『BLOOD-C』

茶番。

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BLOOD-C - Wikipedia
BLOOD-Cとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2011年。オリジナルテレビアニメ作品。全十二話。監督は水島努。アニメーション制作はProduction I.G。女子高生が日本刀一本で異形の怪物と戦い続けるバイオレンスアクション。『BLOOD THE LAST VAMPIRE』『BLOOD+』に続く「BLOODシリーズ」の三作目。人気漫画家集団CLAMPが企画の中心に立っている。結末が描かれる映画『BLOOD-C The Last Dark』は本項では取り扱わない。残虐なシーンが多いため、テレビ放送版では各所に黒塗り・白塗りの映像加工を行っている。

・欠陥


 まず、本編に入る前に本作の抱える構造的欠陥について記しておく。本作の主人公は長身のグラマラスな女子高生兼巫女。眼鏡をかけた真面目で世間知らずのお嬢様、かつ無邪気で天然ボケのドジっ子。そして、超の付くファザコン。だが、その正体は夜な夜な日本刀一本で異形の化け物と戦い続ける宿命のヒロインである。ここまで読めば分かる通り、本作の趣旨は、穏やかな日常描写と凄惨なバイオレンス描写という正反対の映像が作り出すギャップに面白さを見出そうという物である。ダークヒーロー物のアメコミをさらに誇張させた作品と考えればいい。だが、問題はここだ。このギャップをより強く演出しようと思えば、日常はより穏やかに、バイオレンスはより凄惨に描かなければならない。するとどうなるだろう。日常シーンは何の事件も起こらず淡々と平和な時間が過ぎるだけ、バイオレンスシーンは剣術少女が超人的な力で黙々と敵を始末するだけ。はっきり言って、そんな物は見ていて面白くも何ともないのである。確かにギャップ自体には心湧き上がる部分はある。だが、その感情を覚えるのはほんの数秒だけで、残りの二十分は延々と何の盛り上がりもない退屈な演劇を見続けなければならない。それが現実である。
 他にもまだある。主人公は実は過去の記憶が改ざんされており、なぜ自分が化け物と戦っているのか分からない。主人公が分からないということは、当然、視聴者にも分からない。そんな目的意識のあやふやな人間が、敵との戦いでピンチになろうと勝利しようと気分の昂ぶりようがない。また、第五話辺りから敵の活動範囲が広がり、夜だけではなく昼日中にも襲い掛かってくるようになる。つまり、平坦な日常の中に恐怖が進出するという「違和感」を描こうとしているのだが、あまりにも画的なバランスが悪過ぎて、それこそ違和感しか覚えない。特に、第七話は日中の田んぼの畦道で格闘ゲーム風の戦闘を行うのだが、作画・キャラデザを含めて画面全体が幼稚過ぎて、最早、失笑しか生まれないというレベルである。例えるなら、高校生が文化祭で作った自主映画のような代物だ。
 これらに共通することは、企画や設定の段階では面白くなるはずだった物が、実際に映像にしてみると予想に反して全く面白くならなかったという残念な事実である。つまり、理想と現実は違うということであり、頭の中だけで考えた机上の空論であってはならないということだ。例のコピペではないが、王道を外すことのリスクを十分に考慮した上で物語を構築しないと、本作のような哀しい結果になるという分かり易い反面教師である。

・血


 「BLOODシリーズ」はそのタイトルが示す通り、過激なバトル描写とそれに伴う残酷な流血描写(ゴア表現などと呼ばれる)が一番の売りである。ただ、その中でも本作は極めて突き抜けた作品である。ちょっとした傷でも、流血というより噴水のように遠慮なく血液が飛び出し、画面全体を朱く染める。まさに血の海という慣用句が相応しく、血液の赤色に対して嫌悪感がある人は直視すらできないだろう。映画やゲームなら間違いなく十五禁になる。モザイク処理をしているとは言え、なぜ、アニメだと地上波で放送できるのかは分からない。
 それはそれとして、ちょっと噴き出し過ぎではないだろうか。明らかに体内の血液量以上の物が溢れ出ているように感じる。少なくともリアリティーはない。『撲殺天使ドクロちゃん』や『Another』でも同様の表現を用いている監督の水島努は、この件に関して自身のブログでこう答えている。「痛々しい出血は見ていてもつらいので、現実感のないファンタジーな出血にしました」と。なるほど、理解できる。残虐描写は嫌悪と恐怖の対象だが、その表現を過剰に演出し、ある一線を越えるとそれはユーモアに変わる。漫画『北斗の拳』のバイオレンスシーンをギャグとして描いているのと同じ理由だ。実際、本作が放送された際、内容の良し悪しとは別にネット掲示板では実況の書き込みが盛り上がったそうだ。まるで、過激なパフォーマンスが売りのプロレスのように。そう、流血はエンターテインメントなのである。
 考えてみると、中世ヨーロッパではギロチン等の公開処刑が一種の娯楽だったそうだし、日本でも罪人は晒し首の刑に処せられていた。人の死に直結する行為は、人間が本来的に有している残虐性・加虐性を刺激するのだろう。普段、そういったネガティブな嗜好はモラルの名の下に覆い隠されているが、「罪人だから」「ファンタジーだから」「作り物だから」という大義名分さえあれば、すぐに表に顔を出して感情を揺さぶる。その時に味わう高揚感は、どんな娯楽よりも強いに違いない。また、鮮やかな赤色は画面を引き締める効果があり、それゆえ、血飛沫が舞う本作の画は非常にスタイリッシュである。特にOPムービーは一見の価値がある。そういう意味で言うと、本作はエンターテインメントとして実に優れているということになる。ただし、その領域に達するためには、幾つもの障壁を乗り越えなければならないのだが。

