『琴浦さん』

出オチ。

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・はじめに


 2013年。えのきづ著の漫画『琴浦さん漫画』『がんばれ琴浦さん!』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は太田雅彦。アニメーション制作はAIC Classic。他人の心が読めてしまう能力を持った女子高生が、ある男子高生との出会いがきっかけで笑顔を取り戻すファンタジー青春ラブコメ。制作会社は違うが、テレビアニメ『みつどもえ』『ゆるゆり』とほぼ同じスタッフによる作品であるため、多くの人が既視感を覚えるだろう。

・第一話


 主人公は、他人の心が無意識に読めてしまう俗に言う「サトリ」能力の保持者。そのせいで小さい頃から人間関係のトラブルを繰り返し、学校や社会でも次第に孤立して行った。そんな彼女の養育に憔悴した両親も離れてしまい、本当の独りぼっちになった主人公は心を閉ざす。自らサトリ能力を誇示して他人との関係を断ち、抜け殻のような生活を送っていたが、転校先のクラスで隣の席になった真鍋義久と出会った瞬間、彼女の人生は一変する。彼は主人公の特殊能力を素直に受け入れ、普通の友達になってくれた。こうして、彼女のどん底だった生涯に光が指すのだった。
 サトリ能力とはこれまた懐かしいネタを持ち出してきた物だが、この第一話の一連のストーリーは非常によくできている。主人公の半生を出生から高校まで丹念に描いて行くのだが、サトリ能力によって対人関係にどのような軋轢が発生し、その影響で主人公の人格がどう形成されて行ったかが実によく分かる。彼女にとって他人の心が読めるのは当たり前のことなので、それが善なのか悪なのかも分からない。そのため、他人が隠している本心を安易に暴いてしまい、結果的に対立を引き起こして孤立してしまう。もし、サトリ能力者が実際にいたらどうなるかというシミュレーションが適切に為されており、話に説得力がある。また、演出面でも面白い試みをしており、主人公が孤立を深めるごとに画面が暗く沈み、最終的には暗黒に包まれる。だが、真鍋義久と出会った瞬間、ガラスが割れるエフェクトと共に一気に画面が晴れ渡る。極めてベタな演出であるが、ベタなだけあって心に強く訴えかける物がある。おそらく、実写作品で同じことをやると「何をやっているんだ」と馬鹿にされるだろうが、アニメーションだと違和感なくよく馴染む。この辺りは、アニメ作品における新しい演出の可能性が感じられて気持ちいい。
 ただ、シナリオ的には数点、要領を得ない箇所があり、確かに幼少の頃はサトリ能力の善悪が分からないだろうが、ある程度年齢を重ねると分別が付き、自分から能力を隠そうとするだろう。そうなると見た目は普通の人と同じなのだから、何も孤立する必要はない。だが、本作はその間の出来事は全て省略されており、「やさぐれた主人公が自らサトリ能力を誇示して孤立した」という扱いになっている。この辺りの流れがやや強引である。これはつまり、主人公は人の心の醜さに絶望したということであり、当然、それを全十二話かけて解消していくのが本作のメインテーマになるため、ここに注目して見て行かなければならない。

