『ベン・トー』

食べ物で遊ばない。

公式サイト
ベン・トー - Wikipedia
ベン・トーとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2011年。アサウラ著のライトノベル『ベン・トー』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は板垣伸。アニメーション制作はdavid production。スーパーの半額弁当を巡って戦いを繰り広げる若者達の青春を描いた学園ハーレムバトルコメディー。ゲーム会社のセガを始めとして、複数の企業とタイアップしており、様々な商品が実名で劇中に登場する。

・ワンアイデア


 映画業界やゲーム業界でよく使用される言葉だ。肯定的な意味でも用いられるが、通常は「ワンアイデアで映画を作ってはいけない」などと否定的な言葉とセットで使われることが多い。具体的に言うと、どんなに斬新で魅力的な設定やゲームシステムを思い付いたとしても、そのアイデア一本だけで強引に作品を作ってしまうと、絶対に面白い物は生まれないという長年の経験に基づいたある種の教訓のような物である。例えば、「DNAを操作して恐竜を復活させる」というアイデアがあるとする。それはとても興味深い設定ではあるが、その設定だけで映画を作ってしまうと、ただの退屈な恐竜鑑賞ムービーになってしまう。きちんと万人が楽しめるエンターテイメントとして商売をしようと思えば、「システム管理者が私利私欲のために恐竜を暴走させた閉鎖空間内で、子供嫌いな恐竜学者が子供と一緒に逃げ回りつつ、カオス理論をベースにして科学文明を批判する」といった複数のアイデアを幾つも盛り込まなければならないだろう。それができるかどうかが、プロフェッショナルとアマチュアの最大の違いと言っても過言ではない。
 さて、本作も「スーパーの半額弁当を巡って血みどろの戦いを繰り広げる」という基本設定自体は確かに面白い。しかし、他にこれと言って独自要素はないため、このアイデア一本で押し通すしかなく、結果的にひどく薄っぺらい物になってしまっている。弁当バトルが面白いのは精々最初の二・三話だけで、後は哀しいぐらいにマンネリ化する。第一話と最終話でやっていることが大して変わらないので、頑張って全話見る必要すらない。仕方ないので、弁当とは無関係な下ネタ満載のハーレム描写でお茶を濁すという本末転倒っぷり。本当に芸術作品として評価されたければ、弁当バトルはむしろサブ要素にして、それにまつわる人々のネガティブな人生を面白おかしく描きつつ、日本人の平和ボケや経済格差を批判するといったストーリーにしなければならないだろう。中高生向けのライトノベル原作だからと言って、決して手抜きが許されることはない。

・欠点


 その日の夜に起こったことをちょこっと描いただけで、「これが僕の登校初日の一部始終だ」と主人公がナレーションする衝撃のオープニングで本作は幕を開ける。何が一部始終なんだ? 日本語大丈夫か? のっけからそういうアホなことをやられると先行きが不安になるが、案の定、その不安はすぐに現実の物となる。
 一口に欠点や欠陥と言っても大小あるが、その中で最も酷いのが物語の根幹に係る部分の描写不足である。そこでミスられると中心軸が崩壊し、作品の存在意義自体が危うくなりかねない。そして、本作における欠点もその系統で、それは「主人公が半額弁当に執着する理由が何もない」ということである。主人公は学生寮で一人暮らしをしている高校生。月二万五千円の生活費でやりくりしているため、食費をできるだけ安く抑えられるよう、スーパーの売れ残り品を狙っている。その気持ちは分かる。しかし、弁当バトルで凄惨な光景を目にし、実際に自分も手傷を負った後で、それでもなお半額弁当を求める理由としてはあまりにも弱過ぎる。例えば、貧乏学生で食費すらままならないとか、莫大な借金があるとか、とある目標に向かって貯金しているとか、子供の頃から弱肉強食の世界に生きてきたとか、とんでもない偏食でスーパーの弁当しか食べないという設定ならば、命を懸けて弁当バトルに参戦する必要性があるが、それ以外なら幾らでも安全に食材を手に入れる方法はある。親に仕送りをしてもらっている状態で、部活もバイトもしていない、なのにスマホを自由に使っているような恵まれた子供が、偉そうに食い物のことに口を挟むなということだ。さらに言うと、弁当バトルに敗北した時にはカップ麺を食べなければならないのだが、実在企業とタイアップしているせいで、その商品を「不味い」と言うことができない。だったら、最初から美味しいカップ麺を食べていろという話である。
 結局、「初期設定の練り込みの甘さ」というライトノベル原作ハーレムアニメに共通する、いつものアレである。ハーレムアニメの雛形は様々な分野に応用が利く万能性を持っているとは言え、所詮は汎用テンプレート、個々のジャンルに特化した奥深い設定など作れはしない。それは制作者本人が一番よく分かっているはずだが。いつまでも、そんな物にしがみ付いて三流作品を垂れ流し続けるか、それともリスクを冒して一流作品に挑戦するか、そろそろアニメ業界人も腹を括るべき時期だろう。もっとも、「作らない」のではなく「作れない」のだったら仕方ないが。

