『世界征服~謀略のズヴィズダー~』

悪ふざけ。

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世界征服~謀略のズヴィズダー~とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2014年。オリジナルテレビアニメ作品。全十二話。監督は岡村天斎。アニメーション制作はA-1 Pictures。世界征服を企む悪の秘密結社「ズヴィズダー」に参加することになってしまった男子中学生の活躍を描いた冒険アクション。本作のシリーズ構成・脚本を手掛けた星空めておは、『Fate』シリーズでお馴染みの美少女ゲーム制作会社「TYPE-MOON」所属のシナリオライター。本作がアニメ初挑戦になる。何このどこかで聞いたような展開。

・第一話


 本作の第一話のプロットは、「家出中の男子中学生が、行き倒れの少女を助けたことで、世界征服を企む悪の秘密結社を巡る戦いに巻き込まれる」である。非常に単純明快で何の捻りもなく、どうやっても失敗のしようがないという基本に忠実なストーリーである。これができないようでは、プロのクリエイターを名乗る資格はない。ところが、本作はそんな簡単なことすらできていない。それは「主人公が本来あるべき行動を取らない」という一点においてだ。
 冒頭、物語の舞台である東京都西ウド川市に第二種戒厳令が発令されて、街から人がいなくなり、装甲車が道路を行き交う。それに対して、家出中の中学生である主人公は何の感情も示さず、なぜか食べ物の心配をしている。この時点で本作は駄作確定である。第二種戒厳令とは何なのか? 危険な状態ではないのか? この世界は一体どうなっているのか? 視聴者の興味はそこに集中しているのに、肝心の主人公が無反応ではどうしようもない。たとえ、お腹がすいていようと、不測の事態に直面したらまず自分の身を守ろうとするのが普通の人間だ。主人公がスルーするということは、取り立てて大騒ぎするような問題ではないということであり、当然、視聴者の記憶からも消え失せる。実を言うと、これは後の展開の重大な伏線なのだが、こういった粗雑な扱いでは本当の意味での伏線になり得ない。
 その後、主人公はお腹を空かして行き倒れになっていた少女と出会い、手持ちの食料を分け与えたことで、彼女がリーダーを務める悪の秘密結社にスカウトされる。冷静に考えると不自然極まりない流れだが、本作は恐ろしいほどトントン拍子に会話が進む。普通の人間なら疑問に思うようなことも、この無関心・無感動な主人公の前では路傍の石、ただただ自己主張もないまま事件に巻き込まれていく。ところが、少女が世界征服実現に対する弱音を吐いた途端、いきなり主人公がキレる。「やりもしないで先の心配をするな!」と。えっ、キレるポイント、そこ? 普通は「そんな馬鹿なことを考えるな!」ではないのか? 百歩譲って、子供の無邪気な夢に自分の不自由な境遇を重ね合わせて応援しようという気持ちになったとしても、そこに至るまでの思想の共鳴が描かれていないので唐突な印象しか受けない。彼は本当にこの作品の主人公なのだろうか。彼に自分達の代弁者たる役割を託していいのだろうか。そんな不安を抱えたまま、本作は物語の幕を上げる。

