『まおゆう魔王勇者』

青臭い。

公式サイト
まおゆう魔王勇者 - Wikipedia
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。橙乃ままれ著のライトノベル『まおゆう魔王勇者』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は高橋丈夫。アニメーション制作はアームス。世界の平和を望み活動する魔王と彼女に協力する勇者の奮闘を描いたファンタジーパロディー。原作は、某匿名掲示板において13スレッドにも渡って掲載された長編連作SS(即興小説)である。

・パロディー


 本作は、中世ヨーロッパ風「剣と魔法」ファンタジーのパロディーアニメである。ただし、日本で言うファンタジーとは、明確にTVゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズのことを指す。もっと具体的に言うと、その中でも『ドラゴンクエストIII そして伝説へ…』のことを指す。海外で同じことをすると、おそらく『アーサー王伝説』や『指輪物語』や『真夏の夜の夢』辺りがネタ元になるだろうから、いくら国民的RPGとは言え、日本におけるこの偏りは異常である。未成熟と言ってもいいかもしれない。やはり、これは1990年より刊行された漫画『ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場』シリーズや同作出身の作者による漫画『魔法陣グルグル』の影響が大きいのだろう。特に、前者はアンソロジー本をメジャー化したという点においても功績が大きい。多くのライトノベル作家が、ちょうどその世代に当たるという推測もあながち間違ってはいないだろう。
 さて、本作がその『ドラゴンクエスト』をどう調理したかと言うと、剣と魔法の世界はそのままに、そこへ「政治と経済」という概念を持ち込むことで特色を出している。つまり、勇者達の住む世界は中央集権国家による絶対的な階級社会であり、王と教会が経済を一手にコントロールしているという世界観である。魔王軍と戦争しているのは、言ってみれば戦争によって利益を得るため。勇者が魔王討伐に派遣されたのは、あくまで国民向けのパフォーマンス。そういう世界観することによって、世界は複雑であり、人間とは如何に愚かな生き物であるかを描こうとしてる。分かり易く言うと、『アンパンマン』のジャムおじさんが、裏でバイキンマンに宣伝活動費を渡しているというネット上の定番ネタと同質の物だ。
 欺瞞である。では、魔界はどうなのだという話だ。市場経済が世界を支配しているのなら、当然、魔界側もそうなっていなければならない。しかし、魔界側は如何にもファンタジーゲーム然とした封建社会であり、魔王が謎の権力で多民族国家を支配している。そんな国はこの地球上にあり得ない。つまり、ファンタジーである。そもそも、魔法が普通に存在する世界は、現実と同様にはなり得ないというのがSFの常識だ。「世の中はファンタジーゲームのように単純ではない」と言いながら、自分は世界を都合良く簡略化している。それを欺瞞と呼ばずして何と呼ぶだろうか。

・ドラマ


 本作は、十五年にも渡る人間界と魔界との戦争の果てに、勇者が単身、魔王の城に乗り込んだところから物語が始まる。魔王と対面した彼を待っていたのは、二つの驚愕の事実だった。一つは魔王が可愛らしい女性だったこと。もう一つは魔王から世界平和実現の手助けを頼まれたこと。面食らう勇者だったが、彼女の平和を願う情熱に絆され、彼は「魔王の物」になることを決意する……と、この導入部分だけを見れば、それこそ『魔法陣グルグル』のような非常に軽快で楽しいコメディー作品に見える。だが、実際に映像を見てみると、実に盛り上がりの少ない退屈なアニメである。その理由を説明するのは大変だが、要は根本的な物語性・ドラマツルギーの部分に問題を抱えているからだ。
 大体、世直しを標榜した作品に碌な物はない。最初に夢みたいに壮大な目標を立ててしまうため、そこへ至るプロセスが途方もない道のりになってしまい、結果的に過激になるか地味になるかのどちらかに二分化する物だ。本作は後者であり、冒頭部分の威勢の良さに比べて、メインストーリーはとんでもなく地味である。魔王一行が小さな村に滞在し、改革思考を庶民に啓蒙するというだけの堅苦しいドラマだ。リアリティの観点から言うと、小さなことからコツコツと進めて行くのは決して悪くないのだが、アニメとして、映像作品として、一話に一回は絵的な盛り上がりがないと厳しい。
 では、人間ドラマの部分はどうかと言うと、こちらもストーリー以上に大きな問題を抱えてしまっている。何せ、出会った瞬間、正確に言うと出会う前から魔王は勇者に対して恋心を抱いているのである。また、他のヒロインも当然のように勇者に対して恋心を抱き、それゆえ、勇者=主人公が可愛いヒロイン達に迫られて困った困ったというギャルゲー由来のいつもの流れになる。いつから、この国の作家は基本的なボーイミーツガールを描けなくなってしまったのか。さらに、本作はゲームで言うところのクリア目前の状態から始まるため、勇者はレベルがカンスト状態である。要するに「最初から最強」であり、そんな勇者を周りの人間が凄い凄いと褒め讃える。この作品の作者と読者は、そんなに自己顕示欲に飢えているのか、普段どれだけ虐げられた生活を送っているのかと心配になってしまう。
 もちろん、そんな凝り固まった状態では物語にならないため、勇者は常に現場に足を運び、魔王とは別居状態にすることで恋愛ドラマを成立させようとしている。だからと言って、男女の心のすれ違いの妙を描くこともしない。年頃の男女がいて、ここまで何も起こらない作品は逆に貴重だ。制作スタッフは、朝ドラでも昼ドラでも韓流ドラマでも何でもいいから見て、恋愛ドラマの作り方を勉強して欲しい物である。

