『はぐれ勇者の鬼畜美学』

ダンディズム。

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はぐれ勇者の鬼畜美学 - Wikipedia
はぐれ勇者の鬼畜美学とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2012年。上栖綴人著のライトノベル『はぐれ勇者の鬼畜美学』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は久城りおん。アニメーション制作はアームス。魔王を倒して勇者となった少年が現実世界に帰還して騒動を起こす学園バトルファンタジー。鬼畜美学と書いてエステティカ(イタリア語で耽美・美学の意)と読む。全体を通して作画が悪く、ポルノ紛いの性的要素が満載の典型的なライトノベル原作アニメだが、まぁ、そこを問題にしても仕方ない。

・後日談


 本作のコンセプトは「異世界に召喚されて勇者となった人間が、その能力を持ったまま現実世界に帰還するとどうなるか?」である。なるほど、確かに興味深い。勇者や魔王の定義はよく分からないが、仮にその架空の存在が現実世界でも同等の能力を発揮できるとすれば、その力は間違いなく一つの軍隊に匹敵するだろう。そうなると、彼は普通の人間として普通の生活を送れるはずがなく、必ず何らかのワールドワイドなトラブルに巻き込まれ、結果的に様々なドラマが発生するであろうというのは想像に難くない。ただし、それはあくまで王道ファンタジーの「後日談」としての興味深さである。一方、本作はコンセプトに忠実であるがあまり、勇者が異世界に召喚されて修行の果てに魔王を倒すという一連の件を全編カットし、いきなり後日談から始まるように構成している。すると、どうなるか。それは、いわゆる物語の最初から最強の「チート主人公」と全く同じ物と化すということである。つまり、成長という要素が一切省かれ、強者が弱者をいたぶるだけの単純な話になってしまう。もっとも、世に蔓延するチート主人公には「なぜ強いのか」の根拠が欠けている物が多いため、ある程度の設定的根拠があるだけ本作はましとも言えよう。王道ファンタジーのパロディーであるがゆえに、劇中では描かれなくとも、その力を得るために長く苦しい修行があったのだろうと想像はできる。そう考えると、決して悪いとは言い切れない。
 もちろん、問題点も存在し、それは勇者になる前の主人公の人となりがよく分からないということである。本作の主人公は非常に「鬼畜」な人間であり、モラルから逸脱した行為を平気で行う。束縛されることを何よりも嫌い、どのような権力者の圧力にも屈しない。異世界にいた時も、上の命令には素直に従わない「はぐれ勇者」だった。だが、なぜ彼がそういったアナーキーな性格になったのか、成長の過程が省略されているせいでさっぱり分からない。異世界に来る前からそんな性格だったのか、異世界に来て力を得たからそんな性格になったのか、細かいようだがこれは大きな違いである。もし、後者だとするなら、力を奪われた瞬間、彼は自説を曲げて強者に媚びへつらうようになるということだ。そんな主人公は見たくないし、伝説の勇者でもない。力を持っているから勇者なのではなく、いつ如何なる状況においても勇気を失わない者だから勇者なのである。そういう意味では、やはり純粋なチート主人公は良いとは言い難い。少なくとも、回想シーンや過去語りである程度のフォローをしておくべきだろう。

・設定


 近年、十代の少年少女が突然異世界に召喚され、特殊能力を得て現実世界に帰還するという事件が多発していた。そこで、国連は超国家の帰還者管理組織「コクーン」を設立し、「バベル機関」という名の教育施設において彼らを保護・管理しようとした。帰還者は全員がそこへ強制的に収容され、高度な教育を受けると共に戦闘訓練が施される。目的は何らかのテロや紛争が発生した時に、彼らを優秀な尖兵として派遣するため。しかし、真の目的はコクーンが世界を支配することだった。一方、異世界で勇者として魔王を倒した主人公も、帰還後、直ちにバベル機関に収容される。そこでも異世界にいる時のように自由に振る舞う主人公に対して、学園の秩序を守ろうとする生徒会が対決を挑む……。
 うーん……いや、上記の作品コンセプト同様、決してそれ自体は悪くはない。特殊能力を持った帰還者が地球上に続出したら、当然、世界的な大問題になるだろうし、彼らを管理するための超国家機関が作られるのも少なからず理解できる。世の中には能力者を放置しているアニメ(例『ビビッドレッド・オペレーション』)や、なぜか日本国内だけで大騒ぎになっているアニメ(例『Charlotte』)は幾らでもあるのだから、それらと比べるとリアリティは雲泥の差がある。ただ、「バベル機関」の方はどうなのだろう。十代の帰還者を強制的に収容する教育機関、こんな物は名目がどうとか関係なく、誰の目にも明らかな「隔離施設」である。十代の若者はおろか、小学生でもおかしいと感じる代物だ。ところが、これに対して疑問を呈する人間が劇中に全く出て来ない。普通の生徒は当たり前のように学園生活を満喫しているし、生徒会に至ってはなぜか体制の犬となって生徒を自らの手で管理しようとする。突然、異世界に飛ばされて家族と離れ離れになり、命懸けで力を手に入れ、ようやく現実世界に戻って来られたと思ったら、否応なく隔離施設に収容されてしまった自分自身の数奇な運命に対する悲しみという物が全く伝わって来ない。唯一、物語の終盤に出てくる主人公の敵だけが「これ、おかしいだろ」とツッコみ、主人公が「俺も最初からそう思っていた」と答えるという何ともアホらしいコントみたいな展開があるが、そんな大事なことは第一話で言えということだ。
 結局、本作も「学園物」という呪縛に捕らわれているのかもしれない。学園を舞台にしようと思ったら、そこでの生活がそれなりに楽しくなければ話が進まない。いくら学園と名が付いていても、重苦しい隔離施設では視聴者を満足させられないのだ。なら、学園物にしなければいいんじゃねということなのだが、それはこれであれで、きっと止むに止まれぬ事情があるのだろう。売り上げとか。

