『ばくおん!!』

ネガキャン。

公式サイト
ばくおん!! - Wikipedia
ばくおん!!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2016年。おりもとみまな著の漫画『ばくおん!!』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は西村純二。アニメーション制作はTMS/8PAN。バイクに青春を懸ける女子高生を描いた日常系アニメ。ご覧の通り、本作は『けいおん!』のパロディーであり、設定もキャラクターも非常に似通っている。そのせいか、放送前からネットの各所で宣伝され、不自然なほどに持ち上げられていた(個人の感想です)。

・マニアその1


 最早、説明不要の「女子高生に何かをやらせてみた」シリーズの一作である。今回のターゲットはバイク(普通自動二輪車)。スクーター(原付)ならまだしも、バイクとなると一般の女子高生とは果てしなく縁遠いが、そのギャップがよりジャンルを際立たせるのだろう。たぶん。まぁ、戦車や軍艦などに比べれば、まだ可愛い物である。
 通常、この手の作品はマニアックであればあるほど良いとされる。なぜなら、その趣味を一般層に伝播する広告塔としての役割も担うからだ。ジャンル全体の代表である以上、生半可な知識では話にならない。いわゆるニワカではすぐその道の専門家に看破されるため、たとえ一般層には理解できなくとも、ありとあらゆる専門知識を並べ立てる必要がある。だが、本作に限っては、そのマニアックさがかえって足を引っ張っている。具体的に言うと、全てにおいて「否定から入る」のである。本作はバイクアニメでありながら、事あるごとにバイクをディスる(ディスリスペクト。侮辱するの意)。危ない、重い、倒れたら引き起こすのが大変、雨が降るとずぶ濡れ、冬は寒く夏は暑い、運転が難しい、燃費が悪い、疲れる、おしりが痛くなる、排気ガスは環境に悪い、騒音がうるさい、背が低いと足が付かない、すぐ壊れる、効率が悪い、馬鹿の乗り物、等々。また、特定の製造会社や車種も容赦なくディスる。やれ、この車種は壊れやすいとか、やれ、この車種は時代遅れだとか。特に槍玉に挙げられているのがスズキ社で、業務妨害と取られてもおかしくないぐらいの誹謗中傷が突き付けられる。
 それだけではない。「バイクを題材にした日常系アニメ」で絶対に描いてはいけない物も、本作は描いてしまっている。それは「事故」だ。ただでさえ不安定で危険な乗り物なのだから、こういった宣伝アニメではできる限りの安全性をアピールしなければならないのに、当たり前のようにバイク事故を描き、劇中で何人もの負傷者を輩出している。部活の先輩に至っては、過去の事故で「死亡」しており、目の前にいるのは幽霊である。これ以上のネガキャン(ネガティブキャンペーン)は存在しない。こんなことでは、安心・平和の象徴である女子高生を舞台装置にした必要がまるでなく、普通の男性バイクマニアを主人公にしたアニメで何の問題もないだろう。もっとも、高校生らしい授業風景が全く描かれないため、彼女達が本当に女子高生なのかは疑わしい。ただセーラー服のコスプレをした人なのかもしれない。