・バトル


 本作の目玉は、もちろん半額弁当を巡って繰り広げられる狼(弁当バトルに参戦する人々の自称)達の熱いバトルシーンである。そのバトルとは、現実世界でも行われているような押し合いへし合いのケンカではなく、一定のルール下で行われる「格闘技」である。殴る・蹴る・跳ぶ・掴む・投げ飛ばす。血反吐を吐き、記憶を失うほどのケガを負うのは日常茶飯事。まさに命とプライドを懸けた死闘である。「スーパーの中でそんなことができるわけない」という批判はごもっともだが、これはアニメ的な誇張表現であるため、そこにツッコむのは野暮という物。カツオ少年がいつまでも小学五年生なのはおかしいと文句を言うのと同レベルの空気の読めなさである。
 しかし、いくら誇張表現とは言え、その格闘技で優劣を決め、勝った者が弁当を手に入れるという設定になっている以上、「強さの理由」は絶対に描かなければならない重要ポイントである。なぜなら、強さの理由が分からないとそこへ到達する方法も分からず、ひいては「成長」という要素が描けないからだ。だが、少なくともアニメ版では、一介の女子高生である「氷結の魔女」や「オルトロス」がなぜ強いのかは一切描かれない。それは主人公も同様で、何の特徴もない普通の人間のはずなのに参戦当初から経験豊富な相手と互角の勝負をし、何度か勝利して弁当を手に入れている。その光景は極めて異常である。実際に殴り合いのケンカをしたことのある人なら分かると思うが、格闘技の経験のない人間がいきなり人を殴ることは絶対に不可能である。にも係らず、主人公が当たり前のように戦いに身を投じているのは非常に不自然であり、その瞬間、彼から人間味が奪われてしまう。
 もちろん、制作者もプロなので、強さの優劣を決める基準の一つとして、「空腹が戦闘力を高める」という設定を時折忘れた頃に挿入している。しかし、それだと主人公の空腹の度合いが他人よりも激しいという理由付けが必要なのだが、当然、そのような描写はどこにもない。どう考えても、ダラダラとした日常を送っている高校生より、汗水流して働いている肉体労働者の方がお腹はすいているだろう。また、最終回では、ジョギングでお腹を空かして戦闘力を高めるということを行っているのだが、逆に言うと、その程度の努力で強くなれるということだ。安易に設定を補強しようとして、かえって墓穴を掘るという典型的な悪例である。
 要するに、いつもの「チート主人公」である。何の特訓も修行もしていないのに、登場時にはすでに達人クラス。その後も一切の努力をせずに能力値だけがどんどんインフレする。かっこいいバトルシーンを描きたいという意識が先行し過ぎて、話の整合性など蚊帳の外。つまり、「幼稚」なのである。小学生レベルの妄想なのである。そんな物を地上波で垂れ流すということに恥ずかしさを覚えて欲しい。

