『はぐれ勇者の鬼畜美学』

ダンディズム。

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はぐれ勇者の鬼畜美学とは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2012年。上栖綴人著のライトノベル『はぐれ勇者の鬼畜美学』のテレビアニメ化作品。全十二話。監督は久城りおん。アニメーション制作はアームス。魔王を倒して勇者となった少年が現実世界に帰還して騒動を起こす学園バトルファンタジー。鬼畜美学と書いてエステティカ(イタリア語で耽美・美学の意)と読む。全体を通して作画が悪く、ポルノ紛いの性的要素が満載の典型的なライトノベル原作アニメだが、まぁ、そこを問題にしても仕方ない。

・後日談


 本作のコンセプトは「異世界に召喚されて勇者となった人間が、その能力を持ったまま現実世界に帰還するとどうなるか?」である。なるほど、確かに興味深い。勇者や魔王の定義はよく分からないが、仮にその架空の存在が現実世界でも同等の能力を発揮できるとすれば、その力は間違いなく一つの軍隊に匹敵するだろう。そうなると、彼は普通の人間として普通の生活を送れるはずがなく、必ず何らかのワールドワイドなトラブルに巻き込まれ、結果的に様々なドラマが発生するであろうというのは想像に難くない。ただし、それはあくまで王道ファンタジーの「後日談」としての興味深さである。一方、本作はコンセプトに忠実であるがあまり、勇者が異世界に召喚されて修行の果てに魔王を倒すという一連の件を全編カットし、いきなり後日談から始まるように構成している。すると、どうなるか。それは、いわゆる物語の最初から最強の「チート主人公」と全く同じ物と化すということである。つまり、成長という要素が一切省かれ、強者が弱者をいたぶるだけの単純な話になってしまう。もっとも、世に蔓延するチート主人公には「なぜ強いのか」の根拠が欠けている物が多いため、ある程度の設定的根拠があるだけ本作はましとも言えよう。王道ファンタジーのパロディーであるがゆえに、劇中では描かれなくとも、その力を得るために長く苦しい修行があったのだろうと想像はできる。そう考えると、決して悪いとは言い切れない。
 もちろん、問題点も存在し、それは勇者になる前の主人公の人となりがよく分からないということである。本作の主人公は非常に「鬼畜」な人間であり、モラルから逸脱した行為を平気で行う。束縛されることを何よりも嫌い、どのような権力者の圧力にも屈しない。異世界にいた時も、上の命令には素直に従わない「はぐれ勇者」だった。だが、なぜ彼がそういったアナーキーな性格になったのか、成長の過程が省略されているせいでさっぱり分からない。異世界に来る前からそんな性格だったのか、異世界に来て力を得たからそんな性格になったのか、細かいようだがこれは大きな違いである。もし、後者だとするなら、力を奪われた瞬間、彼は自説を曲げて強者に媚びへつらうようになるということだ。そんな主人公は見たくないし、伝説の勇者でもない。力を持っているから勇者なのではなく、いつ如何なる状況においても勇気を失わない者だから勇者なのである。そういう意味では、やはり純粋なチート主人公は良いとは言い難い。少なくとも、回想シーンや過去語りである程度のフォローをしておくべきだろう。