・構成


 ところが、第二話に入ると本作はいきなり迷走を始める。その時、主人公と真鍋はすでにいい雰囲気になっており、誰がどう見ても普通の恋人同士である。そこに現れた恋のライバルとのいざこざの末に真鍋が主人公に「好きだ」と告白する。え、最終回? 続いての第三話、ライバルの放った刺客により真鍋がケガをしてしまう。それを知った主人公は、自分がいると皆が不幸になると考えて失踪する。え、最終回? そして、第四話、主人公の実家で再会した二人は、気持ちを通じ合わせて愛を深める。え、最終回? このように良く言えば濃密な、悪く言えば後先のことを全く考えない無茶苦茶な詰め込みっぷりが本作のストーリー構成の特徴である。マラソンで例えるなら、最初の一キロでいきなり全力疾走するような物だ。本来なら全十二話かけて行うようなことをたった四話で消化してしまうため、とにかく話の展開が早い。そのスピーディーな展開に追い付くため、かなり強引な手を使ってキャラクターを動かしている。例を挙げると、ライバルが主人公の実家に辿り着けた理由は、「探偵に探してもらったから」だ。まるで小学生の妄想レベルの脚本に失笑を禁じ得ない。もう少し、丁寧に作る気はなかったのだろうか。
 第五話~第七話は、これと言って物語のないいわゆる「日常回」である。最初の四話であれほどペース配分も考えずに飛ばしたら、当然こうなる。これらの回で問題なのは、主人公のサトリ能力がまるで意味を為さないことである。ストーリー的にほとんど無価値なため、主人公がただ単に「内気でネガティブな人間」になっている。第一話の高度な演出は何だったのか。はっきり言って、全く見る必要のない蛇足回であるが、日常系アニメが好きな方々からすると、むしろシリアス回の方が不必要なのだろう。そういった人々のためにこういう構成になっていると考えると、深夜アニメがなぜダメになるのかがよく分かる。
 第八話以降は本作のクライマックスだが、やっていることは何と「サトリ能力を使った通り魔事件の犯人探し」である。他にやりようはなかったのか。確かに、サトリ能力を皆に認めてもらい、自分を受け入れてもらうことが主人公の目標の一つであるが、こんな便利ツールのような使い方ではたして目標達成と言えるのかどうか。しかも、話のオチは「犯人は二重人格だったため、サトリ能力は何の意味もなかった」である。じゃあ、このエピソード自体が要らないだろうと。それとも何だ、人間の心の闇はサトリ能力者でも覗けないほど深いということで、如何に人間が愚かであるかを描こうとしているのだろうか。本作のメインテーマは一体何なのか。

・欠陥1


 上記のように、本作はストーリー構成に大いなる欠点を抱えているが、それとは比べ物にならない致命的な欠陥がもう一つ存在する。ただし、作品テーマの根底に係る物であり、一言で説明できるような代物ではないので、多少長くなるがご容赦願いたい。
 まず、本作のメインテーマは何であるかを再確認しよう。主人公は他人の心が読めてしまうサトリ能力の保持者。そのため、他人の隠している本心が見えてしまい、無用なトラブルを起こさぬよう心を閉ざして生きていた。だが、クラスメイトの真鍋義久だけは、常にエロスな妄想に満ち溢れている本物の馬鹿だったため、思考に裏表がなく、主人公は彼に対してだけは心を開くことができた、という話である。ここで最も重要なのは何かと言うと、真鍋が「常にエロスな妄想に満ち溢れている本物の馬鹿」であることだ。表向きと裏向きとで考えていることが全く同じという希少な人間なので、サトリ能力者が心を覗いても支障がない。これが本作における最大のギミックである。ところが、実際はどうかと言うと、真鍋は常に主人公のことを心配して気遣っている正真正銘本物の「優しい男」である。そして、なぜ主人公に対して優しいかと言うと、彼女のことが「好きだから」である。違うだろう。そういう話ではないだろう。さらに言うと、なぜ彼女のことが好きなのかに対する具体的な理由がないのに、第二話の時点で二人は両想いになっている。そのため、上記の初期設定はどこかへ追いやられ、ただの凡庸なラブコメと化しているのである。
 そのエロス妄想に関する要素もおかしい。設定上では、彼はサトリ能力者すら心を許すほどエロスに支配された人間「エロスの貴公子」ということになっている。言い換えると、彼はこの世に二人といないオンリーワンな人間である。だが、劇中の描写を見る限り、とてもじゃないがそうは思えない。妄想は幼稚でオタクっぽく、これと言う特殊性もない。女性の淫らな妄想をするのは男子高校生なら当たり前のことである。また、主人公が風邪を引いたりショックを受けたりした時、二人きりになっていいムードが流れるのだが、彼は主人公のことを気遣って逃げ出してしまう。つまり、非常に良識のある奥手な人物ということで、その時点で一般の男子高校生以下である。高校一年生ならすでに性行為を経験済みの人間も少なくない。それゆえ、明らかに設定と矛盾しているのである。
 もし、このギミックをストーリーに用いたいのなら、二人が恋人になるのは最終回にしなければならない。それまでは、真鍋のお馬鹿な行動に主人公が散々振り回される展開になる。最初は鬱陶しく思っていたが、彼といる時だけは素直に本当の自分をさらけ出せていることに気付いて恋に落ちる、こういったストーリーになるだろう。要するに、第一話で描いたことを全十二話かけて少しずつ丹念に描くのが作品としての正しい在り方であり、今のままではただの出オチと言われても否定できまい。

