『結城友奈は勇者である』

二番煎じ。

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結城友奈は勇者であるとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2014年。オリジナルテレビアニメ作品。全十二話。監督は岸誠二。アニメーション制作はStudio五組。謎の敵から世界を守るために勇者となって戦う少女達を描いた学園ファンタジー。美少女ゲーム制作会社みなとそふと所属の人気シナリオライター・タカヒロをフィーチャーした「タカヒロIVプロジェクト」の第四弾である。何それ?

・日常系黙示録


 かつて恐ろしいウィルスから人類を守ったとされる「神樹」様。本作は皆がその神様を拝めている遠い未来の日本を舞台にしている。主人公は中学二年生の女の子。学校でボランティア活動を行う「勇者部」に所属している普通の少女だが、ある日、部の先輩から衝撃の事実を告げられる。大切な神樹様を「バーテックス」という名の十二体の異界の敵が狙っており、自分達はそれを防ぐ役割を持った本物の勇者であると。戸惑いつつも戦いに身を投じる勇者部メンバー四人。はたして、彼女達はバーテックスから神樹様を守ることができるだろうか。
 というわけで、典型的な「黙示録系」のアニメである。謎の敵が世界の根源を破壊するために異形の怪物を一体ずつ送り込む。それを阻止するのは組織に選ばれた普通の少年少女達。世界の命運がかかっているため、彼らに拒否権はなく、望まぬ戦いを前に悩み苦しむ。『新世紀エヴァンゲリオン』がその代表作ということになるが、似たような作品は他に幾らでもある。最近は、この黙示録系に戦隊物や魔法少女物の要素をプラスして、華やかな萌えアニメに作り変えている物が多い。そして、この手の作品の最大の特徴は、極端に世界を単純化していることである。設定やストーリーだけを見ると複雑怪奇なように思われるが、結局、世界の核のような物、エヴァで言うならアダム、本作で言うなら神樹様を破壊された瞬間、世界自体がなくなってしまうという至極分かり易い世界になっている。この「単純化された世界」がいわゆる中二病の精神構造と絶妙にマッチして、社会現象的な人気アニメになることが多い。だが、現実世界はそんなに単純ではなく、闇の支配者など存在しないため、自分達の敵が誰か分からない。それゆえ、人によって作品の評価が分かれるということも往々にしてある。
 さて、本作はそんな現代型黙示録系アニメに、さらに日常系アニメのエッセンスを加えることによって新たな独自性を生み出している。主人公達は謎の部活に所属する仲良し四人組で、親も教師も不在の中、好き勝手にやっている。ただ、おそらく大抵の視聴者がこの物語構造に対して強い違和感を覚えるだろう。日常系アニメのテーマは、あらゆる障害を回避して楽しくのんびりと過ごすことである。だが、本作はその比較対象が「世界を守る」ことなのである。さすがに、世界平和を蔑ろにしてゆるい日常を過ごすのは難しい。実際、第三話では苦しい修行を重ねる新キャラに対して、勇者部メンバーがゆとりある生活を提案するという『けいおん!』第九話を彷彿とさせる展開があるが、やはり違和感が半端ない。では、本作は『けいおん!』を上回るほどのクソアニメなのか? まぁ、そこは後のお楽しみとしておこう。