・設定


 近年、十代の少年少女が突然異世界に召喚され、特殊能力を得て現実世界に帰還するという事件が多発していた。そこで、国連は超国家の帰還者管理組織「コクーン」を設立し、「バベル機関」という名の教育施設において彼らを保護・管理しようとした。帰還者は全員がそこへ強制的に収容され、高度な教育を受けると共に戦闘訓練が施される。目的は何らかのテロや紛争が発生した時に、彼らを優秀な尖兵として派遣するため。しかし、真の目的はコクーンが世界を支配することだった。一方、異世界で勇者として魔王を倒した主人公も、帰還後、直ちにバベル機関に収容される。そこでも異世界にいる時のように自由に振る舞う主人公に対して、学園の秩序を守ろうとする生徒会が対決を挑む……。
 うーん……いや、上記の作品コンセプト同様、決してそれ自体は悪くはない。特殊能力を持った帰還者が地球上に続出したら、当然、世界的な大問題になるだろうし、彼らを管理するための超国家機関が作られるのも少なからず理解できる。世の中には能力者を放置しているアニメ(例『ビビッドレッド・オペレーション』)や、なぜか日本国内だけで大騒ぎになっているアニメ(例『Charlotte』)は幾らでもあるのだから、それらと比べるとリアリティは雲泥の差がある。ただ、「バベル機関」の方はどうなのだろう。十代の帰還者を強制的に収容する教育機関、こんな物は名目がどうとか関係なく、誰の目にも明らかな「隔離施設」である。十代の若者はおろか、小学生でもおかしいと感じる代物だ。ところが、これに対して疑問を呈する人間が劇中に全く出て来ない。普通の生徒は当たり前のように学園生活を満喫しているし、生徒会に至ってはなぜか体制の犬となって生徒を自らの手で管理しようとする。突然、異世界に飛ばされて家族と離れ離れになり、命懸けで力を手に入れ、ようやく現実世界に戻って来られたと思ったら、否応なく隔離施設に収容されてしまった自分自身の数奇な運命に対する悲しみという物が全く伝わって来ない。唯一、物語の終盤に出てくる主人公の敵だけが「これ、おかしいだろ」とツッコみ、主人公が「俺も最初からそう思っていた」と答えるという何ともアホらしいコントみたいな展開があるが、そんな大事なことは第一話で言えということだ。
 結局、本作も「学園物」という呪縛に捕らわれているのかもしれない。学園を舞台にしようと思ったら、そこでの生活がそれなりに楽しくなければ話が進まない。いくら学園と名が付いていても、重苦しい隔離施設では視聴者を満足させられないのだ。なら、学園物にしなければいいんじゃねということなのだが、それはこれであれで、きっと止むに止まれぬ事情があるのだろう。売り上げとか。

・モラル


 魔王を倒して現実世界へと帰ってきた主人公には、一人の同伴者がいた。それが「魔王の娘」である。魔王が主人公に討たれた時、当の魔王本人が娘の将来を悲嘆して、後見人の役割を主人公に託した。彼もそれを了承し、現実世界へと連れてきた。魔族がどういった繋がりを持つ集団なのか分からないのでコメントは難しいが、おそらく魔王の娘は魔族の政治とは無関係だったのだろう。そういった民間人を保護するのは、ヒューマニズム的観点から言うと当然である。ただし、このヒューマニズムの定義はその土地その土地によって異なるため、余所者が勝手に現代的感覚を持ち込むのは得策ではない。それゆえ、彼の行動はあくまで勇者としての正道から逸脱して、己の感情を優先した「はぐれ勇者」の所業であると認識しなければならない。
 中盤以降、一人の敵が物語に登場する。彼もまた主人公と同じように異世界に召喚されて力を得た人間であり、所属する異世界の王の命令を受けて、現実世界まで魔王の娘を探しに来た。彼はファンダメンタリストであり、魔王の娘の存在は異世界の秩序を乱すだけだと本気で信じている。そのため、自らを「真の勇者」だと自称する。そんな敵から魔王の娘を守る「はぐれ勇者」の主人公。そう、本作の特徴は善悪の価値観が敵と味方で完全に逆転していることである。もちろん、どちらが正しいなどという模範解答はない。だから、作者は自分が正しいと思った方向への大まかな道筋だけを示せばよい。そこで、本作は「勇者」という概念を上手く使うことによって、その価値観を説明している。勇者とただの英雄は違う。勇者とは魔王に認められた者。魔王が自らの命を懸けて戦うと決めた相手、それが勇者。つまり、正義とは悪のアンチテーゼに過ぎず、個人が決定する物ではないというのが作者の考えだ。なるほど、確かに筋は通っている。もちろん、魔王の定義など言葉足らずな部分は多いが、学園ファンタジーアニメでこれだけ示せたら十分だろう。
 ただ、その素晴らしいお題目を物語に消化できないのが、ライトノベル原作アニメの悪いところ。勇者の定義が明かされるのは第十一話、これが第一話の段階で語られていれば、どれほど良い伏線になっていただろうか。他にも、魔王の娘は初めて見る現実世界の科学文明にもっと驚き戸惑ってもいいだろうし、バベル機関の非人道性を魔族の観点から批判してもいい。また、異世界に召喚される前の敵の素性が主人公と同じくよく分からないのももったいない。例えば、召喚される前は社会に虐げられる側の人間だったなどとすれば、彼の言葉により深みが出ただろう。せっかく良い設定を作り出したのだから、それをもっと活かした作品作りを心掛けてもらいたい。