・食育


 一応、本作のテーマは「弱肉強食」ということになる。普段、我々が当たり前のように食べている食料が、どれだけ貴重で大事な物であるかを血肉を分けた弁当バトルを通じて訴えかけているわけである。言ってみれば「食育アニメ」だ。そのテーマは「半額弁当を巡る戦い」をしている間は確かに守られている。だが、ここに落とし穴があり、「半額弁当を巡る戦い」というレールから一歩でも離れた瞬間、テーマが逆転してしまうのである。つまり、「食べ物は大事な物ではない」という全く正反対のテーマである。
 半額弁当を狙う者は皆、狼としての誇りを守るために試合開始・終了等の暗黙のルールを定めている。それに従わず、自分勝手に弁当を手に入れる者を「アラシ」や「豚」などと呼んで蔑んでいる。さて、本当に食べ物を大事にしているのはどちらだろうか? もっと言うと、主人公は、最初こそ半額弁当を手に入れることが目的だったが、段々と戦うこと自体が楽しみになり、「ゲームは強い奴に勝ってこそ嬉しい」「弁当だってすんなり手に入れられたら面白くない」などと戯けたことを口にし始める。それどころか、最終的には「狼の誇りのために戦う」という手段の目的化が発生している。それは主人公だけではなく他の狼達も同様で、オルトロスに至っては実家が金持ちで半額弁当を手に入れる理由すらない。また、狼の中には、売り場の割り箸や買い物カゴを武器にし、平気で商品棚の上に乗る者もいる。それは器物損壊という歴とした「犯罪」である。さて、本当に食べ物を大事にしているのはどちらだろうか?
 繰り返すが、本作が訴えたいことは食物の重要性である。そのテーマは弁当バトルをしている間は守られているが、そこから離れるや否や逆転する。結局、彼らのやりたいことは「命を懸けて戦うこと」であり、半額弁当はその出汁に過ぎない。要は戦いの大義名分が欲しいだけなのである。それを「食べ物で遊ぶ」と言うのだ。数あるマナー違反の中でも、他人を不快にするという意味ではトップクラスに君臨する行為である。飢えた狼を自称するなら、死ぬ気で働いて定価で弁当を買え。それが真の意味での食育である。

・総論


 面白いアイデアを思い付いたからそれでお話を作ってみたけど、すぐにネタ切れして、気が付いたらありがちなハーレムエロアニメになっちゃいました、というただそれだけの作品。文学的センスの欠片もない。とりあえず、食べ物で遊ぶのはやめましょう。お兄さんとの約束だ。

星:★★★★★★★(-7個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 22:25 |  ★★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『R-15』

U-15。

公式サイト(消滅)
R-15 (小説) - Wikipedia
R-15(ライトノベル)とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2011年。伏見ひろゆき著のライトノベル『R-15』のテレビアニメ化作品。全十二話+OVA一話。監督は名和宗則。アニメーション制作はAIC。天才ポルノ小説家の高校生が妄想に塗れた日々を過ごすエロチックハーレムコメディー。過激なシーンが多いため、地上波放送版では全面的に白塗り処理が施され、訳が分からなくなっている。最近の「クソアニメ」を語る際、『バスカッシュ!』や『あっちこっち』などと並んで必ず名前が挙げられる作品の一つである。

・公式が病気


 まず、何も聞かずに本作の公式サイトを見て頂きたい。そして、すかさず「キャラクター」の項目を見て頂きたい。そこで貴方は衝撃の光景を目にするだろう。何と、キャラクターの画像の横に、担当声優の顔写真が同じぐらいの大きさでデカデカと掲載されているのである。これは斬新過ぎる演出だ。昨今、いくら声優の人気度が視聴動機の大きなウェイトを占めるようになったとは言え、あくまで声優業は裏方である。キャラクターのイメージを守るため、できるだけ声優の顔は見ないようにするという人も少なからずいる中、これはそういった人々に真っ向から冷や水を浴びせる行為であろう。何を思ってこんな暴挙に出たのか。この業界に長く浸っている人には釈迦に説法だろうが、当然、彼女達は声優事務所がこれから売り出そうとしている新人声優である。つまり、事務所がキャスティング権自体を買い取り、所属声優の宣伝と修行の場として本作を用いようとしたのだ。言い換えると、本作は完全に出汁にされたわけである。酷い話であるが、逆に言うとその程度の商品価値しかないと製作側にも認知されているということであり、同情するだけ無駄である。
 これで、彼女達が演技力に秀でているのなら擁護のしようもあるのだが、まぁ、新人声優らしい拙さである。滑舌が悪く、声のトーンが不安定で、キャラクターが固定できない。それも一人二人ならまだいいが、ほぼ全員である。コメディーは演者の実力差が最も如実に表れるジャンルだと何度も書いてきたことだ。さらに言うと、本作は内容が内容だけに、卑猥な台詞や嬌声を発する機会が多い。どう考えても新人声優に顔出しでやらせる仕事ではなく、これが芸能界でなければ即訴訟レベルの重大なセクハラであろう。本編とは何も関係ないが、ある意味、近年のアニメ業界の悪いところを集約したような状態になっているのが、本作の立ち位置をよく示している。
 なお、本作に出演した新人声優達が現在どうなっているかは、寡聞にして存じ上げない。気になる人は各自検索して頂きたい。きっと、本作の何十倍もドラマチックである。(※2017年8月追記。公式サイトの消滅を確認しました)