・マニアその2


 話を元に戻して、上記のようなバイクマニアによるバイクディスは、俗に言う「あるあるネタ」である。その道の愛好家が、同好の士と共通認識を確認し合うことで安心感と一体感を共有するのが目的だ。つまり、批判ではなく「愛のあるいじり」という奴で、わざとブラックな悪態をつくことで愛情を確かめ合っているのである。当然、後から批判を否定することが大前提だ。ただし、そのノリはマニアの間でだけ通じることである。バイクに興味がない層からすると、それがただの軽口なのか本当の批判なのか判別が付かないため、バイク乗りは自分の好きな物の悪口を言ってばかりいるおかしな人達だというイメージが付いてしまう。要するに、余所者を極力排除するコミュニティーの狭隘さを自ら喧伝しているのである。それは宣伝アニメとして致命的だ。
 そもそも、本作は肝心要の「後からの否定」がない。つまり、他の乗り物とは違うバイク独自の面白さを全く言葉で語ろうとしないのである。もちろん、「風を切って自由に走る楽しさ」といった基本的なことは描かれるが、それ以外のプラスアルファが何もない。例えば、主人公をバイク部に勧誘する時の誘い文句は「女子高生が乗れるのはバイクまでだから」。自分で高校を舞台にしておいてそれはない。新入生向けの部紹介で主人公が語ったバイク部の楽しさは「仲間がいる」。そんな物は他の部活にもいる。初日の出ツーリングの時に部員が語ったバイクの楽しさは「苦労した方が喜びが大きい」。そんなに苦労したければ自分の足でランニングしろ。このように、いつまで待ってもバイク趣味の本当の楽しさが伝わって来ないのである。そのため、量的に批判の数の方が勝り、やっぱりバイクは危険で面倒な遊びなのかという認識になってしまう。それでは本末転倒この上ない。ここは、ある程度のリアリティを犠牲にしてでも、「バイクは世界一面白いスポーツである」と断言すべきだ。それこそが一般人に興味を持たせる唯一の手段である。
 ちなみに、これだけバイクの悪口を並べておきながら、全く触れられていない大きな欠点が一つ存在する。それがバイクにかかる「費用」である。免許教習費やバイクその物の購入費もさるものながら、ガソリン代やメンテナンスなどの維持費も馬鹿にならない。とてもじゃないが女子高生のお小遣いで賄える金額ではないが、完全にスルーされている。劇中の描写を見る限り、どうやら全て親が工面しているらしい。どれだけブルジョアの集まりなのだ。リアリティの欠片もない。こういった臭い物には蓋をする精神が、ある意味最もマニアックである。

・バイク乗り


 さて、世間一般の方々は、バイク乗りに対してどういったイメージを持っているだろうか。暴走族や走り屋などの一部のマナーの悪いライダーのせいで、あまりよろしくない感情を抱いている人も少なからずいるのではないか。そもそも、タイトルが『ばくおん!!』の時点で、騒音被害に悩んでいる人にケンカを売っている。そのため、本作のすべきことは、バイク乗りにまつわる悪しきイメージを払拭することである。バイク乗りは心からバイクを愛する誠実な人々であり、世間には決して迷惑をかけないと。だが、本作はそれができていないどころか、さらに悪化させるような行動ばかりを連発する。他の乗り物、特にロードバイク(自転車)を目の敵にしてディスる。北海道の大自然を法定速度オーバーで走る。学内とは言えノーヘル三人乗りをする。空き缶をポイ捨てして事故を起こす。教習車を壊す。チキンレースで勝負。上手く乗れないとハンマーでバイクを破損する。フェリーにバイクで飛び乗る。高速道路上でガス欠して停車する。勝手に改造する。バイク雑誌はエロ本。等々。
 その中でも洒落にならない悪行が二つある。一つは第六話。何と、文化祭でバイクの賭けレースを行うである。出場するのはバイク部の部員達、コースは校内一周、賭けるのは現金、それも数百万円単位。モラル云々以前にガチの犯罪行為である。もちろん、これはフィクションのギャグアニメなのだから、何をやっても構わないという意見もあるだろう。だが、一番問題なのは、観客の女子高生達はあくまで賭けの対象としてバイクを応援しているに過ぎないということだ。にも係わらず、主人公達はバイクが市民権を得たと大喜びする。頭、大丈夫か? 何をどうすればそういう発想が出てくるのか、さっぱり分からない。
 そして、極め付きは第三話。バイクショップを営んでいる部員の家に新車を買いに行ったのだが、そこは普通のバイクショップではなかった。何と、メーター戻しやニコイチ、水没車の偽装販売などを平気で行う違法販売店だったのだ。もう、犯罪がどうのこうのという以前に、完全にバイクに対する冒涜である。普通のアニメなら間違いなく倒すべきラスボスだ。ところが、友達を信頼しているという理由で、彼女達は表立ってショップを否定しようとしない。それどころか「安いバイクを欲しがっている人もいる」と開き直る。ふざけるな。どこの世界に中古を推奨するマニアがいる。よく、これでバイクを愛しているなどと偉そうなことを言える物だ。これがバイク乗りの本性とは思いたくないが、そう思われても仕方ないことをやっていると自覚して欲しい。

