『聖剣使いの禁呪詠唱』

無制限。

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聖剣使いの禁呪詠唱 - Wikipedia
聖剣使いの禁呪詠唱とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2015年。あわむら赤光著のライトノベル『聖剣使いの禁呪詠唱』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は稲垣隆行。アニメーション制作はディオメディア。二人の英雄を前世に持つ高校生の主人公が悪と戦う学園ファンタジー。禁呪詠唱と書いてワールドブレイクと読む。壊してどうする。

・主人公


 本作は「意図的に作られたクソアニメ」である。「そんな物、この世に存在するわけないだろう」と考える全国一億人の良識ある方々は、ぜひ一度、本作を見て欲しい。そうすれば、よく分かるだろう。アニメ制作スタッフが心の底から原作小説と原作者を馬鹿にしており、最初から良いアニメを作ろうという考えなど微塵も存在しないことが。
 クソアニメとそうでないアニメの違いなど一目瞭然だ。それは主人公がちゃんと物語の主人公をしているかどうかである。例えば、第一話。高校の入学式で居眠りをした主人公は、起床後、誰もいない講堂で二人の少女と出会う。彼女達はそれぞれ主人公と前世で因縁の間柄だったと語り、初対面の相手に濃密なスキンシップを要求する。こういった非現実的な状況に遭遇した時、普通の作品の主人公は一体どのような反応をするだろうか。驚いたり、怒ったり、逃げ出したり、反応自体は三者三様だろうが、物語の大きな転換点なのだから脚本的にも演出的にも極めてドラマチックなシーンとして描かれるはずだ。だが、本作の主人公はほぼノーリアクションのやれやれ系。それどころか、まるでよくある日常風景かのようなドタバタギャグとして処理される。当然、主人公のプロフィールや性格・趣味・特技、これまでの成育歴等は何一つ分からない。ところが、その後、彼は戦闘実技で辱めを受けたヒロインの復讐を果たすため、いきなり相手に決闘を挑む。何の戦闘スキルも持たないのに、だ。その間の葛藤はおろか心理描写すら一切ない。彼は入学式で居眠りをするようなグータラ人間ではなかったのか。ライトノベル原作アニメにおける男性主人公の扱いは総じて軽いが、ここまでどのような人間なのか分からない主人公は記憶にない。
 また、その作品特有の世界観を何も知らない視聴者に伝えるのも、主人公の大事な役目である。主人公自身がモノローグで語るパターンもあるが、無知な主人公が視聴者と一体になって未知なる世界を体験するパターンの方がより没入感が得られる。だが、本作はそのどちらもやろうとしない。他のキャラクターが代わりに説明することもない。それゆえ、最後の最後まで作品の世界観が分からないのである。どうやら舞台は現代の日本らしいが、魔法的な物が普通に存在する。一方、主人公の記憶にある前世の光景は、どう見ても中世ファンタジーである。ここはどこ? 私は誰? 前世の記憶をどうにかする前に、現世の記憶をどうにかしろと言いたい。

・設定


 仕方ない。主人公が劇中で全く設定を語ってくれないので、Wikipediaの解説文をそのまま引用しよう。「どこからともなく現れる異形の怪物『異端者』を倒すことの出来る者達・救世主(セイヴァー)の育成のために、前世の記憶を持つ人間が集まる亜鐘学園。ここで聖剣の守護者フラガと冥王シュウ・サウラの二つの前世を持つ少年・灰村諸葉(はいむら もろは)が、前世で出会った二人の少女と再び出会う。聖剣の巫女サラシャの前世を持つ嵐城サツキ(らんじょうさつき)と冥府の魔女の前世を持つ漆原静乃(うるしばらしずの)。二つの前世が目覚める時、最強の救世主が誕生する!」……ということらしい。何が凄いって、今初めて知った情報が半分ぐらいを占めている上に、未だに舞台である日本の歴史や怪物の目的、救世主の役割が何も分からないことである。こんな物は間違いなく前代未聞だ。映像作品としての良し悪しを語る以前に、スタートラインにすら立っていないということを制作者が気付く日は来るのだろうか。
 さて、これらの設定の中で、本作独自にして最大の売りは「前世」にまつわることである。だが、それは同時に最も説明不足な点でもある。主人公はかつての英雄の生まれ変わりで、強大な力を受け継いでいる。だが、彼自身はその記憶をほとんど持っていない、という基本設定は理解できる。しかし、その前世が彼の人格形成にどのような影響を与えているのかがさっぱり分からない。上述した通り、主人公は基本的には怠惰で漫然とした深夜アニメの主人公らしい性格の持ち主である。だが、バトルが絡むと急に態度が大きくなり、余裕綽々で敵を見下したり、上から目線で説教をしたり、時には暑苦しい啖呵を切ったりする。もし、それらが前世の記憶による物だとしたら、彼本来の人格は何なのかという疑問が生まれてくる。現世の主人公は実戦経験もなければ、戦闘訓練を受けたことすらないのだ。そんな普通の人間が急に尊大な態度を取り始めるのは、明らかにイレギュラーであり、違和感が果てしない。
 まともなストーリーテラーなら、現世の人格と前世の人格をまるで二重人格のように描き分け、自他共にそのギャップに驚く様を強調するだろう。例えば、漫画『寄生獣』の主人公は、寄生生物と融合したことで次第に非人道的な性格になっていく。そのことに対して本人自身が悩み苦しみ、人間らしさとは何かを自問する。それが物語という物だ。本作にしても、なぜか残酷な戦闘場面に直面しても冷静でいる自分に戸惑い、己の中の英雄を制御できずに苦しむといった描写があってしかるべきではないだろうか。何の抵抗もしないまま前世の人格が現世の人格を支配するなら、それはただの恐ろしい肉体乗っ取りでしかない。