・善と悪


 こうして、悪の秘密結社の一員となった主人公。だが、なぜ彼がその不幸な処遇を受け入れたかの理由がいまいちよく分からない。身柄を拘束されているわけでもなく、弱みを握られているわけでもなく、思想に共感したわけでもない。そもそも、なぜ家出したのかが詳細に描かれないので、彼が何に対して不満を抱いているのかも分かり難い。ただ、何となく漠然と悪の秘密結社のアジトに住み付いている。その状況は極めて異常だ。このまま物語を続けて行くつもりなら、早急にその不自然な状態を解消しないと確実に破綻する。では、具体的に何を持って解消するかというと、劇中における善と悪の価値観を定義することである。この世界では何が善で何が悪なのかをあらかじめ決めておく。そうすることで、正義の味方の主人公が悪の組織の中にいるという矛盾が解消されて正しい位置に収まる。
 本作は第三話でその定義付けの作業を行っている。その際のキーアイテムとなるのが「煙草」だ。秘密結社のリーダーである少女は大の煙草嫌い。そのため、自ら街に繰り出して煙草廃絶キャンペーンを行う。武力を行使して公共の場でタバコを吸う迷惑な喫煙者を成敗し、街の人々から称賛を浴びる。最終的には全ての喫煙者を街から追い出して、無事に煙草を「征服」する。このように、悪の秘密結社がより低位の社会悪を攻撃することによって、相対的に彼らの地位を持ち上げ、我々の分身である主人公が参加しても違和感がないようにしている。つまり、善と悪の価値観は相対的な物に過ぎず、人間は一過性の倫理観に流されるだけの愚かな生き物だというのが本作の考え方である。
 だが、ちょっと待って欲しい。確かに、公共に迷惑をかける非常識な喫煙者は存在する。でも、日本では煙草を吸うこと自体は違法ではないし、ちゃんとルールを守って楽しんでいる喫煙者も大勢いる。それらを一まとめにして悪と断じ、秘密結社の当て馬に使うのはとんでもない暴論である。さらに、喫煙者のしぶとさはゴキブリ並みと貶し、喫煙者の一人は自分の不良時代を回想して「煙草は悪の象徴だった」と呟き、最終的には「喫煙者は人間ではない」とまで論じている。これは「偏見」である。一個人が何の根拠もなく独自に判断した思想に過ぎず、それを他人に押し付けるのは到底許されざることだ。煙草をアニメに置き換えると、自分達がどんなに恐ろしいことを言っているか理解できるだろう。それゆえ、本作の論理展開は非常に幼稚で不快だと言わざるを得ない。

・世界征服


 改めて、本作のコンセプトを簡単に説明すると、「幼児向け勧善懲悪ヒーロー物をパロディー化し、そこに大人の論理を組み込んだ物」である。すなわち、世界征服を企む秘密結社が悪いのではなく、彼らを生み出した社会こそが悪いのではないかという疑問を形にした物である。それ自体は別におかしくない。上記の通り、善悪の価値観などTPOに応じて幾らでも変化する物だ。ただ、フィクションに大人の論理を持ち込むのであれば、全ての要素に対してもそうでなければ辻褄が合わなくなる。その中でも、特に本作のタイトルにもなっている「世界征服」の定義をしなければ話にならない。
 では、征服とは何か? それは武力で他民族・他国家を支配することである。その活動を世界規模で行うと世界征服になる。もちろん、征服される側の人間からすると、何の関係もない個人に基本的人権を否定されて自由を制限されるわけで、これは誰がどう見ても明らかな「悪」である。ところが、本作はその点に関して完全に思考を放棄している。それどころか、世界征服は子供の純粋な夢であると定義し、極めて肯定的に捉えている。社会秩序を守ろうとする正義の軍隊は、子供の純粋な夢を壊す悪い大人達。そんな悪い大人達と戦う秘密結社は正義の味方。だから、世界は秘密結社に征服されなければならないのだと。
 はっきり言って、異常である。完全にサイコパスの心理である。彼らが何をやりたいのか全く理解できない。こういったストーリーを成立させたければ、まずは如何に現代社会のシステムが間違っているかを描かなければならないだろう。その上で秘密結社の世界征服が世の中のためになると示さねばならない。ただし、それ自体は悪いことなので、視聴者の分身である中立の立場の主人公は、心の中で彼らを応援しつつも全面的に否定する。大人と子供の対立を持ち出すのはその後だ。つまり、本作は作品テーマを論じる前にやるべきこと、やらなければならないことがごっそりと抜け落ちているのである。今のままでは秘密結社側に何の大義もなく、それなのになぜか周囲から褒め称えられるという極めて異様な光景になってしまう。それではカルト宗教である。