・鬱展開


 激しい戦いが第二段階へ移行した第八話、この回において本作は衝撃のネタばらしが行われる。勇者には一つの欠点があり、戦闘中に「満開」して力を開放する度に身体機能の一部が「散華」して奪われてしまう。それは神樹様に供物として捧げられるため。つまり、勇者とはあくまで神樹様を守るための捨て駒に過ぎず、それゆえ、死ぬことも許されぬまま廃人になるまで戦い続けなければならない。彼らの代わりは幾らでもいる。以上、今まで善だと信じていた神樹様こそが諸悪の根源であるという価値観の逆転こそが本作の目玉である。何ということだろうか。つまり、序盤の日常系アニメ風の描写や魔法少女物的なノリは、全て後で否定されることを前提にした伏線だったということだ。それらが根本的に抱えている設定上の矛盾、あまりにも主人公達にとって都合の良過ぎる世界、そういった物を逆手に取って、神樹様という影の支配者を生み出したわけである。言い換えると、本作は日常系アニメや魔法少女物のパロディーだということになるだろうか。もし、本作がその手のジャンルの作品だと思って見ていた人は、第八話のネタばらしで強い衝撃を受けるに違いない。制作者の「してやったり」というドヤ顔が見えてきそうだが、実は第一話からやたらと体制側の強権発動ばかりが強調されていたので、まぁ、大半の人間は途中で気付く。ヒロインの一人が愛国的な軍事マニアなのも同じ理由からだ。この辺りの設定の組み立て方自体は決して悪くない。
 ただ、問題はその落差が大き過ぎることである。本作は第八話を境にして一気に物語がシリアスになる。つい先程まで水着を着てお馬鹿な日常話をしていたのに、回が明けると突然生きるや死ぬやと言った生々しい話を始める。もう前半と後半では全く別の作品にしか見えない。そういった急転直下の作風のシリアス化を「鬱展開」や「誰得シリアス」などと言って嫌悪する者が多い。それに対して「最近のオタクは我慢が足りない」と批判する人もいる。この件に関しては、どちらも間違っていない。間違っているのは制作者である。繰り返すが、この急激な路線変更は意図的に仕組まれたことである。目的は視聴者に強いインパクトを与えること、それだけだ。そのためだけに日常系アニメというジャンル自体を伏線に使っているのだが、それは非常にメタ的な手法である。ミステリー小説で「犯人はこの本を読んでいる読者自身」などとオチを付けるような物だ。はっきり言って、このやり方は感心できない。一つの作品ならば作風は一つに固定すべきだし、仮に途中で路線変更するにしても、それは止むに止まれぬ事情の産物であるべきで、それ自体を目的にするのは視聴者を蔑ろにする行為だと批判されても反論できないだろう。

・エロゲー


 少し話を戻そう。第一話、自分達が勇者であると聞かされた時、主人公達は最初こそ戸惑ったものの、すぐに気持ちを切り替えて積極的に戦いに身を投じるようになる。それは勇者部というボランティアサークルに所属していた使命感から来る物かもしれないし、突然、強い力を手に入れたことによる高揚感から来る物かもしれない。どちらにしろ、自分が世界を守る勇者であるという事実は、彼女達にこの上ない甘美を与えるだろう。この辺りの心理描写は中学生らしいリアリティに溢れている。ところが、第八話で真実を明かされると、その反動で彼女達は強い喪失感に襲われる。特に、ヒロインの一人は声を失い、歌手になるという将来の夢を諦めざるを得なくなる。その事実を知り、怒る者、呆然とする者、嘆く者、命を絶とうとする者。中学生という幼い身の上でありながら、大人でも逃げ出すような厳しい現実に直面する。そんな彼女達は非常に「可哀想」だし、側にいて「守ってあげたい」と思う。
 これはもう絵に描いたような「エロゲー的手法」である。わざと理不尽な世界を作り出し、幼いヒロインに逃れ得ぬ理不尽な苦しみを与える。彼女達は深い絶望に襲われて、心身共にボロボロになる。だが、最後の最後に奇跡的なことが起こって救われるという王道中の王道パターン。エロゲー原作アニメはもちろん、エロゲー出身のシナリオライターによるアニメは、総じてこういったヒロインを徹底的にいじめ抜く非人道的な作劇をする。なぜなら、泣きゲーの始祖と言われているゲームがそうだったからだ。基本的に、エロゲーはそれらの作品のコピーに過ぎない。そして、そのエロゲー的手法のメリットは何かと言うと、とにかく視聴者の耳目を集めることに長けていることである。元々が十八歳以上の大人を対象にしたゲームである。ちょっとやそっとの変化球では驚かないし、ある程度の非道徳性も許容できる。そのため、非常にインパクトの強い作品になることが多い。もし、生まれて初めて視聴した深夜アニメが本作だったら、その人は人生が狂うほどの強い衝撃を覚えるだろう。今までアニメに全く縁のなかった芸能人が、いきなり『新世紀エヴァンゲリオン』や『魔法少女まどか☆マギカ』を絶賛し始めるのと似たような構造だ。だが、我々は知っている。中二病全開の設定、理不尽な世界に翻弄される子供達、ジャンルを逆手に取ったシリアス展開等々、似たような作品は他に幾らでもあると。そして、それらの源流が全て同じところにあると。ならば、それを先に見るのが筋であろう。