・制限


 本作の主人公は、いわゆる「最初から最強のチート主人公」である。この世に生を受けた時点で世界最強であり、ゆえにあらゆる鍛錬や修行を必要としない。どんなに巨大な化け物も一人で倒すことができ、本気を出せば地球の地形すら変えることができる。ただ、勘違いしてはならないのは、「力があること」と「力を使いこなすこと」は全く別の概念だということだ。そして、その両者を混同している作品は、どう転んでも絶対に面白くはならないと断言できる。
 スポーツを例に挙げよう。サッカーは手でボールを触ってはいけない。バスケットボールはボールを持って歩いてはいけない。バレーボールはボールに三回しか触れてはいけない。といった形で、ルールにわざと不便さを盛り込んでいる。なぜ、そのようなことをするかと言うと、その不便さを解消しようとプレイヤーが創意工夫するによって、そこに「ゲーム性」が発生するからだ。技術を磨いたり、戦術を練ったり、チームワークを鍛えたりするのはそのためである。そこで必要になるのは「制限」という考え方である。どれだけ強大な力を持っていても、それを使いこなすのに十分な技量が必要になる。そういった制限を加えることで、ただの力押しに頼らないゲーム性のあるバトルの面白さが生まれる。だが、本作の場合はほぼ「無制限」。それはサッカーで言うと、いきなり主人公がボールを持って走り出し、一人でゴールを量産するような物である。確かに常人離れしているが、そんな物はやっている方も見ている方も面白くも何ともない。もちろん、本作も「前世の記憶を忘れている」という形で簡単な制限をかけているのだが、それを思い出すのに何の鍵も必要とせず、さらに思い出した呪文もただ威力が高くなっただけの単純な攻撃魔法なので、ほとんど無意味だ。
 また、無制限はストーリーにも悪影響を与える。第九話~第十話は、救世主団体のロシア支部に対して「たった一人で戦争」(原文ママ)を仕掛ける話だが、末端の組織から一つずつ潰していって最後に本部に辿り着くというゴリ押しにも程がある頭の悪い戦略を用いている。しかも、高校生だから健全な電車移動。平和ボケにも程がある。まぁ、それも仕方ない。真正面から戦っても必ず勝てるのだから、知略や謀略を巡らせる必要が全くないのである。だったら、寄り道せず真っ直ぐに向かうのは理に適っているが、物語的には死ぬほどつまらないと言わざるを得ない。