・ダンディズム


 さて、一口にチート主人公と言っても、その中身はピンからキリまである。例えば、時代劇の主人公などは典型的なチート主人公だ。特に設定的根拠もないまま、超人的な太刀さばきで悪人をバッサバッサと切り捨てる。冷静に考えるとかなり異様な光景であるが、それを問題視する人はほとんどいない。なぜかと言うと、ヒエラルキーが確立した封建社会において、お上の悪行に逆らおうと思えば、完全無欠のスーパーヒーローでもなければ到底不可能だからだ。つまり、しっかりとした「目的」さえあれば、チートでも何でもいいのである。
 では、本作の目的とは何か。それこそ、タイトルが示している通り「はぐれ勇者の鬼畜美学」である。美学、すなわち男の生き様やかっこよさ。どれほどの強大な権力にも屈せず、社会の常識や決まり事を無視して自分の生き方を貫き、強者を倒して弱者を助けるという男の中の男の美学を達成するためには、人並み外れた力が必要になる。そのためのチート能力である。確かに、本作の設定には甘い部分がある。主人公の使う「錬環勁氣功」があまりにも万能過ぎて、中学二年生でも恥ずかしさを覚えるような能力になってしまっている。劇中で行われるセクハラ行為の数々は、中年エロ親父のくだらない妄想にしか見えない。ただ、本作が描こうとしている男のかっこよさ、ダンディズムは決して間違ってはいない。「女の涙は見過ごせない」という主人公の人生哲学は最初から最後まで一貫しており、実際、彼の行動にもブレがない。それは非常に大切なことである。どんなに小奇麗な作品を作ろうとも、作り手の思想に一貫性がなければ心には響かない。むしろ、ある程度の大衆性を犠牲にしてでも自分の意見を押し通すということも、クリエイターには必要なのだろう。
 このように、本作は良い面と悪い面が非常にはっきりとした作品である。本作が訴えようとしているダンディズムや善悪の価値観は普遍的な物があるし、個々の人物の感情描写も悪くない。一方、悪い面は詰めの甘い設定や言葉足らずな脚本、低品質な作画、そして、下劣な演出ということになる。そう考えると、非常にもったいない作品だと言うことができる。例えば、ラスト三話だけを見れば本作は評価されるだろうが、意図的とは言え、そこに至るまでの過程を省略してしまっては何も残らない。しかるべき人間がしかるべき手段で真面目に作っていれば、本作は名作になる可能性が十分にあった。もっとも、その小さな差が非常に大きいのだろうが。

・総論


 良い面と悪い面を天秤にかけたら、ギリギリ良い面が勝つかなという程度。クソアニメと断じてしまうのは気が引けるが、絶対に他人にはお勧めしない。

星:☆(1個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 10:55 |   |   |   |  page top ↑

『COPPELION』

SFファンタジー。

公式サイト
COPPELION - Wikipedia
COPPELIONとは - ニコニコ大百科

・はじめに


 2013年。井上智徳著の漫画『COPPELION』のテレビアニメ化作品。全十三話。監督は鈴木信吾。アニメーション制作はGoHands。ある事故によって汚染された旧首都を舞台にして、遺伝子操作された特殊な力を持つ女子高生が活躍する近未来SFファンタジー。本来は2011年に放送予定だったが、同年に発生した東日本大震災の影響で延期になり、二年後、震災を想起させる描写を削った上で放送された。そのため、序盤を中心に原作とは異なる点が多くなっている。

・設定


 近未来、荒廃した東京を三人の女子高生が歩いていた。彼女達の名は「コッペリオン」。遺伝子操作により放射能に対する耐性を持って生まれた特殊な人間。彼女達の任務は、二十年前の原発事故によって放射能汚染された東京に取り残された人々を捜索し、救出すること。そして、被災地の実態を世に知らしめること。
 とまぁ、このように紹介文だけを見ると大層面白そうなのだが、先述の通り、本作は東日本大震災の被災者に配慮して、原作漫画から設定が大幅に変更されている。東京ではなく「旧首都」、放射能汚染ではなくただの「汚染」。特に放射能に関する要素は徹底的にスポイルされ、放射線の解説や被曝による症状、二十年前に起こった原発事故の詳細などは完全に伏せられている。そのため、物語序盤の舞台説明に係るシーンは全面的にカット。結果、近未来SFを謳い文句にしながらも、設定の詰めの甘さが至る所で露呈し、非常にツッコミどころの多い作品になってしまっている。例えば、放射能被曝の特性が、一定の濃度までは平気だがそれを越えると即死するといったように極めて単純化されており、アニメ版が初見の人は毒ガスか殺人ウィルスにしか見えないだろう。また、劇中に被曝して死に直面する人が何人か出てくるが、放射能の知識が全く説明されないせいで、何に苦しんでいるのかすら分からない。放射能が直接の死因になるのではなく、体内に蓄積されて癌や白血病を引き起こすという観点が抜け落ちている。そのため、非常に一元的な底の浅い作品になってしまっている。
 ただ、かのような不可抗力による設定変更を除いたとしても、本作からは放射能に対する恐怖感があまり伝わって来ないのも事実である。その大きな要因になっているのが、コッペリオン達が身に付けている衣装であろう。百歩譲ってブレザーの制服は許すとしても、普通の通学用の革靴とショルダーバッグはない。彼女達は自衛隊の特殊部隊に所属する正式な救助隊員であり、今後の日本の行く末を占う重大任務を担っている。また、文字通り、彼女達の育成には莫大な費用が掛かっている。ならば、それなりのサバイバル装備で身を固めるのが常識だ。普通の女子高生が特殊任務を行うというビジュアル的なギャップの面白さを狙っているのは分かるが、ここでリアリティを下げてしまうと先の展開にも支障が出る。言い換えると、せっかくのSF描写が台無しになるということである。放射能汚染に配慮するよりも、そういった点に配慮して欲しかった物だ。