・SF


 さて、肝心要の魔王がどうやって世直しをするのかだが、その方法はずばり「時代の先取り」である。剣と魔法ファンタジーの元ネタになっている十四世紀近辺の中世ヨーロッパより少し後の出来事を前倒しすることによって、やや強引に革命を成し遂げようという物である。具体的に言うと、食糧難を救うための秘策が馬鈴薯(ジャガイモ)の頒布である。大航海時代にジャガイモが南米からヨーロッパに伝わったのが十六世紀だから、およそ二百年近い歴史をショートカットしていることになる。他にも、農業改革・羅針盤・トウモロコシ・鉄砲・活版印刷などが魔王の紹介によって劇中に登場する。
 まず、気になるのが、それらのオーパーツを魔王は如何にして入手したのかということだ。一応、劇中では魔王自身が発明したということになっているが、その詳細は不明である。こういった場合、こっそり魔界から持ってきたとするのが物語のセオリーだが、それだと魔界の方が人間界より文明が進んでいることになり、これはこれで別の問題が生じてしまう。集会シーンや進軍シーンなどを見る限り、むしろ人間界より遅れているようにさえ感じる。もし、魔界が人間界より二百年も進んだ文明を持っているなら、はっきり言って戦争にならない。軽歩兵に重装騎兵が蹂躙されて終了だ。
 なぜ、このようなしっくりこない状態になっているかと言うと、要するに本作はファンタジーの皮を被った「SF」だからである。例えば、現代の人間がタイムスリップして過去に行く話や、高度な文明を持った宇宙人と異文化交流する話と、形は違えど本質的には何も変わらない(ちなみに、魔王はファンタジーらしくない外来語を日常的に多用する)。問題は作者にその自覚があるかどうかだ。不思議な魔法でどうにかなるファンタジーとは違い、SFならば必ず科学考証という物が必要になる。本作で言うなら、魔王がどうやってその科学技術を手に入れたかは、絶対に論理的に説明付けしなければならない。でなければ、ただの都合の良い「魔法」になってしまう。
 結局、魔王を「紅の学士」といういわゆる「天才キャラ」に仕立て上げようとした際、科学的なロジックの構築を面倒臭がり、ただ時代を先取りさせただけということなのだろう。それは非常に安易な考えである。本来なら、その時代でできることを限界まで模索するのが筋であって、それができないのに「魔法」で天才キャラを作ってドヤ顔をされても、ただただ不快である。

