『東のエデン』

上から目線。

公式サイト
東のエデン - Wikipedia
東のエデンとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2009年。オリジナルテレビアニメ作品。全十一話。監督は神山健治。アニメーション制作はProduction I.G。秘密組織「セレソン」に選ばれた青年が日本を守るために奔走するSFサスペンスアクション。『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で名を博した監督による初のオリジナル作品。本作の放送終了後、二作の映画版が作られたが、例によって本項では取り扱わない。

・主人公


 本作の主人公は……主人公は誰だ? まず、物語に最初に登場するのは、就職活動のストレスを癒すため、卒業旅行でアメリカへ遊びに来た日本の女子大生である。そこで彼女は裸で街を闊歩する謎の日本人青年に出会う。彼は記憶喪失者であり、自分が何者なのか分からない。だが、いやに冷静沈着であり、自分が裸であることも気に留めない。まるで、世捨て人のようなただならぬ雰囲気を漂わせている。その後、視点が青年に変わり、失われた過去を取り戻す旅に出る。ただし、彼は基本的に淡白で飄々とした人間であり、自分自身にも社会情勢にもあまり頓着しない。気にしているのは先の女子大生であり、彼女に片思いしている同級生である。
 主人公という単語を「視聴者の分身となって未知なる物に立ち向かう者」と定義するなら、本作における未知なる物とは、社会情勢・世界の真実・青年の正体・青年の過去の四つである。この内、社会情勢を知っているのは女子大生、残りの三つを知っているのは青年だが、今は記憶喪失なので分からない。となると、視聴者は誰に自分を重ね合わせればいいのか、ひどく判断に迷うことになる。視点があちらこちらに分散して一箇所に落ち着かない。群像劇と言えば聞こえはいいが、誰に対しても共感できないのが現実だ。せめて、青年が現在の状況に対して慌てふためき、自分を取り戻すために世界の真実を知りたいと切に願うなら、視聴者の分身となり得るのだが。
 さて、その主人公と思しき青年は、非常に正義感に溢れた人間である。世界の真実の片鱗に触れると、その黒幕に対し怒りを込めて「ぶん殴ってやる」と豪語する。ただし、記憶喪失者であるため、なぜ彼がそういった正義の心に目覚めたのかがさっぱり分からない。現時点では「主人公だから」怒っているようにしか見えず、人間的な深みは0である。その後、物語の後半で彼はようやく自分の過去を取り戻す。もっとも、記憶自体はほとんど戻らず、他人に口頭で説明されるだけで、成育歴・学歴・性格・趣味・特技・住所・職業・年齢・家族構成など、彼の人格を決定付ける物は最後の最後まで分からない。これでは記憶喪失設定が何の意味も持たないだろう。自分では理由が分からないけど悪を許せない、なぜなら彼にはこういった過去があったから、とするのが筋ではないだろうか。もちろん、この辺りの詳細は映画版やらその他諸々で次第に明らかになるのだが、全十一話、約五時間もの長い間、責任の所在もなく迷走し続けたという事実を忘れてはならない。