・精神論


 第十話。新たなる衝撃の真実が彼女達に襲いかかる。一見、平和そうに見えるこの世界だが、実は彼女達の住んでいる神樹様の結界の中だけが安全地帯で、それ以外の地域は全てバーテックスによって滅ぼされていた。バーテックスは十二体だけしかいないというのは神樹様の付いた嘘であり、本当は無限に存在する。そのため、命尽きるまで戦い続けないといけない。と、この二回目の価値観の逆転で、日常系アニメだったはずの作品が一気に宇宙規模にまで飛躍する。まるで、食パンでも焼いているかのようなやけくそ気味のインフレーションが心地良い。そして、その事実を知ったヒロインの一人は、全てを終わらせて楽になるために、自ら結界を破壊する。そこから流れ込むバーテックスの大群。勇者達はそれを阻止するために立ち向かい、命を懸けた激しい戦闘になる。世界滅亡寸前の緊急事態なのに、なぜか援軍もないまま一人一人傷付き倒れて行く仲間達。その間、声優はずっと大声で叫び続けているので喉の調子が心配になる。一方、主人公は戦いそっちのけで裏切者の説得を試みる。すると、友情やら自己犠牲やら何やらであっと言う間に彼女は改心する。このように、本作は最初から最後まで良く言えば「熱血」、悪く言えば「精神論」であらゆる物事を処理しようとする。確かに、キャラクターが感情を露わにしていたら話は盛り上がるだろうし、敵を倒す時に叫び声を挙げたら、理由はなくとも強そうに見える。ただ、何事もメリハリが大切なのであって、本作のようにずっと叫び続けていたら、何が重要なのか分からない。静と動の対比を上手く使い分けるのが良い戦闘描写のはずだ。
 最終的に、皆で力を合わせて敵の集合体を倒すとなぜか戦闘が集結し、なぜか結界が修復される。そして、なぜか彼女達は勇者の任を解かれ、なぜか身体の機能が元に戻る。だが、なぜか主人公だけは意識が戻らず、なぜかバッドエンドになるかと思えば、なぜか急に回復して感動のハッピーエンドを迎える。このように、最終回近辺の一連のストーリーに論理性は全くない。常識的に考えて、神樹様に逆らって世界を破滅させようとした裏切者は抹殺されるだろうし、一度捧げた供物をわざわざ返す理由も分からない。バーテックスが進撃をやめた理由も分からないし、結界が簡単に潰れたり直ったりする理由も分からない。何より、勇者の役目を後進に押し付けただけなので、ハッピーエンドでも何でもない。結局、本作はインパクト重視で風呂敷を広げるだけ広げておいて、収拾が付かなくなったから強引に精神論で終わらせただけの作品である。非常に稚拙で底の浅いアニメだ。こういう時は、もうはっきりと言ってやった方がいい。これではただの「二番煎じ」だと。

・総論


 もういいよ、こういうの……。

星:★★(-2個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:42 |  ★★ |   |   |  page top ↑

『はぐれ勇者の鬼畜美学』

ダンディズム。

公式サイト
はぐれ勇者の鬼畜美学 - Wikipedia
はぐれ勇者の鬼畜美学とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2012年。上栖綴人著のライトノベル『はぐれ勇者の鬼畜美学』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は久城りおん。アニメーション制作はアームス。魔王を倒して勇者となった少年が現実世界に帰還して騒動を起こす学園バトルファンタジー。鬼畜美学と書いてエステティカ(イタリア語で耽美・美学の意)と読む。全体を通して作画が悪く、ポルノ紛いの性的要素が満載の典型的なライトノベル原作アニメだが、まぁ、そこを問題にしても仕方ない。

・後日談


 本作のコンセプトは「異世界に召喚されて勇者となった人間が、その能力を持ったまま現実世界に帰還するとどうなるか?」である。なるほど、確かに興味深い。勇者や魔王の定義はよく分からないが、仮にその架空の存在が現実世界でも同等の能力を発揮できるとすれば、その力は間違いなく一つの軍隊に匹敵するだろう。そうなると、彼は普通の人間として普通の生活を送れるはずがなく、必ず何らかのワールドワイドなトラブルに巻き込まれ、結果的に様々なドラマが発生するであろうというのは想像に難くない。ただし、それはあくまで王道ファンタジーの「後日談」としての興味深さである。一方、本作はコンセプトに忠実であるがあまり、勇者が異世界に召喚されて修行の果てに魔王を倒すという一連の件を全編カットし、いきなり後日談から始まるように構成している。すると、どうなるか。それは、いわゆる物語の最初から最強の「チート主人公」と全く同じ物と化すということである。つまり、成長という要素が一切省かれ、強者が弱者をいたぶるだけの単純な話になってしまう。もっとも、世に蔓延するチート主人公には「なぜ強いのか」の根拠が欠けている物が多いため、ある程度の設定的根拠があるだけ本作はましとも言えよう。王道ファンタジーのパロディーであるがゆえに、劇中では描かれなくとも、その力を得るために長く苦しい修行があったのだろうと想像はできる。そう考えると、決して悪いとは言い切れない。
 もちろん、問題点も存在し、それは勇者になる前の主人公の人となりがよく分からないということである。本作の主人公は非常に「鬼畜」な人間であり、モラルから逸脱した行為を平気で行う。束縛されることを何よりも嫌い、どのような権力者の圧力にも屈しない。異世界にいた時も、上の命令には素直に従わない「はぐれ勇者」だった。だが、なぜ彼がそういったアナーキーな性格になったのか、成長の過程が省略されているせいでさっぱり分からない。異世界に来る前からそんな性格だったのか、異世界に来て力を得たからそんな性格になったのか、細かいようだがこれは大きな違いである。もし、後者だとするなら、力を奪われた瞬間、彼は自説を曲げて強者に媚びへつらうようになるということだ。そんな主人公は見たくないし、伝説の勇者でもない。力を持っているから勇者なのではなく、いつ如何なる状況においても勇気を失わない者だから勇者なのである。そういう意味では、やはり純粋なチート主人公は良いとは言い難い。少なくとも、回想シーンや過去語りである程度のフォローをしておくべきだろう。