・クソアニメ


 等々、本作の欠点を書き連ねてきたが、実はこれらが最大の欠点ではない。一番の問題点は、全てにおいて明らかに「かっこ悪い」ことである。本作は、視聴者ターゲットである中高生がかっこ良いと思うような物をこれでもかと詰め合わせているのだが、それら一つ一つが悉くダサい。子供が剣を振り回しているようにしか見えないバトルシーンの殺陣に始まって、半 年 前、中二病丸出しの呪文名、無駄に細かいランク付け、主人公達が所属する討伐グループの英語のスローガン、世界を支配する秘密組織、幼稚園児レベルのモンスターデザイン、謎のカーチェイス、乱用する禁呪、ヒロインのトレーニング、ハードボイルド小説のような台詞回し、スマートホンで翻訳、捕虜を拷問、主人公しか使えないという兵法、そして、空中に指で文字を書く呪文詠唱。特に呪文詠唱に至っては、どう考えても早回しコントにしか見えないというお粗末さ。『チャップリンの禁呪詠唱』にタイトルを変えた方がいいのではないか。
 なぜ、ここまでかっこ悪いのか。逆説的だが、「かっこ悪さを描かなかったから」と言うことができる。例えば、本作のアニメ版オリジナルのラスボスは、主人公達と前世から因縁のある悪しきドラゴンである。おそらく、前世ではどうやっても勝てなかったであろう相手だ。それが成長はおろか劣化しているはずの現世で倒せた理由は何か? それはもちろん「仲間と協力したから」である。通常なら王道の感動物語になるところだが、本作では仲間の協力はあくまで応援程度であり、結局は主人公一人の力で倒したことになっている。なぜなら、仲間の力を借りて敵を倒すと、前世の主人公の弱さを認めることになってしまうからだ。この矛盾である。主人公を持ち上げるために、仲間すら犠牲にするのである。結局、真のかっこ良さを描くには、ある程度のかっこ悪さを同時に描かなければならないということであり、それを嫌った結果、見事なまでのダサさが生まれるという本末転倒な事態になっている。
 どちらにしろ、どれだけ原作がダメでも、アニメスタッフがもっと良い作品にしようと思って努力すれば、幾らでも良作になれたはずだ。だが、本作は悪い意味で原作をそのままアニメ化し、意図的にツッコミどころ満載のかっこ悪いクソアニメにすることで、手数を掛けずに視聴者の耳目を集めようとしている。いわゆる「実況向きのアニメ」という奴である。実際、第十話と第十二話は酷過ぎて逆に面白い。そういう意味では、制作者の目論見は成功していると言えるのかもしれない。しかし、意図的に作られたクソアニメは、やっぱりクソアニメである。それゆえ、世間が本作を評価することはないし、こうなってはいけないという悪い見本にしかならない。

・総論


 ちなみに、公式サイトのイントロダクションはこうである。「私立亜鐘学園高校。そこは前世の記憶に目覚めた若者たち――「救世主(セイヴァー)」が集う学び舎。ある者は、前世の記憶をもとに自らの進退から《通力(プラーナ)》を汲み出し武器と体術の戦技をもって敵を砕く「白鉄(しろがね)」となり、またある者は、物理を越える異能《魔力(マーナ)》を自在に操り、この世にあらざる魔術の業で敵を滅ぼす「黒魔(くろま)」となる。そんな亜鐘学園に、一人の少年が入学した。彼の名は「灰村諸葉」。史上初めて、白鉄と黒魔の二つの前世《剣聖×禁術保持者》の力に目覚めた彼は、それぞれの前世で永遠の絆で結ばれた最愛の少女2人とも同時に再開を果たし、誰よりも特別な運命を歩み始める――」(原文ママ)

星:★★★★★★★★★(-9個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:56 |  ★★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『ISUCA』

低予算。

公式サイト(消滅)
ISUCA - Wikipedia
ISUCAとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2015年。高橋脩著の漫画『ISUCA』のテレビアニメ化作品。全十話。監督は岩永彰。アニメーション制作はアームス。妖魔退治の家系に生まれたヒロインと特殊な能力を持つ主人公が力を合わせて悪に立ち向かう学園ファンタジーラブコメ。アニメ版は、原作のエピソードの順番を大幅に入れ替えて、一つのストーリーになるように改変している。EDムービーの作画を人気アニメーターの梅津泰臣が手がけており、本編とのクオリティの差が著しい。