・最終話


 最終話は突然ファンタジックな展開になる。主人公が目覚めると、そこは「バイクのない世界」だった。その異空間で、本作は今まで散々やってきたことをもう一度繰り返す。すなわち、ロードバイクを目の敵にしつつ、返す刀でバイクをディスりまくる。自転車はスポーツ。楽に移動したければ自動車でいい。エンジンの重さは四輪の方が合理的。シートベルトがなくて危険。オートバイはネーミングが変。専用レーンもない。バイクは馬鹿の乗り物。そんな普段と大して変わりない異世界の友人達の意見を聞いて、主人公はつぶやく。「そっか。みんな、賢くなっちゃったんだ。でも、オートバイのない世界はちょっとだけ寂しい」と。翌日、目を覚ますと主人公は元の世界に戻っていた。そして、皆とツーリングしようとしたところでいきなり物語が終了する。……は? え? いや、だから、結論を言えよ! なぜ、この作品は自分の好きな物を自分の口で語ろうとしないのか。「バイクはお馬鹿な乗り物で、その馬鹿馬鹿しさが楽しい」というのが作者の考えなら、それを最終話で主人公達に言わせないでどうするのか。わざわざ否定から入る必要など何一つない。バイクに興味のない人間が視聴者の大半だということを、いつになったら理解するのだろうか。
 結局、本作が言いたいことをまとめるとこうなる。「バイクの楽しさ? そんなもん、見たら分かるだろ。分からないなら、お前が悪い。嫌なら乗るな」と。これはバイク乗りの、いや、あらゆるジャンルのマニアの偽らざる本音だろう。万人に対して門戸を開き、新規層を獲得してプレイ人口を増やしたいなどというのはただのポーズであって、本当は気心の知れたマニアの間だけで延々と回していたい。新規が入ってきても、自分達の定めたルールを守ってくれる保証はない。どうせ邪魔になるなら、最初から入れない方がいい。そういった考えだろう。その気持ちは分かる。ニワカが増えて一番困るのはベテランだ。だが、それを地上波アニメ、しかも、平凡な女子高生が穏やかな日々を送る日常系アニメでやる必要性が皆目分からない。それなら、最初からマニアのマニアによるマニアのためのアニメを作ればいいだろう。実際、バイク人口が激減している今、なぜ減っているのかが非常によく分かる作品である。

・総論


 バイクの楽しさは確かに伝わったかもしれない。だが、それと同じぐらいバイク乗りの性格の悪さも伝わったので、とてもじゃないがバイクを始めようとは思わない。ただのネガキャンアニメである。

星:★★★★★(-5個)
スポンサーサイト
関連記事
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:23 |  ★★★★★ |   |   |  page top ↑

『翠星のガルガンティア』

異文化同士の交流。

公式サイト
翠星のガルガンティア - Wikipedia
翠星のガルガンティアとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。オリジナルテレビアニメ作品。全十三話+OVA二話。監督は村田和也。アニメーション制作はProduction I.G。遠い未来の地球で異なる文化を持った人類同士の交流を描いたロボットSFアニメ。シリーズ構成は『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵玄、キャラクター原案は漫画家の鳴子ハナハルという豪華布陣である。

・設定


 先に全体的な結論を書こう。本作は設定・ストーリー・作画共に非常にクォリティの高い作品である。特に練り込まれたSF描写は素晴らしいの一言。それゆえ、人によっては歴史的な傑作として本作を捉える向きもあるだろう。それは否定しない。だが、多くの人は本作を視聴している間、ずっと目に見えない何らかの違和感を味わい続けるのではないだろうか。言っていることは理解できるのに、なぜか話が頭に入って来ない。見ていて気持ち良くないため、ストレスが溜まる。そんな感覚が常に付きまとうせいで、面白いはずなのにいまいち面白く感じられないのである。それゆえ、その違和感の正体を明らかにしない限り正当な評価は下せない。
 まず、基本的な設定を整理しよう。遠い未来の物語。氷河期により居住不可能になった地球を後にした人類は、長きに渡る漂泊の末、謎の宇宙生物「ヒディアーズ」と対抗するために「人類銀河同盟」なる組織を結成し、日々戦いに明け暮れていた。本作の主人公は、そんな対ヒディアーズ用の殲滅兵器「マシンキャリバー」のパイロット。幼い頃より兵士としての訓練を受けてきたため、いわゆる人間らしい幸福や家族愛を何も知らずに育った。ある日のこと、ヒディアーズとの交戦中に起きた不幸な事故により、彼は見知らぬ水の惑星へと飛ばされてしまう。まるで一つの町のような船団「ガルガンティア」に救出された彼は、そこで純粋無垢なヒロインと出会い、その星が氷河期を脱した地球であることを知る。地球の文明の低さに戸惑いつつも、主人公は人類銀河同盟からの救援が来るまで、ガルガンティアで生活することを決意する。
 ご覧の通り、本作は「謎のスーパーロボットと異星人のパイロットが地球にやってきて、人類が戦争に巻き込まれる」という王道ロボットアニメをベースに、視点だけを逆にしてみたという作品である。視点を逆転するということは、異星人側を善の執行者にするということだが、残念ながら現在の地球には何の問題も発生していないため、本作には敵という敵が登場しない。それゆえ、ロボットアニメを名乗りながら、ロボットによる戦闘シーンはほとんどなく、主人公側とヒロイン側との異文化交流がメインになる。こう書くと思い出すのが『∀ガンダム』であり、どこまで意図的かは不明だが、両作品にはかなりの類似点が見られる。興味がある方は見比べてみると面白いだろう。

