『BACCANO! -バッカーノ!-』

馬鹿騒ぎ。

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バッカーノ!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2007年。成田良悟著のライトノベル『バッカーノ!』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は大森貴弘。アニメーション制作はブレインズ・ベース。禁酒法時代のアメリカを舞台にマフィアと不死者達の狂乱を描いたバイオレンス群像劇。バッカーノとはイタリア語で「馬鹿騒ぎ」の意。アニメ版は原作のストーリーをかなり複雑に再構成しているが、詳しくは後述。後日談を描いたOVA版全三話に関しては基本的に取り扱わない。

・群像劇


 禁酒法時代のアメリカ。広大な荒野を東西に貫く大陸横断鉄道に、三度の飯より人殺しが大好きな殺人集団と、ボスの解放のために上院議員の家族の誘拐を企むマフィアと、新型爆弾の謎を追って列車の積み荷を狙う不良グループと、連続強盗犯のお馬鹿なカップルと、何やら秘密を抱えた子供と、情報屋のエージェントと、化け物と恐れられる不死身の殺し屋が偶然乗り合わせたらどうなるか。そんなコントのようなシチュエーションを大真面目に描いた作品、それがこの『BACCANO! -バッカーノ!-』である。
 本作は一般的に「群像劇」だと言われている。群像劇とは、特定の主人公を設定せず、数多くのキャラクターを同時に登場させて、それぞれの視点で一つの事件を描く創作のスタイルのことである。単純に考えて、主人公がいないことで没入感が損なわれる、視点が分散し過ぎてまとまりが悪くなる等のデメリットを思い付くが、それでは群像劇のメリットとは一体何だろうか。多角的な物の見方ができて物語の深みが増す、複数の事件を同時に扱うので話のスケール感が増す等、いろいろと考えられるだろうが、やはり一番の利点は「パーティー感・お祭り感」を程良く演出できることだろう。アニメだろうが映画だろうが小説だろうが、それがエンターテインメントである以上、受け手が楽しめるかどうかが全てだ。多種多様な人々が一堂に会して、わいわいがやがやと騒ぐ感じは理屈抜きで楽しい。たとえ、それがお葬式であっても、悲しみの表情に隠された参列者それぞれの思惑を丹念に描くことでエンターテインメントになり得る。そういった何が起こるか分からないガチャガチャとしたパーティー感を表現するには、群像劇の形式が一番である。
 ここで気を付けないといけないのは、主人公を一人に特定せず、複数のキャラクターに分散するということは、逆に言うと「全員が主人公になる」ということである。すると、各キャラクターを他作品の主人公並みに作り込まなければ、見た目だけが豪華な非常に底の浅い作品になってしまう。その悪い例として『機動戦士ガンダム00ファーストシーズン』や『コードギアス 反逆のルルーシュR2』が挙げられる。こちらも多数のキャラクターが一度に登場する群像劇スタイルだが、数が多過ぎる上に各キャラクターの個性が弱いため、二・三言しゃべっただけで次の人に交代するという大変お粗末な場面が頻出する。楽しいパーティーどころか、やる気のない学級会である。つまり、群像劇はそれだけの手間と覚悟が必要だということで、安易な気持ちで手を出してはならない。では、この『BACCANO! -バッカーノ!-』という作品はどうだろうか? 順を追って見て行きたい。

