスだと言いたくなる。なぜ、そんなことをしているかと言うと、それが面白いと思っているからである。普通のアニメにこういった演出を付け加えることで、さらに面白くなると確信しているからである。牧歌的で穏やかな世界観であるにも係らずだ。結局、原作を如何にして再現するかということだけに捉われ過ぎて、一つの独立した作品を作っているという意識が乏しいため、本作のようなこってりとした大味の料理が出来上がってしまうのである。もう少しシンプルに作っていれば、もっとテーマ性が浮き立ったはずだ。

・SF


 本作におけるもう一つの、そして、最大の問題点が、センセーショナルなタイトルに反して「人類が衰退しているようには全く見えない」という点である。アニメ版では理由が描かれないが、とにかく人口が減ったことで生産力が落ち、そのせいでさらに人口が減るという負のループに陥ったことで、人類という種が絶滅しかけているという世界設定になっている。電力供給設備が壊れているか、もしくは稼動できる人材がいないため、文化水準が低下して中世のような自給自足の生活を余儀なくされている。実際、第一話では物資が足りないため、人々の暮らしが困窮していると語られ、かなり切迫した状況であることが感じられる。
 ところが、だ。第一話以降はどれだけ物語が進んでも、物資窮乏に喘いでいるという実態が画面を通してほとんど伝わって来ないのである。第三話・第四話の同人誌回にいたっては、現代と何も変わらない大量生産・大量消費を行っている。その最たる物が最終話に出てくる「学舎」で、世界最後の学校という設定なのに、見た目も授業内容も現代とほぼ変わらない。もちろん、直接的に衰退を描く必要は何もないし、直接描いた時点で台無しになるのは明白だが、どこかに終末感を含ませなければこの設定にした意味が何もない。先の『ヨコハマ買い出し紀行』を例に挙げるなら、知り合いがみんな高齢化し、住んでいる土地が徐々に水没化し、儚く文明の明かりが消えて行くという描写が随所でなされている。その上で人がどう生きるかを問わなければならないのが、終末系SFではないだろうか。
 ここで、本作は未来型おとぎ話風のファンタジーコメディーであり、タイトルの『人類は衰退しました』はただの見せ球であって、さほど重要ではないとする考え方もあるだろう。それは正しい。人々は終末が目の前に迫っていても、のんびりと今日を生きている。過去も未来も振り返らない。それが人本来の生き方だとするのが本作の訴えたいことだ。ただ、それは比較対象があって初めて説得力を持つ。科学文明に傾倒し過ぎた結果がこの状況であると十分に示さなければ話にならない。劇中でも「人モニュメント計画」なる人類の歴史を記念碑に残す計画が出てくるが、その愚かさをこれでもかと描写する必要があるだろう。
 結局はSFというジャンルに対する理解の問題になる。センスと言っていいかもしれない。具体的に言うと、ファンタジーとSFの最大の違いは科学的な根拠の上に成り立っているかどうかである。それを嫌がるなら、未来設定など持ち出さずに遠い異世界の物語にすればいいのだから。要は、思い出したようにパイオニア・アノマリーなどの科学用語をオチに挿入したところで、決してSFにはならないということである。

・総論


 極めて人を選ぶ作品なので、評価は二分されると考える。ただ、もしこれをSFだと言い張るのなら、「SFは衰退しました」と言うより他にない。

星:☆☆☆☆(4個)
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by animentary  at 21:55 |  ☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『あさっての方向。』

斜め上。

公式サイト
あさっての方向。 - Wikipedia
あさっての方向。とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2006年。山田J太著の漫画『あさっての方向。』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は桜美かつし。アニメーション制作はJ.C.STAFF。とある田舎町を舞台に、大人になってしまった少女と子供になってしまった女性が繰り広げる恋愛ファンタジー。設定・キャラクター・ストーリー共に原作とは大きく異なる。