・低予算


 最近では珍しくなった誰の目にも明らかな「低予算アニメ」である。低予算アニメとは、文字通り予算の少ないアニメのことであり、もっと端的に言うと制作に必要な人材を揃えられないダメなアニメのことである。その影響がダイレクトに表れるのが作画と演出で、あちらこちらで売り物にするには失礼なレベルの崩壊を引き起こしている。また、作品全体の品質よりも製作費を回収することに重きが置かれるので、無理やりセクシャルなシーンが挿入されたり、雰囲気に全く合っていない陽気なOP曲が採用されたり、若いだけで演技力に難のある声優が起用されたりする。結果、唯一のお得意様であるはずの原作ファンにすらそっぽを向かれ、大赤字を計上するのがいつもの流れだ。こういった作品は昔は多く見られたが、2015年にもなってこのクオリティは驚かされる。
 ただ、何度も書いているが、作画や演出の良し悪しは作品の面白さに直結しない。それよりも、低予算アニメの一番の問題は、有能な制作責任者を起用できないことによる映像作品としての致命的なセンスの欠如だ。本作の場合、上述した通り、シナリオの時系列を改変して隙間をオリジナル展開で埋めているのだが、その繋ぎの技術が極めて低く、ストーリーの理解を妨げてしまっている。第一話を例に挙げると、主人公がヒロインに捕えられたネコマタを無断で助けるシーンがある。これ自体は原作にもあるエピソードなのだが、アニメ版ではそのシーンを学校を襲った別の妖魔のミスリードとして流用している。つまり、主人公もヒロインもネコマタが犯人だと勘違いしていたということになり、なぜその勘違いをしたのか、なぜネコマタがそこにいたのか、なぜ主人公達がその場所に移動したのか、その間、真犯人は何をやっていたのか、といったことが画面からは全く読み取れない。すると、視聴者は抜け落ちたシーンを無意識の内に絶えず脳内補完しなければならず、細かい視聴ストレスを生む。それこそが本作全体を包み込む何とも言えない「ダメな感じ」の正体であり、制作者の映像センスの無さの証明になる。
 そもそも、原作を改変する必要がどこにあったのか。「なぜ、主人公がヒロインの家政夫になったのか?」という作品テーマの著述から始まる原作の第一話に何の問題があったのか。ちょっと理解し難い。平凡な人間ほど己を過信して独自の道を歩みたがるが、それで成功できるのは一握りの天才だけだということを認識する必要があるだろう。

・設定


 設定自体は、非常にシンプルかつオーソドックスである。主人公は奔放な両親のせいで困窮し、生活費を稼ぐために日々のアルバイトに明け暮れている男子高校生。ある日の夜、突然、異形の化け物に襲われそうになったところを、一人の女子高生に助けられる。彼女は古より妖魔退治を担う一族「島津家」の暫定的な当主であり、今までずっと一人で戦い続けてきた。翌日、学校を襲う妖魔との戦いに巻き込まれた主人公は、他人とキスすることでその人の真名(本当の名前)を見抜く「真眼」の力の持ち主であることを知る。真名を知ることで妖魔を封印することができるのだ。そして、敵の真名を見抜き、無事に妖魔を封印するヒロインの協力を果たした主人公は、実は島津家の一員だった担任教師の勧めで、実家を離れて一人暮らし中のヒロインの家で家政夫のアルバイトを始める。こうして、二人の奇妙な同棲生活が始まるのだったと、実にシンプルな学園ファンタジーである。ちゃんと必要な物は全て揃っているし、主人公とヒロインの付かず離れずの微妙な関係性も良い。ただ、例によって、アニメ化に際しての余計な改変を多数行った結果、様々な設定の不備が発生している。
 まず、主人公の特殊能力である真眼に、「真名を見抜く」に加えて「霊力を分け与える」という能力まで付け加えられていることだ。前者は攻撃、後者は回復、正反対のスキルなのに、その発動方法まで同じである。これでは敵を攻撃しようとして同時に回復してしまうではないか。次に、学校で何人もの被害者が出ているのに、全く変わりない日常生活が続いている件。これも原作を改変したことによる描写不足が原因である。元々、原作では学校での事件はほとんど起きていない。続いて、「真名を知られるとその相手に服従しなければならない」という設定。原作通り、物語の途中で主人公はヒロインの真名を知ってしまうのだが、それを正当化するために偽りの婚姻をするという展開が、アニメ版ではごっそりと抜け落ちてしまっている。これがないと、なぜか絶対服従であるはずのヒロインが平気で主人公に逆らっているという矛盾が生じてしまう。最後に、「主人公がいないと妖魔の真名が分からないのに、どうやってヒロインは今まで妖魔を封印していたのか?」という疑問。こちらも、原作では島津家の専門家が何日もかけて捕えた妖魔の真名を探ると説明されているのに、アニメ版ではその大事な台詞が削られている。いずれもストーリーの根底を歪めてしまうような設定ミスだ。別に改変自体は悪いことではないが、ちゃんと作品を理解した者がやらないとこうなってしまうという非常に分かり易い例である。