・ストーリー


 本作は大きく分けて三つのストーリーが描かれる。一つ目は、1930年に起こった不老不死の薬を巡る事件。二つ目は、1931年に起こった大陸横断鉄道社内での大量殺戮事件、三つ目は、1932年に起こった令嬢誘拐事件。いずれも第二次世界大戦前の不安と混沌と暴力が支配した時代特有のバイオレンス&サスペンスに満ち溢れたアクションドラマである。登場するのは全員、マフィアや強盗犯や愚連隊などのろくでもない奴ら。遵法精神の欠片もない連中なので、盗みたいと思ったから盗む、殺したいと思ったから殺す、と誰にも縛られず本能の赴くままに行動している。賛否は分かれるだろうが、彼らは間違いなく自由人であり、自分の気持ちに正直に生きているため、普段、社会の柵に捕らわれている人々は、その痛快な生き様に憧れを抱くだろう。そんな彼らが紡ぎ出す物語は、間違いなく良い意味での「バッカーノ(馬鹿騒ぎ)」であり、とても心地良い。また、心配されたキャラクターの個性もバラエティー豊かで、それぞれ単体でも主役を張れるほど内面が作り込まれている。作画も丁寧なので、少なくとも誰が誰だか分からないという最悪の状況は発生しない。演出面でも、美術と音楽が当時のアメリカを上手く再現しており、極めてレベルが高い。OPムービーの疾走感をそのまま本編でも継続している作品は稀だろう。
 ただ、肝心のストーリーの中身はと言うと、最大の売りであるはずの群像劇が足を引っ張って、やや甘さを感じる。数多くの登場人物が出てくるのはいいのだが、その組み合わせがほぼ偶然に頼っているため、どうしても行き当たりばったり感を覚えるのである。例えば、たまたま落とし物を拾ったとか、たまたま車にひかれたとか。冒頭の大陸横断鉄道内における複数勢力のバッティングにしても、結局は代表同士のタイマンバトルで決着をつけてしまう。これでは群像劇ではなく、ただの「バトルロイヤル」である。わざわざ群像劇を名乗るなら、それぞれのキャラクターがそれぞれの目的のために自分勝手に行動し、それらが思わぬところで影響を与え合うとしなければならないだろう。
 また、本作のキーアイテムである不老不死にしても、取り扱い方が非常に粗雑だ。こういった物は希少だから価値があるのに、次から次へと不老不死の人間が登場して自ら価値を暴落させている。最終的には不死者と互角に対抗する普通の人間も出てきて、不老不死に対する神秘性などどこにもない。あくまで人と人の関係性がテーマであり、不老不死はただの設定上の舞台装置に過ぎないとは言え、もう少し丁寧に扱って欲しい物である。

・謎


 さて、ここで終わると綺麗にまとまるのだが、哀しいことにそうはならない。なぜなら、本作は主人公が悪者をやっつけて「めでたしめでたし」で終わるような普通のアニメではないからだ。と言うのも、上記の年代が異なる三つのストーリーは、驚くべきことに「同時並行」で描かれる。しかも、1931年の列車事件以外は時系列すらもバラバラに歪められ、過去と現在が同列で語られる。今見ているシーンがどの年代の何番目のエピソードなのか、一目では判別できない。そのため、普通に鑑賞しているだけでは簡単なストーリーすら理解できず、まるで難解なパズルを解くように1シーンずつじっくりと考えながら見て行かなければならないのである。ゲームに詳しい人なら、ザッピングシステムを持ったノベルアドベンチャーを想像してもらえると分かり易いだろう。あの手のゲームを攻略サイトに頼らず当てずっぽうにプレイしているような感覚だ。
 なぜ、このような面倒臭いことを行っているのか。視点を分散することで群像劇がより強調されるという頭の悪い理由を除けば、考えられるのは「視聴意欲」の問題だろう。商売的にも人情的にも、せっかく作った作品は最後まで見てもらいたい。そのためには、「続きを見たい」という視聴者の感情をどこまで掻き立たせられるかがポイントになる。それには「謎」を提示することが一番の方策だ。設定の謎、ストーリーの謎、人物の謎、それらを全て解消しようと思えば、嫌が応にも最後まで視聴しなければならない。途中で止めるとモヤモヤだけが残るため、止めたくても止められないという一種の強迫観念。本作はわざとストーリーを分かり難くすることによって、謎の混迷度を深め、視聴意欲を高めるというある種「卑怯」なことを行っている。
 ただし、それは作品の構成を複雑に変化させることで無理やり生み出した仮初の謎に過ぎない。本作のストーリー自体の謎は、例えば、列車を襲うレールトレーサーの正体のような物もないことはないが、基本的には弱い。1930年の事件はマフィア全員が不死でしたという分かり易いオチだし、1931年の事件も結局は悪い奴が順当に倒されて終わる。不老不死は本当の名前しか名乗れないという伏線もうまく使えていない。また、同時並行で描いているにも関わらず、1930年の主要人物は1931年の事件にはほとんど絡まないなど、ギミックもお粗末である。まぁ、それも仕方ない。なぜなら、元のストーリーは単純明快なアクションドラマなのだから。どんなに小手先をいじったところで限界がある。

