『GUNSLINGER GIRL』

幸福論。

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GUNSLINGER GIRL - Wikipedia
GUNSLINGER GIRLとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2003年。相田裕著の漫画『GUNSLINGER GIRL』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は浅香守生。アニメーション制作はマッドハウス。テロ鎮圧用に強化された「義体」の少女と、彼女達に罪悪感を覚えながら復讐の道具として使用する担当官の男性による悲哀に満ちたハードボイルドストーリー。徹底してリアリティにこだわった社会描写と手抜きのない暴力描写、そして、それらと対称的な義体の少女達の可愛らしさが多くのファンを獲得した。

・非人道設定


 原作者も認めている通り、著しく非人道的な設定である。少なくとも、萌えアニメと呼ばれているジャンルの中ではトップレベルの悪辣さだ。逆に言うと、萌えアニメというカモフラージュがなければ、テレビで放送することすらできなかっただろう。それぐらい本作は先鋭化した作品である。
 舞台は近未来のイタリア、五共和国派と呼ばれる北部の分離独立を掲げたテロリストに対抗するため、政府は社会福祉公社という組織を設立した。その公社では、何らかの不幸に見舞われた子供を戦闘用アンドロイド「義体」に改造し、対テロ用の人間兵器として使用していた。義体は肉体を強化されたばかりではなく、記憶の全消去及び「条件付け」と称する洗脳が施され、担当官こと「フラテッロ(兄弟の意)」に対する恋愛感情にも似た絶対服従の意志を植え付けられている。ただし、薬物の過剰摂取などが原因で、義体の寿命は非常に短いだろうと予想されている。
 以上が本作の設定である。子供を殺人マシーンとして使用するという物語は、映画では間違いなく倫理規定に引っかかる。良くてR指定、悪くて上映禁止だ、もちろん、あえてそういった設定にすることで描ける物も存在するのだが、設定が設定だけに否定的な感情を抱く人も多いだろう。そのため、ここではそういった批判に背を向けることなく、「賛否両論がある」という前提で内容を見て行くことにする。

・義体


 穿った見方でも何でもなく、この義体うんぬんは後付け設定である。原作の掲載誌の性質を考えても、まず否定する者はいないだろう。当然、年端の行かない小さな少女に大きな銃を持たせて、銃弾の飛び交う戦場で戦わせるというビジュアル的なギャップの面白さを狙った動機が先にあり、それを設定的に補強する科学考証が義体である。確かに、可愛らしい義体達が屈強なテロリストへ果敢に立ち向かっていく姿は、普通のハードボイルド物では味わえない魅力がある。そこに「萌え」を見出す視聴者も多いだろう。だが、同時にそんな視聴者に対して、生理的な嫌悪感を覚える人が少なからず存在することも頷ける。
 そういった批判を打ち消す役割が後付け設定である。義体の被験者となった少女達は皆、死ぬはずだった人間だ。事件や事故、病気の被害者で、社会福祉公社に助けられなければ、子供のまま短い人生を終えていただろう。当然、女性らしい喜びや悲しみを何も知ることなく亡くなっていたはずだ。もちろん、そこには「死んだ人間なら何をしてもいいのか?」という疑問が生じるが、それこそが実は本作のメインテーマである。つまり、「幸せとは何か?」である。

・条件付け


 義体には「条件付け」と称して洗脳が掛けられている。ちなみに、条件付けとは心理学用語でいわゆる「パブロフの犬」のことを指し、厳密には洗脳とは異なる物であるが、あえて誤用することで公社の非人道性を浮き立たせている。その条件付けの本懐は担当官への絶対的服従であり、彼女達は担当官の身を守るためなら命を投げ出さなければならないと教え込まれている。特定の異性に対する利他的な行動、それはある意味、恋愛感情と同義だ。そのため、義体達、特にメインヒロインのヘンリエッタは、明確に担当官へ向けて深い愛情を注いでいる。そして、人を愛することに喜びを見出している。
 さて、これはどう解釈すればいいだろう。彼女の恋愛感情は明らかに人為的に埋め付けられたものである。しかし、現在、ヘンリエッタが幸せを感じているのも事実である。これが単純な萌えアニメならば、その愛情を素直に受け入れればいい。視聴者を楽しませるためだけに存在する萌えキャラは、愛情をインプットされた義体と大して変わらない。だが、本作の主人公たる担当官のジョゼは思い悩む。義体を復讐の道具としつつ、義体の優しい兄を演じている自分。そして、義体の寿命がそう長くないことも知っている。それは人としての当たり前の葛藤……。

・ストーリー


 さて、本題に入る前に、ここで遅ればせながら本作のストーリーを紹介しよう。第一話~第五話と第八話はキャラ紹介回である。義体という存在の哀しみを描いているが、これと言って珍しい物語ではない。続く、第六話と第七話は中盤の一話完結型エピソード。そして、第九話~第十一話が俗にエルザ回と言われる本作のアンチテーゼとなる物語だ。
 ある日、義体のエルザとその担当官が死亡する。無敵であるはずの義体があっさりと倒された原因が分からない。しかし、ヘンリエッタがその理由を容易く言い当てる。エルザが担当官を愛するがあまり、その想いを果せないことに対する無理心中だったと。これは単純に愛憎を描いた話ではない。義体達は、偽物の愛情を植え付けられると同時に、絶対に担当官を傷付けてはならないと教えられる。だが、彼女はそんな厳しい条件付けを打ち破ってまで愛を貫いて見せた。なぜか? それは愛が伝わらないということは、これ以上ないほど不幸なことだからだ。ならば、いっそ自殺というもう一つの不幸を選んだ方がまし。つまり、彼女を動かしたのはただ一点、自らの幸福のためである。

・幸せとは


 幸せとは何だろうか? こういう抽象的な命題に取り組む時、よく引き合いに出されるのが「幸福と幸福感の違い」だ。幸福か不幸かは、その人の現在の状況によって大きく左右される。だが、幸福感はいつでもどこでも味わうことができる。たとえ、自身の置かれた境遇が不幸であっても、何らかの要因で幸福感を得ることさえできれば、その人は不幸なのに幸福を感じる。逆に、つらい仕事の後の一杯が格別に美味しいように、現状が不幸であればあるほど幸福感は強く感じるものだ。そして、それこそが本作のメインテーマである。
 彼女達は公社によって短い命を与えられ、偽りの幸福感を植え付けられる。それでは、彼女達は不幸だということだろうか。いや、そうではない。間違いなく「幸福」である。なぜなら、彼女達の姿は我々人間の姿だからだ。我々の人生も義体の人生も大して変わりはない。心から充実した人生を送っている人はこの世にどれだけいるだろう。もし、自分は義体よりも幸せだと言う人がいれば、それは大きな「エゴ」である。
 最終回、一つの大きな仕事をやり終えた彼女達は集まって夜空を見上げる。ベートーベンの第九『歓喜の歌』を歌いながら、彼女達は流星群に何を願ったのだろうか。

・総論


 非人道的な設定のため、反感が生まれるのは当然である。低俗な萌えのために子供を殺しの道具に使っていると批判されても反論することはできない。ただ、だからと言って、それがすなわち本作の評価を下げることには繋がらない。なぜなら、理不尽な設定から逃げることなく真正面に向き合い、「幸せとは何か」を我々にしっかりと問いかけているからだ。こういった作品をちゃんと評価しないと、アニメ業界に未来はない。

星:☆☆☆☆☆☆☆☆(8個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
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