・サバイバル


 上記に関連して、本作の抱える別の問題点は「あらゆる要素が作者にとって都合良く配置されている」ことである。例えば、汚染された町で人間が何十年も生きて行けるわけがない。じゃあ、なぜ生存者がいるかと言うと、衣食住に加えてロボットから武器まで何でも揃った夢のようなシェルターがあったからというとんでもなく都合の良い設定を平気で持ち出している。科学技術の功罪を描きたいのは分かるが、下手すると外界よりも住み心地が良いレベルであり、本作が訴えようとしている科学文明批判すら無意味な物にしてしまうだろう。人物配置に関しても、出産について困っていると以前助けた老婆がたまたま経験豊富な産婆だったり、電車が動かなくて困っているとたまたま電気工事の専門家がメンバーにいたりする。登場人物は全て善人か悪人かの両極端で、ほとんどの人が素性の分からない主人公達に対して協力的。シナリオも、ロケット砲一発で墜落するB-2爆撃機や個人の事情で救助ヘリの派遣を渋る総理大臣などが出てきて、非常に都合良く事が進む。特に後者に関しては、敵を下げることで相対的に主人公達の格を上げるというあまり褒められない方法を使っている。こんなことをしなくても、もう少し止むに止まれぬ複雑な事情を作り上げることはできたはずだ。
 「フィクションなんだから、作者に都合良くて何が悪い」と思うかもしれない。だが、本作は荒廃した近未来を舞台にした終末系のSFなのである。そこで最も必要になるのが「サバイバル感」だ。全てが汚染された何もない閉鎖空間に閉じ込められた人間が如何にして生き延び、如何にしてそこから脱出するか。創意工夫を凝らし、ある物は全て利用し、まずは生存することを最優先とする。その際、様々な犠牲を払うことになるだろう。他人を裏切り、仲間を傷付けることも必要になるかもしれない。そういった極限下の精神状態を描けて初めて面白い作品になる。作者の都合が一瞬でも垣間見えた時点で、そこは何の苦悩もないパラダイスになり、「生きること」に対する価値が下がってしまう。
 もう一つ気になるのが、原発事故からの二十年という長い年月が全く感じられない点だ。アニメ版では二十年という具体的な数字自体がカットされているため、何年立ったのかさえ分かり難い。暗い土の底で二十年間、放射能という恐怖に怯えながら生き延びてきた人間がどうなるか。心身共に正常でいられるはずがないのだが、本作に登場する主要人物のほとんどが健康その物で外界の人間と大して変わりがない。それではこの設定を持ち出した意味が何もないし、上記のように放射能に対する恐怖感が失われてしまうだろう。