・青春


 そして、魔王の尽力によって世界に少しずつ変化が訪れ始めた第九話、ちょっとした事件が起きる。中央を支配する教会によって魔王が異端認定され、彼女の不在時の影武者を務めていたメイドが代わりに連行されることになった。その時、元農奴だった彼女が立ち上がり、壇上で六分以上にも渡る長い演説を行う。「自分は虫ではなく人間だ。全ての人民に自由を」と。その彼女の想いに突き動かされた民衆によって、教会は渋々撤退する……という何とも「熱い」展開である。ノリは青少年の主張大会だ。ただ、盛り上がっているところを大変申し訳ないのだが、ストーリー的にはやはりここでの彼女の演説は唐突だと言わざるを得ない。それまでずっと描いてきたのは経済問題であり、人権問題ではない。第九話という中途半端な位置にクライマックスを挟むなら、それまでにしっかりと伏線を張っておかないと、かえって話の流れを悪くするだけであろう。
 だが、この演説がきっかけで、世の中の流れは中央vs地方、支配者階級vs庶民という戦いにシフトする。劇中では自由主義革命ということになっているが、どちらかと言うと共産主義革命に近い。この革命に成功したところで、待っているのは別の権力者による恐怖政治と計画経済であろう。理想を追いかけるのは結構だが、世界はそれほど単純ではない。ところで、この間、肝心の魔王と勇者は何をやっているかと言うと、魔王の免許を更新するために魔界に帰還した魔王が、その更新中に歴代魔王に精神を乗っ取られたので、勇者が助けに行くということをしている。そう、メインストーリーとは全く関係ないのである。一体、何をやっているのか。本作は全てにおいてそうだ。やりたいことも分かる。やろうとしていることも悪くない。だが、それらは何一つ物語になっていないのである。主人公は勇者で、ヒロインは魔王だ。彼らが何かしらの行動をすることによって、少しずつ世界が動いて行くのが物語である。ただ、作者が自分のやりたいことを詰め込めるだけ詰め込んで、主人公は蚊帳の外、それでは中学生の黒歴史ノートである。子供じみた妄想である。元が匿名掲示板に掲載された即興小説と言われれば、あぁ、なるほどと納得してしまう、そんな行き当たりばったり感の溢れる作品である。

・総論


 全てにおいて青臭いが、やりたいことは分かるし、その情熱も感じられる。だったら、最初からパロディーなどやらず、正統派ファンタジーにしておけば良かったのでは? パロディーにした時点で、他人の作った世界観に腰掛けているだけということに早く気付いて欲しい。

星:★(-1個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 23:08 |   |   |   |  page top ↑

『エルフェンリート』

グロ。

公式サイト
エルフェンリート - Wikipedia
エルフェンリートとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2004年。岡本倫著の漫画『エルフェンリート』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は神戸守。アニメーション制作はアームス。驚異的な殺人能力を持つ新人類「ディクロニウス」の少女を巡るバイオレンスアクション。残虐描写が多いため、各メディアの表現規制の違いによって様々なバージョンが存在する。なぜか、海外ではやたらと人気らしい。

・グロ


 本作は『BLOOD-C』などが登場する前は、グロアニメの代名詞のように扱われていた作品である。具体的に言うと、首が吹っ飛ぶ、腕が千切れる、出血が画面を染める、切断面がアップになる、胴体が引き裂かれる、内臓が滴り落ちる、肋骨が剥き出しになる、などだ。もう、文字だけでも背中が寒くなるようなシチュエーションである。特に第四話では、幼気な少女の四肢が切断されるというショッキングなシーンが描かれる(さすがに、ショッキング過ぎて地上波では放送できなかった)。もっとも、色水のような現実感のない血液を代表に、全体的なデザインに作り物感が溢れているので、それほど痛みは感じない。ただ、気持ちが悪いだけだ。そういう意味で言うと、『BLOOD-C』の方がエンターテイメントとしては何倍も優秀だと言える。
 ただし、留意しなければならないのは、本作はホラーアニメではなく「萌えアニメ」だということである。萌えアニメの本懐は、女の子の持つ可愛らしさをより強調することであり、劇中に登場するアイテムは全てそのために存在する。では、上記のグロ描写もそのために盛り込まれているのか? 実は冗談でも何でもなく、そうなのである。実際、萌えの前段階として、身体の一部分を失った女性に強い性的興奮を覚える「欠損フェチ」という嗜好の人が確かに存在する。彼らは人間が本質的に有す嗜虐性向に忠実で、女性を痛め付けることに強い性的興奮を覚える。そして、その流れで、そういった女性を可愛く思う「欠損萌え」も確かに存在する。身体の一部を失うことでより非人間的な物に近付き、人間ではなく人形として女性を慈しむ。言ってみれば、ロボ娘萌えやモンスター娘萌えに近い趣向だ。本作のグロシーンは、そういった人々にとってはまさに天国の如き所存であろう。本作が海外にウケたのは、そういう趣向の人間が多いからか? いや、これ以上書くと妙な国際問題になりそうなのでやめておこう。

