『神さまのいない日曜日』

軽い。

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神さまのいない日曜日とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。入江君人著のライトノベル『神さまのいない日曜日』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は熊澤祐嗣。アニメーション制作はMADHOUSE。人が死ななくなった世界において、唯一死者を成仏させられる「墓守」の主人公を描いた終末系ファンタジー。

・設定


 ここは神に見捨てられた世界。十五年前より人は死ななくなり、同時に新しい命が生まれなくなった。世界は死者で溢れ、暴力と絶望が支配した。彼らを成仏させる方法はただ一つ、「墓守」と呼ばれる特別な人間が墓穴を掘って埋葬すること。主人公はその墓守として生まれた十二歳の少女。七歳の頃に同じく墓守だった母を亡くした後、人口四十七人の小さな村で育てられた。ある日、そこへ一人の男がやってくる。不老不死という特殊能力を持つ彼は、突然、村人全員を殺害するという暴挙に出る。実は、村人はとっくの昔に死んでおり、主人公はそれを知らずに育てられたのだった。主人公は怒りと悲しみを内に秘めたまま、男と一緒に旅立つ。それが運命の出会いとは分からずに……。
 と言った感じで、ツッコミどころは大量にあるが、それなりに面白そうな設定の作品である。ただし、面白いのは初期設定だけである。どんなに舞台が豪華であっても、その上で演技を行う俳優の行動が頓珍漢では、物語としての面白さは発生しない。まず、本作序盤のストーリーの最大の肝は何か。それは、墓守の主人公を育てた村人達が全員すでに死んでいたという衝撃の事実、そして、そんな彼らを埋葬しなければならない主人公の哀しみであろう。だが、本作はそういった複雑な心理はほとんど描かれない。もちろん、言葉としては何やかんやと口にするが、それが行動として全く現れない。国語のテストではないが、主人公の気持ちになって考えてみよう。今まで自分を育ててくれた村の人々とは別れたくない。自分が埋葬しなければ、たとえ死者であってもずっと一緒に暮らしていける。だが、母から受け継いだ墓守としての役割を果たさなければならない。その葛藤、とてもじゃないが十二歳の少女に導き出せる結論ではない。だが、本作の主人公は極めてあっさりと村人を始末する。そして、なぜか敵であるはずの男と一緒に旅に出る。もう支離滅裂というレベルではない。こういったストーリーにするなら、主人公は墓守や世界の仕組みを知らずに村人を埋葬し、彼らの仇を討つために男を追いかけた後、男の口から「人が死なない世界」の真実を知ったという流れにしないといけないだろう。
 このように、本作の登場人物は本来あるべき行動を取ろうとしない。では、どうやって物語を進めるのかと言うと、この手のC級ファンタジーにありがちな「設定の追加」である。超常現象がデフォルトな世界をいいことに、次から次へと都合の良い設定を継ぎ足していくことで、何となく話が進んでいるように見せかける。最終的には、何のロジックもなく奇跡的なことが起こってハッピーエンドを迎える。ただ、本作の愚かなところは、自分で作った設定が物語の足を引っ張っていることである。第三話のラスト、男が幸せに包まれながら息を引き取るのだが、その直後、初期設定に倣って彼は死者として「生き返る」。何と面白いギャグドラマであろうか。

