『エルフェンリート』

グロ。

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エルフェンリート - Wikipedia
エルフェンリートとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2004年。岡本倫著の漫画『エルフェンリート』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は神戸守。アニメーション制作はアームス。驚異的な殺人能力を持つ新人類「ディクロニウス」の少女を巡るバイオレンスアクション。残虐描写が多いため、各メディアの表現規制の違いによって様々なバージョンが存在する。なぜか、海外ではやたらと人気らしい。

・グロ


 本作は『BLOOD-C』などが登場する前は、グロアニメの代名詞のように扱われていた作品である。具体的に言うと、首が吹っ飛ぶ、腕が千切れる、出血が画面を染める、切断面がアップになる、胴体が引き裂かれる、内臓が滴り落ちる、肋骨が剥き出しになる、などだ。もう、文字だけでも背中が寒くなるようなシチュエーションである。特に第四話では、幼気な少女の四肢が切断されるというショッキングなシーンが描かれる(さすがに、ショッキング過ぎて地上波では放送できなかった)。もっとも、色水のような現実感のない血液を代表に、全体的なデザインに作り物感が溢れているので、それほど痛みは感じない。ただ、気持ちが悪いだけだ。そういう意味で言うと、『BLOOD-C』の方がエンターテイメントとしては何倍も優秀だと言える。
 ただし、留意しなければならないのは、本作はホラーアニメではなく「萌えアニメ」だということである。萌えアニメの本懐は、女の子の持つ可愛らしさをより強調することであり、劇中に登場するアイテムは全てそのために存在する。では、上記のグロ描写もそのために盛り込まれているのか? 実は冗談でも何でもなく、そうなのである。実際、萌えの前段階として、身体の一部分を失った女性に強い性的興奮を覚える「欠損フェチ」という嗜好の人が確かに存在する。彼らは人間が本質的に有す嗜虐性向に忠実で、女性を痛め付けることに強い性的興奮を覚える。そして、その流れで、そういった女性を可愛く思う「欠損萌え」も確かに存在する。身体の一部を失うことでより非人間的な物に近付き、人間ではなく人形として女性を慈しむ。言ってみれば、ロボ娘萌えやモンスター娘萌えに近い趣向だ。本作のグロシーンは、そういった人々にとってはまさに天国の如き所存であろう。本作が海外にウケたのは、そういう趣向の人間が多いからか? いや、これ以上書くと妙な国際問題になりそうなのでやめておこう。

・ヒロイン


 本作のヒロイン「ルーシー」は、ウィルスにより突然変異した新しい人類「ディクロニウス」の一人である。ディクロニウスは、超人的な身体能力と「ベクター」と呼ばれる透明な腕を持ち、恐ろしいまでの殺人術に長けている。性格は残忍その物で、三歳ぐらいを期に強い殺人衝動に目覚めるため、政府により密かに抹殺、一部は施設で研究用に隔離されている。ルーシーはその中でも極めて攻撃性が高い個体だったが、その影響からか二重人格を発症しており、もう一つの人格は言葉をしゃべれないほど純粋無垢である。そんな彼女がとある事情で研究施設を脱走し、大学生の主人公達と出会うところから物語が始まる。
 人間であって人間ではない人格の壊れた悲劇の少女。こう聞けば、誰もが九十年代後半辺りに流行した一つのブームを思い出すだろう。手塚治虫が提唱し、富野由悠季が発展させ、庵野秀明が完成させた例のアレ。人造人間であるがゆえに自分のアイデンティティーが分からず、最後までそれを欲しながら儚く戦いの中に散っていく。そう、「アヤナミ系」である。正直なところ、この一言だけで『エルフェンリート』という作品の全てを説明できてしまう。持って回ったくどい評論など一切必要ない。それぐらい本作のヒロインは定型パターンにハマり過ぎている。
 彼女以外のヒロインも同様だ。あるヒロインは義理の父親から性的虐待を受けて出奔し、主人公の家に世話になる。あるヒロインは赤の他人を父親だと洗脳され、戦闘マシーンとなるよう強制される。あるヒロインは自分を捨てた父親に対して強い愛情を求めながらも、最後はその父親自身に殺される。いずれもどこかで聞いたような分かり易い悲劇だ。こういったヒロイン全員が何らかの重石を背負い、見ていて胸がつまされるぐらい惨めな生涯を送るというパターンが、信じられないかもしれないが、二千年前後のオタク業界、特に美少女ゲーム界隈で大流行した。ヒロインを限界まで不幸な目に遭わせて、その悲惨な境遇に対する「可哀想」という同情心を「可愛い」という萌えに変換して楽しむ娯楽。本作はそういった時代の流れに忠実に則った作品である。その背景にあるのは、やはりオタク特有の自虐心をヒロインに投影した物なのだろうか。女子高生が楽しい毎日を過ごすだけの日常系アニメが栄華を誇っている現代からすると、萌えの形も様変わりした物だ。そのどちらが正しいかと問われると、双方に一長一短があって回答に窮すが、研究対象としては間違いなく面白いだろうから、誰か挑戦してみて欲しい。

