『中二病でも恋がしたい!』

中二病の権化。

公式サイト
中二病でも恋がしたい! - Wikipedia
中二病でも恋がしたい!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2012年。虎虎著のライトノベル『中二病でも恋がしたい!』のテレビアニメ化作品。全十二話+OVA。監督は石原立也。アニメーション制作は京都アニメーション。元中二病患者の主人公と現役中二病患者のヒロインが織り成す学園ラブコメ。原作は『第一回京都アニメーション大賞』の奨励賞の受賞作である。原作とアニメ版とでは大きく設定が異なるので、ここではあくまでアニメ版第一期全十二話に絞って見て行くことにする。

・中二病


 まず、皆が思っているであろうことに、あえてツッコミを入れさせて頂く。それは「中二病」という単語の定義についてである。この際、はっきりと言わせてもらうが、ネットスラングで言うところの中二病と本作が提唱するところの中二病は明らかに定義が異なっている。本作の意図しているのは、同じくネットスラングで言うところの「邪気眼」である。混同している人が非常に多くて哀しくなるが、本来、それら二つは全く異なる物である。具体例を挙げると「神なんかいねーよ、バーカwww」となるのが中二病で、「いや、私が神だ」となるのが邪気眼である。ただ同じ年代、同じ時期に発病し易いというだけで、例を見れば分かる通り、全く正反対の意味になることもある。もちろん、中二病を発症している人が自己表現の在り方の一つとして邪気眼持ちになることはあるが、邪気眼持ちだからと言って必ずしも中二病とは限らない。ちなみに、用語の提唱者であるタレントの伊集院光は、邪気眼のことを中二病ではなく「小二病」と称している。
 良い機会なので中二病とは何かを解説しておこう。劇中では「形成されていく自意識と夢見がちな幼児性が混ざり合って、おかしな行動を取ってしまうというアレ」と説明されているが、何の説明にもなっていないばかりか、明らかに自分達に都合良く曲解している。中二病とは肉体の成長と精神の成長、それらと社会的な役割の不一致によって発生する根拠のない万能感のことである。同一性が未発達であるがゆえに自己を過大評価し、「自分は特別な存在である」「他人と違う俺かっこいい」「今はダメでも本気を出せば凄い」とうそぶく。そのエネルギーがファンタジーに向かえば邪気眼になるし、目上の人間に向かえば反抗期になるだけだ。つまり、ほぼ全ての人が中二病的な物を発症すると言っても過言ではない。高校生ぐらいになって現実社会の仕組みに触れ始めると、「上には上がいる」ことを知って井の中の蛙から抜け出す。後になって中二病だった自分が恥ずかしく思うのは、ファンタジー世界に没入していたからではなく、そんな自分を特別に優れた人間だと勘違いしていたからだ。
 また、性質上、自分が中二病であると認識した時点で、その人はもう中二病ではないわけである。だが、本作は中高生向けのライトノベルを映像化した中高生向けの萌えアニメ。そこで中二病(邪気眼)を小馬鹿にしたネタを持ち出す理由が分からない。要するに、「自分達は中二病患者ではない選ばれた人間だ」と勝ち誇っているのだろうか。そうなると、本作自体が中二病の権化のような存在になる。ただし、作っているのはいい歳したおっさんおばさん達であり、どうにもオタク業界全体が歪んでいるようにしか思えない。
 どちらにしろ、タイトルに中二病と入っている以上、第二次性徴期の中学生の微妙な心理を描けているかどうかが最大の論点になる。言い換えると、世代論がテーマである。子供でも大人でもない中学生という特殊な年代をどう描くか、元来、アニメーションが得意としている分野だけに期待したい。