・主人公


 「みんなは分かっていない。表層的な嫌悪感や道徳観に目を奪われ、真実を見失っているんだ。なぜなら、性こそが人間の源。性を書くことは人の本質を書くことなのだ。そう、それこそが僕の文学!」
 主人公は、日本中の天才達が集う特殊な高校の男子学生であると同時に、プロの官能小説家(劇中ではポルノ小説家)である。この設定を目にした瞬間、胸に去来するどす黒い感情は一体何だろうか。百歩譲って、中学生(当時)が官能小説家としてデビューするという荒唐無稽な設定は許そう。一万歩譲って、女性経験のない童貞男子が官能小説を書くという非現実的な設定も許そう。しかし、絶対に許せないのは、彼が全国に多数のファンを抱えた人気天才作家であることだ。官能小説の読者は、中高生が中心のライトノベルとは違い、皆、十八歳以上の「大人」である。中には四・五十代の男性もいるだろう。それらの読者に人気があるということは、作家自身も読者層と同じ年代の感性を持っているということである。しかし、劇中の言動を見る限り、彼の人格はどこまでも子供っぽい。事あるごとにヒロインを使った淫らな妄想をするのだが、それがまさに中学生レベルの青臭い(直接的で捻りのない)妄想なのである。主人公のCVが女性声優であることも、その未熟なイメージに拍車をかけている。さらに、詳しくは後述するが、彼は不遜な態度とは裏腹に、官能小説家であることを恥じている様子が見て取れ、「妄想とリアルは別」という余計な台詞まである。そういう人間が現実世界で人気官能小説家になれるはずがないと思うのだが、どうだろうか?
 これらの設定的な矛盾がなぜ起こっているかを考えると、官能小説という物を都合良く定義しているからに他ならない。アニメ版では全く説明がないが、どうやら原作では「ポルノ小説」とは年齢制限のない準官能小説のような物という設定になっているらしい。要するに、「ポルノ小説=性的な要素が濃いライトノベル=本作その物」なのである。この公式を冒頭の主人公の台詞に当てはめてみると非常に面白いことになるだろう。「人の本質」、これを本作は如何様に描いてくれるのか、その出来栄えに注目したい。