・設定


 舞台は現代の日本。「日本のフィクサー」と呼ばれる一人の老人がいた。彼はとある大財閥のトップであり、その巨額の資金をバックに日本を牛耳っていた。その影響力は公権力にまで及び、首相や警察、自衛隊までも思いのままに動かすことができた。しかし、晩年、彼は一つの疑問に捕らわれる。自分がしてきたことは本当に日本のためになったのだろうか、本当は日本社会を腐らせただけではないか、と。そこで、彼は社会に不満を持つ十二人の人間を集め、それぞれに百億円と自らの権力を貸し出し、自由に世直しをさせることにした。彼らは「セレソン(ポルトガル語で代表の意。主にブラジルサッカー代表のことを指す)」と呼ばれ、主人公もその一員こと「No.9」だった。ただし、彼らの中には一人、「サポーター」と呼ばれる監視役がいて、目的を果たさぬまま百億円を使い切ったり逃げ出したりした人間は彼に殺されるという厳しい掟があった。
 なかなか面白い設定である。まず、百億円という金額が絶妙だ。一般庶民からすると想像も付かない大金だが、日本経済を牛耳るレベルの大物なら、合計千二百億円はギリギリ自由に扱える範囲内だろう。金持ちと貧乏人の金銭感覚の差を描くのに、この金額は良い指標である。ただし、その百億円で何ができるのかと問われると難しい話になる。金持ちにとって百億円は端金だと言うなら、その端金程度で国家権力は動かないのである。ミサイル一本一億円だとして、じゃあ、十億円出せば十発撃てるのかという話ではない。組織自体を動かさなければならないとすれば、その何百倍という資金が必要になるだろう。そう考えると、やはり荒唐無稽な設定である。資本主義を用いて資本主義を否定するという行為自体が無茶であり、劇中でも指摘されている通り、結局は金持ちの道楽の域を出ない。そもそも、本当に社会のトップに立った人間は絶対に世直しなど考えないと断言できる。それは世界の歴史が証明している。
 では、実際に劇中のセレソン達はどうしたかと言うと、二人は掟を無視して個人的な正義に投資し、別の二人はミサイルで官公庁を攻撃することにより直接的に日本を変えようとした。フィクサーが望んだのは社会構造その物の変革なのだから、数発のミサイル如きで何かが変わるわけがない。考えが甘過ぎる。そして、我らが主人公はと言うと、そのミサイル攻撃を阻止するために百億円を使ったのである。もう、誰もまともな世直しなどしていない。明らかな人選ミスである。特に、主人公の場合は端からやる気がないどころか、他人の足を引っ張ることしかしていないわけで、何でこんな人間を選んだのだとフィクサーを問い詰めたくなる。もちろん、自分を否定してくれる人間こそが、彼の待ち望んだ人材ではあるのだが……それなら、他人を使わずに自分でやれよという話である。

・社会


 本作は典型的な「世直し物」である。腐り切った日本を自らが正しいと思う方向へ導こうとする敵と、それを阻止しようとする主人公達という対立構造がメインになっている。ここで大事なのは、如何に攻撃対象である日本社会が腐っているかを描くことである。そこが曖昧だと、敵がただの大馬鹿野郎になってしまい、物語の説得力が消え失せる。そして、本作の最大の欠点が、その大事な部分を全く描けていないことである。
 とにかく、肝心の社会描写が少な過ぎる。せいぜい、女子大生のヒロインが内定者面接でハラスメントを受けたというケースぐらいだ。その程度で社会の理不尽さを描けたと思っているなら、おめでたいと言わざるを得ない。同じ大学生を出すのなら、四年間遊び呆けていた人間が就職活動で初めて現実社会の過酷さに触れ、大人の論理の前に打ちのめされるという展開にするだろう。このご時世、コネで内定を貰っているだけで純然たる勝ち組である。何より本作が一番描きたいのは、極少数の富める者が社会全体を支配するという資本主義経済である。だったら、そこをとことんまで強調するべきだ。具体的に言うと、いわゆる社会の底辺と呼ばれる人達が経済的に虐げられる様を丹念に描かなければならないのに、そういった描写は皆無である。また、誤解を恐れずに言うと、男性と女性では就職に対するリアリティが違い過ぎる。就職に失敗すれば即無職になる男性と、家事手伝いという逃げ道がある女性では悲壮感が段違いだ。作品のクオリティを考慮するなら、主人公とヒロインの役割を逆にしておいた方が良かっただろう。
 好意的に解釈すれば、セレソンシステムこそが日本の資本主義経済の歪みを象徴する物であり、それを描くことによって社会が如何に腐っているかの根拠とするという考え方もあるだろう。それは正しい。似たようなストーリー構造を持った作品として、例えば、科学者の作ったウイルスが街を滅ぼし、それを持って科学文明を批判するといった物がある。ただし、科学者がウイルスを研究するのは実際に行われていることだが、セレソンシステムは制作者が勝手に考えた空想の産物に過ぎない。上述した通り、極めてリアリティに乏しい。そういった誇張と偏見に満ちた物を作っておき、それを自説の根拠とするなら、いつの時代の軍隊かという話になる。人はそれを自作自演と呼ぶ。