・キャラクター


 本作の主要キャラクターは四人。主人公は五百川からだ。小学六年生の女の子。四年前に両親を事故で亡くし、現在は歳の離れた兄と田舎町で二人暮らし。年齢の割に体が小さいため小学六年生には全く見えず、それが本人にとっても大きなコンプレックスになっている。口調は兄の影響で誰に対しても丁寧語。実は兄とは血が繋がっておらず、自分のせいで赤の他人である兄に「負担をかけている」と考えているため、早く大人になって兄を「自由にさせてあげたい」と思っている。その大人びた考え方からも分かる通り、見た目と違って非常に精神年齢が高く、家事なども普通の大人以上に何でもこなす。ただし、社会的にはまだまだ知識・経験不足なので、そういった点に自己矛盾を抱えている。
 五百川尋。からだの兄(実際は従兄)。ただし、彼女とは血が繋がっていない。かつては海外で薬学を専攻していたエリート研究者だったが、からだの両親の訃報を聞いて帰国し、それ以来、彼女を引き取って育てている。現在は薬局の受付勤務。昔は爽やか系の好青年だったが、かのような事情から自暴自棄になって老成し、今はエロゲー主人公のように前髪で目を隠している。基本的には優しい性格だが、妹に対しても敬語で話すなど、どこか余所余所しくて現実感がない。
 野上椒子。二十四歳。眼鏡の才女。海外留学時に尋と出会って同棲していたが、妹のことで彼が帰国したため、結果的に捨てられた形になった。以来、彼のことを愛しつつも恨んでいたが、環境を変えるために引越しした田舎町で運命的な再会をする。大人の女性らしく冷静沈着なキャリアウーマンだが、家事全般は苦手で生活面は子供のようにだらしない。幼少の頃から根暗でプライドが高く、あまり友達のいない性格。それゆえ、直接、子供になりたいと願っていたわけではないが、子供のように素直になって人生をやり直したいとは思っていた。
 網野徹允。からだのクラスメイト。彼女とは正反対に体が大きく、たまに大学生と間違えられることも。からだに対して片思いしている。良い意味で猪突猛進、自分は何でもできると思っている子供らしい性格。過去、からだとはある約束を交わしていた。
 以上の四人が主要登場人物である。これらの設定を見れば分かる通り、各人のキャラクターが非常にアンバランスでありながら、それが結果的に良いバランスを生んでいる。見た目と性格、社会的な側面と生活的な側面の大きなギャップ。現在と過去の雰囲気の違い。血が繋がっていないとは言え、兄妹なのに敬語で話す。そういった誰が見てもおかしさを覚える違和感を、本作は第一話で十分に描いている。昨今、インパクト重視で導入部を省略してしまう作品が多い中、この慎重さはかえって新鮮である。

・変化


 第一話のラストである不思議な現象が発生し、物語が一気に加速する。街に伝わる「願い石」、その石の力により、五百川からだは大人に、野上椒子は子供になってしまう。兄に負担をかけたくないから、ずっと大人になりたいと願っていたからだ、心のどこかで意地っ張りな自分を直して素直になりたいと思っていた椒子、そんな二人の願いを神様が叶えたのだった。そして、二人の奇妙な一夏の物語が始まる……。
 何という魅力的な設定であろうか。もう、この設定だけでご飯三杯ならぬ、メインストーリーの三本ほどが想像できてしまう。つまり、変化した二人が実生活で様々なトラブルと遭遇する物語、兄と友人が変わり果てた想い人の姿に戸惑う物語、そして、同年代となった兄と妹が禁断の恋に落ちる物語だ。これだけ魅力的な設定が揃っていたら、後は普通に話を進めるだけで魅力的なストーリーになるだろう。その前提をよく理解しているのか、本作の作風を一言で表現すると極めて「丁寧」である。全体的に尺が余り気味なので、かなりゆったりと時が進み、そこで起こったことを全て詳細に描いている。体が変化した二人の苦しみ、当面の生活をするための買い物、行方不明になった妹を探す兄とクラスメイト、二人の変化に気付かない兄、葛藤を経ての事実の告白、そして、その事実をなかなか受け入れられない兄。服やメガネといった小道具一つ取っても、フィクションにありがちな突然の変化は起こらず、入手経路も明確で簡単に入れ替わったりしない。ともすれば、先に先にとストーリーを進めたくなる中で、その気持ちをぐっと堪えて、地に足付いた作品作りを行っている制作スタッフの努力は素直に称賛したい。
 作劇における永遠の命題として、設定が特殊だった場合、同時にストーリーをも特殊にすべきか否かということがある。本作で言うなら、肉体が変化した二人がそれぞれの学校・職場に行って、同僚達とハプニングを起こすという物語でもいいのである。ただ、視聴者側の立場からすると、やはり、見たいのは人々が特殊な状況に巻き込まれた時、どのような事態が発生するかというシミュレーションであろう。肉体変化という非日常的なシチュエーション自体をじっくりと楽しみたいのである。そう考えると、本作のように時系列を一つ一つ描いて行くのがベストである。とは言え、何も起こらないとそれはそれで退屈になるので、ある程度の変化球は必要になり、その辺りのさじ加減に制作者のセンスが問われることになる。