・設定の後出し


 そして、物語の終わりが見えた第十一話後半において、ようやく本作の基本的な設定が明かされる。この世界の日本は、ほぼ全域が東京都によって支配されており、そのトップに都知事が君臨していた。そして、その都知事こそが主人公の父親であり、彼が家出したのは冷たい家庭に耐えられなくなったからだ……って、はぁあああ!? 本作における最も根本的で最も重要な情報をなぜこの段階で出す? ちゃんと事前に出さないから、世界征服を企む悪の秘密結社が正義の味方扱いされるという意味不明な状況になっているのだ。本来なら第一話でしっかりと描くべきことだし、主人公が家出した理由ももっと早い時期に明示しなければならない。そう、主人公が第二種戒厳令をスルーしたツケ、それがここまで回ってくるのである。
 なぜ、このような致命的なことになっているのかを考えてみると、要するに先に明確なディストピア像を描いてしまうと、悪の秘密結社と反政府テロリストの描き分けができなくなるからだ。彼らがやりたいのはあくまで幼児向けヒーロー物のパロディーであって、社会派ドラマではない。ただ、そんな物は情報を小出しにして、上手く伏線を調整すれば済む話だ。結局は単純な「技量不足」である。事実、設定の後出しはこれだけに留まらず、秘密結社構成員の眼帯の秘密や煙草の特殊能力など他に幾らでもある。とてもプロの仕事とは思えない。
 最終的に都知事は秘密結社に倒され、日本に平和が訪れる。その後の展開は、まとめ方が雑過ぎていまいちよく分からないのだが、どうやら日本のほぼ全域を秘密結社が征服したらしい。本作の気持ち悪いところは、それをギャグとしてでも社会風刺としてでもなく、完全にハッピーエンドとして描いていることだ。一般庶民にとっては、支配者の首が挿げ替わっただけなのでハッピーでも何でもない。どうやら、ここの制作者は「愚かな人類は優秀な指導者に支配されるべきである」というロボットアニメのラスボスのような選民思想を本気で信じているらしい。別に何を考えようと個人の自由だが、それを物語に落とし込もうと思えば、秘密結社に訴求力のある具体的な政治理念を持たせなければならないし、その思想に扇動される馬鹿な民衆も描かなければならない。そういった物がない以上、本作のやっていることは、ただの子供の悪ふざけである。言い換えると、いつまで立っても大人になれない、なろうともしない愚かな人間が自己肯定しているだけのくだらないアニメである。

・総論


 作劇能力が低過ぎるせいで、明らかに人として間違ったことを訴えかけているという深夜アニメにありがちないつものアレ。この手の駄作を適切に排除して行かないと、いつまで立ってもアニメ文化は日陰者ですよと愚かな民衆を代表して一言。

星:★★★★★★★★★(ー9個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:43 |  ★★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『がっこうぐらし!』

日常系アニメの終焉。

公式サイト
がっこうぐらし! - Wikipedia
がっこうぐらし!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2015年。海法紀光原作・千葉サドル作画の漫画『がっこうぐらし!』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は安藤正臣。アニメーション制作はLerche。ゾンビに占拠された学校で女子高生達が生き延びる日常系サバイバルホラー。ニコニコ動画のアニメ部門で初めて第一話の再生数が百万回を超えたことが大きな話題になった。

・学園生活部


 巡ヶ丘学院高等学校学園生活部。学園に泊まり込んで生活することを目的に設立された部活動。部室は元々生徒会室だった部屋、主な活動場所は屋上、現在の部員は四人。その中の一人、高校三年生の主人公は友人達に囲まれて楽しく毎日を過ごしていた。彼女は明るく元気な性格で、ヤンキー系のクラスメイトとも仲が良い。だが、その光景は全て心を病んだ主人公の見た幻想だった。実際の学校はパンデミックによって発生した大量のゾンビに占拠されており、唯一の生き残りである主人公達は屋上に閉じ籠もって救助を待っていた。学園生活部とは、そんな彼女達に生きる希望を与えるために、今は亡き女性教師が作った架空の部活動だったのだ。
 という感じで、本作は衝撃の第一話を持って物語の幕を開ける。『結城友奈は勇者である』と同じく、日常系アニメというジャンル自体を伏線にして、その前提を覆すことで強いインパクトを与え、視聴者の注目を集めるという手法を取っている。実際、ネット界隈では大きな話題になり、斬新なアイデアが称賛を集めた。その事実が示すことは、もうアニメファンは日常系アニメという物それ自体に飽き始めているということだろう。卓球に飽きた卓球部員がラケットを左手に持って遊び始めるように、そろそろ同じことの繰り返しではなく新しい刺激を求め始めている。その結果が、穏やかな日常と正反対に位置するゾンビ系のサバイバルホラーということになったのだろう。それは非常にトリッキーな手段であり、ある意味卑怯なやり口である。ただ、『結城友奈は勇者である』と違って、本作は設定と構成の組み立て方が抜群に上手いため、不快感は少ない。特に構成は、第一話でどんでん返しを仕掛けた後、すかさず第二話で設定をフォローし、続く第三話からの回想回でキャラクターの紹介をしつつ、第六話でもう一つのどんでん返しを起こす。そして、事件の真相に迫りながら、ラストのクライマックスに辿り着くという流れで、最後まで視聴者の興味を持続させる作りになっている。インパクト重視でありながら、ただの「出オチ」で終わらないようにしているのはさすがだ。とは言え、話のピークが第一話にあるのは紛れもない事実なので、視聴意欲が右肩下がりになるのは否めない。戦闘能力のインフレと同じく、以前味わった刺激より大きな刺激を受けなければすぐに飽きてしまう。ゆえに、本作はこの世に生を受けた瞬間から、そういったジレンマと戦わなければならない宿命を抱えている。