・生と死


 本作の設定は「人が死なない世界」である。当然、生と死が大きな作品テーマとなっている。では、人が死なない世界とは一体どういった状態だろうか? その問いに答えたいのは山々なのだが、解答を導き出すための情報が少な過ぎるせいで「よく分からない」としか答え様がない。一言で死なないと言っても不老不死とは違う。当然、肉体に何らかの大きなダメージが発生すれば身体機能が停止する。寿命もある。ただ、どうやら生命を司る魂のような物が死後も肉体に宿り続けるという設定らしく、肉体は死んでいるのに心は生き続ける。そして、死者となった人間がどうなるか、これがまた情報不足でよく分からないのだが、どうやら肉体の腐敗も再生もなく、死んだ時の状態のまま永遠に生き続けるらしい。この時点で完全に科学の領域を超えているので、何らかの魔法的な力が働いているのだろう。だが、死者が普通に食事などの生命活動をしているシーンもあり、生者と死者の外見上の違いはないので、見た目だけでは全く分からない。中には自分が死者だと気付いていない者もいるらしい。こうなると、死者であることのデメリットは何もなく、むしろ生者の方が生物的に弱い立場になるはずだ。ただ、たとえ死者でも肉体が完全に破壊されるともう復活できないらしい。意味が分からない。それなら墓守などいらないではないか。どうなっているんだ、この世界は。
 一方、精神面はどうなのだろうか。劇中の説明によると、死者は時間が経過するごとに生存本能が強くなり、獣のように「わがまま」になるらしい。彼らは埋葬されたくないという想いから墓守を目の敵にし、見付け次第抹殺しようとする。いや、それはどうなのか? 死者は仏教風に言うと六道輪廻から解脱した存在である。ならば、欲望を失って植物のように穏やかな存在になるのではないだろうか。とは言え、生者にとって死者は忌むべき存在なのは変わりないので、生者はそんな死者に対する恐怖心から生への渇望が湧き上がり、よりエゴを強化させて獣のようになるだろう。この世に暴力を運ぶのは死者ではなく生者である。もっとも、それも最初の頃だけで、死者の数が増えて存在が当たり前になると、ほとんどの生者が生への興味を失って、死者と変わらない状態になると思われる。本作の舞台である大異変から十五年後という時期は、ちょうどその過渡期に当たるのではないだろうか。そう考えると、本作の基本的な設定はよくできているということになる。後はその設定を活かした物語作りができるか否かだ。

・ロードムービー


 第四話以降は、主人公達ご一行様が車を旅をしながら、世界各地の街を巡るというロードムービー風の物語になる。その街はそれぞれ他にない特徴を持っており、街自体が物語の主役になる。ライトノベル好きなら、同様のコンセプトを有した作品『キノの旅』を想像してもらえると分かり易い。違うのは、主人公が孤高を望む人間か「世界を救いたい」という野心に溢れている人間かといった点である。
 最初に訪れたのは「死者しか住んでいない国」である。生者に迫害された死者達が安息の地を求めて自ら建設した国だったのだが、次第にその噂を聞き付けた生者が世界中から集まり、自ら命を落として住民になろうとしていた。その行為に加担していたのは、人の命を奪う力を持った国の姫。だが、彼女はその行為の意味するところを知らなかった。そこでお節介な主人公が真実を知らせようと奮闘するという話だが……この概要だけでも分かる通り、主人公の墓守設定がストーリーに何一つ関係しない。主人公の動機はただの感情論だし、なぜ生者が死を選ぶのかにも言及していない。ただ単に特殊な国の事情を描いただけで終わっている。ついでに言うと、魔女と人造人間設定は何のために出てきたのかさえ分からない。とりあえず思い付いた設定を適当に入れてみるのはやめて欲しい。
 続いて訪れたのは「特殊能力を持った子供達が強制的に隔離された学園」である。この世界は、神の「優しさ」によって強く願えば望みが叶ってしまう世界になっており、各地に異能力者が誕生していた。主人公も墓守ということで学園に捕えられる。もう、死者も生者もどうでもいい。しかも、その学園、隔離施設のくせに異常なほど警備が甘く、主人公達は呆気なく脱出に成功する。追っ手も教師一人だけというふがいなさ。設定的にも物語的にも、何をやりたいのかさっぱり分からない。なお、この後は別の墓守がマタニティブルーになるという意味不明な展開に続くが、観念的なことをペラペラと語るだけで何のお話にもなっていない。
 最後に訪れたのは「一年ごとにループし続ける教室」である。最早、街ですらない。主人公達は生還の可能性が低いことを承知で、閉じ込められた人々を救出するためにその空間へ足を踏み入れる。お節介にも程がある。そして、主人公が当たり前のように転校生としてクラスに加入するなど、とんでもなく質の低い学園ファンタジーを続けた後、主人公と一緒に空間へ入った人物が自らの秘密を告白したことでループが終了して生還する。最初の時点で告白していれば、そもそもループは発生しなかったのでは? と言うか、人が死ななくなった暴力と絶望が支配する世界はどこに行ったんだよ。この作品でやる必要がどこにある。ちなみに、主人公が墓守としてのお役目を果たしたのは、旅立ちの村だけである。

