『けいおん!』

物語が成立していない。

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けいおん! - Wikipedia
けいおん!とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2009年。かきふらい著の四コマ漫画『けいおん!』のテレビアニメ化作品。全十二話+番外編二話。監督は山田尚子。アニメーション制作は京都アニメーション。バンド活動に青春を懸ける女子高生達のゆるい日常を描く。この年、オタク業界に一大ブームを巻き起こした自称「社会現象」アニメである。

・軽い音楽


 はっきり言って酷い。世の中には、物語が狂っているアニメ(例:機動戦士ガンダム00セカンドシーズン)や、そもそも物語が存在しないアニメ(例:あずまんが大王)は多数存在するが、おそらく「物語が成立していないアニメ」はこれぐらいな物であろう。よく、ダメ脚本を批判する時に「小学生の作文レベル」という蔑称を使うことがあるが、この作品は話の本筋が繋がっていないのだから、それ以下である。言ってみれば、寝言やうわ言に近い。
 冒頭、天然ボケの主人公が「軽音って軽い音楽のことかと思っていた」と言って軽音部に入部するところから物語がスタートする。ここで言う「軽い音楽」とは、公式サイトによるとカスタネットや口笛のことを指すそうだが、まず、このネタの意図するところが分からない。「演奏が簡単で軽い気持ちで始められる音楽」という意味だろうが、それを軽い音楽と略すのは世界広しと言えど彼女だけだろう。では、ロックやクラシックは重い音楽なのか? ルールが単純なサッカーは軽いスポーツなのか? まぁ、それは置いておいて、仮にこのギャグを成立させようと思ったら、当然、物語は「軽音って軽い音楽のことかと思っていたけど、実際はそうじゃなかった」と続かなければならない。考えるまでもなく常識である。作劇の基本である。ところが、だ。なぜか、本作は「軽音って軽い音楽のことかと思っていたけど、実際は軽い音楽のことだった」と続くのである。意味が分からない。物語がどうのこうの以前に日本語として間違っている。しかも、この「軽い~」という言葉は一種の誹謗・中傷表現に当たるため、これではただ単に軽音楽に対してケンカを売っているだけになってしまう。一体、制作スタッフは何を考えているのだろうか。
 では、なぜ、本作の物語がそのような壊滅的なことになっているのか、順を追って見て行くことにしよう。

・音楽嫌い


 本作の最大の特徴は、音楽アニメでありながら徹底して音楽を真面目に描くのを避けている点にある。二十五万円のギターを親のコネを使って五万円で購入するところから始まり、練習をしないで放課後ティータイム。音楽室を自由に占拠し(合唱部はどこに消えた?)、アンプも機材も使い放題。専門知識はほとんど出てこず、たまに出てきたら間違っている。ミュージシャンの名前の羅列。演奏シーンは一枚画。実際にギターを持っているのにエアギター。目標だけは大きく武道館ライブ。でも、初詣の願い事は他のこと……。いや、練習嫌いなのは別にいい。誰だって努力は苦痛だ。ところが、問題なのは、彼女達は練習以前に「音楽自体が嫌いなのではないか」と思わせる描写が多々あることだ。例えば、雑談している時に音楽の話題が出てこない。ティータイムの時に誰も楽器を持っていない。テスト勉強をする時に誰もバンドの心配をしない。そもそも、最も重要なはずの「バンドを始めた動機」が一切描かれないため、彼女達は何のために音楽活動をしているのかすら分からないのである。ただ、友達同士で駄弁るためだけの理由付けだとしたら、バンド活動も舐められた物だ。
 そんな作品全体に漂う不快感が最大限に高まるのが、伝説の第九話である。断言してもいいが、この第九話は長いアニメ史の中でも屈指の駄作回である。明らかに道徳的に間違ったことを訴えかけているという点において、放送禁止になってもおかしくないレベルだ。二年目の四月、中野梓という新入生が部員の演奏に感動して軽音部に入部する。だが、真面目に練習したいと訴える梓に対して、部員と顧問は彼女にコスプレを強要するなどして真っ向から申し出を拒否し、楽しいティータイムに興じる。落胆した梓は、部室を離れて街のライブハウスへ向かう。しかし、そこで見たバンドの演奏に何らかの強い不満を覚えた梓は、迷いを抱えながら軽音部に戻る。
 一見、王道の展開に見える。しかし、肝心の梓が他バンドに対して感じた「不満」が何なのか全く描かれないため、彼女が部に戻ってきた理由がさっぱり分からない。普通にライブ演奏をしていただけなのだが……。物語的に言って、本来ここですべき演出は、他バンドに対する軽音部の優位性を示すことである。だが、軽音部が梓にしたことは「練習を拒否して強制コスプレ」だけで、他バンドより優れている点など一切ない。このままだと、梓は不真面目さに対して憧れを抱いたことになるばかりか、他バンドの演奏を音楽的に否定したことで、「真面目に取り組むと感動的な演奏ができない」とまで言い切ってしまうことになる。もう、完全に人として間違っている。
 これは明らかに脚本のミスである。わざわざ指摘することすら恥ずかしいのだが、この回で描かなければならないシチュエーションは、楽しいティータイムではなく「楽しい練習」である。そして、それを他バンドの「厳しい練習」と比較して、初めて軽音部の優位性を強調できるのだ。コスプレとライブを比較する馬鹿がどこにいるのか。ドラマ制作の基本中の基本だが、制作スタッフは誰一人として疑問に思わなかったのだろうか。

