『ファンタジスタドール』

迷作。

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ファンタジスタドール - Wikipedia
ファンタジスタドールとは - ニコニコ大百科

・はじめ


 2013年。オリジナルテレビアニメ作品。全十二話。監督は斎藤久。アニメーション制作はフッズエンタテインメント。人化する謎のカードを巡って女子中学生達が戦うカードバトルアニメ。オリジナル作品という扱いになっているが、実際は『ファンタジスタドール ガールズロワイヤル』というソーシャルゲームのメディアミックス作品である。基本的には、『コードギアス 反逆のルルーシュ』等の監督で知られる谷口悟朗がクリエイティブプロデューサーとしてアニメ化企画の中心に立っている。ドール達がなぜ生まれたのかといった裏設定は、前日譚である小説『ファンタジスタドール イヴ』を参照のこと。

・少女アニメ


 アニメ業界でいつの頃からかまことしやかに囁かれている一つの説がある。それは『プリキュア』シリーズや『アイカツ』などの低年齢女子向けアニメ(以下、少女アニメ)は、「小学生以下の女子」と「成人男性」の両方をターゲットにしているという説だ。実際、年代別視聴率を見るとその二つの層が高いという具体的なデータがあるらしい。確かに、日曜の朝になると、Twitterのタイムラインは少女アニメの実況ツイートで溢れ返る。ネット掲示板では新シリーズが始まる度に熱い議論が巻き上がる。今やプリキュアシリーズを見ていない人は、アニメオタクを名乗ってはいけないレベルである。何がそこまで彼らを惹き付けるのだろうか。もちろん、キャラクターの可愛さ=萌えや魔法少女的なキャッチ―な華やかさは古より連綿と受け継がれるオタクのアイコンである。また、昨今の少女アニメは「努力・友情・勝利」のジャンプ三原則が守られており、男性でも十分に楽しめるようになっている。その一方で、逆に萌えアニメの少女漫画化が進行しているのが面白い。いつの日か完全に逆転して、女性向けアニメを男性が見て、男性向けアニメを女性が見るようになるのかもしれない。
 ただ、問題なのは、その説を男性視聴者が公然と口にすることである。この際、はっきりしておくが、少女アニメは少女向けに作られているのであって、成人男性をターゲットにはしていない。もちろん、彼らがグッズを買い支えているからこそ続編が作られているのは事実だろうが、だからと言って、制作スタッフが彼らを意識して作っているわけではない。にも係らず、当たり前のように公共の場で話題にし、あまつさえ大人視点で内容を批判する現状はやはりおかしいと言わざるを得ない。自重しろとまでは言わないが、やはり大人としてのある程度の節度は守って欲しいところだ。対象に迷惑をかけずにこっそりと楽しむのが、元来のオタクの嗜みだったのではないだろうか。
 そこで本作である。本作は、そういった少女アニメを大人向けにアレンジして深夜に放送したような作品になっている。主人公は女子中学生。個性的な仲間達。オシャレな変身シーン。華やかな戦闘シーン。謎のイケメン仮面。謎の敵組織。可愛らしい主題歌。プリキュアと言うより往年の『美少女戦士セーラームーン』を思わせる作風だが、様々な点で違いも感じられる。本作を見てみると、もし、最初から少女アニメを大人向けに作っていたらどうなっていたかがよく分かるだろう。そう、こうなるのである。

・特徴


 のっけから作画が変である。妙に棒立ちで、パースがおかしくて、壁に向かって歩いたりする。脚本も変である。主人公が普通の人間が取るはずの行動を取らず、なぜかカードバトルのルールを知っていたりする。もっと変なのがバトルである。無駄に物理的で無駄に凶器、ガチで身に危険が及んだりする。これは第一話の話だが、第二話以降もこんな調子でむしろ徐々にパワーアップして行く。そのため、一言で本作の特徴を書くと、あらゆる要素が「ズレている」である。
 少女アニメを深夜に放送しようとした時、当然、そのまま移植すると様々な弊害が噴出するため、大人の鑑賞に耐えられるように幾つかのアレンジを加えなければならない。その際、早急な改善が必要になるのは、子供向けだからこそ許されていた設定・脚本の非現実的な粗、つまり、「幼稚さ」である。その幼稚さをなくすには二つの方法がある。一つは穴という穴を全て論理的に埋めてリアリティを上げること、もう一つは幼稚な部分を逆に増幅してギャグにしてしまうことだ。本作は両方を選んだが、特に目立つのが後者である。わざとメルヘンチックな少女アニメには似つかわしくないシュールで血生臭いアイテムを出したり、シリアスなシーンに生々しい生活感を加えたりして、見た目と内容のギャップを演出する。言ってみれば、本作は『ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて』等でお馴染みの「邪道魔法少女」と構造が酷似している。つまり、それ自体が一種のセルフパロディーなのである。
 ただ、そういった意図的な笑いとは別に、本作は天然ボケの笑いが数多く見て取れる。例えば、第七話で修行の末にファンタジスタドール達が編み出した必殺技は、「協力カノン」という名の「人間砲台」である。これはもう計算された馬鹿馬鹿しさであり、誰の目にも十分に面白い。だが、本作の妙なところは、その必殺技を最終回のシリアスなクライマックスシーンにまで使い回すことである。それも荘厳なBGMをバックに真剣その物で。普通は最終回用の新必殺技を用意する物だろう。だが、大人は細かいことを気にしないのだ。なぜなら、彼女達が一生懸命頑張っていることには変わりないのだから。また、ドール達がマスターの命令を拒否する行為はギャグチックに「伝説の不採用通知」と称される。それを言うなら「伝説の三行半」だろ。と、基本的に本作はツッコミ役が不在なので、どこまでがボケでどこまでが真剣(マジ)なのか分からない一種独特のファンタジスタワールドが作り上げられている。本ブログで言うなら、『極上生徒会』や『侵略!イカ娘』に近しい作品である。それが良いことか悪いことかの言明は避けるが、極めて個性的な作品であることは間違いない。