・ニート


 ニート(Not in Education, Employment or Training)、就学・就労・職業訓練のいずれも行っていない若年無業者、本作における最重要キーワードである。本作の登場人物及び制作者は、ニートのことを「自らの意志で資本主義経済に反抗したテロリスト」と定義し、日本社会のアンチテーゼであるとしている。そのため、彼らをかなり肯定的に描いている。ヒロイン達は大学の起業サークルに所属し、就職という柵から逃げ出したニートであることに誇りを持っている。彼らの中には日本トップレベルの優秀な人材がいて、独自の技術力で画期的なアプリケーションを開発する等、革命家としての素質を如何なく発揮している。ただ、そうかと思えば、一方で「意志を持たず周囲に流されるだけの烏合の衆」という描き方もしている。物語の終盤では、二万人のニートが集団で主人公達を襲う。その光景はゾンビ映画以外の何物でもない。つまり、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で提唱したスタンドアローンコンプレックスが実体化した物である。ラスト、主人公達は襲いかかってきた彼らを上手く「利用して」日本を救う。
 どちらにしろ、本作はニートという物を極めて蓋然的にぼんやりとしか捉えられていない。地に足が付いておらず、彼らと同じ目線に立って実情を描こうという気概が皆無である。ニートの中にはただの怠け者もいれば、そもそも労働という概念を持たない者や心身の異常で働きたくても働けない者もいる。社交的な人間もいれば、完全に人間関係を拒否している者もいる。それら多種多様な人々を一つの用語でまとめること自体が間違いであり、物事の本質を理解していないただの偏見だと批判されても反論できないだろう。結局のところ、制作者にとってニートという存在は「未知なる物」「自分達とは違う謎の集団」であり、「できることなら擁護したくないし関わりたくもない」という本音がありありと透けて見えるのである。ちなみに、その二万人のニートは当たり前のように全員男性である。
 まとめたい。本作は富める者が上から目線で全てを支配する資本主義経済を批判している。そのためのアンチテーゼとして、ニートという存在を用意している。しかし、制作者が彼らの視点に立って社会を見上げるということは一切なく、常に上から目線で社会の底辺を描いている。そう。やっていることは物語の黒幕と全く同じなのである。要するに、ただの「勉強不足」であり、そういった人々が偉そうに社会批判をするという構造のおぞましさこそが、まさに彼らの描こうとした「腐り切った日本」である。

・総論


 ただ漠然と「この国は腐っている」と思っている人は本作の思想に共感できるだろう。だが、真剣に社会正義とは何かを考えている人は、上から目線の幼稚な世界観に不快感を覚えるだろう。アニメは映像芸術。どんなに表面を取り繕っても、どこかに制作者の本音が滲み出る物なのである。

星:☆☆(2個)
スポンサーサイト
関連記事
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 14:34 |  ☆☆ |   |   |  page top ↑

『男子高校生の日常』

ホモソーシャル。

公式サイト
男子高校生の日常 - Wikipedia
男子高校生の日常とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2012年。山内泰延著の漫画『男子高校生の日常』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は高松信司。アニメーション制作はサンライズ。普通の男子高校生達がダラダラとした日々を過ごす日常系ギャグアニメ。サンライズ制作ということで、冒頭で『機動戦士ガンダム』のパロディーを行っているが、その戦闘シーンの臨場感はどのガンダムシリーズのそれよりも素晴らしい。