・設定


 近年、十代の少年少女が突然異世界に召喚され、特殊能力を得て現実世界に帰還するという事件が多発していた。そこで、国連は超国家の帰還者管理組織「コクーン」を設立し、「バベル機関」という名の教育施設において彼らを保護・管理しようとした。帰還者は全員がそこへ強制的に収容され、高度な教育を受けると共に戦闘訓練が施される。目的は何らかのテロや紛争が発生した時に、彼らを優秀な尖兵として派遣するため。しかし、真の目的はコクーンが世界を支配することだった。一方、異世界で勇者として魔王を倒した主人公も、帰還後、直ちにバベル機関に収容される。そこでも異世界にいる時のように自由に振る舞う主人公に対して、学園の秩序を守ろうとする生徒会が対決を挑む……。
 うーん……いや、上記の作品コンセプト同様、決してそれ自体は悪くはない。特殊能力を持った帰還者が地球上に続出したら、当然、世界的な大問題になるだろうし、彼らを管理するための超国家機関が作られるのも少なからず理解できる。世の中には能力者を放置しているアニメ(例『ビビッドレッド・オペレーション』)や、なぜか日本国内だけで大騒ぎになっているアニメ(例『Charlotte』)は幾らでもあるのだから、それらと比べるとリアリティは雲泥の差がある。ただ、「バベル機関」の方はどうなのだろう。十代の帰還者を強制的に収容する教育機関、こんな物は名目がどうとか関係なく、誰の目にも明らかな「隔離施設」である。十代の若者はおろか、小学生でもおかしいと感じる代物だ。ところが、これに対して疑問を呈する人間が劇中に全く出て来ない。普通の生徒は当たり前のように学園生活を満喫しているし、生徒会に至ってはなぜか体制の犬となって生徒を自らの手で管理しようとする。突然、異世界に飛ばされて家族と離れ離れになり、命懸けで力を手に入れ、ようやく現実世界に戻って来られたと思ったら、否応なく隔離施設に収容されてしまった自分自身の数奇な運命に対する悲しみという物が全く伝わって来ない。唯一、物語の終盤に出てくる主人公の敵だけが「これ、おかしいだろ」とツッコみ、主人公が「俺も最初からそう思っていた」と答えるという何ともアホらしいコントみたいな展開があるが、そんな大事なことは第一話で言えということだ。
 結局、本作も「学園物」という呪縛に捕らわれているのかもしれない。学園を舞台にしようと思ったら、そこでの生活がそれなりに楽しくなければ話が進まない。いくら学園と名が付いていても、重苦しい隔離施設では視聴者を満足させられないのだ。なら、学園物にしなければいいんじゃねということなのだが、それはこれであれで、きっと止むに止まれぬ事情があるのだろう。売り上げとか。