・視点


 さて、最初に違和感が訪れるのは第二話である。突如、海賊がガルガンティアを襲撃し、ヒロインに救援を頼まれた主人公がロボットを駆って迎撃する。彼は超兵器を用いて海賊を一瞬で全滅させ、ガルガンティアの平和を守る。すると、なぜか住民は一斉に彼を非難する。どのような理由があっても殺戮行為は悪であり、憎しみの連鎖を生むだけだ、と。多くの視聴者はここで戸惑いを覚えるのではないだろうか。海賊に襲われて身に危険が及んでいる状況下で、彼らを殺害するのは正当防衛の範囲内であり、神に与えられた基本的な権利である。それが我々現代人の価値観だ。それを否定する人々とは相容れない。つまり、ガルガンティアの人々は、我々から見ると「異文化の民」である。もちろん、主人公も異文化の民であるため、本作がやっていることは異文化交流ではなく「異文化同士の交流」なのである。それでは視聴者が完全に蚊帳の外だ。かと思うと、第四話以降、今度は視点が完全にヒロイン側に固定され、ガルガンティアの文化に戸惑う主人公がそこに馴染んでいくまでの様子が面白おかしく描かれる。その間、ガルガンティアは我々の地球文化の代表として振る舞っている。それは別に悪くないが、つい先日の蛮行のせいでどうにも気持ちが落ち着かない。
 第九話。衝撃の事実が明らかになる。人類銀河同盟の敵であるヒディアーズは、実は人間が宇宙に進出するために人為的に進化した生き物だったのだ。今までずっと人間同士で殺し合っていたことを知った主人公は戦慄し、激しく動揺する……って、違うだろ! 主人公は人間らしい感情を何も知らずに育ち、海賊をあっさりと皆殺しにした生粋の兵士である。最近になって、ようやくヒロインに諭されてヒューマニズムを理解し始めた人間が、この程度のことで動揺するはずがない。本来、この役目を担うのは我々地球人の代表であるヒロインのはずだ。だが、ストーリーの都合上、視点を主人公側に移さざるを得なかったため、このようなことになってしまっている。
 ここまで書くと理解できると思うが、本作が抱える違和感の正体は「物語の視点があちらこちらに飛び回って全く一つに定まらない」ことである。お互いがお互いを異文化扱いしているため、物語の主体がどこにも存在しない。ドラマツルギーにおいて思想の対立は非常に重要な要素だが、どちらの勢力にも共感できないと、それは全て視聴ストレスとして帰ってくる。それを防ぐのが主人公という存在であり、どのような時でも創作の基本を蔑ろにしてはならない。