・日常系アニメ


 本作のコンセプトを一言で説明すると「巷に溢れる日常系アニメの登場人物を男性に置き換えてみた実験的な男性向けアニメ」である。この短い一文の中だけで数多くの矛盾点を孕んでいるのが面白い。当たり前だが、かつての男性向けアニメの登場人物は全て男性が中心だった。視聴者は男性主人公に自分を重ね合わせ、未知なる世界を一緒に冒険する。女性が主人公の作品も少なくはないが、それはあくまで去勢された男性であって、既存作品の亜種でしかなかった。そのお約束を崩したのが、言わずと知れた『あずまんが大王 THE ANIMATION』である。作品世界から男性主人公と物語性を極端に排除し、限定された空間内でヒロイン達が慣れ合う姿だけを映像化し、人気を博した。以降、同種のコンセプトを持った『らき☆すた』や『けいおん!』などがヒットし、それらをまとめて「日常系アニメ」と呼ぶようになった。もっとも、そもそもの日常系アニメという単語の定義は、『灰羽連盟』や『ARIA The ANIMATION』のように異世界の理想郷で起こった何気ない日常を丹念に描くことで、現実世界の大切な物を再発見するという物だった。それがいつしか、安全な場所に引き篭もって誰にも邪魔されずに好きなことだけをやるという作品に変わっていったのは、とどのつまり、女性の可愛らしさ=萌えこそが平和と幸福の象徴であるという思想による物だろう。それ自体は間違っていないのだが、では、その日常は貴方の側にあるのかと聞かれると、答えに詰まってしまう。
 さて、本作はそういった日常系アニメの登場人物を男性に置き換えた物である。結局、元の男性中心アニメに戻ったわけだから、ただ単に先祖返りしただけなように思われるが、実際にはかなりの差異がある。まず、日常系アニメの最大の特徴は、主人公や物語性を排除した結果、登場人物を脅かす「敵がいない」ことである。外敵がいないということは、現実の野生生物同様、環境変化に合わせて進化する必要がないということであり、「成長」という要素が完全に省かれることになる。普通、ギャグアニメであろうと、年頃の男子が集まれば、将来の夢やら未来に対する不安という話になるが、本作にはその類の物は一切存在しない。特に悩みや苦しみもなく、延々と楽しい日々を過ごしている。その分、ギャグの質の向上に集中できるということだが、はっきり言って心に訴えかけるような物は何もない。
 なお、そのギャグだが、笑いのツボは人それぞれなので深い言及は避けるとして、登場人物が男性な分、他の日常系萌えアニメとは比べ物にならない完成度を誇る。通常では不快感を覚えるような下ネタやパロディーネタも、お馬鹿な男子高校生がやっていることなので、さらりと聞き流すことができる。ただし、ネタの質を重視するがあまり、各キャラクターの個性が非常に薄くなっているのは大きな欠点か。特に、主要キャラ三人がモブキャラ同然の書き分けしかできていないのは至極残念である。

・高校生


 本作のタイトルは『男子高校生の日常』である。『男子中学生の日常』でも『男子大学生の日常』でもない。それはつまり、ピンポイントで「男子高校生」のリアルな生態を描いているということであるが、それはなかなか難しい問題だ。事実、世の日常系アニメでは、可愛い女子高校生のゆるい日常と銘打ちながら、とてもじゃないがそうは見えない人々で溢れ返っている。男性が考える女性の可愛らしさを強調するため、全体的に登場人物の精神年齢が低く、下手すると幼稚園児レベルの「純真さ」を抱えていたりする。一方、本作はと言うと、これが予想以上に男子高校生らしい男子高校生を描けており、看板に偽りなしの作品となっている。
 まず、リアルな男子高校生の特徴として、中学生同様に己の力を過信し、ファンタジー妄想やら暴力への憧れやらに浸りがちな点が挙げられる。ただし、高校生が中学生と違うのは、義務教育を卒業して見識を広めたことで、それ相応の社会性を獲得していることである。そのため、そういった自分に都合の良い妄想を他人に知られることに対する「恥」という概念を持てるようになっている。また、社会性があることで他人の気持ちを汲み取れるようになり、いわゆる「空気が読む」ことが可能になって、相手を尊重した行動ができるようになる。その分、自己の欲求と社会の制約との間で板挟みになり、それによって生まれた葛藤が人を大人に成長させる。
 そういった男子高校生らしさを存分に生かしたネタが「男子高校生と文学少女」シリーズである。幻想文学好きでその手のファンタジックなシチュエーションに憧れている女子高生に対して、男子高校生の一人が成り行きでその妄想に付き合ってあげるという話だ。お互い、自分の行動の馬鹿馬鹿しさには気が付いているが、場の空気を読んで自分の本心を覆い隠す。しかし、そこに恥という概念が待っている。結果、心に動揺が発生し、それが話の面白さに繋がる。これが中学生の物語だと、ただ単に妄想と妄想がぶつかり合って爆発するだけの痛々しい話になるだろう。それはそれで面白いかもしれないが、そこに人間関係の心の機微は感じられまい。わびさびとまで言うと言い過ぎかもしれないが、性善説をベースにした人と人の微妙な心のすれ違いを楽しめるのは、高校生を主役に据えているからである。
 また、同種の自己と社会のギャップをネタにした傑作が、第九話の「男子高校生とパンツ」である。これはもう説明抜きで見てもらうのが一番だが、見事に世の深夜アニメのアンチテーゼになっている。このネタを面白いと思うかどうかが、高校生と中学生を分ける境界線になるだろう。