・モラル


 魔王を倒して現実世界へと帰ってきた主人公には、一人の同伴者がいた。それが「魔王の娘」である。魔王が主人公に討たれた時、当の魔王本人が娘の将来を悲嘆して、後見人の役割を主人公に託した。彼もそれを了承し、現実世界へと連れてきた。魔族がどういった繋がりを持つ集団なのか分からないのでコメントは難しいが、おそらく魔王の娘は魔族の政治とは無関係だったのだろう。そういった民間人を保護するのは、ヒューマニズム的観点から言うと当然である。ただし、このヒューマニズムの定義はその土地その土地によって異なるため、余所者が勝手に現代的感覚を持ち込むのは得策ではない。それゆえ、彼の行動はあくまで勇者としての正道から逸脱して、己の感情を優先した「はぐれ勇者」の所業であると認識しなければならない。
 中盤以降、一人の敵が物語に登場する。彼もまた主人公と同じように異世界に召喚されて力を得た人間であり、所属する異世界の王の命令を受けて、現実世界まで魔王の娘を探しに来た。彼はファンダメンタリストであり、魔王の娘の存在は異世界の秩序を乱すだけだと本気で信じている。そのため、自らを「真の勇者」だと自称する。そんな敵から魔王の娘を守る「はぐれ勇者」の主人公。そう、本作の特徴は善悪の価値観が敵と味方で完全に逆転していることである。もちろん、どちらが正しいなどという模範解答はない。だから、作者は自分が正しいと思った方向への大まかな道筋だけを示せばよい。そこで、本作は「勇者」という概念を上手く使うことによって、その価値観を説明している。勇者とただの英雄は違う。勇者とは魔王に認められた者。魔王が自らの命を懸けて戦うと決めた相手、それが勇者。つまり、正義とは悪のアンチテーゼに過ぎず、個人が決定する物ではないというのが作者の考えだ。なるほど、確かに筋は通っている。もちろん、魔王の定義など言葉足らずな部分は多いが、学園ファンタジーアニメでこれだけ示せたら十分だろう。
 ただ、その素晴らしいお題目を物語に消化できないのが、ライトノベル原作アニメの悪いところ。勇者の定義が明かされるのは第十一話、これが第一話の段階で語られていれば、どれほど良い伏線になっていただろうか。他にも、魔王の娘は初めて見る現実世界の科学文明にもっと驚き戸惑ってもいいだろうし、バベル機関の非人道性を魔族の観点から批判してもいい。また、異世界に召喚される前の敵の素性が主人公と同じくよく分からないのももったいない。例えば、召喚される前は社会に虐げられる側の人間だったなどとすれば、彼の言葉により深みが出ただろう。せっかく良い設定を作り出したのだから、それをもっと活かした作品作りを心掛けてもらいたい。

・ダンディズム


 さて、一口にチート主人公と言っても、その中身はピンからキリまである。例えば、時代劇の主人公などは典型的なチート主人公だ。特に設定的根拠もないまま、超人的な太刀さばきで悪人をバッサバッサと切り捨てる。冷静に考えるとかなり異様な光景であるが、それを問題視する人はほとんどいない。なぜかと言うと、ヒエラルキーが確立した封建社会において、お上の悪行に逆らおうと思えば、完全無欠のスーパーヒーローでもなければ到底不可能だからだ。つまり、しっかりとした「目的」さえあれば、チートでも何でもいいのである。
 では、本作の目的とは何か。それこそ、タイトルが示している通り「はぐれ勇者の鬼畜美学」である。美学、すなわち男の生き様やかっこよさ。どれほどの強大な権力にも屈せず、社会の常識や決まり事を無視して自分の生き方を貫き、強者を倒して弱者を助けるという男の中の男の美学を達成するためには、人並み外れた力が必要になる。そのためのチート能力である。確かに、本作の設定には甘い部分がある。主人公の使う「錬環勁氣功」があまりにも万能過ぎて、中学二年生でも恥ずかしさを覚えるような能力になってしまっている。劇中で行われるセクハラ行為の数々は、中年エロ親父のくだらない妄想にしか見えない。ただ、本作が描こうとしている男のかっこよさ、ダンディズムは決して間違ってはいない。「女の涙は見過ごせない」という主人公の人生哲学は最初から最後まで一貫しており、実際、彼の行動にもブレがない。それは非常に大切なことである。どんなに小奇麗な作品を作ろうとも、作り手の思想に一貫性がなければ心には響かない。むしろ、ある程度の大衆性を犠牲にしてでも自分の意見を押し通すということも、クリエイターには必要なのだろう。
 このように、本作は良い面と悪い面が非常にはっきりとした作品である。本作が訴えようとしているダンディズムや善悪の価値観は普遍的な物があるし、個々の人物の感情描写も悪くない。一方、悪い面は詰めの甘い設定や言葉足らずな脚本、低品質な作画、そして、下劣な演出ということになる。そう考えると、非常にもったいない作品だと言うことができる。例えば、ラスト三話だけを見れば本作は評価されるだろうが、意図的とは言え、そこに至るまでの過程を省略してしまっては何も残らない。しかるべき人間がしかるべき手段で真面目に作っていれば、本作は名作になる可能性が十分にあった。もっとも、その小さな差が非常に大きいのだろうが。

・総論


 良い面と悪い面を天秤にかけたら、ギリギリ良い面が勝つかなという程度。クソアニメと断じてしまうのは気が引けるが、絶対に他人にはお勧めしない。

星:☆(1個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:55 |   |   |   |  page top ↑
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