・二次創作


 ここでもう一度、「墓守」とは何かを考えてみよう。この世界では、墓守が墓穴を掘って埋葬することで、初めて死者が成仏できるという設定になっている。逆に言うと、墓守が手を下さない限り、死者は永遠にこの世に留まり続ける。それは一体どういうことを意味するのだろうか。これまで人が死んで天国に行くのは自然の摂理、言い換えると「神の所業」だったわけである。だが、この世界ではその役割を墓守が担っている。墓守には人の生とは何かを決定付ける重大な権利が与えられており、それは世界を構築するシステムを根本的に組み替えることである。つまり、「神の代行」を果たしているわけだ。中には成仏したくない死者もいるだろう。死者を成仏させたくない生者もいるだろう。墓守はそういった人々を自らの判断で選別しなければならない。その重責、一人の人間が抱えられるレベルを遥かに超えている。だが、逃げるわけには行かない。なぜなら、墓守が自分の役割を投げ出せば、世界は死者で溢れてしまうのだから。
 このように、墓守とは本作における神の如き存在である。生と死の境界線を直視し続け、常に人の生とは何かを考えなければならない。苦しい仕事だが他に代わりはいない。ところが、上述の通り、本作中で墓守が本来の役割を果たすことはほとんどない。物語が後半へ進むにつれ、墓守どころか生と死の問題さえも薄れていく。それはどういうことか。要するに、同じく神の如き存在である本作の作者が、墓守という重大な役割から「逃げた」ということである。自分で設定を作っておきながら、死を司るという重責に耐えられずに放棄した。そして、その作者が何をしたかと言うと、「強く願えば望みが叶う世界」という都合の良い設定だけを利用して、「死者しか住んでいない国」「特殊能力を持った子供達が強制的に隔離された学園」「一年ごとにループし続ける教室」といった他のアニメやゲームで飽きるほど繰り返された定番のネタを流用することである。そんな話はこの特殊設定を使わずとも幾らでもできる。仮にこの設定でやるなら、墓守の主人公を上手くストーリーに絡めなければ何も意味がない。
 これはもう一言で言うと、クリエイターとしての素養の問題である。設定を作るだけなら誰でもできる。中学生でもできる。だが、その設定を活かした物語作りを行うなら、それなりに優れた作劇能力が必要になる。もし、その能力の穴を他作品からの流用で埋めようというなら、それはただの「二次創作」に過ぎない。いくら同人文化や動画投稿サイトの興盛でプロと素人の境い目が薄くなっているとは言え、あまりにも世の中をなめ過ぎだろう。かつて、『けいおん!』の主人公は「軽音楽って軽い音楽のことだと思っていた」と言っていたが、ライトノベルのライトも手軽とか読み易いという意味であって、決して「軽い」という意味ではないはずだ。

・総論


 なぜ、ライトノベル原作アニメは駄作の宝庫なのか、それがよく分かる作品。遊びでやってるんじゃないんだからさぁ、もう少し何とかならないのだろうか。

星:★★★★★★(ー6個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:59 |  ★★★★★★ |   |   |  page top ↑

『ビビッドレッド・オペレーション』

適当。

公式サイト
ビビッドレッド・オペレーション - Wikipedia
ビビッドレッド・オペレーションとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。オリジナルテレビアニメ作品。全十二話。監督は高村和宏。アニメーション制作はA-1 Pictures。謎の敵から地球を守るために女子中学生が変身して戦うSFアクション。監督を筆頭にテレビアニメ『ストライクウィッチーズ』と共通する要素が多く、ある種の姉妹作のような関係である。なお、放送終了後に発売されたPS3ゲーム『ビビッドレッド・オペレーション -Hyper Intimate Power-』は、本作に輪をかけて出来が悪く、2013年クソゲーオブザイヤーの最有力候補である。