・ヒロイン


 本作のヒロイン「ルーシー」は、ウィルスにより突然変異した新しい人類「ディクロニウス」の一人である。ディクロニウスは、超人的な身体能力と「ベクター」と呼ばれる透明な腕を持ち、恐ろしいまでの殺人術に長けている。性格は残忍その物で、三歳ぐらいを期に強い殺人衝動に目覚めるため、政府により密かに抹殺、一部は施設で研究用に隔離されている。ルーシーはその中でも極めて攻撃性が高い個体だったが、その影響からか二重人格を発症しており、もう一つの人格は言葉をしゃべれないほど純粋無垢である。そんな彼女がとある事情で研究施設を脱走し、大学生の主人公達と出会うところから物語が始まる。
 人間であって人間ではない人格の壊れた悲劇の少女。こう聞けば、誰もが九十年代後半辺りに流行した一つのブームを思い出すだろう。手塚治虫が提唱し、富野由悠季が発展させ、庵野秀明が完成させた例のアレ。人造人間であるがゆえに自分のアイデンティティーが分からず、最後までそれを欲しながら儚く戦いの中に散っていく。そう、「アヤナミ系」である。正直なところ、この一言だけで『エルフェンリート』という作品の全てを説明できてしまう。持って回ったくどい評論など一切必要ない。それぐらい本作のヒロインは定型パターンにハマり過ぎている。
 彼女以外のヒロインも同様だ。あるヒロインは義理の父親から性的虐待を受けて出奔し、主人公の家に世話になる。あるヒロインは赤の他人を父親だと洗脳され、戦闘マシーンとなるよう強制される。あるヒロインは自分を捨てた父親に対して強い愛情を求めながらも、最後はその父親自身に殺される。いずれもどこかで聞いたような分かり易い悲劇だ。こういったヒロイン全員が何らかの重石を背負い、見ていて胸がつまされるぐらい惨めな生涯を送るというパターンが、信じられないかもしれないが、二千年前後のオタク業界、特に美少女ゲーム界隈で大流行した。ヒロインを限界まで不幸な目に遭わせて、その悲惨な境遇に対する「可哀想」という同情心を「可愛い」という萌えに変換して楽しむ娯楽。本作はそういった時代の流れに忠実に則った作品である。その背景にあるのは、やはりオタク特有の自虐心をヒロインに投影した物なのだろうか。女子高生が楽しい毎日を過ごすだけの日常系アニメが栄華を誇っている現代からすると、萌えの形も様変わりした物だ。そのどちらが正しいかと問われると、双方に一長一短があって回答に窮すが、研究対象としては間違いなく面白いだろうから、誰か挑戦してみて欲しい。

・第六話


 本ブログでは、これまでダメなアニメのダメな脚本を何度も取り上げてきたが、特定の回だけをピックアップしたことはほとんどない。強いて言えば『けいおん!』の第九話ぐらいな物だろう。なぜなら、オムニバス形式ならともかく、長いストーリーの中の一話だけがおかしいということはあまり起こり得ず、一つ歯車が狂えば残り全てがダメになるのが常だからだ。だが、本作は明確にこの第六話だけがずば抜けて不出来という珍しい特徴を持っている。
 ダメ脚本の要因には様々があるだろうが、その中でも最大の物は「目の前で起こっている事象に対して、本来、普通の人間が取るべき行動を取らない」ことである。これに比べたら設定の矛盾や超展開など可愛い物だ。この第六話で言うと、部屋に入る時にノックをしない、秘密の研究を簡単に訪問客に教える、研究所で死体を発見してもうろたえない、都合良く記憶が飛ぶ、ケガの程度を忘れている、ルーシーを探して必死なはずなのに従妹といちゃつく、やっと見つけたルーシーの人格が交代していても気にしない、等々だ。主人公は殺人現場に出くわしたわけなのだから、その後の全ての行動が慎重であってしかるべきなのだ。登場人物にこういった特殊な行動をされると、視聴者の間に認識のズレが発生し、違和感が生まれてしまう。主人公を研究室に案内した助手の奇行は、元々そういう人間なのだろうと納得できなくもないが、主人公の奇行だけは絶対に納得できない。なぜなら、この回で強調しなければならないのは、敵の黒幕の非人道性なのだから。これでは、明らかに主人公の方が非人間的である。
 また、もう一つ気になるのが二重人格の扱い方だ。この回でルーシーはかつての暗い記憶を取り戻し、主人公の元から立ち去ろうとする。その時の彼女は元の厳しい人格である。だが、なぜか、純真な別人格でも記憶が蘇った風の描写がある。これでは二重人格にした意味が何もない。作劇のセオリーからすると、ルーシーがつらい記憶を封印するために自ら新しい純粋無垢な人格を作り出して、現実逃避したとしなければならないだろう。もちろん、元の人格は記憶を有したままなので、人格が変わる度に場に緊張が走る。しかし、純粋な人格が元の人格に徐々に影響を与え、彼女の心を成長させるとするのが筋だ。今のままでは、純粋な人格は視聴者に媚びるためだけに登場したようにしか見えず、設定の練り込みの甘さを感じざるを得ない。