・物語


 第一話(とOVA版の最終話)にある二人組が登場する。彼らはある新聞社兼情報屋の副社長と社員で、本作の一連の事件を報道しようと考えている。その際、どのように報道するかにかこつけて「物語とは何か?」をくどくどと論じる。「物語とは受け手が考えることで発展する物。そのため、誰が主人公で、どこから始まりどこで終わるかを明確に決める必要はない。物語の可能性は無限である」と。
 言わずもがなだが、この二人は制作者の化身である。つまり、作者自身が劇中に登場して作品を語るというメタフィクションの一つである。それゆえ、彼らの言葉は、そのまま本作の複雑な物語構造に対する制作者本人の意見になっている。「申し開き」と言っても差し支えはないだろう。では、この考えは正しいのだろうか? 難しいところだが、一面では真実だと言えよう。なぜなら、創作という活動は「編集」という活動と表裏一体だからだ。長いストーリーのどこを切り取って、誰の目線で描くか、それだけで同じ話でありながら全く別の作品になり得る。これと言う一つの正解などはなく、作り手の判断に全てが委ねられる。優秀な作家は同時に優秀な編集者である。そういう意味では、間違いなく物語の可能性は無限である。実際、続編が次々と作られて終わりの見えない作品もあれば、同じ世界観をベースにした外伝が本編をフォローする作品もある。また、受け手側が二次創作という形で係ることもあろう。ただ、この思想には一つの大きな落とし穴がある。なぜなら、そういった手法で作られたこのアニメ版『BACCANO! -バッカーノ!-』は「大して面白くない」からだ。元々完成された作品をどう切り貼りしたところで、オリジナルを越えることは難しい。独りよがりな技法が鼻に付いて、逆に不快感を呼ぶこともある。レストランで例えるなら、確かにモモ肉やバラ肉も美味しい。しかし、真の料理人ならば最高の部位だけを切り取ったフィレステーキを客に出すべきであろう。
 また、本作の思想にはもう一つの大きな落とし穴がある。それは本作が「原作付き」であることだ。どんなに「物語は無限に続く」と主張しても、原作者が一言「ダメだ」と言えば、そこで終わってしまうのである。要するに、偉そうにご高説を垂れるなら、オリジナル作品でやれということだ。他人のふんどしで相撲を取っている以上、何を言っても説得力は皆無である。

・総論


 タイトルが『BACCANO! -バッカーノ!-』でなければ、ただの胸糞悪い自己満足アニメ。まぁ、制作者が自分で馬鹿騒ぎだと言っているのだから、こんな物なのではないだろうか。

星:☆☆☆☆(4個)
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by animentary  at 11:26 |  ☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑

『ご注文はうさぎですか?』

文化祭の模擬店。

公式サイト
ご注文はうさぎですか? - Wikipedia
ご注文はうさぎですか?とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2014年。Koi著の四コマ漫画『ご注文はうさぎですか?』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は橋本裕之。アニメーション制作はWHITE FOX。ヨーロッパ風の街の喫茶店を舞台にした日常系アニメ。略称は「ごちうさ」。キャッチフレーズは「すべてが、かわいい。」で、明らかに特定の作品を意識している。