・モラル


 魔王を倒して現実世界へと帰ってきた主人公には、一人の同伴者がいた。それが「魔王の娘」である。魔王が主人公に討たれた時、当の魔王本人が娘の将来を悲嘆して、後見人の役割を主人公に託した。彼もそれを了承し、現実世界へと連れてきた。魔族がどういった繋がりを持つ集団なのか分からないのでコメントは難しいが、おそらく魔王の娘は魔族の政治とは無関係だったのだろう。そういった民間人を保護するのは、ヒューマニズム的観点から言うと当然である。ただし、このヒューマニズムの定義はその土地その土地によって異なるため、余所者が勝手に現代的感覚を持ち込むのは得策ではない。それゆえ、彼の行動はあくまで勇者としての正道から逸脱して、己の感情を優先した「はぐれ勇者」の所業であると認識しなければならない。
 中盤以降、一人の敵が物語に登場する。彼もまた主人公と同じように異世界に召喚されて力を得た人間であり、所属する異世界の王の命令を受けて、現実世界まで魔王の娘を探しに来た。彼はファンダメンタリストであり、魔王の娘の存在は異世界の秩序を乱すだけだと本気で信じている。そのため、自らを「真の勇者」だと自称する。そんな敵から魔王の娘を守る「はぐれ勇者」の主人公。そう、本作の特徴は善悪の価値観が敵と味方で完全に逆転していることである。もちろん、どちらが正しいなどという模範解答はない。だから、作者は自分が正しいと思った方向への大まかな道筋だけを示せばよい。そこで、本作は「勇者」という概念を上手く使うことによって、その価値観を説明している。勇者とただの英雄は違う。勇者とは魔王に認められた者。魔王が自らの命を懸けて戦うと決めた相手、それが勇者。つまり、正義とは悪のアンチテーゼに過ぎず、個人が決定する物ではないというのが作者の考えだ。なるほど、確かに筋は通っている。もちろん、魔王の定義など言葉足らずな部分は多いが、学園ファンタジーアニメでこれだけ示せたら十分だろう。
 ただ、その素晴らしいお題目を物語に消化できないのが、ライトノベル原作アニメの悪いところ。勇者の定義が明かされるのは第十一話、これが第一話の段階で語られていれば、どれほど良い伏線になっていただろうか。他にも、魔王の娘は初めて見る現実世界の科学文明にもっと驚き戸惑ってもいいだろうし、バベル機関の非人道性を魔族の観点から批判してもいい。また、異世界に召喚される前の敵の素性が主人公と同じくよく分からないのももったいない。例えば、召喚される前は社会に虐げられる側の人間だったなどとすれば、彼の言葉により深みが出ただろう。せっかく良い設定を作り出したのだから、それをもっと活かした作品作りを心掛けてもらいたい。

・ダンディズム


 さて、一口にチート主人公と言っても、その中身はピンからキリまである。例えば、時代劇の主人公などは典型的なチート主人公だ。特に設定的根拠もないまま、超人的な太刀さばきで悪人をバッサバッサと切り捨てる。冷静に考えるとかなり異様な光景であるが、それを問題視する人はほとんどいない。なぜかと言うと、ヒエラルキーが確立した封建社会において、お上の悪行に逆らおうと思えば、完全無欠のスーパーヒーローでもなければ到底不可能だからだ。つまり、しっかりとした「目的」さえあれば、チートでも何でもいいのである。
 では、本作の目的とは何か。それこそ、タイトルが示している通り「はぐれ勇者の鬼畜美学」である。美学、すなわち男の生き様やかっこよさ。どれほどの強大な権力にも屈せず、社会の常識や決まり事を無視して自分の生き方を貫き、強者を倒して弱者を助けるという男の中の男の美学を達成するためには、人並み外れた力が必要になる。そのためのチート能力である。確かに、本作の設定には甘い部分がある。主人公の使う「錬環勁氣功」があまりにも万能過ぎて、中学二年生でも恥ずかしさを覚えるような能力になってしまっている。劇中で行われるセクハラ行為の数々は、中年エロ親父のくだらない妄想にしか見えない。ただ、本作が描こうとしている男のかっこよさ、ダンディズムは決して間違ってはいない。「女の涙は見過ごせない」という主人公の人生哲学は最初から最後まで一貫しており、実際、彼の行動にもブレがない。それは非常に大切なことである。どんなに小奇麗な作品を作ろうとも、作り手の思想に一貫性がなければ心には響かない。むしろ、ある程度の大衆性を犠牲にしてでも自分の意見を押し通すということも、クリエイターには必要なのだろう。
 このように、本作は良い面と悪い面が非常にはっきりとした作品である。本作が訴えようとしているダンディズムや善悪の価値観は普遍的な物があるし、個々の人物の感情描写も悪くない。一方、悪い面は詰めの甘い設定や言葉足らずな脚本、低品質な作画、そして、下劣な演出ということになる。そう考えると、非常にもったいない作品だと言うことができる。例えば、ラスト三話だけを見れば本作は評価されるだろうが、意図的とは言え、そこに至るまでの過程を省略してしまっては何も残らない。しかるべき人間がしかるべき手段で真面目に作っていれば、本作は名作になる可能性が十分にあった。もっとも、その小さな差が非常に大きいのだろうが。

・総論


 良い面と悪い面を天秤にかけたら、ギリギリ良い面が勝つかなという程度。クソアニメと断じてしまうのは気が引けるが、絶対に他人にはお勧めしない。

星:☆(1個)
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