・家族


 本作が抱える違和感はそれだけではない。もう一つの大きな違和感の正体、それを探るためにもう一度主人公の生い立ちを振り返ってみよう。主人公が生まれ育った人類銀河同盟は、徹底的に合理化・効率化された管理社会である。生まれてすぐに教育施設に隔離され、兵士としての素養がない者は選別されて排除される。両親の顔を知らなければ、人間らしい温かい生活をしたこともない。そんな主人公のカウンターパートたる立ち位置のガルガンティアには、当然、描かなければならない物が存在する。それは「家族」である。複数の世代が共同生活する家族の温かさを描いて、初めて主人公との対比が生まれる。しかし、実際のガルガンティアには家族らしい家族がほとんど出て来ない。背景のモブとして描かれる程度で、家族愛を主体にしたエピソードは一つもない。ヒロインには病床の弟がいるが、両親の話は全く出て来ない。誰かが誰かに惚れたという話すら皆無だ。
 では、ガルガンティア自体が一つの疑似家族のような共同体を形成しているかと言うと、それも怪しい。彼らはあくまで各職業のスペシャリスト集団であり、船団を形成するとより作業が効率的になるから一箇所に集まっているに過ぎない。つまり、それは家族ではなく、ただの「社会」である。実際、物語の後半では意見の衝突により、あっさりと船団が分裂する。まるで合併した企業が内紛で再分裂するように。また、劇中で謝肉祭が行われるのだが、ヒロイン達が半裸で踊るシーン以外、祭りらしい光景は全く描かれない。そもそも、何のために踊るのかも分からない。住民全員が日頃の苦労を忘れて大騒ぎする、それが祭りではないのか。視聴者はこれを見て本当に「この街に住んでみたい」と思うのだろうか?
 これらは細かいことのように見えて、非常に由々しき問題である。本当に作り手が人類銀河同盟を悪しきディストピアだと認識しているなら、誰に頼まれなくてもガルガンティアを地上の楽園として描くはずだからだ。そうなっていないということは、頭の中だけで考えた悪役設定に過ぎず、作り手の想いが全く込められていないということである。そんな小手先のテクニックで人の心は動かない。如何に人間を生き生きと描くか、それはすなわち如何に人間が好きでよく観察しているかということであり、それが感じられない本作はやはり同種の作品より一段落ちると言わざるを得ない。

・機械


 終盤の第十一話、新たな勢力が劇中に登場する。リーダーはかつて主人公の上官だった男。彼は先達ての事故で主人公と共に地球へ飛ばされ、そこで現地住民を懐柔し、自らが教祖となって宗教国家を建設していた。要するに新たなる「異文化の民」である。主人公と人類銀河同盟を分けて考えるなら、これで五つ目の異文化か。設定が混迷化して収拾が付かなくなったため、とりあえずの敵を出して強引に話をまとめるという手法自体は決して批判される物ではないが、視聴者の置いてきぼり感はとてつもない。一体全体、我々はどこの誰に自分を重ね合わせればいいのか。
 さすがにこれでは不味いと気付いたのか、本作はとあるカラクリを用いることで、ヘイトをラスボスに集中させることに成功している。実は、主人公の上官はすでに死んでおり、彼の乗っていたマシンキャリバーが自律行動をして集団を率いていたのだ。敵が人工知能となれば話は別で、遠慮なく叩き潰せばいい。ただ、何を血迷ったのか、本作はなぜか最終決戦中に主人公のマシンキャリバーまでが自立し、単独でラスボスに戦いを挑むという異様な展開になる。ロボット同士の熱きバトル。自爆して世界を守る人工知能。横で見守るだけの主人公(と視聴者)。一方、その間もずっと人間は人間同士で無益な戦争を続けているのである。どのような理由があっても殺戮行為は悪ではなかったのか。何なんだ、この作品は。
 本作のメインテーマは、もちろん「ヒューマニズム」である。人間の素晴らしさ。性善説に基づいた無為自然の心。そういった物をロボットアニメという媒体を通して訴えかけている。そして、そのヒューマニズムと対を成す物は何か、それはもちろん「機械」であろう。中でも「人工知能の自立」は、人間の根本的な尊厳を脅かす物であり、絶対に認めてはならないことだ。ところが、本作はそれを敵側だけではなく味方側でもやるのである。正直、理解不能だ。好意的に解釈するなら、人為的に進化して化け物と化したヒディアーズに対し、人間の科学力の良き方向性を示すため……いや、それではヒディアーズが一方的に悪となり、共存共栄を描いたラストシーンと矛盾してしまう。蛇足以外の何物でもない。結局、これだけ緻密なSF設定を構築しておきながら、肝心なところは全て曖昧なまま処理しているのである。設定にこだわる前に、もう少し「本当に自分が訴えたい物は何か?」を突き詰めて欲しい。

・総論


 一言で言うと「頭でっかち」。設定は豪華だが、それを十分に活かしたとは言い難い。特に、ヒロインはいる意味あったのか、これ?

星:☆☆☆☆☆(5個)
関連記事
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:33 |  ☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
twitter
検索フォーム
最新記事

全記事一覧
評価別一覧
年代別一覧
掲示板
カテゴリ
リンク
カウンター
RSSリンクの表示



にほんブログ村
PR1
PR2