・結果は完璧


 彼女達は音楽が嫌いで、部室で駄弁ることだけが楽しみ。ある意味、リアルな女子高生像なのかもしれない。例えば、漫画『行け!稲中卓球部』も、同じく卓球嫌いな主人公達が部室内で馬鹿騒ぎするだけの物語だ。それはそれで面白い。ただ、本作がそれらの作品と決定的に異なるのは、「結果だけは完璧」なことである。ろくに練習もしていないのに数ヶ月で楽器をマスターし、半年後にはオリジナル曲の作詞・作曲・編曲もしてしまう。秋の文化祭では、舞台上での演奏も大成功して拍手喝采(たった一曲だけだが)。しかも、即興弾き語りという高等テクニックまで披露している。一体全体、どのようにしてその技術を身に付けたのか、当たり前だが具体的な描写は何一つない。むしろ、なぜか練習不足であることだけは殊更に強調されている。監督はアホなのか。もっとも、「主人公は絶対音感の持ち主だから」で全て説明できると思っている時点で、当たらずも遠からずかもしれない。
 そして、最終回。いろいろあって駆け足で文化祭会場に向かう最中、主人公は中学時代の怠惰な自分を思い出してこう叫ぶ。「(軽音部が)大切な場所!」と。だから、どうした? 中学時代、自分の家でゴロゴロしていた人間が、高校に入学して部室でゴロゴロし、そこが自分の居場所なのは当たり前ではないか。まるで成長していない。例えば、昔はイジメられっ子だった人が音楽に可能性を見出したとか、もしくは逆にガチガチの「重い音楽」をやっていた人が軽音部で安らぎを見つけたとかなら、「ここが自分の居場所」を宣言するのは分かる。しかし、怠惰な人間が怠惰な日常を過ごしたところで、何の物語にもならないのは明らかだ。これも過程と結果が一致しないことによる弊害である。結局、制作スタッフはこのアニメを通じて何を訴えたかったのだろうか?
 このような「最初から最強」「過程がないのに結果だけは完璧」「世間が主人公をとことん甘やかす」現象は、昨今の創作物において共通に見られる問題で、映画界などでも同様に批判されている。アニメ界はもっと深刻で、特に中高生向けのライトノベル原作アニメなどでは、すでにスタンダード化してしまっている。確かに、努力するのは苦痛だし、修行シーンは見ていて面白い物ではない。だからと言って、全体的な話の流れを歪めてしまって良い物ではない。何の過程もないのに結末だけ大仰に描き、無理やり感動をさらったところで、それは物語ではなくただの宗教的な「洗脳」である。クリエイターとしての自負があるなら、ちゃんと基本に則った作品作りをして欲しい。

・ドラマツルギー


 ここで繰り返しになるが、「なぜ、物語が成立していないのか」をまとめてみよう。簡単に言うと、ストーリーの前半と後半で演出パターンが完全に逆転しているからである。前半は「陽→陰」、つまり、『タッチ』や『スラムダンク』のように、不真面目だった主人公が練習や試合を重ねるにつれて徐々にその対象の面白さに目覚め、真摯に取り組んでいくというパターンが取られている。冒頭の「軽い音楽」発言も音楽好きじゃないという描写も、全て後半で否定されるという前提があって初めて許される演出である。
 ところが、後半になると突然、演出パターンが「陰→陽」に変わる。つまり、『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』のように、真面目だった主人公が人々との交流を重ねる内に、徐々に笑顔を取り戻していくというパターンだ。ステージ上は華やかな場の象徴なので、ドラマ的にはこちらへ持ち込むのが王道ではある。だが、ここがおかしい。「陰→陽」パターンを成立させるためには、そこへ至る前に陰の部分をしっかりと描写しておかなければならない。にも係らず、前半は「陽→陰」パターンのため、陽の部分しか描かれていない。それゆえ、話の中心軸が「陽→陽」となり、物語として全く形を成していない物ができあがる。それが先に書いた「軽音って軽い音楽のことかと思っていたけど、実際は軽い音楽のことだった」の真相である。要するに、基本的なドラマツルギーが何一つできていないのであり、本作のシナリオに係った人間は全員、小学生の国語からやり直さなければならないだろう。
 このようにアニメの出来に関しては非常に残念な作品ではあるが、メインターゲットである中高生の「のんびり楽してヒーローになりたい」というニーズには上手く応えているため、結果的に大ヒットへと繋がった。似たような評価を受けた作品が映画にもある。それが同名ケータイ小説を原作にした『恋空』(2007)である。こちらも、リアリティーのない設定上で自分本位な高校生の主人公が、映画の文法を無視して好き勝手やるだけの作品だ。しかし、『恋空』と本作の違いは、映画業界が『恋空』を批判したことである。一方、アニメ業界は『けいおん!』を受け入れたばかりか、賞を与えて絶賛した。サブカル評論家は「新世代アニメ」などと呼んで太鼓持ちに徹した。これほどの明白な欠点を抱えているにも係わらず、だ。それゆえ、如何にアニメ業界がぬるま湯で、批評活動が正しく機能していないかが分かるだろう。

・総論


 よく、本作を称して「中身がない」などと批判する人がいるが、それは誤りである。正しくは「中身が間違っている」だ。はっきり言って論外である。こんな物を子供も見る地上波で放送してはならない。制作スタッフは猛省して頂きたい。

星:★★★★★★★★★(-9個)
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テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 22:18 |  ★★★★★★★★★ |   |   |  page top ↑
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