・ゾンビ


 もちろん、ストーリー上の問題点も幾つか存在する。ただし、それは本作の問題点というより、世に乱立するゾンビ物の共通の問題点だ。ゾンビ物というジャンルが成立して早数十年、今ではお約束となっていることも、冷静に考えると奇妙ということが多い。
 まず、最初の問題点として、感染拡大のスピードがどう考えても早過ぎる。本作で言うと、早朝の段階では市内の交通事故が話題になり始めたという程度なのに、夕方にはもう都市機能が完全に麻痺して学校がゾンビの巣窟と化している。感染爆発により患者がネズミ算式に増えるのは理解できるが、このスピードは幾ら何でも異常だ。これではゾンビに咬まれた直後にゾンビ化しないと計算が合わず、後の描写と矛盾する。そして、何より大切なのは、それほど感染が早いのならば、なぜ主人公達だけが大丈夫なのかということである。主人公達よりも身体能力が高く、危機管理のスキルを持っている者は幾らでもいるのに、彼らが死んで主人公達が生き残る道理がない。例えば、有名なゾンビゲームだと主人公は生まれ付きウィルス抗体を持っていたという後付け設定でお茶を濁しているが、そんな人間がたまたま同じ学校に集結するとは考え難い。すると、また余計な設定を付け加えないといけなくなり、どんどん内容がインフレ化する。最終的には異次元からの侵略者と戦う羽目になって、ゾンビとは一体何だったのだとなるのがオチである。
 もう一つの問題点は、やはりどうしても主人公達が超人的な活躍をしてしまうことだ。奇跡的に惨劇を生き抜いたとは言え、彼女達は普通の女子高生、自我を失い本能のままに活動するゾンビに戦闘能力で対抗できるはずがない。ところが、本作の登場人物はスコップ一本でゾンビと対等に渡り合い、ゾンビのひしめく通路を単独で突破し、自ら自動車を運転して物資の補給に向かったりする。家事仕事に苦労している様子もない。何の取り柄もない普通の少女達が極限状態を生き抜く様子を描かなければ感情移入は難しく、リアリティが失われる。もっとも、本作の場合は、ゾンビと直接的に戦うのは身体能力に優れた元陸上部員のヒロインのみで、他の部員にゾンビと対抗できる力はないため、『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』のような無茶苦茶さはない。また、音や光に興味を惹かれるゾンビの習性を上手く活かして排除するというシーンも幾つか見られるため、単純な力押しではない。そういった点には非常に好感が持てる。