・欠陥2


 今度はもう少し面倒臭い話をしよう。それは「サトリ能力の何が問題なのか」である。もちろん、その答えは「無断で本心を読まれたくないから」だ。言わずもがな、人間は社会生活を営むために表に出している顔と裏に隠している顔とを巧みに使い分けている。なぜ、そのようなことをするかと言うと、ただ一つ「保身」のためである。誰が敵になるかも分からない実社会で自分の身を護ろうと思えば、結果的に気持ちを覆い隠して嘘を付かざるを得ない状況も出てこよう。もちろん、それ自体に善悪の区別はない。皆、付きたくて付いた嘘ではない。だが、サトリ能力を持つ主人公のジャッジだと、それは明らかに「悪」なのである。だからこそ、彼女はクラスメイトとの交流を拒否して、自ら孤立への道を選んだわけである。
 一方、主人公は自分の属するESP研究会のメンバーに対してだけは心を開いている。彼らは別に根っからの善人ではない。主人公に近付いたのは、超能力の実在を世に知らしめて自分達を認めさせるためだし、彼らの思考が読める主人公もそのことに十分気付いている。一般的な倫理観だとそれは「悪」になろう。だが、主人公ジャッジでは、それは「善」なのである。彼女にとって表と裏で顔を使い分けず、本心をさらけ出して生きている人こそが好ましく、心から信用できる「友達」である。同じ「保身」であるにも係らずだ。要するに、「利害の一致」ということであり、全ての判断基準は自分にとって有益であるか否かである。
 さて、そんな主人公は最終話でラスボスである自分の母親と対決する。彼女はかつて主人公の育児を放棄し、拭うことのできないトラウマを植え付けた人物。では、彼女は「善」なのだろうか「悪」なのだろうか。主人公ジャッジで言うと、彼女は主人公に害をもたらしているのだから「悪」であるが、その一方で彼女は自分の中の正義感に基づいて心をさらけ出して生きているのだから「善」でもある。しかし、物語的には「悪」だったラスボスが内なる正義に気付いて「善」にならなければならない。そんなことが可能なのか? もちろん不可能なので、制作スタッフはとんでもなくアクロバティックなトリックを用意し、無理やり話をこじつけている。それが、主人公曰く「私は本当に子供だった。上っ面の心だけ読んで、お母様の本当の心を分かろうともしなかった」である。何と、サトリ能力は自由意志で威力を増減できる物らしい。何だそりゃ! こんなご都合主義的な後付け設定が許されるなら、人間の本心を丁寧に描く必要などない。はっきり言って、無茶苦茶である。今まで付き合ってきた視聴者の顔に泥を塗る行為である。
 結局、サトリ能力を通じて人間の深い心理を描こうとしたのだが、当の本人に深層心理に対する深い知見がなかったため、ひどく散漫で取り留めのないゴチャゴチャした作品になってしまっている。まず、自分達はこの作品を通じて何を訴えたいのか、性善説なのか性悪説なのか、それを決めてから話を構築しないと、サトリ能力設定が宙に浮いてしまうだろう。

・総論


 思い付いたアイデアを全て第一話に詰め込んでみた結果、残りがただの出涸らしとなってしまった哀しい作品。ストーリー構成次第で名作になる可能性があっただけに、この結果は非常に惜しまれる。

星:☆(1個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 20:53 |   |   |   |  page top ↑
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