・人形


 主人公達「コッペリオン」は、遺伝子を操作され汚染耐性を持って生まれた特殊な人間である。全員が誰かのクローンであるため親はいない。生まれた時から政府の管理下にあり、将来、政府の駒となって働けるように特別な訓練を受けてきた。そのため、普通の人間が当たり前のように享受している普通の幸せを知らない。しかも、作られた人工生命であるがゆえに寿命は短い。まさに「人形」である。本作はそんな人形達がどう生きるべきかを描いた作品である。ある者は人間に従うことを自分の運命と受け入れ、ある者は自分の生きた証のために人間に反乱する……といったテーマが、「第一話」でコッペリオン「本人」の口から語られる。残念! そのテーマ自体は間違っていないし、しっかりと描けば深みのある良い作品に仕上がるだろう。ただ、それは長い時間をかけて慎重に結論を出すべき物であり、決して物語の冒頭で人形自身が口にする物ではない。
 何が悪いかと言うと、救助活動へ出発する前にすでに主人公達が自分自身の境遇に対する「意見」を持っていることである。意見と感情は違う。多くの人に会って多くの経験を積み、様々な情報を吸収して、それを自分の中で昇華して初めて意見になる。適当に生きている人間は周囲に流されることしかできない。それゆえ、個人的な意見を持っている時点でもう彼女達は人形ではないのだ。考えてみて欲しい。汚染された旧首都で活動するための道具として、日本政府がコッペリオンを作った。だとすれば、当然、彼女達を育てた教育機関では、優秀な道具となれるように思想を統一する洗脳教育を行うだろう。国家に対して忠誠を誓い、それを最上の喜びだと教える。そのためなら自己犠牲も厭わない。哀しいことに、そういった洗脳が極めて「簡単なこと」なのは歴史が証明している。そんな彼女達が自分の生き方に対して意見を持つなどあり得ない。実際、人間を裏切って世界を破壊しようと画策するコッペリオンも出てきているのだから。
 例えば、漫画『GUNSLINGER GIRL』では、国家のための暗殺者であるヒロイン達には「条件付け」という名の洗脳が施され、彼女達の管理官である男性を無条件で慕うように教育されている。つまり、自分の意見など何も持っていない本物の人形なのだが、それでも彼女達の行動を見て読者自身が人間の幸福とは何かを考えることができる。本作もそうすべきだったのではないだろうか。少なくとも、出発時点では全てのコッペリオンが同じ思想を持っていたが、旧首都の悲惨な実情に触れ、自らの生き方に疑問を抱き始めるとすべきだっただろう。

・SFファンタジー


 第七話、救助活動を続ける主人公達の前に新たな敵が現れる。コッペリオンの一員でありながら、自分達の境遇に悲観して人類に牙を剥くことを決意した二人組、通称小津姉妹。彼女達は人を人とは思わぬ残忍性と目的のためなら手段を選ばぬ凶暴性を有していた。なぜなら、二人は連続殺人犯のクローンだったから、というこの設定はアウトである。遺伝子に人格が決定付けられるという科学的根拠はなく、SFでこれを持ち出すなら最終的に劇中で否定されなければならない。また、姉妹の一人は超人的な怪力の持ち主で、もう一人は電気ウナギの遺伝子を移植されたため自ら放電することができる。完全に魔法である。最終的には巨大ロボットなども登場して、本作のジャンルがSF(サイエンス・フィクション)からSFファンタジー(サイエンス・ファンタジー)へと一気に変容する。
 両者は似て非なる物だ。SFはあらゆる事象が科学で裏付けされる必要があるが、SFファンタジーは科学的なエッセンスさえ感じられれば、後は全て「何らかの未知のエネルギー」で片が付く。言い換えるとSFは理性の物語であり、SFファンタジーは感性の物語ということになる。その証拠に、小津姉妹が登場した辺りから物語が非常に観念的になる。もっと分かり易く言うと、説教臭くなる。自ら問題を提起して、それを口頭で批判する。都合良く障害物が現れ、それを自己犠牲で突破する。そんな浪花節の展開が五分ごとに延々と繰り返され、非常にくどくどしい作風になる。訴えたいのは科学文明批判や政治批判や資本主義批判等々。もちろん、言っていることは何一つ間違っていない。だが、それらは全て「見れば分かる」ことである。放射能に汚染されて荒廃した町を見れば、科学主義に傾倒するとしっぺ返しを食らうことぐらい分かる。わざわざ登場人物に語らせる必要はない。むしろ、何も語らずに人々の表情で訴えた方が余程胸に突き刺さるだろう。誇張とデフォルメに優れたアニメーション表現ならば、それはより良くできるはずだ。
 さて、最後になるが、これは絶対に書いておかなければならない。全体的に声優が下手だ。主人公の聞くに堪えない下手くそな関西弁を筆頭に、どのキャラクターを取っても違和感が大きい。いずれもネームバリューのあるベテラン・中堅声優ばかりだが、ちゃんと適材適所でキャスティングしないとこうなるという見本である。

・総論


 少し厳しいかもしれないが、やるべきことを何もやっていないという点で低評価とした。震災被災者に配慮するのは当然だとしても、それで物語の本筋を失ってしまっては何の意味もない。不謹慎だと思うなら、アニメ化自体をしないことだ。

星:☆(1個)
テーマ: アニメレビュー -  ジャンル: アニメ・コミック
by animentary  at 09:52 |   |   |   |  page top ↑
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