・生きる希望


 本作は、第一話のネタばらしを持って日常系アニメとしての役割は終わりを告げ、死と恐怖が支配するサバイバルホラーへと移行する。だが、第二話以降も、心の病で現状認識できない主人公を中心にした日常系アニメ風のコミカルなシーンが時折挿入される。また、電波ソングが鳴り響く陽気なOPムービーもそのまま継続する。正直なところ、これらは全く作品の雰囲気に合っていない。無理やり話を明るく見せかけようとしている様子がかえって痛々しく、逆に視聴意欲を削ぐ。事実、劇中でも、後から学園生活部に加入した部員がそんな主人公の態度に疑問を覚え、「このままでいいのか」と部員達に問う。それに対して部長は答える。「こんな時だからこそ必要なのだ」と。
 ある日突然、平穏だった日常が瓦解し、世界は闇に覆われた。情報が遮断されたことで学校の外の様子を何も知り得ず、家族がどうなったのかすら分からない。知人・友人が皆ゾンビと化し、生きるためにはその友人すら殺さなければならない。そのような状況下で生きるということ、それは我々が想像する以上に過酷であるはずだ。しかも、主人公達は何の訓練も受けていない普通の女子高生で、つい昨日まで命の価値など考えたことすらなかった。そんな人々がこの状況下でまともでいられるはずがない。もちろん、正気を保とうと努力はしているが、人間である以上、それには限界がある。そんな彼女達にとっての唯一の「生きる希望」とは何か、それが主人公の存在である。妄想に捉われ、異変前と同じ行動を繰り返す少女。本来あってはならない光景。しかし、彼女達にとっては唯一昔の穏やかだった頃の日常を思い出させてくれる光景。いつかあの頃に戻りたい。その気持ちが今の彼女達をギリギリのラインで支えている。だからこそ、主人公の異常行動をこのままではダメと分かっていても放置して見守っている。
 考えてみると、世のサバイバル物でここまで「生きる希望」に注目した作品は少ないかもしれない。普通は「どうやって生き延びるか」というハード面に主眼が置かれ、「何のために生き延びるか」のソフト面は添え物になっていることが多い。一方、本作はあえて衣食住が何でも揃った楽園を用意し、そこでどう暮らすかに注目している。それを可能にしたのは、本作が日常系アニメのパロディーだからだ。この構成は実に見事である。

・卒業


 物語終盤、ついに廊下のバリケードが破壊され、ゾンビの集団が学園生活部員の生活スペースになだれ込む。その結果、極限状態でありながらもそれなりに安定していた日常があっけなく崩壊する。そして、部員達に危機が迫る中、追い詰められた主人公がようやく自我を取り戻し、彼女の機転によりゾンビを追い払うことに成功する。だが、ライフラインが全て破壊されてしまったため、もうここで暮らしていくことはできない。そこで彼女達は学校を引き払って、新天地に旅立つことを決意する。それは楽しかった学校暮らしからの卒業を意味する。
 さて、こういったストーリーを描くことで、本作は何を訴えたかったのだろう。それは当然、広義では学校生活、狭義では日常系アニメその物である。頑丈なバリケードに覆われた学校の一角。外は恐ろしいゾンビが蠢いているが、中は安全であらゆる設備が揃っている。親も教師もおらず、気の合う仲間だけで毎日を面白楽しく暮らす。これはもう今まで何度も見てきた日常系アニメの構図その物である。本作はそういった理想的な世界観をゾンビ物に置き換えることで、その状況が如何に不自然であるかを暴いている。そんな仮初の楽園は、いつか必ずゾンビにバリケードを突破されて終わりの時がやって来るのだから、いつまでも安全な場所に閉じ籠っていないで新しい世界へ旅立たなければならない。本作が訴えようとしたのはその一点だ。
 まとめよう。本作は日常系アニメのテンプレートを意図的に覆すことによって注目を浴びた。その世界は非現実的な理想郷に過ぎず、いつか必ず終わりがやってくる。それは明確に日常系アニメというジャンルの終焉を告げている。しかし、第一話こそ各方面から称賛を浴びたが、その後の評判は右肩下がり、最終話になると誰も話題にしなくなった。実際、メディアの売り上げは三千枚程度で、百万回以上も無料動画が再生されたことを考えると記録的な大失敗である(※ただし、原作漫画は飛躍的に売り上げを伸ばした)。結局、視聴者側は終焉を拒否したということだろう。よくよく考えればそれも当たり前で、アニメはただの娯楽なのだから、他人にどうこう言われる筋合いはない。卒業するかどうかは自分で決めるということだ。

・総論


 だから、もういいよ、こういうの……。

星:☆☆☆☆☆☆☆(7個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
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