・喫茶店


 日本のどこかにある、なぜか中世ヨーロッパ風の外観を持った小さな街。本作のストーリーは、この春、高校に進学した主人公がその街へやってきたところから始まる。彼女が学校に通いながら住み込みで働くことになったのは、人語をしゃべるうさぎと中学生の一人娘が切り盛りする喫茶店「ラビットハウス」。そこで、主人公はバイト仲間やライバル店の店員達と共に穏やかながらも楽しい日常を過ごすのだった。
 本作の抱える最大の欠点、それは街の喫茶店を舞台にしている意味が何もないことである。主人公達が勤務している喫茶店は、ボランティア施設でも地域集会所でもない。商品とサービスを提供し、その対価として料金を徴収する立派な営利団体である。すると、当然、店の主体は「客」になるはずだ。すなわち、喫茶店とは「客がコーヒーを飲みに来る場所」である。だが、本作は店員である主人公達と店に客として訪れた人物との間で特別な交流が発生することは一切ない。第一話の来店客は一人だけ、その後も時折思い出したように現れるだけで、基本的にはただの背景と同じ扱いである。それ以外の時間は、店員同士の遊びや雑談が延々と描かれる。実店舗を舞台にした他のアニメ、例えば『ARIA The ANIMATION』や『ココロ図書館』や『はたらく魔王さま!』や『WORKING!!』や『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』だと、必ず客が主体のエピソードが存在し、彼らとのコミュニケーションが物語の発生を手助けする。なぜなら、客が幸福になることが店の売り上げに繋がり、それが店員の満足を生むからだ。そんな客商売における当たり前の哲学が本作では全く考慮されていない。
 客ではなく、店員が主体。サービスは二の次。売り上げはどうでもいい。店員が楽しければそれでいい。このシチュエーションを聞いて、何かを思い出さないだろうか? そう、それこそ「文化祭の模擬店」である。本作の喫茶店は、学生が余興でやっているそれと完全に同レベルである。実際、本作の舞台を街の喫茶店ではなく、深夜アニメにありがちな謎の高校の部活に変換しても何の問題もない。毎日、狭い部室で利きコーヒーを研究したり、ラテアートを練習したり、パンを焼いたりして喫茶店ごっこを思う存分楽しめばいい。それなら誰にも迷惑をかけないし、より楽しい日常を描くことができるだろう。
 もっとも、第十一話ではクリスマスで店に大勢押し寄せた客が、次々とパンケーキやラテアートを絶賛するというふざけた展開になる。例の如く、主人公達は大して努力もしていないのに、第三者が勝手に褒めてくれるイージーな世界だ。また、最終回では主人公が「喫茶店のやりがいはお客さんの笑顔」と心にもないことを平然と口にする。今までそのようなエピソードが一つでもあったか? 毎日、真面目に商売をやっている人が不快になるような作品作りはそろそろ止めにして頂きたい物だ。

・物語


 こんな作品であるが、一応、メインストーリーらしき物は存在する。それが喫茶店の跡取り娘である中学生の少女の成長物語である。彼女は内気で自分の気持ちを素直に打ち明けられない人見知りな性格がコンプレックスだった。だが、ある日、陽気で屈託のないキャラクターの主人公が喫茶店に住み込んだことで、彼女の人生に転機が訪れる。勝手に姉を自称する押しの強い主人公を最初は嫌がっていたが、徐々に打ち解けて心を開いて行く。そして、彼女自身も前を向いて歩き始めるのだった、といった感じの爽やかな感動物語だ。ただし、こうやって結論だけを並べてみると確かにそう見えるが、実際の映像は正直かなり厳しい。なぜなら、その結論に辿り着くまでの過程がほとんどないからである。
 設定上では大人しい性格の彼女だが、主人公が街に来た時にはすでに喫茶店の店員としてバリバリと働いていた。学校にも仲の良い友人が二人いる。学内での彼女の様子はよく分からない。大好きだった祖父と母親を早くに亡くし、兄弟もいない一人っ子の彼女は寂しそうであるが、それを明確に描写したシーンはない。一方、勝手に姉を自称する主人公も、兄弟という物にどういう信念を抱いているのかいまいち判断できない。そもそも、この街に引っ越す前の生活が全く描かれないため、何を持って良い悪いと言っているのか分からない。このような感じで、言わんとしていることは十分理解できるが、それを物語に落とし込むための要素がいろいろと足りないのである。本当に成長物語をやりたいなら、開始時にもっとマイナス面を強調しなければ話にならない。アニメ『のんのんびより』で小学一年生の宮内れんげの物悲しさをはっきりと描いていたのとは対称的だ。
 本作は一事が万事その調子である。あらかじめ複雑な物語が発生しそうな個所全てをかなり意図的に潰している。例えば、劇中に商売敵となる同業種の喫茶店が複数登場するが、ラビットハウスがそれらの店と売り上げを競い合うというようなことは一切ない。それどころか、最初から「昔はライバル同士だったけど、今はそうじゃない」と釘を刺される。ライバルとの競争は物語を面白くする一番のファクターであるはずだが、ゆるさ至上主義の本作ではそういった蛮行は許されないのだ。また、祖父と古い親交のあった小説家が登場しても、彼女はこれと言ってメインストーリーに絡むことなく退場し、しゃべるうさぎの謎も最後まで分からない。つまり、本作は「何も起こらない」作品ではなく「何も起こさない!」という強い意志を持った作品なのである。確かに、余計なストーリーを入れて穏やかな雰囲気が崩れるよりはましなのだろうが、何も自ら名作となる糸口を絶つ必要はあるのだろうか。ちょっと理解できない。