・序盤


 主人公はこの春、高校に入学した新一年生である。……は? え、中学生じゃないの? タイトルが中二病なのに? まぁ、それは後に回すとして、彼は元中二病(邪気眼)患者だったが、中学卒業を期に引退して真人間になり、いわゆる高校デビューを果たした。一方、ヒロインは高校一年になっても中二病(邪気眼)を引きずっている現役患者である。そんな二人がマンションのベランダで衝撃的な出会いを果たすところから物語が始まる。ただし、この出会いは、ほんの二分ほどの短いアバンタイトルであっさりと終了してしまう。印象的な演出など何もない。ボーイミーツガールにおける最も重要で、下手すれば第一話全てを消費してもいいぐらい大事なシーンをこんなに簡単に消化してしまうのは、何らかの深い演出意図があるのでなければ、監督はただの馬鹿である。
 こうして、元中二病患者と現役中二病患者という絶対に交わらない二人の物語が始まったわけだが、そんな複雑な設定に反してこれという大きなトラブルは何も起こらず、時間だけが淡々と過ぎていく。第二話に移るとすでに一週間が経過しており、主人公が「この真正中二病の扱いにも慣れてきた」という衝撃のコメントを発表する。第三話では早くも一ヶ月が経過し、ヒロインのことなど忘れたかのように新キャラクターが投入される。酷い。酷過ぎる。本作は腐ってもラブコメであるはずだ。一組の男女が恋に落ちる過程を第三者的視点で楽しむ物であるはずだ。それをこうも簡単に省略するとは、時間をかけて取った出汁を全て流し台に捨ててしまうに等しい。中二病患者のヒロインと適切なコミュニケーションを取り、信頼関係を築き上げるまでにどう考えても四・五話は必要なはずだ。せっかくの設定を物語に昇華せず、ギャグでしか使わないのならば、宝の持ち腐れというレベルではない。
 そして、同じく第三話では「部活作り」が行われる。あれ? 自分は別のアニメを見ていたのだろうか。「似ている」とか「どこかで見た」といった物を遥かに超えて、最早ただの「コピー」である。この作品に関わっている人間にプライドはないのだろうか。オリジナリティーの欠片もなく、他人が作った物を丸写しし、それで自分はクリエイターを名乗っているのである。よく、いわゆるテンプレ展開は、視聴者が望んでいるからそれに合わせているだけだという言い訳を聞くが、本作を見ればそんな言葉が大嘘であることがよく分かる。初期設定やイントロダクション部分はそれなりに奇抜で独創性もある。だが、話が進み始めるといきなり時間がワープして強引にテンプレ展開へ持って行く。要するに、そうしなければ「話が作れない」のである。想像力が貧困過ぎて、ストーリーを作るということができないのである。例えば、主人公がベッドの下に隠していたエロ本をヒロインが見つけて赤面するというテンプレシーンが出てくるが、このネット社会で今時、紙メディアのエロ本を購入している高校生がどこにいる? 新しく物を作るということはせず、既存の物を適当に切り貼りしているから、そんな現実離れした場面が出てくるのである。最早、恥を知れとしか言い様がない、それぐらい酷い導入部である。

・中盤


 第七話で突然、話がシリアスになる。つい先程までゆるい日常を過ごしていたにも係らず。このように、日常パートとシリアスパートが完全に解離しているのも、ダメなアニメの特徴である。優秀な作品はシリアスの中に笑いを織り交ぜたり、何気ない日常の中に重要なキーワードを忍ばせたりする物だが。それはそうと、そこでヒロインがなぜ中二病(邪気眼)に傾倒したのかが語られる。その理由は、病気で亡くなった父の死を受け入れられなかったから。小学生か! いくら何でもトラウマが幼過ぎないだろうか。中学生年代なら(ヒロインが中二病を発症したのは中学生の時)、母親の不倫が原因で両親が離婚し、引き取り手となった父親から虐待を受けていたが、実は彼とは血が繋がっておらず、本当の父親は母親の兄だったぐらいでもいいはずだ。この件に限らず、基本的に萌えゲーム・萌えアニメはヒロインを実年齢以上に幼児化させる傾向がある。高校生の設定のはずなのに、どう考えても幼稚園児にしか見えない言動をしたり、妙な趣味や妙な偏食を持っていたりする。これはもちろん、制作者が密かに抱えている女性コンプレックスの反動であるわけだ。同年代の女性と適切な関係を築けないから、絶対に自分に逆らわない目下の女性を相手にしている。本作でも、主人公は精神年齢の低いヒロインに対して「お前」「~してやる」と徹底的に上から目線である。で、最終的にヒロインを苦しみから解放してハッピーエンドといういつもの流れに収束する。
 とにかく、そういった理由で高校生になっても中二病(邪気眼)を続けているヒロインに対し、彼女の姉が批判する。「いつまでも子供みたいなことをやって。楽しいか?」と。そこへ主人公が登場し、三流萌えアニメにありがちな熱い啖呵を切る。「分かっているから、こうしている。逃げてるんじゃない。現実だと割り切りたくないから」と。だが、この青少年の主張は、特に物語に影響を与えることなく爽やかにスルーされる。当然だ。なぜなら、当の主人公自身は何一つ苦労をしていないのだから。彼は元中二病患者だが、無事に中二病を卒業して高校デビューした。だが、その際に直面するであろう現実という壁が全く描かれない。普通は高校デビューしたはいいが、バイトとバイクと女の話しかしないリア充な友人達に上手く溶け込めず苦労するという展開を入れるだろう。そういった容赦のない現実に翻弄されている主人公だからこそ、言葉に説得力が生まれるのである。だが、本作は他の萌えアニメと同様に主人公は置き物である。悩みも葛藤も何も描かれない。趣味はギャルゲー。これで酸いも甘いも噛み締めてきた大人を説得しようなどとは片腹痛い。
 また、主人公が高校で新しく作った友人の趣味はバンド活動である。ロックバンドなどまさに中二病の象徴のような物だ。彼本人もまさに男子中学生といったノリの持ち主で、ヒロイン並みに痛々しい。ここからも分かる通り、本作は舞台を中学校にして、小学生が中学生に進級する話にすれば全てが上手く収まるのである。しかし、制作者は頑強にここを高校と言い張る。これではまさに、自分達は同年代の人間より優れた大人だと錯覚する中二病の見本市ではないか。