・女子高生


 基本的に、世の日常系アニメには男性キャラクターは登場しない。汚れのない楽園感を演出するため、クラスメイトはおろか家族でさえ存在が抹消されているのが常である。それを逆転アレンジした本作でも、基本的に女性キャラクターは出て来ない。ただし、それは「萌えアニメらしい可愛らしい女性は出て来ない」という意味である。画面に出てくる女性という女性は皆、お馬鹿であったり暴力的であったり下品であったりと、一般的に言う女性らしさはほとんど感じない。それどころか妹や姉といった特定の恋愛属性の対象になりそうな人物は、影で顔を隠して特定を避けている。つまり、徹底して「萌え」を排除しているのが本作の特徴である。言い換えると、リアリティを大事にしているということだが、なぜそのようなことをしているかと考えると、なかなか面白い結果が浮かび上がってくる。
 本来、男子高校生にとって、女性は未知の物であると同時に、どのような手段を使ってでも手に入れたい宝石のような代物である。表面上は無関心を装いながらも、心の中では是が非でも恋人を作りたいと思っている物だ。しかし、本作には恋人にしたくなるような素敵な女性は、極一部を除いて悉く登場しない。そのせいか、本作の男子高校生達は皆、恋愛に関してほぼ無頓着である。愛だの恋だのにうつつを抜かすより、気心の知れた男同士で遊んでいる方が何倍も楽しい。もう、この世界には醜い女性などいらない。いっそ、男性同士でいい。そういった異性を排除した男性同士の閉鎖的な強い連帯感のことを「ホモソーシャル」と呼ぶが、本作は極めてその空気感に満ちた作品である。俗に言う百合やBLは異性の制作者が異性の視聴者のために作った空想の産物だが、本作は同性の制作者が同性の視聴者のために作っているので、より本気度が高い。しかも、特定の主人公がいないということは主体がないということであり、視聴者は男でも女でもない謎の存在として、男しかいない楽園をふわふわと漂うことになる。
 このブログでも何度か指摘しているが、昨今、オタクのジェンダーが女性化しつつある。男性主人公がヒロインに護られる男性向けアニメや、女性主人公が男性に恋する男性向けアニメなどが平気で放送されている。その結果、二次元の世界であっても未知である女性を対象にするより、既知である男性の方が安心できるという境地にまで達しているのではないだろうか。本作はあくまで実験作であるが、将来的にそういった作品がスタンダード化しそうな状況を危惧する。

・総論


 日常系アニメを男性に置き換えた結果、ネタの面白さという点では飛躍的な進化を果たしたが、それと同時に言葉にならない気持ち悪さを抱えることになってしまった。それはつまり、日常系アニメが抱える本質的な気持ち悪さを炙り出したということであり、実験アニメとしては大成功と言える。

星:☆☆☆☆☆☆(6個)
関連記事
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 15:33 |  ☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
twitter
検索フォーム
最新記事

全記事一覧
評価別一覧
年代別一覧
掲示板
カテゴリ
リンク
カウンター
RSSリンクの表示



にほんブログ村
PR1
PR2