・幸福論


 本作には二つのストーリーがある。一つはメインヒロインであるルーシーの物語だ。彼女はディクロニウスであるがゆえに、小さい頃は周囲の子供達から壮絶なイジメを受けていた。それゆえ、誰よりも人間を憎む気持ちを持っている。彼女にとって人間は鬼と変わらず、多くの人間を殺傷しているにも係らず、「今まで人を殺したことは一度もない」と豪語するほど。そんな彼女が過去に因縁のある主人公と再会することによって、徐々に人間らしい感情を獲得し、最後に二人は恋に落ちる。と、概略だけを挙げると感動的な物語に見えるが、残念ながら全体的に温い。主人公は優しい男だが、優しいだけで何も際立った行動はしていない。ルーシーのこれまでの過酷な人生を思うと、この程度のことで生き方を変えるとは考え難く、リアリティに欠ける。それでも、殺人鬼の少女が本物の愛情を獲得する過程は感動的ではある。
 もう一つは、ルーシーを抹殺するために送り込まれた最強のディクロニウス、通称「35番」の物語だ。彼女は生まれた時から隔離され、施設内に監禁されて育った。彼女の生きる希望は研究所の室長である父親に会うことだけ。だが、彼は娘を失った哀しさから、ディクロニウスの「7番」を自分の娘として洗脳し慈しんでいた。そして、最終回で三人は出会う。父親に愛される7番を見て動揺する35番。父親はそんな彼女を憂い、共に命を絶つことを決心する。そして、35番は父親の腕の中で幸せそうな表情を浮かべて天に召される。
 以上、いずれも「人ならざる者の幸せとは何か?」がテーマであり、そこだけを見ると人造人間の幸福論を描いた『GUNSLINGER GIRL』とほぼ同一である。本ブログでは『GUNSLINGER GIRL』の評価が高いので、当然、本作もそうなるかと言うと……難しいところだ。『GUNSLINGER GIRL』は、短い生涯を終えるはずだった少女達に仮初の余生と幸福感を与えることで、幸せとは何かを逆説的に我々自身に問いかける物語だった。一方、本作は壮絶極まりない人生を歩んできた少女達に恋愛や家族愛などの人間らしい感情を与え、人間とは如何に素晴らしい生き物であるかを訴える物語だ。だが、それはどうだろう。この手のテーマを訴えるには、本作はあまりにも誠実さに欠けるように感じる。もっと分かり易く言うと、メタ的な表現になるが、少女の四肢切断シーンを平気で放送できる人が、人間賛歌を訴えても何も説得力がないということである。制作スタッフのやっていることは、劇中の黒幕がやっていることと丸っきり同じであるため、テーマの正しさを証明しようと思えば、作品自体を否定するしかない。よって、お望み通りの結論にさせて頂く。

・総論


 グロが売りだが、それが作品の評価を下げている。だが、グロを取ってしまうと、ただ当時の流行に乗っかっただけの凡百の萌えアニメになる。要するに最初から詰んでいる。

星:★(-1個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 22:24 |   |   |   |  page top ↑
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