・良点


 良い点もある。特に注目すべきは、「家」に関する事柄だ。ヒロインの島津家は古来から続く妖魔退治の名門一家で、彼女は三十七代目の仮の当主である。ただし、彼女の父親は入り婿であり、しかも、島津家と対立している西洋魔術師の家系だったため、一族の者からは忌み嫌われている。ヒロインには歳の近い従妹もいて、彼女を次期当主に推す者も多い。そんな逆風が吹き荒れる中、ヒロインは当主になることに並々ならぬ情熱を燃やし、そのため、自分自身の手で妖魔を退治することに固執している。その理由は、八年前に行方不明になった両親の真実を知るためと、父の意志を継いで西洋魔術師との確執を断ち切るためだった。しかし、そんな彼女の姿は第三者である主人公からすると、家という不確かな物のために無理やり自分を押し殺しているようにしか見えない。それゆえ、彼は彼女を支え、一緒に両親を探すことを決意する。と、このように、オーソドックスでありながら、理不尽さと希望を併せ持った奥の深い設定である。ヒロインや主人公の意志もしっかりと描かれ、彼らに十分共感できる。簡単そうに見えて、ただの三流アニメにはこれがなかなかできない。この辺りは原作の力だけではなく、アニメスタッフの努力も垣間見られるポイントである。
 また、序盤は壊滅的な出来栄えだった本作も、ようやく予算が確保できたのか、第六話以降はそれなりに持ち直す。特に第六話は、原作のエピソードをアレンジしたオリジナルストーリーで、作画レベルは相変わらずだが、ヒロインの深層心理に深く切り込んだシナリオ面と演出面は非常に完成度が高い。ヒロインのいわゆるツンデレ的な言動も可愛い。他のアニメに混じっても十分に戦って行けるぐらいだ。通常、第一話と最終話が一番良質な物だが、中盤にピークが訪れるのは珍しい。最初からこのレベルを保っていたなら、もっと評価は高かっただろうに。よく、創作の上達法として、良い例に触れるのと同じぐらい悪い例にも触れて、両者をじっくりと見比べてみることが大事だと言われるが、本作は一つの作品内で両方が味わえるお得なアニメである。

・ラスボス


 終盤は一人のラスボスを中心に展開する。彼女も原作に登場するキャラクターなのだが、元々、それほど出番は多くない中ボスクラスの敵だった。一方、アニメ版では最重要人物に昇格し、第一話からすでに全ての事件の黒幕として暗躍している。なぜ、そのようなことになっているのか。敵を一人に絞るとそれを倒した時点で物語が完結するので、話が非常に分かり易くなるというメリットがある。それゆえ、全十話という短い尺でストーリーをまとめるための止むを得ない処置といったところなのだろうが、それに比例してどうしても話のスケール感が狭くなるのは否めない。結局、ただの私怨の物語になるからだ。それだと、ラスボスの魅力=作品自体の魅力になってしまうのだが、本作のラスボスで視聴者の印象に残るのは、意味もなく連発する高笑いぐらいな物だろう。
 さて、そのラスボスの正体はと言うと、実は島津家に恨みを抱く西洋魔術師が魔術の粋を集めて作ったホムンクルスである。その魔力は人間を遥かに凌駕している。では、それほどまで強力な敵をどうやって倒すのか、こんな物は設定を見れば考えるまでもなく、主人公がヒロインにキスをして霊力を分け与え、パワーアップして倒すのである。だが、ラスボスとの最終決戦が繰り広げられている間、視聴者は全員が同じことを思うだろう。「キスなんていつでもできるだろう」と。実際、いつでもできるチャンスがありながら、最後の最後になってようやく二人はキスを交わす。極めて不自然である。ここにもアニメ用に勝手に設定をいじくった弊害が発生している。まともなシナリオライターなら、二人がキスできないように様々な障害を用意するはずだ。ヒロインは貞操観念が強く、本当に好きになった人としかキスをしないといった精神的な障壁、キスをすることでヒロインの真名が分かってしまうため、ずっと自重していたといった物理的な障壁、少し考えるだけで幾らでもアイデアは浮かんでくる。低予算だから、全十話だからなどと言い訳せず、ちゃんとやることをやるべきだ。
 ちなみに、ラスボスを倒してもそこでストーリーは終わらず、真の黒幕はヒロインの父親で、ホムンクルスは大量生産されていたというブラックなオチを描いて終了する。これだけ設定を改変しておいて、第二期などあるはずがないのだが、希望を捨てられなかったのだろうか。それとも、頑張ってもこのようにしか作れなかったというなら、あまりにも情けない。

・総論


 作品自体の評価はこれぐらいだろう。ただ、原作ファンには許し難い部分も多く、何よりこのアニメが2015年に放送されたという事実が最大の驚きである。

星:★★★(-3個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:37 |  ★★★ |   |   |  page top ↑
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