・グロ


 上記の流血に関する問題を除いたとしても、本作にはそれ以上にグロテスクな描写が数多く存在し、見る人を遠ざける。その理由として、ただ単にスプラッタ趣味に走ったからというだけでなく、設定的にも本作に登場する化け物「古きもの」は人間を糧として生きているからという物がある。通常、人はこの一点だけで強い恐怖心を覚える物だ。なぜなら、食物連鎖の最上位に位置し、万物の霊長を自負する人間が、自分達より上の物の存在を認めることになってしまうからである。それは今まで長年築いてきた価値観が根底から覆されることだ。漫画『進撃の巨人』は、まさにそういった根源的な恐怖心を巧みに操ったからこそ、大人気作品になった。ただ単に図体の大きな巨人が暴れているだけでは、あれほど読者を惹き付けることはなかっただろう。
 では、本作の場合はどうだろう。設定に従って、本作では古きものが人間を捕食するシーンが数多く描かれる。そのシーンに対して、確かにグロテスクな不快感を覚えるものの、(モザイク処理されていることもあって)恐怖感はあまり覚えない。特に、第九話では、古きものが学校に現れてクラスメイトが次々と犠牲になる。似たようなシチュエーションが漫画『寄生獣』にも存在するが、そこで見られるような逃げ場のない絶望感は本作には存在しない。なぜだろうか。一つは先に描いた意図的な「違和感」がかえって足を引っ張っていること。もう一つはやはり演出の弱さになるのだろう。古きものの外見があまりにファンタジー然とし過ぎて、人間を餌にしているという生々しい現実感があまり感じられず、ゆえに画に説得力がないのである。言い換えると「野性味」が足りないということであり、気持ちの悪い化け物より普通の熊やライオンにでも襲わせた方が、余程、衝撃度が高くなっていたはずだ。
 そして、問題の最終話である。ここでは古きものが街に放たれ、住民が皆殺しに遭うというショッキングなシーンが描かれる。ただし、ショッキングなのはシチュエーションだけで、わざと作画と演出をギャグチックに描いて、ブラックユーモアなノリに仕上げているため、グロに抵抗感がなければ、このシーンは日本アニメ史上屈指のスペクタクルシーンである。行き過ぎた暴力は、かえってユーモアになるのだと再確認でき、海外の物好きなサブカル評論家辺りは大絶賛するだろう。もちろん、『BLOOD-C』という作品全体からすると、このシーンは追い詰められた制作者の性質の悪いおふざけ以外の何物でもなく、結果的に作品の評価を下げることになる。この作品が持つ欺瞞性(後述)が全てここに集約されているようで興味深い。

・茶番劇


 第十話の終盤において、本作の壮大なネタ晴らしが行われる。詳しい内容は後に回すとして、その時に仕掛け人の一人が発した言葉が興味深い。「もう、そろそろ終わりにしましょ、こんな茶番劇は」と。なるほど、第一話~第十話は全て茶番劇だったらしい。そりゃ、つまらないわけだ……いや、いい加減にしろ。これも構造的欠陥の一つなのだが、どんなに物語上の理由があろうとも、制作者が自ら茶番だと断じる話を視聴者に対して見せ付けていたのは事実なのである。仮に心の中でそう思っていたとしても、これは絶対に口にしてはならない台詞だ。クリエイター以前に商売人、社会人として失格である。
 さて、そのネタだが……多くの人が第一話で気付くと思うが、まず主人公は人間ではない。細かな違いはあるが、人を食らう化け物こと「古きもの」と同種族である。そんな彼女がなぜ偽の記憶を植え付けられ、古き者と戦い続けていたのかと言うと、要は「実験」だったのだ。化け物を洗脳することによって人間の協力者になれるか否かの。主人公の友人達は実験のために集められた協力者であり、古きものに襲われない特殊なお守りを持っていた。襲ってきた古き者も実験者に操られていた。ただし、街の人々は何も知らされておらず、亡くなった人は皆、本物の人間。こういったストーリーの裏話を、仕掛け人が三十分かけてベラベラと語るのが第十一話である。
 何とも馬鹿馬鹿しい話だ。まさに茶番である。この手の「全てが仕組まれた罠だった」系のストーリーは他の分野でもよく見かけるが、使いどころを誤ると主人公以上に視聴者が強いむなしさに襲われる。本作などは、最初から違和感に包まれていた物だから、作品自体の価値が地に落ちることになる。その後、記憶を取り戻した主人公は、自らを弄んだ実験者に復讐を果たそうする。その彼女の気持ちは分かる。だが、今まで散々茶番を見せ付けられていた視聴者にとって、それは果てしなくどうでもいい話である。そもそも、目的がおかしくないだろうか。実験者の目的は化け物が人間らしい心を持てるかどうかである。一方、主人公の目的は自らの化け物らしい心を取り戻すことである。ところが、主人公は虐殺される町の住民を見て、人間らしい正義感に燃え、実験者打倒を決意するのである。矛盾しているだろう。本作は何がやりたいのか。しかも、その結末は、本作ではなく映画の中で描かれるとあっては、茶番と呼ぶのもはばかれるただの駄作である。本当にもう、いい加減にして欲しい。

・総論


 やりたいことは分かるし、その点においてカルト的な人気が出るのも分かるが、ダメな物はダメ。制作者は自分の作品にもっとプライドを持って欲しい。自分で茶番だと思う物を世に出さないで。

星:★★★★(-4個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 22:29 |  ★★★★ |   |   |  page top ↑
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