・人造人間1


 このように全方向にズレまくった作品であるが、物語の中心となるテーマがしっかりしているため、奇跡的にブレてはいない。そのテーマがいわゆる「人造人間譚」である。
 冴えない女子中学生である主人公は、ある日、奇妙な五枚のカードを手に入れる。そのカードは主人公をマスターと呼び、カードを奪いにくる敵から彼女を守るため、人の形となって戦うのだった……。人型を取っているとは言え、彼女達「ドール」はただの「データ」である。使用者には絶対服従であり、用が済んだら簡単に捨てられる運命にある。その一方で、彼女達はマスターへの献身を最高の喜びと認識しており、自分を犠牲にすることも厭わない。だが、本作におけるファンタジスタドールが普通のデータと異なるのは、彼女達が「自我」を持っていることだ。いや、正確に言うとそれすらもプログラミングなのだが、彼女達が意思決定能力を持っているのは事実である。そして、自我があるということは、人造人間が本来持っている「自己保存」の本能を自覚することができるということである。しかし、それは先の「自己犠牲」の精神と根本的に矛盾する。そのため、彼女達は自己の存在の在り様について常に思い悩むことになる。それこそ、まさに人造人間譚の中心的テーマである。
 特に、彼女達はかつてのマスターに捨てられたという過去を持っており、そのトラウマにより極度の人間不信に陥っている。つまり、マスターに忠誠を誓うことは必ずしも最善ではないと学習してしまっているのである。そのため、あらゆる点で平均以下の主人公をなかなか新しいマスターとして受け入れることができない。では、マスターとドールの関係は本来どうあるべきなのだろうか? ドールにとっての本当の幸せとは何なのだろうか? その問いに対して主人公が選んだ答えは「友達」、マスターとドールは上下関係ではなく対等であり、互いに高め合っていく存在だというのが主人公の考えである。なるほど、それは素晴らしい結論だ。ただし、それは子供向けの思想であって、大人向けの思想ではない。人が人である以上、人間と人造人間は決して同格であってはならない。その大前提を踏まえた上で、新たなる関係性を築かなければならないのだ。そういった意味では、同一テーマを描いたアニメである『ローゼンメイデン』や『アキカン!』には後一歩届かない作品である。

・人造人間2


 このように、本作は深夜アニメとは思えないほどの深いテーマ性を持った作品であるが、そのテーマがちゃんと物語として昇華されているかと言うと、深夜アニメらしくその答えは「否」である。
 まず、気になるのは、ドールとマスターの間で交わされる「契約」が非常に曖昧なことだ。ドールが人に作られた存在である以上、設定的にも物語的にも、その契約は極めて厳格でなければならない。その逃れ得ぬ檻の中で、ドール達が如何に幸せを追い求めるかという話なのに、意外と彼女達は「自由」なのである。命令が気に入らなければ、召喚拒否も辞さない。マスターに愛想をつかすと、「伝説の不採用通知」を出して契約解除を迫る。さらにストーリーの終盤、かつてドール達を捨てた元マスターが登場して記憶の封印を解くと、彼女達は当たり前のように元マスターのところへ帰る。捨てた時点で契約は解除されているはずだから、彼女達の意志がどうであれ、帰るはずがないのだが。こんな不思議なことになっている原因は、制作者がドール達に感情移入してしまったことで、彼女達を人間的に描き過ぎているからであろう。設定が人形なのに行動が完全に人間なので見ている方が混乱を来たし、結果的に彼女達がただのわがままな人々に映ってしまうのだ。気持ちは分かるが、ここはもう少し離れた視点でドールを描くべきだったのではないだろうか。
 もう一つの問題点がラスボスである。上記のドール達を捨てた元マスターこそが本作のラスボスであり、彼女の目的はかつて唯一の友達だったドールを生き返らせることだった(ちなみに、彼女はろくな役割を担っていないのに登場シーンだけは多いので、最初から正体がバレバレである)。そのためには、主人公達のドールを犠牲にしなければならない。それは分かる。かなり人格の歪んだラスボスらしいラスボスではある。ただ、作劇のセオリーは、訴えたいことと正反対の思想をラスボスに持たせることである。本作における一番訴えたいこととは、「ドールは戦いの道具ではなく友達である」だ。だが、ラスボスの思想は「一つの希望を突き詰めると願いは叶う」だ。少し分かり難いが、要は「本当の友達は一人でいい」である。論点がズレている! 仕方ないので、主人公もラスボスの意見にお付き合いして「みんな、友達だから」という話になり、最後はドール達が協力してラスボスの友達を生き返らせる。もちろん、それはそれで感動するのだが……そういう話だっけ、これ? せめて、生き返らせる対象を人間にしてくれたら何も問題はないが。結局、本作は作品としての軸はブレていないが、あらゆる点で中心からズレているのである。やはり、少女アニメは少女向けに作るべきなのかもしれない。

・総論


 いろいろとダメなアニメなのだが、それを吹き飛ばすぐらいの熱い魂を感じる作品。最近の男性向けアニメでは少なくなった「努力・友情・勝利」の精神が溢れている。それが大人向け少女アニメという事実は喜んでいいのやら何とやら。

星:☆☆☆☆☆☆(6個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 23:29 |  ☆☆☆☆☆☆ |   |   |  page top ↑
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