・下ネタ


 主人公は「散歩する肉欲」とヒロインの一人に称されるほど、性的な事象に興味津々で、常に卑猥な妄想に捕らわれている人間である。官能小説家だからと言って別に全員が性欲過多な人間ではないし、下手すると名誉棄損で訴えられてもおかしくないのだが、それはこの際置いておこう。とにかく、彼の卑猥な妄想は具体的な映像としてアニメ劇中に度々登場する。女性の下着や裸は当たり前、官能小説風のアダルトなシチュエーション下でヒロイン達があられもない姿を晒しまくる。当然、リアリティなどという物は思案の外だから、彼女達は恥ずかしげもなく男性中心のご都合主義な妄想にお付き合いする。よくもまぁ、地上波で放送しようと思ったなと逆に感心するぐらいの低俗さだ。
 ただ、下ネタが多いだけなら、普通は「クソアニメ」とは称されないだろう。精々、「馬鹿アニメ」や「変態アニメ」などと良識的な人々に誹られるぐらいだ。それが現在、一般的にクソアニメと評価されているのはなぜかと言うと、一言「幼稚」だからである。妄想自体が中学生レベルだとは前述したが、出てくる下ネタも「風が吹いてスカートがめくれて主人公が鼻血を出す」といった小学生レベルの代物である。笑えない、興奮しない下ネタほど寒い物はない。それは下ネタ以外の普通のギャグも同様で、いろいろと滑稽な動きをしたり、大げさな小道具を出したりして視聴者を笑わせようとしているのだが、どれこれも『月刊コロコロコミック』のような低学年向けギャグ漫画レベル……いや、比べるのも失礼なぐらいの幼さだ。ここは一つ、『R-15』というタイトルを返上して『U-15』に改名しては如何だろうか。
 さらに、その幼稚さを決定付けているのが作品の舞台である。日本中から各分野の天才を集めた学校ということになっているが、その天才達の特殊能力が如何にも取って付けたような安直さなのである。例えば、主人公の親友は数学の天才という設定だが、劇中で披露した数式は高校レベルにも達していない。また、ヒロインの一人はコンピュータの天才という設定だが、やっていることはキーボードを乱打してペンタゴンにハッキングといった一目でいい加減だと分かるような代物である。天才を描くためには、作り手が彼ら以上の天才でなければならない。コメディーだから細部のリアリティは適当でいいと思っているのなら、クソアニメと呼ばれるのも致し方なしだ。
 ちなみに、第十話でクラス対抗オリエンテーション大会を行っている際、主人公が面白いことを口走る。「エロは人間の本能だよ。そこに訴えれば、自然と人間は集まるのさ。誰しもエロスの誘惑には勝てない。これで一気に逆転してやるさ」と。第十話と言うと、すでに本作=クソアニメという評価が完全に定着した頃である。さて、彼の言う通り、エロスの力で逆転できたのであろうか。

・ストーリー


 高校生ポルノ小説家の主人公は、ある日、ひょんなことからクラリネット演奏の天才であるヒロインに一目惚れする。しかし、純粋無垢なヒロインに対してだけは、嫌われたくないという想いから自分がポルノ作家であることを打ち明けられない。一方、ヒロインはクラリネット演奏について悩んでいた。自分は本当に音楽の才能があるのか、ただ、父親に強制されたから続けているだけではないか。そんな彼女を勇気付けるため、主人公は自分がポルノ作家であると告白することを決意する。その方法は、クラスで歌う合唱曲の歌詞を自分らしい卑猥な言葉で埋め尽くすこと。彼が作り上げた変態歌詞の合唱曲を聴いて心を揺さぶられたヒロインは、クラリネットに対する情熱を取り戻す。
 このように、ヒロインの苦しみを主人公が癒すという典型的なギャルゲーシナリオであるが、意外とメインストーリー自体はよくできている。官能小説家設定もちゃんと生かしているし、「人の本質」というメインテーマからも一応外れていない。物語の中心軸が崩壊している他のライトノベル原作アニメとは雲泥の差だ。とは言え、すなわちよくできた作品かと問われれば、残念ながら首を横に振らざるを得ない。何より問題はクライマックスの合唱シーンだ。一言で言うなら、ハードルを上げ過ぎなのである。「官能小説家のスキルを生かした卑猥な歌詞の歌で、ヒロインのクラリネットに対する情熱を取り戻す」という無茶苦茶な物語を具体的な映像で見せなければならないのだが、当然、「天才」ではない普通のアニメ制作者にそんなことができるわけがない。すると、そこに映し出されるのは見るも無残な光景であった。卑猥な歌を淡々と歌う高校生達。感動する観客。称賛するライバル。そして、自分らしさを思い出すヒロイン。何じゃそりゃ!? 失笑とはまさにこのような時に使う言葉である。結局、エロスは主人公が考えているほど万能ではなく、ダメな物はダメなのであった。

・総論


 実は意外と評価が難しい作品。下ネタに関しては明らかに論外。幼稚な作風はまさにクソアニメの鑑。ただ、メインストーリーは言われているほど悪くない。アニメ以前の問題と見るか、究極のクソアニメと見るか、他の不愉快な作品よりはましと見るか。当然、本ブログが選ぶのは……。

星:★★★★★★★(-7個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 22:29 |  ★★★★★★★ |   |   |  page top ↑
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