・あさっての方向


 第八話のサブタイトルは、メインタイトルと同じ『あさっての方向』である。その名が示す通り、この回を期にストーリーが明後日の方向へ走り出す。ひょんなことから椒子と尋がかつて恋人同士であると知ったからだは、居た堪れなくなって家を飛び出す。その理由が椒子と尋、そして、視聴者にもいまいち伝わり難く流れが停滞する。後に、からだは自分と兄に血の繋がりがないことを昔から知っていたと告白するのだが、それでもこの家出という行動はかなり突飛である。彼女の慎重な性格を考えると、ちょっとこの展開が想像できない。ただ、よく考えてみると、からだは見た目は大人だが中身は小学六年生なのである。突飛な行動をする方が当たり前なので、彼女の不安定な感情をよく表しているとも言えよう。
 家出したからだは、様々な現実的な困難に直面しながらも、とある海岸沿いのペンションに住み込みで働くことになる。そこで思わぬ活躍を見せるのが、それまで脇役同然のキャラクターであったクラスメイトの網野徹允である。彼は身を粉にしてからだを探し回り、ある偶然も手伝ってついにペンションに辿り着く。その情熱に心打たれたからだは、自分の正体を彼に打ち明けるが、網野はそれを信じられずに衝突する。というように、ほとんど主人公と言っていいぐらいの目覚ましい仕事振りである。一方、主人公だと思われていた尋は、グチグチと悩んだまま最終回近辺まで動かない。この時点で、兄と妹の物語に終始するであろうと思われていた視聴者の予測は、明後日の方向に裏切られる。最終的に、からだと網野は気持ちを確かめ合って和解し、椒子と尋も元の鞘に戻る。
 本作はいわゆる萌えアニメに該当する作品であるが、他の同ジャンルの作品と比べるとかなり異質な雰囲気を保っている。それは、ゆったりとした空気感だとか美しい美術・音楽だとかだけではなく、萌えアニメが有している「常識」に真っ向から反しているからであろう。からだにとって「大人になる」ということは、誰にも負担をかけずに自分の力で生き抜くこと、つまり、「自立」である。それゆえ、家から飛び出して一人で世間の荒波に立ち向かい、それを他のキャラクターが呼び戻そうとするのが本作の筋である。一般的な萌えアニメだと、ヒロインに困難が訪れるのは同じでも、彼女達は内に閉じ籠って、それを主人公が解放するというパターンを取る。完全に逆である。この無意識的なパターン破りこそが本作の独自性を生んでおり、名作と呼ばれる素地を作り出している。

・原作との相違


 冒頭で書いた通り、原作とアニメ版とは大きな相違点がある。同じなのはキャラクターの名前と容姿、後はヒロイン二人の肉体が変化するという点ぐらいなので、ほぼ別作品と呼んでも過言ではない。逆に言うと、どこが変更されているかを詳しく調べることで、アニメ版スタッフが本当に訴えたかったことが透けて見えるだろう。
 一番の大きな違いはストーリーである。原作では、どうやって元の身体に戻るかという伝奇ミステリー的な面に重きが置かれており、特に終盤はかなりファンタジーストーリーへとシフトする。よって、肉体変化に対する主人公達の心理描写は深く描かれず、からだが網野に自分の正体を明かすタイミングも随分と早い。何より、家出するという展開自体がない。一方、アニメ版は男女四人の複雑に絡み合った感情面に重きが置かれ、それまでアンバランスに安定していたバランスを正しい姿へと戻すことが主題になっている。ファンタジックな側面もないことはないが、その辺りは専用のオリジナルキャラクターを用いることであっさりと処理している。さて、そのどちらが優れているかだが、1クール全十二話で完結した物語として見ると、これはもう圧倒的にアニメ版である。肉体変化はあくまで舞台装置に過ぎず、人々の積極的な行動によって事態を変化させる。つまり、本作はアニメという媒体を通じて、ありのままの「人間」を描こうとしているのである。その強い意志を我々は変更箇所から読み取ることができるだろう。
 もう一つの大きな違いは、尋のキャラクターである。原作ではアニメ版以上にいい加減でやさぐれた人物として描かれている。いなくなった妹を心配する描写も少なく、変化した二人をかなりあっさりと受け入れている。それは性格が悪いというよりも、どこか人格が欠落した人間かのような印象を覚える。実は過去設定にも大きな違いがあり、それはアニメ版より何倍もハードなので、そういった事情があるなら納得できなくもない。一方、アニメ版の尋は、一言で言うと「善人の振りをしたダメ人間」である。椒子との確執で堕落したというより、元々こういう人間なんだろうなと想像できる。もっと分かり易く言うと、見た目通りの典型的なエロゲー主人公である。そんな彼を放っておいて、子供らしい率直な感性を持った網野が大活躍するのだから、いやはや皮肉めいていて面白い。もちろん、誰に対しての皮肉なのかは言うまでもない。

・総論


 上には書かなかったが、何よりキャラクターがいい。見た目は妖艶な大人だけど中身は純粋無垢な小学生、見た目は幼い子供だけど中身は素直になれないダメな大人という二人の組み合わせがいい。エロくていい。以上、身も蓋もない斜め上な結論になってしまったが、個人的に高評価。

星:☆☆☆☆☆☆☆☆(8個)
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