・概要


 本作を一言で説明するなら、『ストライクウィッチーズ』に魔法少女物と戦隊物のエッセンスを加えた物である。異世界から現われた謎の巨大な敵に対して、肌も露わな少女達が生身で空を飛び、激しい空中戦を繰り広げる、それが『ストライクウィッチーズ』の特徴だが、本作はそこに魔法少女物的な変身・合体要素と戦隊物的なチーム戦要素を加えている。主人公達はオシャレな決め台詞と共にそれぞれ赤・青・緑・黄の色鮮やかなコスチュームに着替え、各キャラ固有の必殺技で対抗する。一度倒した敵が敵組織の力によりパワーアップして第二戦を行う点などは、戦隊物の黄金パターンを踏襲している。ピンチになれば友情パワーで合体だ。ただし、本作には魔法という要素はなく、あくまで科学の力というSF設定になっているため、衣装や武器はかなりメカニカルである。
 本作のもう一つの大きな特徴は「尻」である。本作はローアングルで主人公達の臀部をアップにする画がやたらと多い。主人公達が普段から履いているホットパンツも、シワの一つ一つまで異常なほど丁寧に書き込まれている。それもそのはず、本作は企画の時点で「おしりアニメ」と位置付けられており、魔法少女的な設定は完全に後付けのおまけである。『ストライクウィッチーズ』でもパンツを日常服にするという暴挙に出ていたことから分かるように、もう完全に監督の個人的な趣味だ。そんなおっさんの小汚い性癖を多大な製作費と人員をかけて映像化し、堂々と地上波に垂れ流すというアニメ業界の懐の広さには恐れ入る。みっともない。そもそも、そういった内なるリビドーを作品に昇華して初めて芸術たり得ると思うのだが、どうなのだろうか。
 他の特徴を挙げておくと、音楽と作画は非常に高レベルである。ただ、音楽は使いどころにやや難があり、作画も戦闘シーン以外はかなり手を抜いている。もちろん、キャラクターデザインは可愛いので、そちらを求める人には満足の出来である。

・脚本ミス


 一般的に駄作と呼ばれる作品に必ず付いて回るのが「脚本ミス」である。原因があるのに結果がなかったり、結果があるのに原因がなかったり、はたまた原因と結果が矛盾していたりと、そんな極めて初歩的かつ低次元な物語上の欠陥である。分かり易い例を出そう。主人公の祖父は、今や世界の95%のエネルギーを賄う「示現エンジン」の開発者であり、また、本作における敵「アローン」に唯一対抗できる力を持つ「ビビッドシステム」の開発者でもある。そして、そのシステムによって変身した主人公に彼はこう言う。「示現エンジンすら、ある意味、これを生み出すための副産物に過ぎん」と。だが、アローンは示現エンジンを破壊するために襲ってくるのである。じゃあ、何のためにビビッドシステムを開発したんだと。もちろん、アローンを倒して示現エンジンを守るために開発したのだが、それが分かるのはかなり後半になってからである。つまり、これは「絶対に言ってはいけない系の発言」であり、設定を知らない視聴者に対するミスリードになってしまっているのだ。
 本作にはこの手の脚本ミスが大量に存在する。特に、第二話と第四話はストーリー自体が作劇のセオリーから完全に外れてしまっている(敵がパワーアップする前にドッキングを勧める、教室にハッキングの痕跡が残っている等)。ただし、脚本ミスは気にする人と気にしない人で重要性が大きく分かれる要素である。特に、女の子の可愛さ目当てで見ている人は、その手の細かい脚本の矛盾などはどうでもいいことであろう。例えば、「先程、仲間になったばかりの子がなぜかドッキング方法を知っている」などといったミスは、普通はあまり気にならない。画面に映らないところでこっそりと教えていたのだろうと強引に解釈もできる。ただ、それにも限度がある。一度や二度ならまだしも、こうも連続で繰り返されると、制作者の資質の問題に目を向けざるを得なくなるのだ。つまり、そもそも最初から整合性を取るつもりがないのではないかという疑念である。その疑念が芽生えた瞬間、サイエンス・フィクションとしての賞味期限が終了することは言うまでもない。