・第六話


 本ブログでは、これまでダメなアニメのダメな脚本を何度も取り上げてきたが、特定の回だけをピックアップしたことはほとんどない。強いて言えば『けいおん!』の第九話ぐらいな物だろう。なぜなら、オムニバス形式ならともかく、長いストーリーの中の一話だけがおかしいということはあまり起こり得ず、一つ歯車が狂えば残り全てがダメになるのが常だからだ。だが、本作は明確にこの第六話だけがずば抜けて不出来という珍しい特徴を持っている。
 ダメ脚本の要因には様々があるだろうが、その中でも最大の物は「目の前で起こっている事象に対して、本来、普通の人間が取るべき行動を取らない」ことである。これに比べたら設定の矛盾や超展開など可愛い物だ。この第六話で言うと、部屋に入る時にノックをしない、秘密の研究を簡単に訪問客に教える、研究所で死体を発見してもうろたえない、都合良く記憶が飛ぶ、ケガの程度を忘れている、ルーシーを探して必死なはずなのに従妹といちゃつく、やっと見つけたルーシーの人格が交代していても気にしない、等々だ。主人公は殺人現場に出くわしたわけなのだから、その後の全ての行動が慎重であってしかるべきなのだ。登場人物にこういった特殊な行動をされると、視聴者の間に認識のズレが発生し、違和感が生まれてしまう。主人公を研究室に案内した助手の奇行は、元々そういう人間なのだろうと納得できなくもないが、主人公の奇行だけは絶対に納得できない。なぜなら、この回で強調しなければならないのは、敵の黒幕の非人道性なのだから。これでは、明らかに主人公の方が非人間的である。
 また、もう一つ気になるのが二重人格の扱い方だ。この回でルーシーはかつての暗い記憶を取り戻し、主人公の元から立ち去ろうとする。その時の彼女は元の厳しい人格である。だが、なぜか、純真な別人格でも記憶が蘇った風の描写がある。これでは二重人格にした意味が何もない。作劇のセオリーからすると、ルーシーがつらい記憶を封印するために自ら新しい純粋無垢な人格を作り出して、現実逃避したとしなければならないだろう。もちろん、元の人格は記憶を有したままなので、人格が変わる度に場に緊張が走る。しかし、純粋な人格が元の人格に徐々に影響を与え、彼女の心を成長させるとするのが筋だ。今のままでは、純粋な人格は視聴者に媚びるためだけに登場したようにしか見えず、設定の練り込みの甘さを感じざるを得ない。

・幸福論


 本作には二つのストーリーがある。一つはメインヒロインであるルーシーの物語だ。彼女はディクロニウスであるがゆえに、小さい頃は周囲の子供達から壮絶なイジメを受けていた。それゆえ、誰よりも人間を憎む気持ちを持っている。彼女にとって人間は鬼と変わらず、多くの人間を殺傷しているにも係らず、「今まで人を殺したことは一度もない」と豪語するほど。そんな彼女が過去に因縁のある主人公と再会することによって、徐々に人間らしい感情を獲得し、最後に二人は恋に落ちる。と、概略だけを挙げると感動的な物語に見えるが、残念ながら全体的に温い。主人公は優しい男だが、優しいだけで何も際立った行動はしていない。ルーシーのこれまでの過酷な人生を思うと、この程度のことで生き方を変えるとは考え難く、リアリティに欠ける。それでも、殺人鬼の少女が本物の愛情を獲得する過程は感動的ではある。
 もう一つは、ルーシーを抹殺するために送り込まれた最強のディクロニウス、通称「35番」の物語だ。彼女は生まれた時から隔離され、施設内に監禁されて育った。彼女の生きる希望は研究所の室長である父親に会うことだけ。だが、彼は娘を失った哀しさから、ディクロニウスの「7番」を自分の娘として洗脳し慈しんでいた。そして、最終回で三人は出会う。父親に愛される7番を見て動揺する35番。父親はそんな彼女を憂い、共に命を絶つことを決心する。そして、35番は父親の腕の中で幸せそうな表情を浮かべて天に召される。
 以上、いずれも「人ならざる者の幸せとは何か?」がテーマであり、そこだけを見ると人造人間の幸福論を描いた『GUNSLINGER GIRL』とほぼ同一である。本ブログでは『GUNSLINGER GIRL』の評価が高いので、当然、本作もそうなるかと言うと……難しいところだ。『GUNSLINGER GIRL』は、短い生涯を終えるはずだった少女達に仮初の余生と幸福感を与えることで、幸せとは何かを逆説的に我々自身に問いかける物語だった。一方、本作は壮絶極まりない人生を歩んできた少女達に恋愛や家族愛などの人間らしい感情を与え、人間とは如何に素晴らしい生き物であるかを訴える物語だ。だが、それはどうだろう。この手のテーマを訴えるには、本作はあまりにも誠実さに欠けるように感じる。もっと分かり易く言うと、メタ的な表現になるが、少女の四肢切断シーンを平気で放送できる人が、人間賛歌を訴えても何も説得力がないということである。制作スタッフのやっていることは、劇中の黒幕がやっていることと丸っきり同じであるため、テーマの正しさを証明しようと思えば、作品自体を否定するしかない。よって、お望み通りの結論にさせて頂く。

・総論


 グロが売りだが、それが作品の評価を下げている。だが、グロを取ってしまうと、ただ当時の流行に乗っかっただけの凡百の萌えアニメになる。要するに最初から詰んでいる。

星:★(-1個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
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