・違和感


 以上、主だった批判ポイントを連ねてきたが、これらを抜きにしても、本作は全般的に作りが甘い作品である。上記の通り、ストーリーの組み立てが弱いため、最初から最後まで話が盛り上がらない。劇中のギャグはびっくりするぐらい笑えないし、ラストのオチが積み上げてきた物を全部覆してしまうことも多々ある。登場人物はどこかで見たテンプレキャラのオンパレードで新鮮味がない。穏やかな作風に反して、水着や下着のシーンが過剰。ミリタリーオタクのキャラクターが完全に浮いている。美術と音楽こそは中世ヨーロッパ風の雰囲気を出そうと頑張っているが、そもそも、ここがどこかも分からない。特別な舞台を用意するための設定的背景が何もないため、張りぼて感が満載である。と、ここまで書いて来て一つの大きな壁に突き当たる。なぜなら、これらはあくまで本作を普通のストーリーアニメとして見た場合の批判であり、日常系アニメという特殊なジャンルの一作として見た場合、どこまでその批判を当てはめていいのかという疑問に辿り着くからだ。実際、本作は日常系アニメの中では名作の一つとして数えられている。一方から決め付けるのはフェアじゃない。
 では、日常系アニメとして見た場合、本作はどういった評価になるだろうか。例えば、「何も起こらない」作品の代表である『ゆるゆり』や『ゆゆ式』と比べてみると、馬鹿の一つ覚えのように高校の部活を舞台にするのではなく、ちゃんと特殊な世界観を作り込んでいる点に好感を覚える。接客を伴った実店舗を舞台にしているため、狭い空間に引き篭もらず雰囲気がオープンである。百合やお色気シーンも多くてサービス精神に溢れている。そして、何より中学生の成長物語という明確なストーリーがあって感動できる。と、このように全く正反対の評価になるのである。この不思議な現象をどう説明付けたらいいのだろうか。そのためには、日常系アニメと普通のアニメの違いを改めて定義付けしなければならないのではないだろうか。
 日常系アニメとは何ぞや。日常系アニメと普通のアニメはロックとクラシックぐらい解離しているのか。残念ながら、その問いに答えるのは非常に困難である。確かに、本ブログではこれまで幾つもの日常系アニメを論じてきた。中には『苺ましまろ』や『スケッチブック ~full color's~』のように高評価の作品もあれば、『けいおん!』や『あっちこっち』のように低評価の作品もある。ただし、それらは作品に付加された+αを評価しているのであって、日常系アニメ自体を評価しているわけではない。よって、両者を明確に区分することは現時点では不可能である。ただ一つ言えるのは、本作が非常に大きな「違和感」を覚える作品であって、その理由は日常系アニメと普通のアニメ、どっち付かずの中途半端さにあるということだ。そして、そうなっている原因は、間違いなく本作の中身の薄さにある。全体的に作り込みが浅く、作り手の楽しさが優先され、「~げ」「~ぽさ」といった表層の感覚で全てを済ましてしまう。ロックミュージシャンがクラシックっぽい音楽を作って絶賛される感覚。それこそまさに……いや、皆までは言うまい。

・総論


 日常系アニメを評論することに限界を覚える一作。真面目に作ればもっと良い作品になっていたはずだが、それが許されない風潮は本当につまらない。その事実が確認できただけでも本作には意味がある。

星:☆☆(2個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
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