・リアリズム


 普通、魔法少女物や戦隊物に「軍隊」は出てこない。出てきても、「科学特別捜査隊」のような架空の独立特殊部隊である。なぜか? それは軍隊がリアリズムの極地であり、個人の勝手な空想を挟む余地を持たないからだ。それゆえ、まともなSFファンタジーでは劇中に軍隊を登場させない。だが、本作は止せばいいのにリアリティを出すために軍隊を登場させて、かえってリアリティを削ぐという本末転倒っぷりを露呈している。
 その最たる例が示現エンジンだ。世界の95%のエネルギー供給を一手に担う機関など、この世に存在し得るわけがない。それならそれで、詳細をぼかした空想科学にしておけばいいのだが、本作は連合防衛軍という政府直轄の軍隊を出したせいで、「守るべき対象」になってしまうのである。当然、示現エンジンが破壊された時点で世界終了なのだから、それを守る側にとんでもない重圧が科せられる。防衛は全世界の軍事力の粋を集めるべきで、エンジンの管理局長が防衛の全権指揮を執ったり、簡単に不審者の侵入を許したりするなど常識的に考えてあり得ない。また、その圧力は主人公達にも及ぶ。例の如く、脚本家が「主人公達に世界の命運がかかっている」という馬鹿な台詞を書いたせいで、主人公達の立場がとんでもないVIPになる。ビビッドシステムは軍の厳重な管理下に置かれるはずで、普段から自由に持ち歩いたり、勝手に友人に渡して仲間を増やしたりできるわけがない。もう、あまりにも世界観が幼稚過ぎて、本当にプロの仕事かと疑うレベルである。
 リアリズムという観点で言うと、謎の敵の侵略という「戦時下」の描写が杜撰過ぎるのも問題だ。これは『新世紀エヴァンゲリオン』でも見られる欠点だが、このような状況でまともに学校が機能しているはずがない。少なくとも、伊豆大島の民間人は全員島外へ避難しているはずだ。また、アローンの攻撃により住んでいる島が破壊され、学校が壊れて何人も死者が出ているはずなのに、その深刻さや悲壮感が全く伝わってこない。主人公も島の住人より自分の学力テストの結果を心配しているほどで、愛郷心などこれっぽっちも感じられない。そんな無慈悲な人間がどんなに熱く平和や友情を語っても、低俗な萌えアニメにしかならないのである。

・適当


 はっきり言うと、本作は『新世紀エヴァンゲリオン』のオマージュである。人類を審判するために異空間から現れる巨大な異形の敵という『DEVIL SURVIVOR 2 the ANIMATION』の項目で書いた「黙示録系」のパターンを踏襲している。使徒そのままの攻撃をしてくる敵がいるかと思えば、ラスボスが八枚の羽根を持っていたりする(※見た目や言動はアトラスゲームっぽい。なお、一部にはモスラのオマージュも見られる)。それはそれで良い。ただ、問題なのは、同監督が手がけた『ストライクウィッチーズ』もまたエヴァのオマージュなのである。そうすると、「この監督はこれしかできないのか」という疑惑を生むことになる。もっと言うと、自分がやりたいことさえできたら、後は適当に過去作の流用で済ませればいいと軽く考えているのではないかという疑惑である。(ちなみに、高村和宏はガイナックス出身)
 その適当さが爆発しているのが最終回である。勢い任せと言うより他にないレベルの適当さが怒涛のように視聴者に押し寄せる。真の敵の詳細が明らかになる前に、自称「代弁者」が勝手にラスボスに名乗り出る。そして、ラスボスは示現エンジンのエネルギーを吸収して地球を破壊しようとする。それを黙って見ているだけの防衛軍。示現エンジンを止めろよ! だが、そうこうしている内にエネルギー吸収が終わり、宇宙を破壊できる力を身に付ける(脚本ミス)。誰もが絶望しかけたその時、主人公達が立ち上がる。「みんなとだったら世界だって救えるよ」と友情パワーに自信を見せる。もちろん、何の根拠もない。そして、何が何やら分からない内に「宇宙創成の光」が画面を覆い、最後の仲間と合体して敵を倒す。
 エピローグでは、その仲間が住んでいた世界が修復されたり、ぬいぐるみになっていた博士が元に戻ったり、とりあえず平和な日常が戻ったりとご都合主義全開の展開が待っている。「なぜ、ビビッドシステムは主人公達しか使えないのか?」「アローンをパワーアップさせる矢とは何なのか?」「なぜ、アローンは示現エンジンの力で動くのか?」「なぜ、七年前ではなく今のこの時期なのか?」といった疑問には一切答えない。それより、テーマ的に最も大事なのは「世界の95%のエネルギー供給を担う示現エンジンの存在は是か非か」ということなのに、哀しいぐらい完全スルーである。ここまで適当に作られるともう笑うしかない。え、第二期? あるに越したことはないが、『ストライクウィッチーズ2』の手抜き具合を見る限り、期待しろと言う方が無茶である。

・総論


 見ていてイラッとするタイプのクソアニメである。あらゆる点が適当で、尻さえ映せればいいという安易な考えで作っているのがバレバレ。正直、こういう監督にアニメーションを語って欲しくないのだが、尻好きが彼に出資している間は無理なのであろう。

星:★★★★★★(-6個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 22:16 |  ★★★★★★ |   |   |  page top ↑
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