・終盤


 『中二病でも恋がしたい!』……考えてみると変なタイトルである。「恋をする」のは、その人個人の感情の問題なのだから、肩書きが何であろうと勝手にすればいい話だ。別に、中二病だから恋愛禁止ということでもないし、むしろ、ファンタジー好きな女子中学生なら恋に憧れる物ではないか。これが「ドラマのような恋愛をしたい」や「素敵な彼氏が欲しい」なら少し勝手が違ってきて、確かに中二病では難しいところもあるかもしれないが……。
 さて、そんなこんなで気持ちが通じ合い、晴れて恋仲になった二人だったが、そこに中二病問題が圧し掛かる。最初はヒロインの中二病(邪気眼)に肯定的だった主人公も、彼女の母親が登場したことで心変わりし、二人を仲直りさせるためヒロインに現実へ帰るよう要求する。その言葉に素直に従いトレードマークの眼帯を外すヒロイン。だが、それ以来、彼女の様子がおかしくなる。ストーリー的に中二病を止めたヒロインが自分らしさを見失って元気をなくすという展開は理解できるのだが、この一連のシーンの演出はあまりにも恣意的で印象は良くない。現実と向き合って大人になるということを完全に否定的に描いているため、まるで最初から仕組まれた出来レースのようである。もう少しスマートに変化を見せられない物か。そして、最後は部屋に閉じ籠ったヒロインを主人公が助け出し、「中二病も悪くない」という結論で締めくくる。
 さて、どうだろう。こうやってストーリーだけ書き出してみると、それなりにまとまっているように見える。しかし、実際に一つの作品として見ると、まとまっていないどころか根本的に無茶苦茶である。その理由は明白だ。なぜなら、中二病(邪気眼)の対極に位置する「現実」を何一つ描いてないからである。何より登場人物に悪人が全く出て来ない。クラスメイトも学校の先生も皆いい人ばかりで、ヒロインの邪気眼に対しても基本「放置」である。明らかにモラルに反している眼帯を問題視する人もいない。そんな生温い「現実」を描いておいて、「現実はとても厳しい物だから、緊急避難としての中二病も悪くない」などと結論付けても何の物語にもならない。この物語を成立させたければ、中二病のヒロインがクラスメイトからイジメにあったり、主人公が周囲に溶け込むために自分を偽ったりするシーンは絶対に必要なはずだ。
 なぜ、こんな壊滅的なことになっているかを今更説明するまでもないと思うが、要は何も考えず「ゆるい日常系」のフォーマットを流用しているからに他ならない。何の敵もいない閉鎖空間で誰にも邪魔されず自由に遊ぶ。それが家や部活内だけに限定されるならまだいいのだが、本作はクラス・学校にまで広がっているから問題なのである。学校は社会の縮図のはずだ。そこで社会勉強をして世に出て行く修行場のはずだ。それを放棄して自我に閉じ籠っているから、いつまで立っても精神的に未熟なのである。それを「中二病」と呼ぶのであり、本作はまさに中二病の権化のような作品である。

・総論


 さすが、信頼と実績の京アニブランド。期待を裏切らぬ出来栄えに大満足です。

星:★★★★★★★★(-8個)
関連記事
スポンサーサイト
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 11:27 |  ★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑
twitter
検索フォーム
最新記事

全記事一覧
評価別一覧
年代別一覧
掲示板
カテゴリ
リンク
カウンター
RSSリンクの表示



にほんブログ村
PR1
PR2